クナを聞く 第42回
ワーグナー編その5−2

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」Vol.2
2001/11/4


Richard Wagner
Tristan und Isolde


C 335 943 D
arkadia78075
GL 100.651
Isolde...Helena Braun
Tristan...Günther Treptow
Brangäne...Margarete Klose
Kurwenal...Paul Schöffler
König Marke...Ferdinand Frantz
Melot...Albrecht Peter
Ein Junger Seemann...Paul Kuen
Ein Hirt...Paul Kuen
Ein Steurmann...Fritz Richard Bender

Bayerisches Staatsoper
(rec.1950/7/23 L)

ORFEO D'OR/C 335 943 D(Germany)3CDs
ARKADIA/78075(Italy)3CDs
GALA/GL 100.651(Portugal)4CDs


 小生に取って、この「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲は特別の意味を持った音楽である。それは、恋情に充ちた泥沼のような愛欲が最初静かに、そして徐々に盛り上がり、ついには破滅まで至ってしまう、まるで手綱を手放した疾走する馬のような印象のある音楽だ。これは、個人的な追憶も含め、適切な演奏を聞くと、その感情と肉体の渦巻くような感触が頭の中で再現されてしまう。
 全曲盤では、巷間評判の高いフルトヴェングラー盤(rec.1952,EMI)とクナ盤で前奏曲を聞き比べてみた。すると、ベートーヴェンの演奏とはまるで逆に、途中から強烈なアッチェランドをかけ、疾走する劣情を解き放ち、疾走馬が、そのまま崖っぷちから飛び出すような演奏を行っているのはクナ盤の方だった。
 むろん、フルトヴェングラー盤はライヴではなく、フィルハーモニア管弦楽団による、当時のコヴェント・ガーデンのスタッフによるスタジオ録音で、クナ盤はミュンヘン・プリンツレゲンテン・シアターでの放送用録音だ。
 そのため、音質にかなりの差があり、クナ盤はOrfeo D'or盤をリファレンスにして聞いている関係からか、高域がかなり耳に付き、硬質な音がする。そのため、幾分スケールダウンして聞こえるのだ。そこで、同じにならないながらも、フルトヴェングラー盤のニュートラル・ポジションでの音を参考にしながら、低域をブーストし、高域を押さえて聞いてみたら、見事にクナの壮絶な演奏を感じ取れるようになった。クナには、後年「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲での演奏では、もっと落ち着いてスケールのさらに巨大な演奏記録もある。だがこの1950年の全曲ライヴ録音も、CDの音質によって損はしているが、内容的にはクナがまだ元気な頃の録音でもあり、その楽劇全体を見通した演奏は、前奏曲の性質を考える上でも重要だろう。
 クナによる「トリスタンとイゾルデ」全曲盤の第1幕前奏曲は独特だ。後述するように、カルロス・クライバー盤とダイナミックスでは似ているが、より破滅への予感と危険な香りをはらんでいる。
 客席か舞台上のざわめきか、全く収まらない内にクナは指揮を始める。密やかに前奏曲は開始されるが、16小節でその悲劇的な愛の物語の幕は切って落とされる。そう、切って落とされるのだ。この辺りの表現は、フルトヴェングラーやクナには濃厚だ。そして、始まってしまったからにはその終末がなくてはならない劇が始まる。32小節からの反行する上声部と下声部の動き、53小節からの盛り上がり方、そして、63小節からクナは、走り出した馬の手綱を解き放つかのように、アッチェランドをかける。奔流となった音の群は、何ものにも止められないかのように流れ出し、崖からそのまま飛び出しそうだ。
 しかし、その奔流はもう一度呼び戻され、84小節から、この悲劇をもう一度思い出して語り始める意志を取り戻し、悲劇の予感を込めながら、静かに息づきながら第1幕の水夫の声に移行してゆく。
 クナの音による演出の見事さだろう。もし、音質に不満のある方は、トーンコントロールを動かして、低域をブーストし、高域を少し落として聞かれることをお薦めする。ここに描かれる「トリスタンとイゾルデ」の前哨が、ものの見事に音化されている。

 フルトヴェングラー盤は、スタジオ録音というせいもあるのか、「トリスタンとイゾルデ」を振るフルトヴェングラーにしては、かなり落ち着いた印象。ライヴではどんなんだったんだろう?一度、聞いてみたい気はするが。フルトヴェングラーの演奏は、快楽に対して単刀直入である。傍らに寝ている女性の身体を隅々まで愛撫するように、音楽を奏でてゆく。クナ盤では悲劇的に響く場面の、フルトヴェングラー盤でのなんと魅惑的なことか。そして、愛撫する自分も高まってゆき、荒い呼吸とともに悦楽境に至るかのようである。この演奏もまた、「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲の本質を突いている。
 フリッツ・ライナーのコヴェント・ガーデンのライヴ(rec.1936/5/2&/6/2,NAXOS)も聞いてみたが、ライナー盤の表情は、フルトヴェングラー盤やクナ盤と違い、決定的な暗さはない。むしろ、劣情を刺激する暗部をオブラートで包んだような、どちらかというと高まってゆく愛を表現するように、健康的な甘い響きだ。フルトヴェングラー盤やクナ盤とは逆なのだが、甘く慰撫されるような、そして「トリスタンとイゾルデ」を鎮魂するかのような音楽になっている。両ドイツの巨匠のような、危険性をはらんだような音楽にはなっていない。
 バーンスタイン盤のバイエルン放送響との全曲盤(PHILIPS、レコーディングはいつだ?)でのネチネチして、ベターっとした表現もなかなか凄かった。夜中に小さな明かりをともして聞いていると、鬼気迫るものを感じ取れるかも知れない。ただ、この前奏曲の演奏では、前奏曲から弛緩してしまい、緊張感の中では少しつらいかも知れない。
 その他、全曲盤から第1幕前奏曲のみ、カラヤン盤(rec.1971,1972,EMI)、カルロス・クライバー盤(rec.1982?)も聞いてみた。
 カラヤン盤はさすがに素晴らしい。フルトヴェングラー盤やクナ盤のような危険な香りはないものの、豊潤でスケールの大きな別の危うさが出ている。その大波のような表現やギリギリしているはずの箇所の響きの美しさは、「ああ、カラヤンだなぁ」と安心して聞くことができる。その綾のようなワーグナーの管弦楽法の再現も正確だ。
 カルロス・クライバー盤は、震えるような出だしの弦楽器のビブラートが印象的で、悲劇の予感に打ち震えているようだが、本題に入ると幾分、その表情はアッケラカンとしている。クレッシェンド、デクレッシェンドの波は魅力的だが、録音の質の関係もあり、楽曲の内部まで踏み込んだ演奏というより、美しさでは際だってはいるが、外面的な効果が爽やかな演奏に聞こえる。ワーグナーの描きたかった泥沼の世界とは異質な世界だ。後半の奔流のような演奏はクナ盤に似ているが、クナの演奏が、目をつり上げ、汗をブルブルにかいた息の荒い馬だとすれば、カルロス・クライバーの演奏は、スマートで美しい、優雅な馬のようである。
 他にも小生手持ちの「トリスタンとイゾルデ」はあるのだが、一応以上の演奏でのタイミングを見てみよう。タイミングの早い順に並べると、以下のようになる。
クナ10.08
クライバー10.27
フルトヴェングラー11.00
ライナー11.24
カラヤン12.39
バーンスタイン14.14
 演奏時間の長い方が、同じ値段なら得した気分になれる・・・てな議論は抜きにして(^^;、各指揮者でかなりタイミングが異なる。我がクナの全曲盤が一番短いというのも暗示的だ。
 次回から、いよいよ楽劇本体に入る。

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