クナを聞く 第49回
ワーグナー編その6−4

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」Vol.4
2002/8/14

Richard Wagner
Die Meistersinger von Nürnberg


CDLSMH 34040
GM 1.0003
CD 1014
Hans Sachs...Otto Edelmann
Veit Pogner...Kurt Böhme
Sixtus Beckmesser...Heinrich Pflanzl
Fritz Kothner...Werner Faulhaber
Walther von Stolzing...Hans Hopf
David...Gerhard Unger
Eva...Lissa Della Casa
Magdalene...Ira Malaniuk
Ein Nachwächter...Gustav Neidlinger

Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele-1952
(rec.1952/8 L)

HUNT/CDLSMH 34040(Italy)4CDs
GOLDEN MELODRAM/GM 1.0003(Italy)4CDs
MUSIC & ARTS/CD 1014(USA)4CDs


 4種類あるクナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞く上で、年代毎に聞くのをやめた。長尺もののオペラのため、自分が一番関心のある録音から聞き始めないと、つらいものがあるためだ。
 それぞれは、以前にも聞いてはいるが、部分的にしか聞けていなかったり、録音された演奏は同じでも、異なるレーベルから異なる音でリリースされているため、印象がバラバラになっているものもある。
 まず、選んだのは、1952年バイロイトでのライヴ盤だ(GOLDEN MELODRAM)。第1幕前奏曲を聞き比べているときに、最も録音状態が良く、また、クナの他の演奏に比べて、テンポがしっかりしていると感じたためだ。
 これは、正解だった。
 全曲通して聞き、その圧倒的な力感と生命力に、CDの最後の音が鳴り終わって、激しく脱力してしまった。ワーグナーのオペラは、聞いた後、激しく脱力感を感じてしまうものが多い。単純に、長い、と言うこともあるし、その圧倒的な筆致の語法から、ご馳走を大量に食べた後のような感じがしないでもない。特に、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、ワーグナーのオペラでは、誰も死なない健全オペラのためか(^^;、フィナーレのクライマックスでのスペクタクルさともども、聞いた後、満腹になってしまう。
 クナの52年盤のフィナーレでは、まだ音楽は鳴っているのに、拍手が始まってしまう。恐らく、舞台の充実度などから、観客は感極まって拍手を始めたのだろう。圧倒的なフィナーレの音楽とともに、その拍手が自然に聞こえるほど、感動的な録音だった。
 と、思ったら、トスカニーニ:1937年ザルツブルク・ライヴ、フルトヴェングラーの1943年バイロイト・ライヴ盤でも同じだった。クナの他のライヴ盤でも同じだった(^^;。完全なフライングだが、曲が曲だけに、あるいは「マイスタージンガー」のフィナーレがフィナーレなだけに、ライヴでは自然な状態なのだろう。
 録音状態は、舞台上を歌手が動き回るため、マイクの遠近が感じられたり、歌手やコーラスが舞台上で発するノイズ、舞台転換のノイズはあるものの、全体的に低域までよく音が録れていて、恐ろしいほどの臨場感がある。1952年という年代と、オペラのライヴだということを考えるなら、よくここまで録音できたものだ、と感心してしまう。
 クナの52年盤は凄い!、と思って、他の指揮者のものを聞いてみたら、重要な部分でのカット(これは、原音源の散逸だろう。確か、TAHRAかどこかで、散逸部分の発見!とかいう記事を見たことがあるが、その後、どうなったのか知らない)はあるものの、1943年のフルトヴェングラー盤には、圧倒されてしまった。特に、ヴァルターを歌うマックス・ロレンツ(これが、本物のヘルデン・テノールなんだなぁ・・・)や、ハンス・ザックスを歌うヤーロ・プロハスカの圧倒的な歌唱は凄みがある。また、第3幕前奏曲にもなっている、ハンス・ザックスの「迷いのテーマ」の魅力的なことは、フルトヴェングラーのワーグナーを見直す結果にもなった。
 トスカニーニ盤は、残念ながら音が悪く(1937年という、録音年代から考えれば、これだけのものを全曲聞けるのは驚異だが)、歪みもひどくて、聞き通すのはかなりつらい。その凄さは、端々から聞こえてくる片鱗から想像するを得ないが、テンポは比較的ゆったりしていて、その上メリハリが利いている。トスカニーニの、ワーグナーに対する愛情が伝わってくるような、フレージングの演奏だった。トスカニーニには、ワーグナーの楽劇全曲としては、この1937年ザルツブルク・ライヴの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」しか残されていないのは、極めて残念なことだ。
 巷間評判の高い、1970年カラヤン&シュターツカペレ・ドレスデンとのスタジオ録音は、先にクナやフルトヴェングラーのライヴを聞いてしまったからか、歌手や合唱団のノイズのない終幕にしらけてしまった。特に、第3幕第5場での「徒弟たちの踊り」は、背後での喧噪がなければ、舞台上の興奮に冷水を浴びせかけるようなものだ。演奏そのものは、至極立派ではあるが・・・。
 なお、カラヤンのこの録音は、演奏史譚家、山崎浩太郎氏によると、最初、バルビローリの指揮で計画されていたが、東西に分断されていたドイツに対し、抗議の意味で、バルビローリは東ドイツ領であったドレスデンでの録音の仕事を断ったのだそうだ。カラヤンは、それにうまく乗っかる形で録音したのだそうだ。

余談
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、中世からルネサンスに至る過渡期、ルターの宗教改革から約半世紀経った16世紀後半頃のニュルンベルクをモデルにしている。余談ながら、ワーグナー自身、パトロンであったルードウィッヒ二世に、ニュルンベルクへの遷都を献策したことがあるらしい。ワーグナーのしたたかな根性が見え隠れする話だ。
 主人公の一人、ハンス・ザックスは実在の人物で、「マイスタージンガー」として、今日に至るまでその名前を残している。ワーグナーは、そのハンス・ザックスの詩を引用しながら、中世からルネサンスに至る、市民社会の台頭を舞台に、この楽劇を書き上げた。
 芸術に関しても、イタリアから興ったルネサンスの波は、ドイツにも波及し、ドイツ・ルネサンスという芸術潮流を生み出した。絵画で言えば、グリューネヴァルトからデューラーに至る変化の時代で、その二人の絵を見ることによっても、イタリア・ルネサンスから波及したドイツ・ルネサンスの波をかいま見ることができる。
 グリューネヴァルトとデューラーは、ほぼ同じ年代に生きたが、グリューネヴァルトの絵画は後期ゴシック様式で、デューラーはイタリア・ルネサンスの息吹をその絵画の中に取り入れた。ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」にも、第1幕第1場でエヴァがデューラーのダビデの絵画について歌う歌詞がある。ただ、残念ながら、デューラーの描くダビデ像は現存していないのか、元々なかったのか、小生はまだ見たことがない。
 デューラーは、イタリアから帰国後、ニュルンベルクに居を構えて、その作品群を生み出していった。油彩、水彩、木版画、銅版画、デッサンなどジャンルを問わず、名作は数多い。特に、「騎士と死と悪魔」「書斎のヒエロニムス」「メランコリアT」などの版画や、「ヨハネ黙示録」の版画集、キリストの生涯を描いた版画集など、絵画に関心はなくとも、一度くらいはその絵画を見ているクラシック・ファンは多いはずである。小生は「葦」「ウサギ」「祈る手」などの水彩画やデッサンに驚愕した思い出がある。
 グリューネヴァルトはどんな絵描きだったのかというと、クレンペラーのEMI盤マーラー:「復活」(ART盤)のジャケットに、光り輝く顔の天使が描かれているが、それが、グリューネヴァルトの絵画の一つだ。「キリストの生誕」が描かれた、「イーゼンハイムの祭壇画」の2対目のほんの一部だが。
 ヒンデミットに、「画家マティス」という作品があるが、本当は「画家マティアス」で、マティアス・グリューネヴァルトをモデルにしている。フランスの近代の画家、アンリ・マチスと誤解されている方もいるようだが、グリューネヴァルトのことだ。グリューネヴァルトは「イーゼンハイムの祭壇画」が有名だが、1対目のメインにもなっている、磔に処せされているイエス・キリストを何枚も描き、これでもか!と言うくらいに、死に行くキリストをリアルに描き、キリストの苦しみに満ちた表情とともに、その肉が腐ってゆく様までも描いた、と評されている。
 余談はまだ続く(^^;。
 市民生活の上でも、商業ギルドから手工業ギルドへと発展し、「市民」という言葉が生まれた。王侯貴族(騎士を含む)、僧侶の他は、みな農民という、中世社会から脱却し始めたわけだが、これには、ドイツのルター、スイスのカルヴァンによる宗教改革が大きく影響し、カトリックからの決別が極めて重大な意味を持った。カトリック的教義で縛り付けられていた中世社会から、自由な考え方を生む土壌が芽生え始めた。その後、市民の存在が大きくなり、ヨーロッパ社会は、イギリスでの市民革命、フランス革命などの時代へと変化してゆく。さらに、市民の台頭から、産業構造の変化が生まれ、オランダ、イギリスに端を発した産業革命へつながってゆく。
 まだまだ余談が続くが、ワーグナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で描こうとした社会的背景を知っていないと、中世のロマンティックな物語としての認識だけで終わってしまう。実際にはそうではない。ワーグナーが描こうとしたのは、中世の呪縛から逃れ始めた市民が、自分たちの手中にある「マイスターゲザング」という芸術形式を、狭い教義に押し込めずに、新たな展開を模索しながら、人々が感動しうるものを作ろう、そして、それを実現してゆくことがドイツ精神なのだ、という前進的な精神のありようだ。当時の、古き良きドイツ(良く治世されていた封建制社会へのノスタルジーか・・・決して、カトリック的倫理観が支配していた暗黒の中世世界への回帰ではあるまい、あるいは聖賢が治めていた社会にか)への回帰とも呼べるフィナーレは、手工業ギルドを構成する市民が、ドイツという共同社会の中に立脚しているという、確認宣言のようなものか。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の劇中、ポーグナーの歌詞の中で、市民(この場合、手工業ギルドの構成員だろう)は、必ずしも、一般民衆から受け入れられていなかったことが読みとれるからだ。
 20世紀になり、ヒトラーのナチスが政権を握ることにより、ワーグナーのオペラはドイツ国内で独特の位置を占めるようになったが、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、喜劇であり大衆化しやすい物語だということと、最後のドイツ賛歌でのハッピーエンドで終わると言うことから、さらに、特別の意味を持った。
 1943年と1944年のバイロイト戦時音楽祭は、通常のバイロイトでの演目を大きく逸脱したが、その音楽祭の目玉の一つが、フルトヴェングラーとアーベントロートが指揮をした「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だった。小生は、残念ながらアーベントロートの指揮したものは知らないが、EMIのフルトヴェングラー盤は、巨匠唯一の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲演奏の記録であり、バイロイト戦時音楽祭の記録でもある。

第1幕
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の物語に関しては、小生がへたくそな抄録をするよりも、ひだまりの図書館に、小説化の試みがある。そちらの方を、参照していただいた方が、はるかにわかりやすい。
 クナの1952年盤の第1幕前奏曲は、前にも書いたように、堂々としており立派だ。CDの音も、変にヒステリックになったりせず、低域まで堂々とした偉容で音楽を聞くことができる。終盤、幾分アッチェランドをかけているようで、音楽は極めて充実しながら、第1幕第1場に流れ込んでゆく。
 第1幕前奏曲から、冷気が漂うような聖カタリーネ教会の堂内へと場面は移る。ワーグナーは信者たちの歌う極めて立派な教会音楽を書いたが(あるいは既成楽曲を使ったか?)、その歌を支えるオルガンの音は、このクナ52年の録音でも、低域に雰囲気豊かに入っている。合唱も立派で、大きな教会の空間の雰囲気を伝えている。
 信者たちの礼拝が終わり、弦楽器が渦を巻くようにして、ヴァルターとエヴァ、マクダレーネの歌へと流れ込んでゆく。エヴァのリザ・デラ・カーサは、実際に舞台で見ると美しいんだろうなぁ・・・なんてことを想像しながら、聞き進めてゆく(^^)。マクダレーネのイーラ・マラニウクも好演で、お人好しの乳母の役を最後まで好演してゆく。デービッドのゲルハルド・ウンガーも若々しくて素敵だ。これは、徒弟の役だから、堂々と歌われると、違和感が残り、楽劇全体が変に重苦しくなってしまうが、ゲルハルト・ウンガーはダーヴィッドのお調子者で無責任という役柄を充分に歌いこなし、好演だと思う。それと、もう一人の脇役、ベックメッサーの、エヴァとの結婚への執着のいやらしさが際だたないと、劇としての「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は成立しないのではないか、とも思えるほどだ。
 ヴァルター役のハンス・ホップは、フルトヴェングラー盤のマックス・ロレンツを聞いてしまうと、少し物足りないが(いっそ、カラヤン盤のルネ・コロの柔らかさまでゆくか!)、それでも、堂々とした貴族らしい、張りのある歌を聴かせてくれる。
 ダーヴィッドの「マイスターリート」に対する詳細で長ったらしい解説は、実は、ハンス・ザックスがヴァルターに第3幕で、詩の制作方法の教えをたれる場面に至る、重要な伏線だ。まずは、不必要に規則でがんじがらめの「マイスターゲザング」の難しさを、楽劇の聴衆にも教えているわけだ。随所で顔を覗かせるマイスターのテーマの、何と意味深く響くことか。ここで、声を出し切らずに、徒弟の若さと未熟さを描き出すゲルハルド・ウンガーの歌は、なかなか素晴らしい。この未熟さが出ていなければ、ヴァルターの堂々として、貴族らしい張りのある声との差別化ができない。ダーヴィッドは、いきなりマイスターになると言うヴァルターをからかっているのだから。ダーヴィッドは、堂々と歌ってはいけないわけだ。映像のない、CDだけでオペラや楽劇を聞くときには、このことは非常に重要で、歌詞を覚えていればいいが、歌手の声質による差別化ができないと、何がなんだか分からなくなってしまう(^^;。
 徒弟たちが、「歌」の昇格試験用に椅子や机、その他の備品を並べ、笑いさんざめくところへ、エヴァの父親ポーグナーと、ベックメッサーが入ってくる。この、ハインリヒ・プフランツルの歌うベックメッサーの声が聞こえただけで、この1952年クナの「マイスタージンガー」が、ほぼ成功するだろう事が想像できるようになる。ベックメッサーは、知的に下品でなければならないのだ。そして、焦り。それが、ドラマツルギーだ。第1幕では、常にポーグナーやハンス・ザックスの言動にその心を左右され、ヴァルターの歌につらく当たる心情の奥が描かれなければならないが、ハインリヒ・プフランツルの歌は、その点、安心して聞いていられる。ベックメッサーは、ハンス・ザックスやポーグナーと同じようには、堂々と歌ってはいけないのだ(^^)。
 なぜ、ベックメッサーは、知的で下品でなければならないのか?
 ベックメッサーは、マイスタージンガーを形成する手工業ギルドの職人の中で、唯一、市役所に勤める役人である。普段は知的でしっかり者だが、「歌合戦」に優勝すれば、エヴァと結婚できる、という一点で、心ならずもこの喜劇の敵役になってしまった、と解釈する方がすっきりする。
 もっとも、ワーグナーは、ワーグナー批判の先鋒だったエドゥアルド・ハンスリックとベックメッサーを台本制作のある時期まで同一視し、ベックメッサーの役を、ハンスリッヒとか、ファイト・ハンスロックという名前にしていたという。ユダヤ人という、ワーグナーにとって差別されるべき人種のイメージをも、ベックメッサーに重ねていた。後年の演出では、ベックメッサーを悪意から、去勢者のイメージで演出されたこともあったのだそうだ。
 ところが、知的で地位もある人間が敵役でなければ、この劇自体が成立しないのだ。年を取るまで結婚できなかったベックメッサーが、若くて美しい女性と結婚できる可能性が、「歌合戦」の優勝によって出てきたため、とち狂ってしまった、本来は愛すべきおっちょこちょいという役柄ではないかと思うのだ。
 マイスターたちの出欠は、管弦楽、歌手とも立派に盛り上がってゆく。まるで、王侯貴族が城の中で集っているかのようだ。
 ポーグナーを歌う、クルト・ベーメは素晴らしい。エヴァを「歌合戦」の優勝者の花嫁にする、と言う宣言は立派だ。
 肝心の、ハンス・ザックスを歌うオットー・エーデルマンは、少し鼻にかかった声で、スケールはさほど大きくはないが、誠実なハンス・ザックス像を描き出す。
 ヴァルターは、マイスターたちの質問に答え始めるが、まだ、青臭さの残るぎこちない歌だ。ただ、管弦楽が、その未熟な歌に対し、予感のようにして崇高でロマンにあふれた伴奏を付ける。ヴァルターは、第3幕で、より円熟し、高貴な歌を歌わなければならない。
 しかし、この緊迫した場面での、クナの伴奏の自在さは凄い。物語の進行に、また歌手が自分の役を取り違えないよう、恐ろしく管弦楽は雄弁である。録音された音も、モノラルながら素晴らしい。ピラミッド・バランスの底がしっかりしている録音は、本当に聴き応えがある。
 コートナーを歌うヴェルナー・ハウトハーバーの、タブラトゥールの解説は、もっと下手に歌ってもいいのでは、と思うが、それはまぁ、仕方のないところか。
 ヴァルターは、マイスターになるべく歌い出すが、奔流のようなだけで、まだ、まとまった音楽にはなっていない。ベックメッサーの黒板をチョークで叩く妨害が入ったりするが、ここでは、まだ、完成された歌を聴かせてはならないのだ。管弦楽も、奔流と風が渦を巻くようにオーケストレーションされていてる。クナの伴奏は、生きているように、一時の別世界を創り出す。やはりこの管弦楽は凄い。それまで、コケティッシュな場面の情景を描いていた管弦楽が、ヴァルターの「歌」のテーマが流れるところでは、情感豊かに音楽は膨れあがり、低弦が渦を巻く。
 ヴァルターの歌のもたらした混乱は、さらに混乱を呼び、恋敵を蹴落とそうとするベックメッサーの嘲弄と、ザックスを除くマイスターたちや徒弟たちの嘲笑が大きく渦を巻き、ヴァルターのマイスターを呪うやけっぱちの歌が交差する中、第1幕は混沌として終結する。なにやら、考え込んでいるザックスを残して。
 クナのテンポや、呼吸感は本当に適切だと思う。物語にピッタリと合った、クナの伸縮するテンポやオーケストラのダイナミクスに合わせて、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞いていると、自分も舞台の中に参加しているかのような錯覚すら覚える。

第2幕
 ニュルンベルクの活気のある日常生活を描写するかのような、短い第2幕前奏曲(導入部と言った方がいいか)から始まる。他の徒弟がダーヴィッドをからかうのだが、ウィルヘルム・ピッツの合唱指導は、本当に素晴らしい。ただ、うまいというより、場面や役柄に対し、非常にリアリティを持った合唱だ。もっとも、クナ以外の録音では、ここまで自由度を獲得できていないものもあるため、クナの指揮の時には、特別だったのだろうか。クレンペラーの指揮で、ピッツの力量が発揮できるワーグナーの録音が、もっとあったなら、と思ってしまう。
 クルト・ベーメの歌うポーグナーは、「歌合戦」の賞品として、エヴァを人身御供に出すような宣言はしたものの、エヴァの花婿として意中の人、ヴァルターがしくじったことから、悩んでいる。クルト・ベーメのこのポーグナーはスケールが大きく、あまり出番は多くはないが、素晴らしい。リザ・デラ・カーサの歌は、本来それほど可憐ではないはずが、クルト・ベーメとの歌の対比で、とても可憐に聞こえる。少し、勝ち気のお嬢さんだが(^^;。
 この第2幕でも、ダーヴィッドが光っている。クナのこの1952年の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の成功の一端は、ゲルハルド・ウンガーが担っていると言っても、言い過ぎではないと思えるほどだ。
 ダーヴィッドを寝室に追いやり、ザックスは、ヴァルターの失敗した歌の力について考えている。オットー・エーデルマンは、ここを聞いていても、それほどスケールが大きな訳ではなく、誠実さと、人の良さが伝わってくるかのようだ。ザックスのヴァルターの歌を聞いての感動の思い出と、それを裏付けする管弦楽の情感は素晴らしい。完成された「歌」への憧れに充ちた予感も、ふくらみがあり、ロマンたっぷりだ。靴屋のテーマが愛情たっぷりに演奏される。さらに、ヴァルターの歌った、奔流となって辺りの空気を一変させてしまう自然の音楽!この、透明でいて渦を巻くような管弦楽は、クナのワーグナーを聴いている醍醐味でもある。
 ザックスとエヴァのダイアローグの伴奏での、愛情に充ち、平和な市井の生活を想像させる音楽は、クナの手にかかると、本当にゆったりと息づいているようで、現実を忘れさせてくれる。豊かで、羨ましくなるほどの愛に充ちている。
 ただ、途中から、エヴァは、ヴァルターのマイスターになる歌の試験がどうなったのか、聞きたい一心でザックスと話しているのが表面化し、そのいらだちが徐々に伴奏にも出てくる。ザックスは、ヴァルターとエヴァの、一目惚れの恋をすでに理解し、どの様にすれば、ヴァルターが勝者になるか、それが大きな悩みだ。
 ついに、エヴァはザックスからヴァルターの不首尾を聞き出すと、悲しさでヒステリックになる。そして、世の中を冷笑しているような態度に変わり、ヴァルターと出会うことを夢見る。マクダレーネから、ベックメッサーが今夜、エヴァの寝室の下で歌を歌うから聞いてくれ、という伝言を聞かされても「あんたが、私の部屋にいなさい」と、ヴァルターのことしか頭にない。
 そして、エヴァの望み通り、小道でエヴァはヴァルターに出会うのだが、まるで「トリスタンとイゾルデ」の逢瀬の場のようだ。ヴァルターの、マイスターたちの理解のない仕打ちに対する恨みは、少しユーモラスだが。
 やがてヴァルターの激高が頂点に達したとき、ちょうど夜警がやってきて、エヴァはヒステリーのその果てに静かになり、ヴァルターの言葉通り駆け落ちすることを、意に決っしてしまう。
 ヴァルターとエヴァの駆け落ちを耳にしたザックスは、それを阻止しようと考えるが、その少し前から、ベックメッサーがリュートを持ってエヴァの部屋の下にやってくる。ザックスは、ヴァルターとエヴァを自分の仕事部屋の明かりで照らし出し、逃げられないようにする。
 そして、靴を槌で打ちながら、ベックメッサーとの珍妙なやりとりへと、場面は変化してゆく。この辺りの、靴屋の明るくも哀愁のこもったテーマは素晴らしい。さらに、クナは管弦楽の重心の響きを重くすることによって、ザックスとベックメッサーのやりとりに、リアリティのあるボディを付加させてゆく。
 ベックメッサーの、ザックスの靴を打つ音にいらだつ場面は、このオペラの喜劇的な面での白眉だが、ハインリヒ・プフランツルの歌うベックメッサーが断然素晴らしい。普段は立派な役人で、しかも「マイスターゲザング」では、尊敬を集める「マイスタージンガー」であるベックメッサーの焦りが、余すところなく、リアリティを持って歌われてゆく。ハインリヒ・プフランツルは、このオペラの要の役を、適切に表現豊かに描き出してゆく。「靴なんかいらんわい!頼むから、静かに歌わせてくれ!」という心情と、ザックスにコケにされる様子が、セリフ回しのうまさで、十全に伝わってくる。
 ベックメッサーの歌と、ザックスのやりとりで、思わず客席から笑い声が起こる。規則に乗っていようが、ベックメッサーの歌は類型的で、人を感動させる力はない。ザックスは、それを見透かすように、靴を打つ音を響かせる。ザックスとベックメッサーの声は段々と大きくなり、愛しい人の窓の下でセレナーデを奏でるという域を、大きく逸脱してしまう。近所中のひとびとが起き出してきて、この夜中の大きな歌声に対する怒りが大きくなる。
 マクダレーネを取られると勘違いしたダーヴィッドのベックメッサーへの一撃で、大混乱が起こる。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で最も有名な、殴り合いのシーンである。やがて、夜警の夜11時を告げる声で、事態は沈静化する。
 クナは、夜警の歌声の後の、沈静化する夜の風景をねばり強く、しかも透明な音で奏でてゆく。幕が閉まり、管弦楽の一撃で第2幕は終了する。

第3幕
 沈鬱で、しかも崇高な、ザックスの迷いの音楽である第3幕前奏曲で、開始される。第3幕前奏曲は、そこだけ取り出して聞くと、その優れた情感、深い響きに、何事の音楽かと思うが、ザックスは、ヴァルターとエヴァをどうやれば添い遂げさせることができるか、また、ヴァルターの歌の持つ力を、正しいマイスターゲザングに導くにはどうすればよいかを思い悩んでいる。自身、妻に先立たれ、エヴァに淡い気持ちを抱きながらも、それを現実化することは思いもよらず、ザックスは、ヴァルターとその歌を何とかできないか、思い悩む。
 朝になり、できあがった靴をベックメッサーに届けたダーヴィッドは、本を見ながらたたずんでいるザックスをみとめるが、ザックスは心ここにあらずという態で、物思いに沈んでいる。
 この辺りのトスカニーニ盤は極めてゆったりとしたテンポ、透明な響きで素晴らしかった。ただ、当時の録音方法から仕方のないことだが、前奏曲中間の金管の音や、前奏曲が終わってからのハンス・ザックスを歌うハンス・ヘルマン・ニッセンの歌声がやけに大きく、聞きづらかった。
 クナの52年盤は、第3幕前奏曲はそれほど沈潜とした趣ではない。透明感はあるが、トスカニーニ盤のような、突き刺すような孤独な響きではない。むしろ、愛情のこもった暖かな第3幕前奏曲になっている。弦楽器の思いっきりふくらむようなフレージングは、なるほどクナのクレッシェンドだと感じる。クナは管弦楽曲集の方で、透明で深刻な第3幕前奏曲を表現しているものはあるが、ここでは意外と少し軽めに演奏している。これは、録音事情とも関連しているかも知れない。ただ、第3幕後、悩みのテーマが繰り返し出てくるところでは、音楽をえぐるように、深々と弦楽器を鳴らしている。特に、ダーヴィッドがベックメッサーに靴を届けにゆく用事から帰宅して、物思いにふけるザックスを発見する辺りの低弦域の巌のような響きは凄い。
 ダーヴィッドとのやりとりの後、第2幕と同じように、ザックスの迷いモノローグが歌われる。ザックスの聞かせどころで、昨晩の混乱を防げなかったことを嘆いて激高し、再び沈静化して、ヴァルターへの教えと教育を誓う。それが、ザックスの当面の仕事だと、再認識する。この辺りの、緊張感をはらんだクナの振幅の大きな管弦楽は素晴らしい。テンポを自在に操り、ワーグナーの言わんとしている管弦楽法に、まっすぐ剛速球を投げる。聞き手は、決然としたザックスの意志と、陶酔感を味わえる。
 音楽は、落ち着きを取り戻し、前夜の混乱の中、ザックスの家にかくまわれたヴァルターが起きてくる。そして、素晴らしい夢を見たことを、ザックスに告げる。
 ザックスは、その夢を元にして、マイスターリートを作ることを、ヴァルターに奨める。ヴァルターは、前日のマイスターたちの仕打ちから、最初は渋っているが、徐々にザックスの情熱に動かされ、最初の歌を歌い上げる。ワーグナーは、ザックスとヴァルターのダイアローグを、明るい情感を持って作曲した。
 ヴァルターの完成した「歌」が、ザックスの忠告と教えに従いながら、次々と生み出されてゆく。「歌合戦」への感動へとつながる、ヴァルターを演ずる歌手の、ひとつの大きな見せ場だ。二つの節(シュトルレン)の後の「アプゲザング」は、第1幕前奏曲のテーマでもある。
 ここでの、フルトヴェングラー盤のマックス・ロレンツの歌は、本当に凄かった。クナ52年盤のハンス・ホップも大きく健闘している。カラヤン盤のルネ・コロのような柔らかさではないが、柔らかく、なお張りのある歌声は、ヴァルターの歌としては合格だ。
 ヴァルターは、2番まで歌い上げるが、3番目の歌まで作れと言うザックスに、「言葉は、もうこりごりです」と言う。ザックスは、あきらめずに、ヴァルターの心の中で歌が完結することを期待し、「歌合戦」の場で、その完結した歌を歌えばよいと語る。
 「歌合戦」に行くために、二人は着替えに、それまでいた靴作りの仕事場を離れて奥に入る。
 そこへ、ベックメッサーが登場、無人のザックスの仕事場に入り、前夜の騒動であちこち痛めた体をさすりながら、ザックスの仕事場を物色する。「歌合戦」に勝つために、ザックスの詩を盗むためか、あるいはヒントを得るためである。
 ベックメッサーの第3幕での登場は、パントマイムになっており、ベックメッサーの心の動きや、行動が管弦楽によって表現される。深刻な音楽ではなく、どこかユーモラスで、カリカチュアのような音楽だ。ワーグナー以降の、ドイツ内外の作曲家に大きな影響を与えたに違いない。クナの演奏は、非常に楽しい。色彩感も豊かで、ベックメッサーの戯画化された動きを、細部に至るまで愛情を持って表現している。
 ベックメッサーは、ヴァルターの歌った歌詞を書き留めたザックスのメモを見つける。
 そこへ、着替えたザックスが登場、ベックメッサーは、「歌合戦」でエヴァを獲得するためのライヴァルは、ハンス・ザックスだった、と大きな誤解をする。ベックメッサーを演ずる、ハインリヒ・プフランツルの一人死芝居は、とてつもなく面白く、クナの雄弁な伴奏に乗って、自在にザックスに対する恨み辛みを歌ってゆく。
 ベックメッサーは、この歌を俺にくれ!俺には、そうしてもらう権利がある!と、うそぶく。おだてたり、脅かしたりしながら、結局はザックスから、その歌詞のメモをもらい受ける。ザックスはザックスで、奸計を思いついたためだが、ベックメッサーは、「歌合戦」に勝つために、ザックスの歌詞を手に入れる事にしか眼中にない。ベックメッサーは、一人で怒ったりわめいたり笑ったりしながら、歌詞を握りしめ、帰りかけるところで、自分の手に歌詞のメモが握られていることを忘れ、もう一度、忘れたと思ったメモを取りにザックスの仕事場に戻ったりする狼狽ぶりだ。ワーグナーの人間観察の鋭さと、幅の広さを思わせる場面だ。音楽は、楽しげに飛び跳ねながら、ベックメッサーの退場を見送る。この楽劇が、喜劇だと言うことを、第2幕の殴り合いの場面同様、最も顕著に示している場面だろう。
 ベックメッサーが喜んで帰り、ザックスは美しく着飾ったエヴァを仕事場に迎え入れる。ただ、エヴァは何かに思い詰めたようで、元気がない。エヴァは、ザックスから届けられた靴について、ブカブカだとか、ここががきつい、あそこがきついと難癖をつける。ザックスは、エヴァの悩みが分かっているため、黙って、エヴァの難癖につきあってやる。
 そこへ、「歌合戦」に行くために、着飾ったヴァルターが現れる。エヴァは叫び声を挙げる。ザックスは、エヴァの心情を理解しているため、独り言を言いながら、エヴァの靴を直してやる。
 ヴァルターは、完成された歌の3番目の歌を歌い始める。その見事な歌に、ザックスは「これこそ、マイスターの歌だよ。良く聞きなさい」とエヴァに語りかける。
 恐らく、フィナーレでのヴァルターの歌よりも、この仕事場でのヴァルターの歌の方が感動的だ。クナは、ヴァルターの伴奏から、ザックスの次のモノローグに至るまでの管弦楽だけの短い部分で、この楽劇全体で最も感動的な音楽を聞かせる。そのダイナミックスの幅は、そら恐ろしくなるくらい、凄い。
 そして、エヴァの告白のロマンティックなこと!
 エヴァは、もしヴァルターが現れなかったら、歌合戦の勝者に、ザックスを選んだことでしょう・・・というような、遅きに逸した告白を行う。その上で、まだ、歌合戦での不安を訴える。
 ザックスは、「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王のような苦しみを私は得たくない、と言う。「トリスタンとイゾルデ」の短い引用の音楽がある。
 ザックスは、マクダレーネとダーヴィッドを部屋に入れ、ヴァルターの作った歌の命名を行う。ダーヴィッドをいきなり職人にし、マクダレーネとダーヴィッドを、エヴァとともに、ヴァルターの歌をマイスターリートとして認める儀式の証人にしてしまう。
 エヴァは、"Selig,wie die Sonne..."と、感動的に歌い出し、やがて、ザックス、ヴァルター、ダーヴィッド、マクダレーネの美しい五重唱になる。この、クナ52年盤の五重唱は、極めて感動的だ。最上部での弦楽器が、その感動をいやが上にも盛り上げ、この楽劇を聞いてきて良かった、という幸福感に浸れる。小生が、この録音を聞くために、トスカニーニ盤やカラヤン盤を聞いてきた中でも(フルトヴェングラー盤では、この五重唱は収録されていない)、最も、感動的な五重唱である。これを聞くだけでも価値がある。
 場面は変わり、ニュルンベルク郊外の丘の上にある牧場。ここで、聖ヨハネ祭が開催される。スペクタクルなお祭り騒ぎの場面だ。クナのテンポは、いかにも次から次へと繰り出してくるパレードを楽しむかのように落ち着いており、コーラスのノイズ共々、非常に楽しい場面に仕上がっている。恐らく、このコーラスのドダバタするノイズがなければ、音だけのCDでは楽しめないだろう。
 そして、見事なのはピッツの指導によるコーラスだ。その無政府状態とも言えるコーラスは、非常にリアリティがあり素晴らしい。そして、「徒弟たちの踊り」が始まる。ダーヴィッドが、浮気をして、美しい娘と踊るシーンでの楽しさ、それをからかう徒弟や職人たち、娘たちの笑いさざめく声が、臨場感を持って聞こえてくる。
 そして、特筆すべきは、クナの管弦楽のもたらす、呼吸感だ。クナは、舞踏音楽の指揮が好きだったが、ここでも、そのクナの嗜好がいい方に働いていて、陽性の空気が横溢する。
 そこへ、マイスタージンガーたちが、威風堂々と入場する。行進曲の最初の方で、クナは、律儀に音楽をディミュニエントさせる箇所が2カ所あるが、そのまま、同じ音の大きさで演奏してしまっても良かったのではないか、と思えてしまう。後半は、素晴らしい迫力を獲得しているが。
 民衆のザックスを求める感動的な合唱(これは、本物のハンス・ザックスの作った歌詞から、作曲されている)が高らかに響き渡り、迷いのテーマとともに、ザックスの謙遜と、今日の「歌合戦」の意義が歌われる。ここでも、オットー・エーデルマンの歌も素晴らしいが、フルトヴェングラー盤の、ヤーロ・プロハスカの歌に圧倒された。どちらがいいか、てな問題ではなく、これは歌手の資質の違いだろう。エーデルマンのザックスは庶民的である。威圧的なヤーロ・プロハスカよりも好ましい、と言う方がいても、なんら不思議はない。
 いよいよ、「歌合戦」のシーンになるが、肝心のベックメッサーは自信がない。ザックスの仕事場でもらったヴァルターの作った歌が、まだよく自分のものになっていないのだ。ハインリヒ・プフランツルは、ベックメッサーの焦りを、的確に描いてゆく。ザックスは、ベックメッサーに「やめとけば」と、忠告するのだが、ベックメッサーは聞かない。いよいよ、ベックメッサーが「歌合戦」の場に臨むと、民衆は「まぁ、何と似合わない人が、求愛者であることか!」と驚く。
 いよいよ、リュートの調べに乗せて、ベックメッサーは歌い出すが、歌詞をうろ覚えのため、"Blüt"(花)を"Blut"(血)と歌い間違えたり、他の歌詞もシッチャカメッチャカになり、だれもベックメッサーの歌を理解できない。それでも、間違いだらけの歌を歌い続けるが、聴衆は嘲笑しだしてしまう。頭に来たベックメッサーは、「これは、ザックスの作った詩だ!とんでもないものをよこしやがった!」と、真相を暴露してしまう。
 ザックスは、慌てず騒がず、「それは真実ではない、本当の作者に登場してもらおう!」と、ヴァルターを前々に出す。この辺りでの、ザックスの歌に対する民衆やマイスターたちのざわめき、適切な呼吸感で盛り上げる管弦楽など、目もくらむような効果だ。
 マイスターや民衆たちの承認を得て、ヴァルターは感動を込めて、完成されて命名された歌「聖なる朝の夢解きの歌」を歌い出す。楽劇の聞き手は、すでにザックスの仕事場でこの歌を聞いているため、感動がより深まるだろう。民衆の感動の声と、管弦楽が一体になり、驚きと感銘はますます深まってゆく。クナは、「聖なる朝の夢解きの歌」の感動をより広げるように音楽を盛り上げてゆく。民衆の、感動のクライマックスは凄い音圧だ。トスカニーニ盤も、フルトヴェングラー盤も感動的だが、クナのもたらす感動は、より柔軟で、ひとつひとつのフレーズが極めてよく充実している。そのため、エヴァの感極まった短いフレーズの前に流れる、ザックスの迷いのテーマが、より感動的に響く。
 ひとびとや、マイスターたちの歓呼の元、ポーグナーはマイスターの証であるメダルをヴァルターに渡そうとするが、ヴァルターは、エヴァと結婚したかったのであり、マイスターになることが目的ではない・・・と、メダルを拒否する。
 ザックスは、ヴァルターに、マイスターになることの意義を説き、ドイツの芸術の普遍性を高らかに歌う。そして、ヴァルターにメダルをかけてやり、大団円を迎える。
 この辺りのクナの棒は、明らかに勢いだけでフィナーレを形作るのではなく、ひとつひとつのフレーズの意味を明らかにして行く。そのため、最後の合唱に至るまで、幾分、ゆったりとした終結だが、勢いだけではなく、本物の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」終幕を大きな感動とともに迎えることができる。
 最後の、ドイツ芸術万歳!の合唱は、どんな苦難に見舞われようとも、ドイツの芸術は民衆とともにある限り、不滅だ、と歌われるわけだが、ナチスはこのオペラを利用し、ドイツ国民を苦難の淵にたたき込んだが、最後の合唱の預言通り、ナチスは滅びてもドイツ芸術は不滅だった(むろん、実際の歌詞は、神聖ローマ帝国が滅びても・・・だが^^;)。


 まだ、クナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の録音は3種類残っている。次は、1955年、バイエルン州立歌劇場でのライヴ録音を取り上げる。

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