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GOLDEN MELODRAM盤がリリースされ、それまで中古屋に出にくかったアイテムが出回り始め、小生の手元に、5種類の1957年盤「ニーベルングの指環」が集まってしまった。ありがたいような、ありがたくないような感じだが(財布はどんどん軽くなっちゃうし・・・^^;)、ほんの数年の内に、世の中が変わってしまったかのような印象だ。 5種類の1957年盤「ニーベルングの指環」では、KING SEVEN SEAS盤、COLUMBIA盤、MUSIC & ARTS盤の元は同じではずある。元は、MUSIC & ARTSがテープを持っていた。それを、日本では最初COLUMBIAが、ヴァルター協会盤としてリリースし、キング・レコードが再発した。本家MUSIC & ARTSでもリリースされたため(MUSIC & ARTSが本当は一番最初だったか?)、よく分からない結果になってしまった(^^;。 外箱は、COLOMBIA盤とMUSIC & ARTS盤が同じ、中の楽劇毎のプラスティックケースは、KING SEVEN SEAS盤とMUSIC & ARTS盤が同じだ。 LAUDIS盤は、韓国でプレスされたイタリア盤だ。小生は、LAUDIS盤の存在を知らなかったのだが、東京出張の折り、中古屋で発見してしまった。 とりあえず、5種類の「ニーベルングの指環」を、「ラインの黄金」で音質比較をしておこう。 結論から言うと、幾分その音質で劣っているのはLAUDIS盤で、最も優れているのはGOLDEN MELODRAM盤だった。LAUDIS盤は、まるでプラスティックのような軽めの音がする。少し汚い音。GOLDEN MELODRAM盤を聞いてしまうと、出来の悪い東京タワーのスーヴニールのように聞こえてしまう。 KING SEVEN SEAS盤、COLUMBIA盤、MUSIC & ARTS盤は全て同じ音だ。プレスが同じだったのか?(^^)CDレーベル面まで、ほぼ同じだ(^^;。レーベルの印刷も同じ制作会社で行われたのか(^^;。違う箱に、違うレーベルのCDを入れても分からないくらいに同じだった(^^;;;;。小生、そそっかしいため、そういう間違いをやりかねない・・・。 GOLDEN MELODRAM盤は、それらMUSIC & ARTSが元のCDを、より鮮明にした印象。 ダイナミックレンジでも、GOLDEN MELODRAM盤は、MUSIC & ARTSが元のCD群をしのいでいる。MUSIC & ARTSを元にしたCDもずいぶんと聞きやすい音なので、悪い印象はない。ただ、鮮明度では歌手が出てからも、やはり、GOLDEN MELODRAM盤の方がかなり良いようだ。 リファレンスは、やはりGOLDEN MELODRAM盤である。 前奏曲からゆったりしているが、ウォークリンデが歌い出しても、テンポは非常にゆったりとしていて、ワーグナーの創り出す音響世界を楽しんでいるかのような印象。その分、ドラマが際立ち、管弦楽も1956年盤に比べて雄弁に聞こえる。ラインの乙女たちは誰もが好調で、男を誘う小悪魔のような役柄をよく歌っている。声質が3人とも明るく、なかなか納得できる歌声だ。各フレーズにも説得力があり、魅力的だ。 アルベリヒのナイトリンガーは、1956年盤よりも切実さがよく伝わってくる。くしゃみは、小型犬のように少し情けないが(^^;。 ラインの乙女たちが、男に夢を見させるフレーズ、アルベリヒの夢を見るようなフレーズ、男の夢を冷たく破るフレーズ、アルベリヒの幻滅など、そのゆったりとした呼吸感のある管弦楽共々、非常に聴き応えのある第1場だ。アルベリヒの幻滅と怒りは、3人のラインの乙女が次々と関わる場面で、その場面が目の前に現れるようにリアリティがある。ラインの乙女たちが、"Wallala!Wallala!Lalaleia!Leialale!"と歌い、"Schäme dich,Albe!(こびとよ、恥を知るがよい!)"と声を揃えて歌う場面での残酷ながら、明るい情感の素晴らしさ!そして、ラインの乙女たちは、アルベリヒをさんざん弄び、「ラインの黄金」が光り輝き始めると、「ラインの黄金」の賛歌を歌う。その場面での力感と、スケールの大きさは特筆に値する素晴らしさだ。 ラインの乙女たちはコケティッシュにアルベリヒをからかいながら、「ラインの黄金」の秘密を明らかにしてしまうが、その場面での乙女たちの邪気のなさと、管弦楽の優雅な響き(主に弦楽器だが)はスコアの細部まで聞き通せるようだ。ヴォークリンデが「愛の断念の動機」を歌うところは、実にコケティッシュで魅力的だ。管弦楽も、実に素晴らしい響きで、ラインの乙女たちの歌と戯れているかのようだ。 すると、音楽はいきなり暗くなり、アルベリヒの豹変と、黄金の強奪へと場面は大きく変化する。1956年盤に比べて、恐ろしく劇的な表現が随所で聞ける。アルベリヒは、嘲笑するようにラインからニーベルハイムに帰って行く。 悲劇的な予感をはらんだ音楽から、山上世界への音楽へと転換してゆく見事さ!実に雄弁に、物語の場面を転換させて行く。クナの恐るべき恫喝的で、重く爆発するような表現が聞ける。 音楽は、上昇を始め、ヴォータンのまどろむ山へと登り始めるが、金管は少し不調か。その分、弦楽器の響きが素晴らしい。フリッカの怒りに目覚めたホッターのヴォータンは、1956年盤よりも、スケールアップして聞こえ、管弦楽も慌てず騒がず立派に聞こえる。"steht er zur Schau:hehrer,herrlicher Bau!(城はその姿を誇示する−気高く輝かしい建物だ!)"と歌われた後の管弦楽の響きは、それだけで陶然とするような充実した密度の濃い音を聞かせてくれる。 ここでのヴォータンは、悪逆非道で生臭くは聞こえない。むしろ、威厳を持ってフリッカに対する。フリッカのミリンコヴィチ(ク?)は、1956年盤よりもスケールが大きく、嘆きと言うより、演説を聞いているようだ。ヴォータンとフリッカのやりとりは、実に堂々としたテンポで立派だ。ゆったりと、聞き手に緊張感を持たせながらも粘着してくるようで素晴らしい。 それに続くファーゾルトとファーフナーの登場、巨人族の動機は、楽しんでいるかのようにゆったりとしている。1956年盤と、ファーゾルトとファーフナーは歌手が入れ替わっているが、ミルはファーゾルトの方が向いているようだ。人の良い巨人族としての威厳が感じられる。"Freia,die holde,Holda die freie(豊穣なフライアだ。自由な豊穣の女神だ)"と歌う箇所は、夢見るようで微笑ましくもある。 そして、その後の、ファーゾルトが契約の履行をヴォータンに迫る箇所は威厳がある。ミルは、誠実な巨人族の姿を素直に演じている。管弦楽もファーゾルトの味方をしているようで、なかなか素晴らしい場面だ。続いて、ファーフナーがフライアに目がくらんだ兄をいさめるが、ここでのグラインドルもしっかりとその役柄にはまっている。適材を適所に得たからか、管弦楽も雄弁である。ドンナーが巨人族に喧嘩を売ろうとするが、その背後で渦を巻き、爆発する寸前のような管弦楽は凄い迫力だ。それに引き続いての、フライアの"Wehe!Wehe!Wotan verläßt mich!(恨めしい!ヴォータンが私を見捨てる!)"は、緊張感を失わずに極めてゆったりとしているため、まるで崩れ落ちるかのような悲しみに充ちている。 1957年盤のローゲは、1956年盤と同じズートハウスで、やはりパワーアップをしているようだ。独立した歌と言うより、ドラマのフレームにぴたりと収まり、ゆらゆらとするローゲの動機も、どこか重々しく戯画的ではない。このような表現ができるのはクナだけだろう。ドラマがまさに今生まれ出るかのように、重々しくはあっても新鮮さを失わない。「ラインの黄金」は、これだけの重さを獲得しないと、「ワルキューレ」につながらないのだろうか?そのため、クナの1956年盤を含めて、あらかたの演奏がレチタティーヴォに聞こえる音楽が、ここでは極めて堂々としたローゲの一大物語として、強い説得力を持っている。ローゲのたまに繰り出すノイズも効果的だ(^^;。途中挿入される、ラインの動機の何と美しいこと! ローゲの「ラインの黄金」にまつわる物語が終わり、フリッカが夢見るように、その黄金で作られた装身具を欲しがる辺りの音楽は素敵に夢幻的だが、ニーベルハイムの動機を短く放り込むことで、その黄金の在処と、以後の苦労を暗示する。さらに、「愛を断念した者」の動機が不気味に挟み込まれる。 ファーフナーのグラインドルが"Glaub' mir,mehr als Freia frommt das gleißende Gold:(よいか、フライアよりも役に立つのが輝く黄金だ) "とファーゾルトと相談をするところの冷酷さは、はやりグラインドルの役所がぴったりだ。ファーゾルトとファーフナーは、ヴォータンがアルベリヒから黄金を奪ってくるまでの人質として、フライアをさらって行ってしまうが、そのドタバタは凄い迫力だ。 フライアがさらわれ、神々が脱力して行く箇所は、最初ローゲが言葉で描写して行くが、その冷たくなって行く様の管弦楽は、見事にワーグナーの魔術を引き出している。その対比として、ひとり元気なローゲの生命力を感じるズートハウスは素晴らしい。冷静に神々の推移を見守っているようでいて、言葉の端々では神々を恫喝しているかのようだ。フリッカの"Wotan Gemahl,unsel'ger Mann(ヴォータン、はた迷惑な人!)"からのフリッカの恐怖に充ちた嘆きが真に迫っているため、ヴォータンの"Auf Lpge!Hinab mit mir!(行こう!ローゲ!わしと一緒に降りて行こう!)”が極めて迫真力と説得力を持って迫ってくる。 間奏曲のようにして、ヴォータンとローゲはニーベルハイムに降りて行く場面での、その気味の悪い地滑りのような弦楽器の効果は、クナならではの不気味さだろう。場面転換のための付帯音楽としてではなく、管弦楽が極めて雄弁で、ここだけ取り出してきて聞いても構わないくらいのクオリティを持っている。ただ、ニーベルング族がカナトコをうち鳴らしている音は、迫力不足だ。管弦楽がそれを補ってあまりある迫力を獲得しているため、それほど違和感はないが、ちょっと残念(^^;。 ニーベルハイムでは、ミーメがアルベリヒにいたぶられているが、ミーメはパウル・クーエンではなく、ゲルハルト・シュトルツェだ。クーエンに比べて、少し青年風のミーメだが悪くはない。と、CDのライナーを信用してたら、やっぱりパウル・クーエンだったそうだ。Thanks 吉田真さん。ニーベルハイムにアルベリヒがもたらした惨状が、エネルギッシュに音化されて行く。1957年GOLDEN MELODRAM盤は、音がいいため、見事な迫力だ。 ローゲとミーメのレチタティーヴォも、録音がいいからか、密度が高い。ミーメの回想は幾分ゆったりとしていて、ひそやかなおとぎ話のようだ。ローゲ、ヴォータン、ミーメのやりとりはユーモアたっぷりだが、恐怖を体現するようにして、ニーベルハイムの群衆とアルベリヒが登場する。ナイトリンガーは真面目な歌唱にため、暴君には聞こえにくいが、ニーベルング族の発する暗ノイズ、叫び声はなかなかの迫力だ。 アルベリヒがヴォータンとローゲを認め、その後のやりとりは、ホッターのヴォータンのニヒルぶりと、ズートハウスのローゲのやり手ぶりが際立つ。モーツァルトのオペラを彷彿とさせる音楽だが、「愛の断念の動機」が聞こえる辺りから、徐々にアルベリヒの暗い情念が形になり始め、"Habt acht vor dem nächatlichen Heer,entsteigt des Nibelungen Hort aus stummer Tiefe zu Tag!(闇の軍勢に気をつけるがよい!ニーベルングの宝が無言の地底から地上に現れたときは!)"で、大きく実を結ぶ。 音楽はもう一度、静かになり、ローゲの口車に乗り、アルベリヒが大蛇に変身する辺りはレチタティーヴォの面白さだ。大蛇がのたくっている場面は、金管の迫力が今ひとつで、ローゲの大騒ぎが今ひとつリアリティに欠けるが。それを、馬鹿にしたヴォータンの笑い声はリアリティがある(^^)。 ローゲのさらなる口車に乗り、アルベリヒがガマガエルになってしまい、ヴォータンに踏みつけられて捕まってしまう場面は、クナも楽しんで演奏していたかのように、ユーモアがたっぷりだ。 アルベリヒを担いで、ヴォータンとローゲは来た道を逆行するが、やはりカナトコを叩く音は貧弱だ。かなり情けない音で漫画的だが、管弦楽の迫力は凄まじく、戯画的にニーベルハイムから山上世界への道のりを、明るい情感で描いて行く。音楽はメリハリが利いていて、場面転換の音楽以上の面白さを聞かせてくれる。 革ひもで縛られたアルベリヒをヴォータンとローゲが脅す場面は、それほど暗くはない。アルベリヒも、もうすぐ迎える悲劇的な仕打ちを、まだ現実のものとして見ていないかのように、ユーモアのあるやりとりが続く。アルベリヒが呪文によってニーベルング族を呼び寄せ、掘り出した黄金を積み上げ始めるが、ヴォータンの"Nicht ch'r,bis alles gezahkt(全部が支払われるまでは、だめだ!)"という冷酷な言葉から、徐々に音楽は暗さを獲得し始め、ヴォータンの冷酷に指環を求める言葉が露わになってゆく。そして、さらに音楽は、アルベリヒの恐怖に充ちたものへと変わって行く。アルベリヒの告白は集中した迫力がある。いよいよヴォータンの冷酷さが極まり、アルベリヒの指から指環を引き抜く。 音楽は、一気に沈み込むようで、ローゲの"Ist er gelöst?(彼は放免ですか?)" とヴォータンに聞く声も、冷酷に響く。そして、アルベリヒが指環に呪いをかける音楽は、深く暗く沈み込んで行く。"bis in meiner Hand(この我が手に、奪われた指環を)"からの静けさは、静かであるだけに迫力があり、"meinem Fluch fliehest du nicht!(俺の呪いを逃れることはできないぞ!)"で頂点に達する。その、辺りの管弦楽の恐ろしさよ。 アルベリヒが去り、ファーゾルトとファーフナーがフライアを連れて、リーゼンハイムから戻ってくる。フローをヨーゼフ・トラクセルが歌っているが、そのフライア賛歌の管弦楽は春のような暖かさだ。トラクセルは、その管弦楽のゆったりとしたテンポに付き切れていないような感じだが、アルベリヒの暗い呪いの後では、救いのある明るさだ。 ファーゾルトとファーフナーに言われるまま、ローゲ、ドンナー、フローは黄金を積み上げて行くが、ファーフナーのグラインドルの冷酷さは素晴らしい。お人好しのファーゾルトの反面として、ファーフナーの冷酷さは必要だろう。"Fraia die schöne,scjau'ich nicht mehr(美女フライアも、これで見納めか)"は、本来ファーゾルトの嘆きのような歌詞だが、ファーフナーからその言葉が放たれると、大きな皮肉に聞こえるのが面白い。と思ったら、音楽之友社の高辻訳の校正ミスのようだ。これは、ファーゾルトのセリフである。ファーゾルトは、自分の想いのまま、"Fraia die schöne,scjau'ich nicht mehr(美女フライアも、これで見納めか)"と言ったことになる。 「フライアの目がまだ見える、指環をそこにはめよ!」と、ファーフナーに迫られ、ヴォータンは駄々をこねるが、このあたりは極めて演劇的な迫力がある。そこへ、運命の女神エルダが現れ、ヴォータンを諫める。エルダは、悠久に生きる女神として、極めてゆったりとしたテンポで歌う。管弦楽が実に美しく、後、不気味に変化して行く。そして、さらに高貴な音楽に変質して行くが、クナの棒さばきの見事さは筆舌に尽くしがたい。それほど。リアリティのある場面、音楽ではないはずが、しっかりとしたリアリティを持って迫ってくる。そして、ヴォータンのうろたえる様の凄さ!ここで、「ニーベルングの指環」の悲劇が、大きな予感として立ち現れてくる。ヴォータンはついに、指環を巨人族にくれてやることにし、フリッカの懇願を受けて"Zu mir,Freia!Du bist befreit!(ここへおいで、フライア!おまえは解放されたのだ!)"から、"Ihr Rissenn,nehmt euren Ring!(巨人たちよ、お前たちのものだ、指環を取れ)"までのヴォータンの歌の感動的なこと。まるで、歌舞伎役者が見得を切っているかのようなテンポ変化だ。そして、フライアが解放され、神々の元に戻る場面での音楽は、その感動を倍加する。実に見事だ。 指環を得て、ファーゾルトとファーフナーは諍いを始める。1956年盤と違い、ファーゾルトとファーフナーを歌うミルとグラインドルの個性が役柄に合っているからか、物語にリアリティがある。そして、ファーフナーはファーゾルトを打ち殺してしまうが、アルベリヒの呪いが本物であったことと、未来への暗い不安がヴォータンを押し包む。"Wie doch Bangen mich bindet!(だが、何という不安がわしを縛っていることか!)"と、ヴォータンは暗い淵に沈み込む。 それを振り払うようにドンナーが歌い出すが、ブランケンハイムは疲れてしまったのか、少し不調だ。高域がかすれてしまい、音程が不安定で息が続かない。クナのテンポが遅いからか。雷が集まり始める音楽は、さすがに凄く、雷の音もサービス一杯に長く鳴り響く。フローの虹の架け橋から、管弦楽は呼吸をするように、音楽の深みを増して行く。フローのトラクセルは、ここでもイマイチだ。その代わり、ヴォータンのホッターは終幕にもかかわらず、素晴らしい歌を披露してくれる。疲れてはいるのだろうが、その疲れが物語上のヴォータンの一抹の脱力感と重なり、納得しながら聞くことができる。"So gruß'ich die Burg,sicher vor Bang'und Grau'n!(かくて、わしは城に挨拶をする、不安と恐怖からの安心を覚えて!)"と歌うヴォータンと、続く管弦楽は極めて感動的だ。 ラインの乙女たちが、恨みを込めて歌う中、ヴォータンとローゲのやりとりは、リアリティがある。ラインの乙女たちの嘆きはそれでもやまず、ゆったりと続いて行く。そして、管弦楽は極めて大きな音の塊となり、じっくりとしたテンポで感動を残しながら、幕を迎える。 1957年盤は、1956年盤に比べて、音がめざましくいい。そのことがよい方向に作用して、実に聴き応えのある「ラインの黄金」になっている。テンポも、「ああ、これはクナだな」という、ゆったりと呼吸感を感じさせるもので、非常に素晴らしかった。 次回、1958年盤「ラインの黄金」を取り上げる。
参考文献
オペラ対訳ライブラリ「ワーグナー ニーベルングの指環」上 高辻知義訳 音楽之友社 スタンダード・オペラ鑑賞ブック 4 「ドイツ・オペラ」下「ニーベルングの指環」 吉田 真著 音楽之友社 |