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1956年バイロイトライヴは、当時の録音事情を考えるなら、極めて満足できる音質である。GOLDEN MELODRAM盤か、MUSIC & ARTSの廉価で出直したもの、という条件付きだが。なぜか、1956年盤は音が悪い、と言うことになってしまっているようだが、決して聞きにくい音ではない。
確かに、歌手主体で録られている音だから、歌手の歌が大きめで、オーケストラと歌手とのバランスは完璧とは言えない。それでも、オーケストラの音は細部までしっかりと入っており、小生はかなり満足しながら聞いている。
今まで、さまざまな「ワルキューレ」を聞いてきて、他のモノラル録音と比べても遜色ないレヴェルだ。というより、ステレオ音源を別にすると、モノラルライヴでの「ワルキューレ」の中では、かなり優れた音だと言っても、差し支えないと重う。クナの1957年盤、1958年盤はさらに凄い音だが。
なにより、1956年盤も演奏が凄い(^^)。
さすがにクナの演奏は、小生がクナ贔屓であることを割り引いても、そのナチュラルな管弦楽の動き、呼吸がしやすそうな歌手の歌声などで、さまざまな指揮者の「ワルキューレ」を凌駕しているように聞こえる。
第1幕
第1幕前奏曲は、かなり重い嵐の様相だ。風がピューピューという、軽めの嵐ではなく、実にその風の音が重く、暗闇の中で激しく大地を打つ雨と轟々と唸る風の音が体験できる。むろん、クナの表現は年代が増して行くと、さらに凄いドラマへと変化して行くのだが、この1956年盤の嵐も、その「重さ」と「粘り」いうことでは、他の指揮者による演奏群を大きく引き離している。
そして、明滅する稲妻と雷の音。少し、テンポは遅めのようだが、比較的ニュートラルなテンポだ。帯域は少し狭いものの、充分に1956年の「ワルキューレ」を聞くことができる。これは、1957年盤や1958年盤にも言えることだが、この前奏曲の深い呼吸に合わせることができると、クナの演奏は最後まで弛緩しない呼吸の連続だ、ということが理解できる。
緊張感が高まり、重いヴィントガッセンのジークムントが、"Wes Herd dies asch sei,hier muß ich rasten(これが誰のかまどか知らないが、ここで精も根も尽き果てた)"と倒れ込むシーンから、「ワルキューレ」はスタートする。ヴィントガッセンは、「ジークフリート」「神々の黄昏」でのジークフリートだけを歌う予定で、当初1956年「ワルキューレ」では、ジークムントを歌うはずではなかったのだが、ジークムント役の歌手が病気になってしまい、急遽、ジークムントを歌うことになった。今考えると、これは非常にありがたいことだ。ヴィントガッセンのジークムントは、そのリアリティのある質感、ジークフリートの父親であるための英雄の資質をしっかりと聞くことができるからだ。ジークムントにしては少し声質は明るいが、ヴィントガッセンにすれば、1956年のクナ盤はフルトヴェングラー盤よりも成功したジークムントだと思う。ジークリンデは、グレ・ブラウエンステインという、長い名前の歌手が歌っている。ヴィントガッセンのジークムントは明るめながら重いジークムントだとすれば、ブラウエンステインはすこし暗を含んだ歌声で、よく健闘している。何度も登場する、癒しの音楽の素晴らしさ。
フンディングの登場の音楽の充実した管弦楽の迫力はなかなかに凄く、グラインドルの威嚇するような重く突き刺す"Du labtest ihn?(何かお出ししたか?)"から、敵役で、なおかつ恐れを知らぬ、極めて素晴らしいフンディングが聞ける。
フンディングに即されたように、ジークムントはその身の上話を始めるが、管弦楽の雄弁なこと!クナは、1957年以降のような内的な迫力よりも、かなり充実して間然とすることのない伴奏を聞かせる。ヴィントガッセンの張りのある歌声は、小生にはむしろ、ヴェルズング族として育てられた、戦いに明け暮れつつも、なお希望を失わないジークムントを聞いているようで、非常によいと感じる。
ジークムントが"drum mußt'ich mich Wehwalt nennen des Wehes waltet'ich nur.(だから、僕はヴェーヴァルトと名乗らざるを得ない。悲哀を司るばかりだったから)"と歌い、ジークリンデの同情のまなざしと、癒しの音楽、そして、フンディングの"Die so leidig Los dir benschied nicht liebte dich die Norn(これほどの厭わしい宿命を定めたノルンは、あなたを愛してはいなかったのだ)"から、音楽は俄然熱を帯び始め、物語は白熱する。さらに続くジーグムントの告白の中での「ヴェルズングの苦難の動機」や「ヴェルズング動機」のドラマティックなこと。
そして、フンディングのジークリンデに向かっての、"Den Nachattrunk rüste mir drin und harre mein zur Rhh'(あの中で寝酒を用意し、寝に行くわしを待て!) "から、ジークムントは深い孤独の中に落とし込まれる。さらにフンディングは、ジークムントこそ敵、明日の朝はお前を打つ!と宣言し、家の奥に入る。
孤独なジークムントの、父親であるヴェルゼの名前を呼びかける場面は悲痛である。ヴィントガッセンのドラマティックな歌声は、実に素晴らしい。そして、ジークムントはなお希望を捨てず、ジークリンデの瞳の輝きを思い出す。
フンディングに痺れ薬を飲ませ、ジークムントを救うために、ジークリンデはジークムントのもとに忍んでやってくる。そして、ヴェルゼがトネリコの幹に剣を突き刺した顛末を物語る。ブラウエンステインは、声だけ聞いていると、少し走り気味でジークリンデのリアリティには欠ける。テンポがどんどん速くなる。それに続く、ジークムントの心の高まりも、かなりテンポが速い。ジークムントとジークリンデの動悸が早くなるのを想像すればいいか。
ジークムントの"Keiner ging-(出ていった者はいない)"から、突如訪れた春の賛歌を歌う。極めて甘美で、愛の訪れを歌うこの場面は、拡大され、より朦朧とした感覚を持って、「トリスタンとイゾルデ」で結実する。ジークリンデが"Du bist der Lenz(あなたこそは春)"と歌う辺りからの、伴奏も実に素晴らしい。ブラウエンステインは、あまり細やかな情感が豊かだとは言えないし、前述の通り、ジークリンデのリアリティには乏しいが、クナによる管弦楽の微熱を持ったかのような甘美な響きは、愛の場面の音楽の素晴らしさを堪能させてくれる。ヴァルハルの動機がこだまする中、お互いを兄妹として認め合い、ジークムントとジークリンデは、高まる愛の中に身をゆだねる。
そして、ついにジークムントはトネリコの幹からヴェルゼの残した剣を引き抜き、ノートゥングと名付ける。そして、輝かしい管弦楽の高まりと、ジークムントの歌声は頂点をめざし、白熱する。ジークムントとジークリンデは、兄妹でありながら愛し合う。
第1幕終了後の聴衆の熱狂ぶりはもの凄い!足音のドロドロする響きは、まるでドンナーの雷か、「ワルキューレ」第1幕前奏曲の雷のようだ。
なぜ、近親相姦は禁忌なのか?奇形児が生まれる可能性が限りなく高くなるからだ。さまざまな「ワルキューレ」を評した文章を読んでいると、ジークムントとジークリンデの愛の高まりへの共感からか、その基本的に生物学的な禁忌を忘れたかのような文章によく出くわす。近親相姦のタブーは、奇形児を生まないことへの、長年の知恵であったことを決して忘れてはならない。そして、そのような子供の早世する率は、非常に高かった。第2幕のフリッカの「血の汚れだ」という怒りは、近親相姦へのタブーについて、より常識的な見方からの怒りあると言える。
その近親相姦によって生まれ出た子供の外面的な様相から、昔の人は神の怒りに触れたという、倫理的な側面で近親相姦を捉えた。その一族の血が濃くなり、濃くなって汚れた血が奇形児を産むと考えられていたようだ。
なぜ、ワーグナーはあえてその近親相姦のタブーをうち破るかのような、甘美な物語を「ワルキューレ」に組み込んだのか?
倫理的なタブーをあえて犯すことで、超人としての奇形を生み出すためだった、と考えるのはうがちすぎか?
第2幕
かなり激しい動きの前奏曲から始まるが、クナによる1956年盤は、なぜか必然性に乏しく聞こえる。演奏も、あまりアンサンブルがよくない。
幕が上がると、ヴォータンがブリュンヒルデを督戦している。ブリュンヒルデを歌うヴァルナイは、1950年のメトロポリタン歌劇場での時よりも、確実にパワーアップをしている。メトの1950年は緊張した張りのある声を聞くことができたが、1956年盤では、実に深く奥深い歌声になっている。ただ、このブリュンヒルデが最初に出てくる場面は、1950年のメト盤の方が、処女の戦乙女のブリュンヒルデとしては、まだ初々しさが残っていて、そちらの方がそれらしい。
ホッターのヴォータンは、その貫禄で申し分なく、威厳のある神としてのヴォータンをイメージできる。フリッカも「ラインの黄金」に続いて、ミリンコヴィチで、ここから延々とヴォータンとフリッカの、夫婦間での権力闘争の場面になる。この第2幕は、映像がない方が、集中してそのドラマを聞くことができる。登場人物が二人だけで、長時間罵り合うだけなので、映像としては、見せ方によってはけっこう退屈な部分だ。
現在2種類見ることができる「ニーベルングの指環」のDVDでは、圧倒的にシェロー&ブーレーズ盤の方が面白い。第3幕を含めて感動できるが、ヴォータンとフリッカの場面も、シェロー&ブーレーズ盤のソープオペラのような設定は面白いし、なにより、ヴォータンの淫靡なスケベぶりや、フリッカを演ずるハンナ・シュヴァルツの年増の色香が堪らない魅力だ。シェンク&レヴァイン盤は、舞台装置が立派な学芸会を見せられているようで、あまり感心できなかった。第3幕も、ハリウッドの安手のSF映画のようで感銘度は低い。シェロー&ブーレーズ盤での第3幕、特にヴォータンの告別の音楽は素晴らしい見せ場だ。音楽の再現としても、音楽を効果的に鳴らしているだけのレヴァインよりも、ブーレーズのいささか冷たいようでいて、ワーグナーの毒をしっかりと盛り込んだ表現の方が、より感動を増す結果になっている。
音だけのCDをを聞いていると、その管弦楽によるフリッカの近親相姦に対する絶望的な嫌悪感や、ヴォータンの捨て鉢な焦りが実によく分かる。さらに、あちこちにちりばめられたさまざまな動機をしっかりと聞くことができる。その、ヴォータンとフリッカの緊張感に充ちた駆け引きと、ヴォータンが結局はフリッカに言い負かされて、無力感にさいなまれてゆく様は聞き物だ。フリッカのミリンコヴィチは、声だけ聞いていると、それほど個性的ではないので、類型的な感はぬぐえないが、クナの管弦楽は少し遠目のバランスながら、生きているように自然に響く。
自分の身勝手から、神々の世界を破滅に至る道筋を付けてしまい、それを何とか軌道修正しようと、禁断の子供をジークムントとジークリンデに産ませようとしたヴォータンだが、フリッカの「汚れた血」への嫌悪に負かされ、フンディングとの決闘で、ジーグムントを死なせることを約束せざるをえなくなる。ホッターのヴォータンが"Nimm den Eid!(誓おう)"と力無くつぶやく様子は、凄みがある。
フリッカが去り、ヴォータンはブリュンヒルデに、自分の仕掛けた罠に自分がかかってしまった、と嘆く。" O heilige Schmach!(ああ、聖なる恥辱だ!)"からの、ホッターの迫力のあること!それまで、フリッカと対等にやり合っていた自分が崩れ落ちることを、自覚しながら歌っているかのようだ。
ブリュンヒルデはヴォータンを慰める。ヴォータンのズブズブとその暗い泥沼に落ち込むような歌と管弦楽は聞き物だ。ブリュンヒルデの出生にまつわる秘密とワルキューレを創り出した顛末を告白しながら、ヴォータンは自分への行為への嫌悪感と、神々の世界を、それでも守らなければならない自分の境遇に引き裂かれている。ワルキューレを創りだした顛末は、徐々に勇ましい音楽になり、ヴォータンの焦りと使命感を、ホッターは的確に描いている。ヴォータンの暗い使命感は、アルベリヒに指環を奪い返されないこと、その一点に絞り込まれ、ファーフナーが隠し持つ指環を奪う英雄を創り出すために、あえてジークムントとジークリンデを交じらわせ、ヴォータンの意志では動かない、一種の奇形を生み出させようとしていることを告白する。
それに応えるヴァルナイの歌声は、処女の戦乙女にしては落ち着きすぎている気もするが、そのために、物語に深みが出ているる。
ほとんど、ヴォータンのひとり芝居で、"Fahre denn hin,herrische Pracht,(去るがいい、権柄ずくの栄華よ)"から、ヴォータンは激高する。ホッターのその嘆きの深さと神としての絶望は凄い迫力だ。
そして、ついにヴォータンはブリュンヒルデに、フンディングに加勢してジークムントを打ち倒すことを命ずる。ジークムントを愛することをヴォータンから教えられていたブリュンヒルデは、激しくその命令に反抗する。ヴォータンは、その反抗に怒り立つ。ヴォータンは、自分の策謀から生まれた悲劇を遂行しなければならないいらだちに、ブリュンヒルデに厳しく命令を下し、姿を消す。その場面での、激しく雷が落ちるかのような管弦楽の凄まじさ!
ヴォータンが厳しい命令を下して去っていった後、ブリュンヒルデは激しく懊悩する。ヴァルナイは、この1956年盤では登場場面こそ、初々しさに欠けていたが、この悩むブリュンヒルデは実に深く、哀しみに充ちた歌声を聞かせてくれる。
ブリュンヒルデの懊悩する場面から、逃げてくるジークムントとジークリンデへの場面転換は、まるで魔術のような管弦楽を聞くことができる。愛するふたりの春めいた雰囲気から、一転して追われる者の悲劇的な音楽へと、クナは確実にその場面の持つ情景と感情を描いてゆく。
ジークムントは優しくジークリンデをいたわるが、ジークリンデは自己嫌悪に陥っている。このジークリンデの最初激しく、そして哀しみに沈み込むような場面での管弦楽の呼吸感!聞き手は、ジークリンデの歌声と管弦楽を表面的になぞっていては、その深さは体験できない。ワーグナーは的確にその感情の起伏をスコアに残し、その起伏を呼吸にまで同化させた演奏、そして、その演奏の呼吸に合わせられる者だけが、この凄みのある場面を理解できる。
やがて、フンディングの手勢が、犬をけしかけながら追ってきていることに気付いたジークリンデは錯乱し、気絶してしまう。この錯乱するブラウエンステインの歌うジークリンデは見事だ。ヴィントガッセンのジークムントの"Schwester!Geliebte!(妹よ、いとしい女!)"のつぶやきのリアリティのあること!
そして、暗く沈み込むような「運命の動機」が悲しげに響き、ブリュンヒルデがジークムントの元に現れる。ヴァルナイは、"Siegmund!Sieh' auf mich!(ジークムント!私をご覧!)"から、哀しみを秘めながらも、ゆったりと神々しいばかりのブリュンヒルデを聞かせてくれる。
ブリュンヒルデに気付いたジークムントは、その気高い美しさに驚きながらも、ブリュンヒルデの、ヴァルハルにジークムントを戦士として連れてゆくという言葉に、定められた自分の運命を予感する。それでも、ジークムントは、まだ自分が死ぬことを知らない。悲しいが厳かな場面だ。「死の告知の動機」が、陰鬱に、それでも感動的で静かにジークフリートの定められた運命を告知してゆく。ヴィントガッセンが素晴らしい。ヴィントガッセンの張りのある声は、ブリュンヒルデのもたらす運命を受け入れながら・・・、なんでここで盤面が変わるんじゃ?どうせなら、ブリュンヒルデの登場辺りで盤面を変えて欲しかった(^^;。
とにかく、ヴィントガッセンのジークムントは予想以上に素晴らしい。ジークリンデを置いてゆくなら僕はヴァルハラに行かない!と、ジークムントは運命に逆らう。その決意に感動したブリュンヒルデは、徐々にヴォータンの厳命から、ジークムントとジークリンデへの同情へとその心情は変化する。ヴァルナイの深みのある歌、ヴィントガッセンの決然とした歌とも素晴らしい場面だ。オーケストラ共々、白熱した音楽が聞ける。
そして、ついにブリュンヒルデは、父ヴォータンが描いた運命を変えることを決意する。第2幕第4場終幕の充実した響きはまことに凄い迫力だ。
ブリュンヒルデが去り、暗い帳がジークムントとジークリンデを押し包み、気絶したまま眠っているジークリンデを、ジークムントは愛のこもった目で見守る。そのゆったりとした情感は素晴らしい。
突如、激しく稲光が明滅する中、狩りの角笛に乗って、フンディングと手勢が二人に追いついてくる。ジークリンデは目覚めるものの、錯乱状態だ。
ノートゥングを振りかざし、ジークムントはフンディングに立ち向かう。そこへ、ブリュンヒルデが加勢に現れるが、ヴォータンの槍が突き出され、ノートゥングは砕かれる。フンディングの槍はジークムントに深々と突き刺さり、ジークムントは絶命する。それを見たブリュンヒルデは間を置かずにジークリンデに駆け寄り、馬(グラーネ)に乗せて逃げてしまう。
ジークムントの亡骸のそばに立ちつくしたヴォータンは、フンディングをその一瞥で死なせてしまう。ヴォータンはブリュンヒルデの裏切りを激しく怒り、第2幕は幕となる。
ここでの聴衆の熱狂ぶりも、凄まじい轟音となって、CDを聞いている小生を打つ。
第3幕
「ワルキューレの騎行」で幕を開ける。
ここは、ゲールヒルデの第1声が重要なのだが、クナの1956年盤は満足できるレベルだ。ワルキューレたちは、嬉々として、死んだ勇士を次々に抱えてきては、ヴァルハルの戦士として蘇らせる仕事に没頭している。
クナのテンポは結構遅めで、天馬空を行くワルキューレをかなり重々しく表現する。ジェット機が飛び交う現代では、スピード感のある「ワルキューレの騎行」が喜ばれるようだが(小生もそうだった)、この不気味な作業に没頭するワルキューレたちを表現するためには、かなりの重さが必要だろう。ただ、テンポは遅くとも、その緊迫感はさすがだ。ワルキューレたちの誰かが音程をはずしたりするが(^^;、この迫力の中ではあまり気にならない。
やがて、ジークリンデを連れてブリュンヒルデがワルキューレたちのところに逃げてくる。ワルキューレたちは、狂乱したかのようなブリュンヒルデに事情を聞き、父に反抗したブリュンヒルデを口々に罵る。父ヴォータンに反抗することはもってのほかなのだ。
ジークリンデは、ジークムントと一緒に死にたかった、と嘆くが、ブリュンヒルデはお腹の中の子を守れ!とジークリンデを諭す。ジークリンデは狂乱したように、前言を翻し、ワルキューレたちに救いを求める。ワルキューレたちは、指環と宝を持って隠れているファーフナーの森に逃げ込むようにジークリンデに勧める。ファーフナーの森では、ヴォータンも恐れる。ブリュンヒルデは、残ってヴォータンの怒りを一身に受け止めようと決意する。
ヴォータンの到着まで、クナの音楽は、もの凄い勢いで聞く者を震撼させる。ヴァルナイも凄いが、ワルキューレたちも凄い。ヴォータンの激しい怒りに、ロスヴァイセの"Zu uns floh die Verfolgte.(追われて私たちのところに逃げてきたのです)"から、ワルキューレたちはヴォータンの怒りが静まるよう懇願の合唱を歌うが、宗教曲を聞いているような感銘をもたらしてくれる。
それを聞いたヴォータンは、柔弱きわまる女たちだと罵り、ブリュンヒルデの自分に抗った罪を語るが・・・なんで、ここでまた盤面が変わるんじゃ?もう少し、適切な盤面の切り方があったと思うのだが・・・(-_-;)。
とにかく(^^;、ブリュンヒルデは殊勝にも、"Hier bin ich Vater:(ここにおります、父上)"と静かにヴォータンの前にひざまずく。
ところが、ヴォータンの怒りは深く、エルダに産ませたブリュンヒルデが、自分の意志で反抗したことを許すことができない。ヴォータンは、ブリュンヒルデの追放を宣言する。ホッターの凄まじく威厳のある怒り、それを真摯に受け止めるヴァルナイの演技とも、素晴らしい!有無を言わさぬ迫力で聞き入ってしまう。
ブリュンヒルデの腹違いの妹たちであるワルキューレたちはヴォータンに抗弁するが、余計にヴォータンの怒りをかってしまう。ヴォータンに脅され、ワルキューレたちはその場を去ってゆく。
夜の帳が降り、二人きりになったヴォータンとブリュンヒルデはその場を動かない。やがて、ブリュンヒルデは"War es so schmählich,(私の犯したことは)"と固い意志を込め、静かに歌い出す。ブリュンヒルデは、自分を追放する父の真意を問いただす。ヴァルナイのブリュンヒルデも素晴らしいが、それに応答するホッターも素晴らしい。神々の世界を破滅から救おうとしているヴォータンは、その策謀をフリッカにうち破られ、本当は救いたかったジークムントを死なせてしまわねばならなかった自分を激しく呪っている。その苦悩する自分の心情を見透かすようなブリュンヒルデの行為を、ヴォータンは許すことができない。"ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot(心からの信頼において、私はあなたの命令に反抗したのでした)"というブリュンヒルデの言葉に、自分の矛盾を突き刺されたのだとヴォータンは、その怒りの根を晒す。
ブリュンヒルデはなおも"Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid(この愚かな娘はあなたのお役に立たなかったのでしょう)"と食い下がり、ヴォータンが愛した者を、なぜ愛していてはいけないのか、と問いつめる。そして、ジークリンデのお腹に、子供が宿っていることをつぶやく。ヴォータンは、その言葉に心が乱れるが、ブリュンヒルデへの罰は執行しなければならない。神は、その威厳にかけて、一度言ったことを撤回できないのだ。
ヴォータンは、ブリュンヒルデを眠りの刑に処し、そして、その眠りを目覚めさせた男の妻になることを運命づける。
それを聞いたブリュンヒルデは、その恥辱に耐えられない。ブリュンヒルデは、そのための防御として、ヴォータンに炎で自分を囲み、何者も自分に触れることができないよう、最後の懇願をする。
いよいよ、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」へと、「ワルキューレ」はそのクライマックスにたどり着く。
ヴォータンが、"Leb' wohl,du kühnes,herrliches Kind!(さようなら、大胆で輝かしかった娘よ!)"と歌いだし、告別の歌は始まる。クナのゆったりとしたテンポ、その哀しみを倍加するようなフレージングは、告別の歌を高貴で、情感豊かなものにしている。ブリュンヒルデが、自分の希望が叶ったことへの感動の目でヴォータンを見つめると、ヴォータンはブリュンヒルデの幼かった日々の追憶に浸る。ホッターの万感に迫る歌声は涙なくしては聞くことができない。「ワルキューレ」を聞いていて、大きなカタルシスを得られる場面だ。おそらく、客席からだろう、鼻をすする、すすり泣きのようなものが聞こえる。クナの創り出す音楽は、言葉が出なくなるほど、感動的だ。
管弦楽だけによる部分の、なんと素晴らしいこと!
そして、ヴォータンは槍を突きだし、ローゲを呼ぶ。ローゲは「ラインの黄金」の後、ヴォータンの元を去ったようだが、ヴォータンの呪縛から逃れることはできない。やがて、炎はブリュンヒルデの周りを充たし始める。ローゲの動機は少し明るい響きだが、それがクナの演奏では必然性を持って聞こえる。ヴォータンの最後の"Wer meines Speeres Spitze fürchtet,durchschreite das Feuer nie!(我が槍の切っ先を恐れるものは、この炎を横切ってはならない!)"から、テンポをさらに落とし、「ワルキューレ」終幕を、より余韻のある感動的なものにしている。
幕が下り、観客達の熱狂は、バイロイト祝祭歌劇場を壊してしまうのではないかと思えるほどの凄まじさだ。
小生は評論家ではないし、ここは「ワルキューレ」のベストディスクを選出する場ではない。
ただ、ヴァグネリアンではない小生に、この長大なオペラを最後まで聞き通させるだけの力を持っていた録音は、クナ以外ではクレメンス・クラウスのバイロイト1953年ライヴと、シェロー&ブーレーズの1980年のDVDでの映像だけだった(ブーレーズのCDは、小生持っていない・・・残念)。
クナの、この録音がこれだけの音質で聞くことができるということに、もし神が本当にいるならば、感謝したい気持ちだ。
まだ、1956年盤「ワルキューレ」を聞いただけだ。これから、何回、神に感謝しなければならないのだろう(^^;。
次回、1957年盤「ワルキューレ」を取り上げる。
参考文献
オペラ対訳ライブラリ「ワーグナー ニーベルングの指環」上 高辻知義訳 音楽之友社
スタンダード・オペラ鑑賞ブック 4 「ドイツ・オペラ」下「ニーベルングの指環」 吉田 真著 音楽之友社
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