クナを聞く 第52回
ワーグナー編その6−7

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」Vol.7
2002/9/2

Richard Wagner
Die Meistersinger von Nürnberg


POCL 7082
440 057-2
Hans Sachs...Paul Schöffler
Veit Pogner...Otto Edelmann
Sixtus Beckmesser...Karl Dönch
Fritz Kothner...Alfred Poell
Walther von Stolzing...Günther Treptow
David...Anton Dermota
Eva...Hilde Gueden
Magdalene...Else Schürhoff
Ein Nachwächter...Harald Pröglhöf

Wiener Staatsopernchor & Wiener Philharmonker
(rec.1950 & 1951/9 S)

DECCA LONDON/POCL 7082(Japan)4CDs
DECCA/440 057-2(England)4CDs


 DECCAからリリースされたクナの1950/51年盤はスタジオ録音で、クナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」としては、唯一の正規盤である。第2幕は1950年、第1幕と第3幕は1951年に収録された。
 プロデューサーはDECCAのジョン・カルーショーなのかどうか、CDにはその記載がないため分からない。
 DECCAのプロデューサー、ジョン・カルーショーはクナのヴァグナーオペラ全曲録音に熱心だった。おそらく、カルーショーは、ワーグナーのオペラ全部をクナで収録したかったのかも知れない。
 1951年、バイロイトの再開公演で、カルーショー率いるDECCAの録音チームは、ウォルター・レッグ率いるEMIの録音チームとぶつかった。カルーショーとレッグの、虚々実々の駆け引きがあったものと思われる。カルーショー・チームは、クナの「ニーベルングの指環」全曲と、「パルジファル」を録音した。レッグ・チームは、カラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と、カラヤンの「ニーベルングの指環」第3幕を録音した。他にも、各チームで録音したプログラムがあったのかも知れない。
 カラヤン51年の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、EMIから最初78rpmでリリースされ(情報提供:吉岡伊豫守殿)、CDでも復刻された。クナを聞く 第49回でも取り上げた。
 カルーショー・チームによるクナの録音では、「パルジファル」のLPはDECCAからリリースされ、CDはTELDECから復刻された。「ニーベルングの指環」は、録音の不備と言う理由で、長い間日の目を見なかった。一部には、クナによる1951年「ニーベルングの指環」の全録音テープが廃棄処分になったと伝えられた。
 ところが、クナ1951年の「ニーベルングの指環」は、録音の不備のためリリースされなかったのではなく、そのプログラムに出演していたウォルター・レッグの細君、エリーザベト・シュヴァルツコップのEMI専属契約を盾に、EMIがそのリリースを許可しなかったことが原因のひとつだということが分かった。あるいは、カルーショーよりもレッグの方が業界で力があり(一時期、レッグはレコード界の帝王と呼ばれた)、カルーショーの仁義を無視したバイロイトでの収録に、EMI側が態度を硬化させていた、と言うことも考えられる。
 結局、収録されてから約50年を経て、EMIの古い録音をディストリビュートしているTESTAMENTの働きかけにより、「神々の黄昏」のみ、DECCAではなくTESTAMENTから、1999年になって、初めて青天の霹靂のようにリリースされた。
 「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」は、カルーショーの言を信じるなら、演奏としてまるでぱっとせず、リリースをあきらめたカルーショーは、テープを全て破棄したのだそうだ。他の資料を見ても、クナは「ジークフリート」まで不調で、大凡演を繰り広げていたが、「神々の黄昏」でようやく起死回生の大名演を披露したとある。
 1951年、バイロイトの「ニーベルングの指環」は、クナとカラヤンの二人が担当した。カラヤンの「ニーベルングの指環」は、「ラインの黄金」、「ワルキューレ」第3幕のみ、リリースされている。「ラインの黄金」は、エアチェックテープが残っていたのか、イタリアのURANIAからCDでリリースされた。「ワルキューレ」第3幕は正規録音が残っており、EMIからリリースされている。レッグも、「ニーベルングの指環」をカラヤンで収録しようとしていたのかも知れない。結局、第3幕だけしか、リリースされなかったが。
 カラヤンは、ヴィーラント・ワーグナーと、演出上でなのか、仕事の進め方の上でなのか分からないが、ヴィーラントと袂を分かち(1952年の「トリスタンとイゾルデ」が起因だったのかも知れない)、バイロイトでは以後指揮をしなかった。後年、自身が総監督になった、ザルツブルク復活音楽祭において(ザルツブルク音楽祭とは別)、「ニーベルングの指環」を自分の理想とする形で上演し、ドイツ・グラモフォンにも録音した。
 白水社刊「ヘルベルト・フォン・カラヤン」を読んでいると、1951年から1952年のバイロイトは、カラヤンがリハーサルをし、クナが指揮をしたと評されている、という記載がある。

 以下は考察である。
 クナ1950/51年盤「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、カルーショーが中心となったDECCAの録音チームによる、クナのワーグナー・オペラ全曲録音の先駆けであったのかも知れない。
 クナによる、1951年バイロイトでの「ニーベルングの指環」全曲ライヴ録音のリリースを断念したカルーショーは、スタジオ録音を計画する。まず、「ワルキューレ」からその録音は始まったが(1957/10/28-30)、クナはカルーショー・チームに非協力的で、結局カルーショーは、クナによるスタジオ録音の「ニーベルングの指環」を断念する。その時の、クナによる第1幕の録音だけはリリースされたが、最終的にショルティを指揮者に据え、レコード録音の偉業と讃えられたDECCAの「ニーベルングの指環」全曲録音は完成する。
 実は、クナが「ワルキューレ」の録音に入る直前に、カルーショーは「ワルキューレ」第3幕だけ、ショルティで録音していた(1957/5/13-17)。カルーショーは、クナとの軋轢が生じるのを予想して、ショルティをスタジオ録音の指揮者として起用することを前提に、「ワルキューレ」第3幕だけ、実験として(その割りには、歌手陣が豪華だが。恐らく歌手のキャスティング主導の録音だったと思われる)ショルティで録音していたのかも知れない。ショルティは、その「ワルキューレ」第3幕の録音の成功から、DECCAの「ニーベルングの指環」のセットは、自分に任されると期待していた。
 ところが、DECCAの社長モーリツ・ローゼンガルテンから、「ニーベルングの指環」全曲は、クナが録音すると聞かされたときはショックだった、とその自伝に書いている。ただ、さまざまな情報を俯瞰すると、カルーショーの仕組んだ出来レースの感じがしないでもない。
 結局、DECCAの「ニーベルングの指環」は、ショルティでその全てを録音するのだが、面白いのは、「ラインの黄金」の収録後、「ワルキューレ」の録音に取りかかれると思っていたショルティは、モーリツ・ローゼンガルテンから、RCAに、既にラインスドルフの優れた「ワルキューレ」がある(RCAのヨーロッパでの配給権はDECCAが持っていた)、「ジークフリート」を録音すればどうか?と言われたというくだりだ。結局、ローゼンガルテンのGOが出て、ショルティは「ニーベルングの指環」全曲のスタジオ録音を完成させることができるのだが、いろいろと紆余曲折はあったようだ。

 クナは、本当にレコーディングを嫌っていたのか?
 クナとカルーショーとの確執は、「ワルキューレ」第1幕収録時に、カルーショーがプレイバックを聞くことをクナに申し出たところ、クナが「それはさっきもう聞いた」と、スタジオを出てしまったことで表面化したと伝えられているが、カルーショーは、プレイバックを聞きながら、自分が不満に思う部分を、クナに録り直しをさせようと考えていて、クナがそれを拒否したことが原因だとも考えられる。あるいは、そのような場面が再三にわたって演じられ、クナは頭に来ていたのかも知れない。なぜ、そんなにプロデューサーに、とやかく言われて仕事をしなければならないのか?と。
 数多くのスタジオ録音によるレコードを残したトスカニーニやフルトヴェングラーは、スタジオでのレコーディングを嫌っていたそうだ。トスカニーニの場合は、小生にも意外だったが(古い録音での、同一曲の何回にも渡るテイクも残されているし)、クナも、トスカニーニやフルトヴェングラーと同程度には、聴衆のいない劇場やスタジオでの録音を嫌っていたことは、想像できる。
 しかし、クナのスタジオ録音は1924年から残っている。正規で録音されたものはけっこうな数に上るし、クナのスタジオ録音や、WESTMINSTERでの「フィデリオ」収録の折、熱心にプレイバックを聞くクナの写真を見ると、単純にクナは「レコーディング全般が嫌いで無理解だった」と断ずることはできないと思う。
 レッグやカルーショーは、力のあるプロデューサーであるだけに、自分たちが理想とするレコーディングのために、指揮者や演奏者にいろいろと注文を出す。現在では、プロデューサーの力が指揮者よりも強いスタジオ録音の方が多いが、指揮者よりもプロデューサーの力が強いという関係は、あるいはレッグやカルーショーが築いたものかも知れない。レッグはその著書(細君であったシュヴァルツコップの編纂だが)において、自分が、世界で初めてのレコーディング・プロデューサーだ、と言う意味のことを書いている。
 フルトヴェングラーは、ドイツ・グラモフォンでの、シューマン:交響曲第4番の録音において、「一発録り」ならという条件付きで、スタジオ録音した。プロデューサー主導の、何回にも渡る録り直しや、部分的な修正を嫌ったのだろう。トスカニーニも、晩年は8Hスタジオでの一発録りが多いし、かのカラヤンでさえも、晩年にはスタジオ録音よりも、ライヴ録音の方が増えて行く。我が朝比奈隆も、同じような傾向だった。
 クナは、スタジオ録音の煩雑さは、早い段階から知っていただろうということは想像できる。
 しかし、プロデューサーにあれこれ言われながら録音をしてゆくことに関しては、嫌っていただろうことは、他の19世紀を引きずっている指揮者と同様ではなかったか、と思える(実は、20世紀の指揮者でも、そうのような指揮者はいるが)。トスカニーニにしても、フルトヴェングラーにしても、クナにしても、劇場のオケピットやコンサート会場で、そのときに生まれ出る音楽を最重要に考え、大切に考えていた指揮者である。ストコフスキーやカラヤンとは、そのスタジオ録音に対するスタンスが大きく違っていた、と言うことを忘れてはならないと思う。

 なぜ、長々と、ライヴ録音とスタジオ録音にこだわって書いてきたのかと言えば、実は、今回取り上げるクナ1950/51年スタジオ録音による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と、前回まで取り上げてきた、1952年、1955年、1960年ライヴ録音との、明らかな演奏された音楽の次元の違いと、その差を書くためである(^^;。
 実は、おしなべて、クナ1950/51年スタジオ録音による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は評判が悪い。クナバカ親父の小生としては、「そんなはずはあるまい、みな耳が悪いのだ」と言うことにしょう、と思っていた。
 ところが、いざ、1950/51年の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞き出すと、第3幕を別にして、どうしてもある種の違和感から逃れられないのだ。
 なお、スタジオ録音としては、クナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲録音は、世界初録音である。


第1幕
 第1幕前奏曲から、第1幕第1場に流れ込む場面での、明らかな編集の跡があって気になる。音がいきなり変わるため、編集の跡だとまる分かりなのだが、試しに同一録音で前奏曲のみ収録されている、POCL-4303(国内盤)や、KING/KICC2313(これについては、クナを聞く 第53回を参照のこと)も聞いてみた。もしかすると、最後の小節は、管弦楽版なのではないかと期待を持ちながら・・・。残念ながら、前奏曲のみ収録されているCDも、同じように編集の跡があった(当たり前だと言えば当たり前だが^^;)。
 さらに、前奏曲では、国内盤では、途中からチリチリしたノイズが混入し(3分31秒辺りから)、かなり気になるのだが、ドイツプレスのものはノイズの混入はなかった・・・と言うよりも、ドイツプレスでは譜面をめくる音に聞こえる。ただし、音の分離は、ドイツプレスよりも、国内プレスの方がかなりよい。ドイツプレスは、ナローレンジだ。
 第1幕前奏曲は、テンポは早目ながら、教科書的に立派な演奏である。ウィーン・フィルの各楽器の音色も魅力的で、木管楽器の質朴とした味わいや、弦楽器も底力のある音だ。金管楽器も危なげがない。
 第1幕前奏曲の最後で、前述の通り、いきなりの音質変化で、聖カタリーネ教会の堂内へと、聴感上、音楽はギクシャクしながら流れ込んでゆく。
 第1幕第1場のオルガンとコーラスは素晴らしく美しい演奏で、ゆったりと愛情豊かに流れてゆく。合唱を彩るチェロの響きも美しい。コーラスが終わって、オルガンのペダルトーンの上を管弦楽が物語の導入へと導くが、これもまたすばらしい響きだ。ヴァルターをギュンター・トレプトウ、エヴァをヒルデ・ギューデン、マクダレーネをエルゼ・シュールホフが歌っている。エヴァのヒルデ・ギューデンは可憐であり、マクダレーネのエルゼ・シュールホフはユーモアたっぷりで、3人が絡む場面ではまったく不満はない。ヴァルターのギュンター・トレプトウは、ヴァルターを歌うには少し、気品が足りない感じがしないではないが、ヴァルターが本格的に活躍するのはまだ後なので、もう少し我慢しよう。
 ダーヴィッドを歌うアントン・デルモータが登場、ところが、このダーヴィッドの登場辺りから、歌手と管弦楽との違和感が出てくる。
 この録音全体に言えることだが、一点一画をおろそかにしないクナとウィーン・フィルの管弦楽は立派だ。ヴァルター、エヴァ、マクダレーネの三重唱のバックでの管弦楽のふくよかさは素晴らしく、優れた響きだ。
 しかし、ここでの管弦楽は幾分楷書風だ。表現としては過不足はないのだが、管弦楽は管弦楽だけでうまくやっている、というようにも聞こえる。合唱も立派だ。
 時折、誰かが座っている椅子の音が、ギシギシと鳴る(^^;。
 ダーヴィッドがマイスターリートを解説してゆく件で、管弦楽とダーヴィッドのアントン・デルモータが乖離してしまう。アントン・デルモータの歌唱はうまいのだが、うまく歌おうとし過ぎたためか、ダーヴィッドのリアリティが薄い。そのまま、ヴァルターを歌えば、ヴァルターで通じてしまう歌のうまさだ。ダーヴィッドにしては、ハンサムすぎるのだ。ここでのダーヴィッドは、まだ徒弟のはずなのに、もう職人になってしまっていて、もうすぐマイスターになってしまうことができるのではないか、と錯覚してしまうほどの歌のうまさと立派さなのだ。
 デルモータによるマイスターリートの解説の間中、クナはクナで、非常に注意深く管弦楽を奏でてゆく。デルモータはデルモータで、クナはクナで自分の世界に入り込んでいる。そのため、響きは極めて立派なのだが、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のリアリティには乏しい。
 通常、オペラの上演には演出家がいて、歌手に演技を付けながら、歌の表情が決まって行くのだが、この録音でのアントン・デルモータは好きにやってしまっている、と言う雰囲気だ。ダーヴィッドは主役ではないのだ。ダーヴィッドに絡む、ヴァルターのトレプトウも、近所の兄ちゃん風で、気品は今ひとつだ。
 ポーグナーとベックメッサーが登場するが、ポーグナーをオットー・エーデルマン、ベックメッサーをカール・デンヒが歌っている。ポーグナーのオットー・エーデルマンは立派である。素晴らしく、堂々としたポーグナーだ。ベックメッサーは、もう少ししないと本領を発揮しないので、ここではまだ何とも言えないが、ベックメッサーにしては、少々ハンサムすぎるようだ。それに、デンヒの声は、若々しくて軽い。
 マイスターたちの点呼の場面での管弦楽は素晴らしい。その盛り上がりの渦を巻くような様子はクナならではか。さらに、ポーグナーの「歌合戦」への想いと、エヴァを勝者と結婚させようと言う申し出の歌は、エーデルマンの素敵に柔らかな歌声、ゆったりと盛り上げる管弦楽とも、非常な聞き物だ。こんな切実なポーグナーの申し出の歌は初めて聞いた気がする。弦楽器の柔らかで、時折見せる痛切な表情は素晴らしい。「オットー・エーデルマン歌唱集」てな企画もののアルバムの中に入れても、充分聴き応えのある歌だ。
 ポーグナーの歌が終わり、いよいよザックスが本格的に歌い出し、ベックメッサーと絡み出す。ハンス・ザックスをハンス・シェッフラーが歌っている。この、ハンス・シェッフラーのハンス・ザックスには、違和感がまったくない。クナ1960年バイロイト盤での、ヨーゼフ・グラインドルもぴたりとはまっていたが、シェッフラーのハンス・ザックスもぴたりとはまっている。その変わり、ベックメッサーのカール・デンヒは、少々青臭すぎるようだ。
 ここでも、注目すべきはやはり管弦楽で、歌手と力が等価のように、隅々まで明瞭に聞こえる。ただ、歌手を包み込むような演奏ではなく、管弦楽は管弦楽で、その精緻さを極限まで聞かせるような演奏だ。雰囲気だけではない、雄弁な表情付けが聞ける。クナの考える、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」での管弦楽のあり方が、生のまま聞こえるようだ。
 コートナーやマイスターたちに詰問され、夢見るように様々な自分の履歴を歌うヴァルターの歌は、トレプトウ、管弦楽ともファンタジーに乏しい。ベックメッサーのデンヒとは逆に、トレプトウはもう少し若さが欲しいような気もする。管弦楽は、他の録音よりも非常に明晰に、細かなところまで聞こえるのだが、それが逆に働いているようだ。歌手と管弦楽がブレンドされないで、そのまま自己主張しているかのようだ。この辺りは、DECCAの優秀録音が逆に災いしているのか?
 タブラトゥールの解説を歌うアルフレート・ペルのコートナーは立派だ。おどけた音型の他は、なんだかザックスが歌っているような、立派で堂々とした歌だ。ザックスとコートナーの差別化されない歌唱だが・・・。
 ベックメッサーの"Fanget an!"のあと、ヴァルターが"Fanget an!"と引き継いで、湧き出るように未熟な歌を歌い出すが、ここでのトレプトウは立派だ。立派すぎて、第3幕で完成された「聖なる朝の夢解きの歌」を歌っているかのようだ。ベックメッサーの、チョークで黒板を叩く音がないから余計に、そういう風に聞こえるのか。
 ベックメッサーがいらだって、ヴァルターの歌をなじり始めるが、この録音では、ヴァルターの年齢とベックメッサーの年齢が倒錯したように聞こえてしまう。トレプトウとデンヒでは、明らかにデンヒの声の方が若々しい。実年齢でも、デンヒはトレプトウよりも、約7歳若い(^^;。さらに言えば、デンヒはザックスのエーデルマンよりも、約18歳若い。いくら演技が重要だとは言え、このキャスティングは少し問題があるな(^^;;;;。舞台よりも、スタジオ録音では、余計に歌手の声に年齢が出やすいためだと言える。
 やがて、ヴァルターが歌い、ザックスがヴァルターを励まし、他のマイスターや徒弟たちが嘲笑する中、混乱を持って第1幕は終結するが、なんだか、ベートーヴェンの第9第4楽章を聞いているようだ。一所懸命歌っているのだが、演技があまり入っていないためか、どこか空々しい。
 混乱の歌が終わって、クナの管弦楽は恐ろしく雄弁だ。この管弦楽を聞いて、「あ、なるほど!」と思えるほどの素晴らしい響きだ。

第2幕
 クナ1950/51年盤「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、まず1950年に第2幕から録音された。そのため、各歌手のバランス、管弦楽の聞こえ方が、少し、第1幕や第3幕と異なる。歌手は、幾分引っ込んで聞こえる。
 冒頭、ニュルンベルクの町の描写は、重く演奏されたレスピーギの楽曲を聞いているようだ。パノラマ的な面白さは、少し後退しているが、響きとしては立派だ。マクダレーネを歌うエルゼ・シュールホフは、かなりの年齢を感じさせるマクダレーネで、これは台本の年増の乳母そのもので、若いダーヴィッドととの差がかなりあり、面白い。
 ポーグナーの悩みは、時折挟み込まれるエヴァの問いかけが可憐で、その対比共々、なかなか素晴らしい。ここでのエーデルマンは、実に素晴らしい。カラヤンは、エーデルマンに「あなたは、ザックスに向いている」と誘い、1951年「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に起用し、1952年クナのバイロイトでの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でもザックスを歌ったが、その誠実な歌声は、どちらかというと、ポーグナーの方が向いているようだ。
 ザックスの"Wie duftet doch der Flieder(ニワトコの花が何と柔らかく、また強く)"と歌い出すモノローグは、管弦楽の情感、シェッフラーの歌共々素晴らしい出来だ。クナの管弦楽は暗くなりすぎず、適切にザックスのモノローグの雰囲気を支えてゆく。まるで、「トリスタンとイゾルデ」第2幕のようだが、ヴァルターの歌のライトモティーフが非常に優しく効果的に奏でられる。シェッフラーの表現も的確で、思わず聞き惚れてしまう。
 エヴァがやってきて、ザックスとの愛情豊かな場面に入るが、ヒルデ・ギューデンは可憐な歌声で、最初たどたどしく、技巧的ではないが魅力的な歌声を聞かせる。勝ち気なお嬢さんと言うより、かなり優しげで可愛いらしい。いらだってからも、恫喝的にならず、可愛いいままだ。バックの管弦楽は、クナ1960年盤は夢幻的で素晴らしかったが、クナはまだそこまで練れていなかったのか、各フレーズが、それぞれの独立を宣言しているかのようだ。それはそれで凄いことなのだが、幾分、表現が生に聞こえる。
 エルゼ・シュールホフのマクダレーネは、ほんと、やりてばばぁのようだな(^^)。ヴァルターと邂逅してからのギューデンのエヴァは、ヒステリーを起こすほど、ヴァルターに恋いこがれているようには聞こえないし、トレプトウのヴァルターは、傷つきやすい優男風だ。トレプトウは声が伸びきっておらず、少し苦しい。
 ヴァルターの激高を慰めるようなギューデンの歌声は、これは素晴らしい。線の太いエヴァもいいが、ギューデンの線の細いエヴァは、頼りなさそうなものの、可憐で優しさに充ち、なかなかに美しい歌声だ。
 ベックメッサーが登場、ザックスがそれをからかうように靴屋の嘆きを歌う場面でのテンポは適正だ。遅すぎず早すぎず、それでも、細部までしっかりと聞かせてくれる。ただ、ミキシングの関係から、ザックス、ベックメッサー、エヴァ、ヴァルターの歌声のバランスが変だ。各歌手のパースペクティヴを間違えているように聞こえる。
 シェッフラーのザックスは堂々として立派で、まるでヴェルディの「ファルスタッフ」を聞いているような豊かさだ。デンヒのベックメッサーも、ここではレチタティーヴォの面白さが充分に出ている。レチタティーヴォにメロディが豊かに付くと、デンヒの歌はダーヴィッドの表現に近くなるが。
 クナの管弦楽は、よくぞここまで!と思えるくらい、細かな表情付けが聞ける。これは、ライヴ録音ではなかなか聞けない部分だ。ザックスが靴を打つ槌音は少し情けないか・・・(^^;。
 ベックメッサーのリュートは、なかなかの名技を披露する。肝心のベックメッサーの歌は、若々しく、かなりうまい歌で、優男がセレナーデを歌っている感じが良く出ている。若々しすぎると言えば、それがドラマとしては玉に瑕だが。"Sachs!Seht,ihr bringt mich um!(ザックス!あんたは私を殺す気か!)"は、息子が親父にかみついている風でもある。ベックメッサーの歌の後半から、どういう訳か、歌手の声は遠くで歌っているようなオフ気味の音になる。
 近所の人が起きだしてきて、段々と混沌とし出す。ドタバタのノイズがないため、ライヴのようなリアリティは乏しいが、クナは後年と違って、ここでは思いっきり混沌ぶりを描き出す。それでも、スタジオ録音のため、幾分、交通整理がされたような音だ。1955年以降の録音に比べて、1950年のクナはこの大騒動が好きだったようだ。
 大騒動が終わっての管弦楽も、非常に魅力的だ。夢幻的な弦楽器に、コケティッシュな木管楽器が絡む。その木管楽器の音色が美しい。
 最後の打撃音は、アンサンブルが合わなかったのか、「グシャ!」とした音で終わる。

第3幕
 第3幕前奏曲。これは本当にもう、素晴らしい!
 クナによるどの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕前奏曲よりも寂寥感が強く、オーケストラもうまく(^^;、音の厚みも申し分のない第3幕前奏曲だ。テンポは極めて遅く、その孤独に悩む、ザックスの苦悩が余すところなく描かれてゆく。トスカニーニ盤の情感に匹敵する素晴らしさだ。この演奏は、極めて価値が高い。5分27秒辺りの弦楽器の突き刺すような強奏は、グザ!と巨大な刃物で両断されるかのような残酷さだ。
 使いに行って、帰ってきたダーヴィッドを歌うアントン・デルモータの歌は、どこか分別くさい。もう少し軽妙さが欲しい。バックの管弦楽は恐ろしく雄弁である。
 第3幕は、第1幕と同じように1951年に録音されたが、第2幕とは異なり、明快でベールが剥がれたような音だ。
 ザックスのモノローグは、第2幕でのモノローグと同じように、ここでも素晴らしい。シェッフラーの名唱と畳み込むような管弦楽は、息をのむ素晴らしさだ。そして後半のヴァルターの歌を想っての夢幻的で憧れに充ちた歌と管弦楽、巨大にクレッシェンドしてゆく呼吸感など、非の打ち所のないザックスのモノローグが聞ける。
 起き出してきたヴァルターを認め、ザックスが「おはよう」と声をかける前の意味深い管弦楽!陶酔するような瞬間だ。
 トレプトウの声質は、テノールにしては幾分低い方に広く、また、ヴィントガッセンのような特徴がないためか、シェッフラーのザックスの歌声と差別化ができない。シェッフラーのザックスは、立派以外のなにものでもなく、畳み込むようなクナの管弦楽共々、素晴らしい満足感を持って聞くことができる。トレプトウにもっと張りがあったらと望むのは、無い物ねだりか。「聖なる朝の夢解きの歌」は立派だが、マックス・ロレンツやヴィントガッセンを聞いてしまうと、やはり物足りない。高貴さと、この世のものではないような美しい世界への憧れが生きていないのだ。終盤の「聖なる朝の夢解きの歌」に期待しよう。2番目のシュトルレンの前に、編集の跡があり、音が全くなくなってしまうので、ここで3枚目のCDが終わったのか、と錯覚してしまった(^^;;;;。
 ザックスとヴァルターが着替えのために、他の部屋に行くまでの管弦楽の盛り上がりの凄さ!そして、いよいよ、ベックメッサーのパントマイムの場面の音楽が始まる。
 ゆったりとした、ザックスの苦悩の動機を挟み込みながら、かなりの迫力を獲得しながら、質朴とも言えるオーケストラの音色で、精緻なベックメッサーのパントマイムの音楽が味わえる。ところどころ、ゲネラル・パウゼのように極めて短い沈黙があるが、これは編集の跡なのか、スタジオ録音のため、無音が確保できたのか、よく分からない部分だ。
 着替えたザックスが登場、ベックメッサーとの駆け引きの場面になる。
 デンヒのベックメッサーは、根の真面目さが露呈してしまって、おどけて歌ってはいるのだが、ところどころ表現や声が生になったりして、あまり面白くはない。ナチュラルないやらしさと焦りが、あまり感じられないのだ。レチタティーヴォになり、管弦楽の楽しさが際だってくると、それに引きずられるように、ザックスとベックメッサーのやりとりは面白味を増して行く。ここでも、シェッフラーの確信犯的な歌、クナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のスコアを顕微鏡で覗いたような表現の細やかさと、万華鏡のような表情の変化は素晴らしい。
 エヴァがザックスに靴の難癖をつけていると、ヴァルターが「聖なる朝の夢解きの歌」を歌い出す。ドラマティックだが、トレプトウはイマイチで、シェッフラーのザックスの立派さばかりに耳が行く。
 エヴァの遅すぎた告白でのギューデンの歌は、ここぞとばかり素晴らしい歌唱を繰り広げる。まるで「さまよえるオランダ人」のゼンタのようだ(^^)。それほど太い声ではないが、劇的で、聞かせる。
 「聖なる朝の夢解きの歌」の命名まで、ザックスの一人芝居だが、バックの管弦楽の凄みのある響きはじつに素晴らしい。
 ギューデンの少し頼りない声から五重唱が始まる。ダーヴィッドの歌声が全面に出たりしてバランスが悪く、ミキシングはあまりうまいとは言えない。ただ、管弦楽の盛り上がりは凄まじく、後半は満足しながら聞くことができた。
 ザックスの仕事場から場面転換して、第3幕第5場ニュルンベルク郊外の牧場の場面へと移る。
 スタジオ録音ながら、コーラスが素晴らしく、臨場感が豊かだ。オーケストラとは別の、ファンファーレの金管楽器や打楽器が、舞台を見ているように華やかに響く。スタジオ録音では、往々にしてきれい事になってしまう場面だが、クナの各パレードのテンポ変化や表情変化を聞いていると、実に楽しい。「徒弟たちの踊り」も、スタジオ録音では、カラヤンのドレスデン盤ではそのノイズのない響きにしらけてしまったが、クナ盤では前拍が強めで、独特のアゴーギグとダイナミックスの変化で、白々しさがない。非常に優れた演奏である。
 マイスターたちの登場では、クナは徐々にアッチェランドをかけ、マイスターのテーマに音楽を渡して行く。ここでも前拍が強調され、テンポはゆっくり目だが、音楽は弛緩せず、堂々たるマイスターたちの入場の音楽になっている。民衆たちのザックスを讃える合唱も素晴らしい。非常に感動的で威力のある合唱だ。「パルジファル」の動機がこだましていることを、この演奏を聞いて、初めて気が付いた。
 ザックスの感謝の歌の最初で、少し超低域にノイズが入る。ザックスの歌は、シェッフラーの歌、管弦楽とも素晴らしく、ポーグナーの感謝の歌も、自然な盛り上がりの末での感謝の念だと言うことが、素直に伝わってくる。
 ベックメッサーが間違いだらけの歌を歌い出すまで、非常に凝縮された響きだ。
 デンヒのベックメッサーは、第3幕でもやはりハンサムだ。ここでは、デンヒのようにハンサムな方が、むしろ面白いかも知れない。徐々に民衆の嘲笑が渦を巻き始め、ベックメッサーが焦り出す場面は、クナはドラマティックに重層的に音楽を畳み込んで行く。
 ザックスが、ヴァルターの正当性を歌い、ヴァルターを前面に押し出すまで、明るさの中にも、緊迫した音楽が聞ける。
 そして、「聖なる朝の夢解きの歌」。小生は、何回も短期に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞いたため、このメロディが耳に焼き付いてしまった(^^;。トレプトウの歌は、どこか突き抜けたところがなく、ザックスが感動したこの世のものではないような美しさには欠ける。トリスタンだったら絶唱に聞こえたトレプトウの歌だが、ここでは、超人にもつながる突き抜けた歌が必要だ。でないと、ベックメッサーの間違いだらけの歌との差別化が、不十分に終わってしまう。
 トレプトウの歌の途中からの合唱は、これこそ高貴で突き抜けている。宗教的法悦感すら感じる。エヴァの感極まったトリルも、まぁまぁ自然だ。トレプトウのマイスターになることを拒絶し、愛に生きたいという件は、これはリアリティがあり、良かった(^^)。
 ザックスの演説はテンポは早く、最初は滔々と河が流れるように演奏される。途中からシェッフラーもクナの管弦楽も、非常にドラマティックで説得力が強くなる。かなりの聞き物である。そして、堂々と終結し、コーラスが感動的に締めくくる。クナの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の録音の中では、最もグランド・オペラを連想させる輝かしい終幕だ。ヴェルディのオペラを聞いているようでもあるが、素晴らしい終幕の合唱だった。


 このスタジオ録音の困った点は、まず主役以外の歌手が、特に第1幕で、まるで主役のように歌ってしまうところだ。それぞれ、自分の役所(やくどころ)をつかんで歌って欲しいが、演出家のいないスタジオ録音では、いきおい表現を歌手に任せたり、指揮者はドラマとしてよりも、音楽として歌わせたり演奏させてしまうからか、ライヴ録音のような面白さは後退してしまうことは否めない。そのため、ドラマとしての「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が、幕によっては、どこか平板に聞こえてしまう。特に、1950/51年盤では、第1幕がそうだ。小生には、場面によっては、ダーヴィッドのデルモータ、ヴァルターのトレプトウ、ベックメッサーのデンヒに不満が残ってしまった。
 さらに、スタジオ録音では、歌手やコーラスが出す舞台上でのノイズは、付け足しのようにして録音されるため、臨場感やリアリティに乏しくなるのは致し方ないところだ。編集の跡も、随所で聞こえる。
 ところが、そのような不満は、一気に第3幕で解消してしまう。スタジオ録音ながら、実に聴き応えのある第3幕なのだ。特に、第5場からはひじょうな聞き物で、クナの元気な頃の、エネルギーに充ちたもの凄さが伝わる演奏になっている。

 クナが残した4種類の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞いてきたわけだが、小生のホームページは、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のベスト盤を選ぶためのホームページではない。
 クナバカとして書くなら、クナファンは、4種の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は全て必携だ。
 クナファンとしては、最初は1960年盤を聞き、晩年のクナの心境やその遅さに唸るべきだろう(^^;。多少、弛緩しそうな場面がないではないが、最もクナらしさが出た演奏だ。
 次は、1950/51年盤だ。このログから、1950/51年盤はボロクソかと思われた方もいると思うが、そうではない。歌手の歌それぞれには難はあるし、各幕によって出来にばらつきがあるが、ここでの管弦楽は明快で、クナが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に対して抱いていた演奏法が細部まで手に取るように分かる。その、雄弁な管弦楽は、非常な聞き物である。1960年盤との落差を聞き比べるのも、また一興である。
 後は、1952年のバイロイト盤でも、1955年のバイエルン盤でも、どちらでもいいのだ。どちらも名演だし(1955年第1幕前奏曲だけは?だが^^;)、1952年のバイロイト盤など、聞き手によっては「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のベスト盤になりそうなクオリティの高さである。
 結局、クナファンは、4種の録音を全て聞かないと、この大指揮者の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は捉えきれないと思う。
 どれか一つ、クナの名演が欲しいと言う方には、やはりバイロイトでの1952年盤だろう。録音、臨場感、演奏全てが、満足できる域に達している。


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