クナを聞く 第67回
ワーグナー編その7−12

ワーグナー:「ニーベルングの指環」
第2夜「ジークフリート」
バイロイト1958年
2003/3/16
2003/3/17 Update

Richard Wagner
Siegfried


GM 1.0052
3 CDMP 443
Siegfried...Wolfgang Windgassen
Mime...Gerhard Stolze
Wanderer...Hans Hotter
Alberich...Frans Andersson
Fafner...Josef Greindl
Brünnhilde...Astrid Varnay
Erda...Maria von Ilosvay
Waldvogel...Dorothea Siebert

Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele-1958
(rec.1958/7/30 L)

GOLDEN MELODRAM/GM 1.0052(Italy)14CDs
ARKADIA/CDMP 442(Italy)3CDs

第1幕
 毎度の同じような書き出しになってしまうが、クナ1958年盤は実に音がいい。GOLDEN MELODRAM盤の版によって、「ニーベルングの指環」の10枚目、すなわち「ジークフリート」の4枚目に、編集ミスがあることがKna-parcBBSのお問い合わせの中で判明してしまった。ボックスの裏に小さくP 2001 Borneo Trade-Croatia Printed in ECとなっているもは正常で、P 2002 D.C.d.o.o.となっているものはトラック12から13にかけておかしくなっているのだそうだ。小生、まさか同じボックスをふたつも購入はしていないので、そのようなことがあるとは知らなかった。ご自分のボックスを確認して、件の箇所を対訳を見ながら聞いてみてください。その上で購入されたCDショップに相談してみてください。値段の安いボックスではないし、置いているCDショップは限られているはずですので、相談に乗ってくれると思いますが・・・。小生にはどうしようもありません(-_-;)。
 前奏曲の最初の不気味なファゴットの音からリアリティがあり、弦楽器が出てからの低域も素晴らしく良く録音されている。オーディエンスノイズやステージノイズも生々しく、ダイナミックレンジもひじょうに満足のゆくレヴェルだ。クナは、じっくりと構える。ゆったりとした、ミーメが出る前の深いえぐりこむような低音は凄い。
 ミーメは1957年のクーエンに変わり、ゲルハルト・シュトルツェが歌っている。幾分若めのミーメで、演劇的だ。シュトルツェは、軽い声質のよく伸びる高域が魅力か。ミーメがカナトコを打つ音はチャンチャラと軽めだが。
 ジークフリートは、小生のお待ちかねヴィントガッセン!熊を追いながら出てくる場面での管弦楽はずっしりとした響きで迫力がある。というか、1958年の「ジークフリート」は低域の充実が素晴らしく(高域がないと言う意味ではないが)、最初から重心の低い響きで、テンポが1956年、1957年よりもゆったりとしている。そのため、最初から聴き応えのある音になっている。ただ第1幕では、ヴィントガッセンはクナとの相性が万全ではなかったのか、クラウス盤やベーム盤での自在で活き活きしたジークフリートとは少し異なり、少し重い歌い方だ。
 ジークフリートとのやりとりの中で、ミーメの夢想にふける背後の管弦楽の非常に細かな楽器の動きが聞ける。テンポがかなり遅いため、実にしっかりと各楽器が聞き取れる。顕微鏡で覗いたような、という感じだが、音は確実に生き物のように呼吸し、動き回っている。
 ミーメのシュトルツェはオーバーアクションだとも言えるが、落ち着いた雰囲気のヴィントガッセンと好対照をなしている。さらに、クナの自然な波のようなダイナミックレンジの振幅が大きく、ミーメとジークフリートの会話の部分で、魔術的とも言えるかのように引き込まれてしまう魅力がある。その各動機のメロディの歌わせ方のうまいこと!クナは、明らかに1956年盤や1957年盤とでは表現方法を変えている。ジークフリートの、森で鳥の幸福そうなつがいを見たと言う件での描写、自分の姿を水面に映して見たという件の管弦楽が、実に感動的に意味深く響く。
 ミーメがジーグリンデの死の件を語るところから、一気に音楽は沈み込み、ジークフリートにいらだちをさらに誘う。音楽が実に雄弁にジークフリートとミーメの心理描写を奏でてゆく。"Aus dem Wald fort in die Welt zieh'n(森から世間へ出てゆくのだ)"から、ヴィントガッセンは管弦楽と少し咬み合わず、不安定になってしまうが。
 ジークフリートがミーメの元を飛び出していった後、ホッターが柔らかく登場する。ヴォータンの音楽は、管弦楽、ホッターとも1957年盤からさらに雄大になり、豊かなホッターの歌と管弦楽が聞ける。ミーメの軽めの歌、管弦楽と好対照をなしている。ホッターのもったいぶり方が堂に入っていて、その威厳と有無を言わせぬ強引さが面白い。これは他のヴォータン歌手ではなかなか出せない味だ。
 ミーメとの問答が始まり、ヴォータンが答えてゆく場面での管弦楽がとにかく凄い。ニーベルハイムを語る件での暗い低弦域の響き、リーゼンハイムを語る件での巨人族のテーマは逆に重くなりすぎず、実に自然だ。そして、ヴォータンの、ミーメの言葉をそのまま返す、"Auf wolkigen Höh'n(雲の上の高みには)"のホッターの歌と反行するように広がってゆく管弦楽!目立たない部分だが、ゾクゾクしてしまった(^^;。ヴォータンのミーメに問われての語りは、"ewig gehorchen sie alle des Speeres starkem Herrn(彼ら全ては永遠に、槍の強い主君に服従している)"で頂点を迎えるが、雷の効果音こそないものの、凄い迫力だ。続いて、ヴォータンはミーメに「つまらない質問をしたな」と言う件も、迫力は持続する。
 ヴォータンがミーメに質問する番になり、ヴェルズンク族の動機がゆったりと素晴らしく感動的に響く。3つ目の質問にミーメは答えられず"Wer schweißt nun das Schwert,schaff'ich es nicht?(では、誰があの剣を溶接するのだ、わしにできないとしたら)"と絶望する様はリアリティがある。さらに、ヴォータンが「怖れを知らなかった者だけが、ノートゥングを鍛えなおすのだ」とうそぶき、ミーメを脅す件の管弦楽も迫力があるが、ミーメがファーフナーの幻覚を見る場面での管弦楽の恐ろしい響きは凄い。ミーメの恐怖が乗り移ったかのような凄まじいクレッシェンドと、恐怖の爆発が聞ける。
 ジークフリートはミーメの元に帰り、ミーメはジークフリートに「怖れ」を教えようとするが、ジークフリートはいっこうにその感情が分からない。ミーメの"Fühltest du nie im finst'ren Wald(お前は感じたことがないのか?小暗い森の中で)"から、"in der Brust bebend und bang berstet hämmernd das Herz?(胸の内では、不安に震える心臓が破裂しそうに動悸を打たないか?)"までの、ミーメの恐怖を現した管弦楽の雄弁なこと。そのヴァイオリンの高域の見事さはクナならではだろう。
 ミーメと話しても無駄だと、ジークフリートは自分でノートゥングを作り直す決心をする。ゆったりとした中にも実にスリリングな音楽になっている。
 いよいよ、ジークフリートはノートゥングを溶かし始めるが、溶解の動機はゆったりゆっくり奏でられる。"Zu Spreu nun schuf ich die scharfe Pracht,im Tiegel brat'ich die Späne.(おれは金屑に削ってしまったが、お前の見事だった姿の、その金屑を、いま、坩堝で熱している)"のゆったりと迫力のある見事な下降音階!
 ヴィントガッセンのジークフリートは、ノートゥングを溶かしきった箇所で少し管弦楽とずれる。何となく歌いにくそうなのは残念だ。その代わり、ノートゥングをカナトコで打ち付けるジークフリートの歌は、リズムや少しずれる箇所はあるものの見事だ。
 ただ、1957年盤に比べてテンポは遅いのだが、逆に響きは少し軽めになっているのは面白い。喜劇的な場面が生きている。ミーメの、ジークフリートの力によって指環を得てニーベルハイムの王者になった幻想は、管弦楽、ストルツェともピッタリの表現で、そのカリカチュアのような響きは実に楽しい。
 ノートゥングが完成し、ジークフリートの"So schneidet Siegfrieds Schwert!(これがジークフリートの剣の切れ味だ!)"の叫びで、第1幕終幕を迎えるが、ジークフリートの叫びの後、管弦楽が揃っていない(^^;。さすがにコーダはしっかりとしているが、ライヴならではのスリルのある部分だ(^^;;;;。
 聴衆は、クナの新しい表現にあっけにとられたのか、少し拍手が戸惑い気味だ。拍手が続いてゆく中で段々と盛大になるが(^^)。

第2幕
 第2幕も前奏曲から、その音の良さで管弦楽の動きが実によく分かる。観客のくしゃみや咳が少しうるさいが、ナイトヘーレの洞窟の不気味さと、アルベリヒの執拗な指環への思いがよく伝わってくる。アルベリヒはフランス・アンデルソンで、最初音程が不安定だが徐々に良くなる。ただ、1957年のナイトリンガーの巧さはあまり感じない。どこか、棒読みのようなアルベリヒのセリフだ。
 ところが、ホッターのヴォータンが豊かな声で出てきてから、アンデルソンは豹変したように素晴らしい歌を繰り広げる。最初の不安定な棒読みのような歌は演技だったのか(^^;。うまい歌唱だとは言えないが、好感の持てる真面目なアルベリヒである。
 ホッターのヴォータン、アンデルソンのアルベルヒとも重量級である。クナの重い管弦楽のせいもあるが、実に重々しいヴォータンとアルベリヒの問答になっている。
 アンデルソンは、ヴォータンとの問答が佳境に入ってゆくとヴィヴラートをかなり効かせ、アルベリヒのヴォータンを恫喝する様子と、いらだちをうまく表現している。
 ヴォータンの弦楽器による動機の重々しいこと!さらに、ここが、レチタティーヴォであることに、1958年盤を聞いていて初めて気がついた(^^;;;;;。
 ヴォータンはファーフナーを起こしにかかるが、1958年盤はファーフナーの恐怖を描いて素晴らしいだけに、拡声器を通したグラインドルの声が気になる。シューッというノイズが聞こえるので、1957年と演出は同じだったことが分かるが、1958年もグラインドルの声は遠くで唸っているようで、ファーフナーそのものの恐ろしさはあまり出ていない。
 アルベリヒに不安の種をまいて、ヴォータンが去ってゆくが、この辺りは素晴らしい迫力だ。ヴォータンが光のつむじ風になって去ってゆく様子が彷彿とできる。
 漫才コンビのようにミーメとジークフリートが登場、ミーメと離れたいジークフリートと、ジークフリートにさかんに「恐怖」を教えようとし、自分の意のままに動かせるようにしようとするミーメのやりとりが続く。ヴィントガッセンのジークフリートは、その歌声を聞いているだけでも清々しいほどだ。二人のやりとりは管弦楽の微に入ったフレージングで、まことに面白いやりとりになっている。
 ミーメを追いやり、ジークフリートの"Daß der Vater nicht ist,(あいつがおれの父親じゃないことが)"から、ゆったりと森の音楽が流れ始める。ヴィントガッセンは、荒っぽくはあっても、素直に悩んでいる若者を好演している。そして、ジークフリートの母を想う甘い悲しみは、しっとりとした情感で歌い、演奏されてゆく。"Traurig wäre das,traun!(悲しいことだな、実際にそうなら!)"の静かな悲しさ、"Ach!m&oomu;cht'ich Sohn(ああ、息子として)"からの、その悲しみがより深まる音楽は実に感動的だ。
 「森のささやき」の音楽が本格化し、自分に向かって盛んにさえずっている小鳥と話をしようと思いつくジークフリートの心情は極めて自然に描かれる。葦笛の調子っぱずれのフレーズをはさみ、ヴィントガッセンは静かに歌い進んでゆく。管弦楽も夢幻的で、素晴らしい効果を上げている。
 ジークフリートが角笛を吹くことを思いつく辺りから、音楽は次第に明るくなり、夢幻的な雰囲気から脱し始める。ジークフリートの角笛もゆったりと奏でられる。ゼネラル・パウゼが何度か挟み込まれるが、実に長くゆったりとした雰囲気をつくってゆく。ホルンは1カ所音をはずすが、ライヴならではの傷だ。音楽を大きく壊すことはない。
 ジークフリートの角笛に引き寄せられて、ファーフナーが洞窟から這い出てくる。シューシューというノイズの中で、グラインドルのファーフナーがジークフリートを威嚇する。ヴィントガッセンは、少し位置をずらせたのか、声がオフ気味になる。拡声器を通したグラインドルの声は相変わらず迫力不足だが、管弦楽は実に雄弁だ。ここでのグラインドルのうめき声は遠くで唸っており、むしろ舞台を彷彿させ、リアリティがある。ノートゥングをファーフナーに突き立て、瀕死のファーフナーは自分を倒した者は誰かと尋ねる。グラインドルの悲しげな恨みのこもった声は1957年よりも悲劇的で哀れを誘う。ファーフナーは自分のことを語り、ジークフリートの名前をつぶやきながら絶命する。ファーフナーも、指環の呪いを避けることはできなかったわけで、ジークフリートに警告を発する。"Merk',wie's endet!Acht'auf mich!(覚えておけ、この死に様を!わしに注意しろ!)"の深い死の悲しみは、ファーフナーの運命に絡め取られた無常さが胸を打つ。
 ファーフナーに突き刺さった剣を抜こうとして、ファーフナーの血の熱さに驚くジークフリートの背後の管弦楽、ヴィントガッセンとも素晴らしい迫力だ。ジークフリートは、ファーフナーの血を舐め、小鳥の囀りの意味を理解できるようになるが、小鳥をドロシア・ジーベルトが歌っており、清々しい声を聞かせてくれる。
 アルベリヒとミーメの兄弟げんかは、アンデルソンとシュトルツェが実に面白い。アルベリヒのミーメの兄たる立場が実に演劇的にうまく表現されている。管弦楽もユーモラスで、アルベリヒの強欲と、ミーメの兄への反抗が際立つ演奏だ。ミーメはすぐに悲劇に見舞われるのだが、掛け合い漫才のような面白さだ。
 ジークフリートが洞窟から指環と隠れ頭巾を持ち出し、小鳥がミーメの不実を歌う。この小鳥のジーベルトは本当に素晴らしい声だ。1956年からの3種の「ジークフリート」の中では最も満足できる。
 ミーメはミーメで、ジークフリートを殺してしまう奸計を考えている。ジークフリートの「ファーフナーをやっつけて、なぜか悲しい気分になった」、というセリフが1958年盤ほど切実な演奏はそうないだろう。ミーメの奸計が、次々とばれてゆく場面も、ゆったりと描かれてゆく。そのため、セリフだけではなく、音楽の中からミーメの幾分滑稽な考え方がにじみ出るような形になっている。「ヒヒヒヒ」とミーメが笑う様子は、クーエンも素晴らしかったが、シュトルツェもなかなかいい。ジークフリートに「老いぼれ」と罵られるようには老いさらばえてはいないような若々しい歌声だが。ミーメは、ジークフリートの一撃で死んでしまい、それを見ていたアルベリヒの高笑いもリアリティがある。ジークフリートがファーフナーを洞窟の入り口まで運んでゆき、放り投げる場面の重々しいこと。ヴィントガッセンは生真面目で、悲しさを背負い込んだジークフリートを好演していて立派だ。
 疲れを感じたジークフリートはリンデの木陰に横たわり、小鳥に話しかける。ミーメを殺して強い孤独感を感じるジークフリートの心情が実によく出た演奏になっている。ヴィントガッセンの見事な歌いっぷりだ。管弦楽の孤独感も弦楽器群の効果が絶妙だ。
 ジークフリートの問いかけに、小鳥は岩山で眠るブリュンヒルデのことを告げる。ジークフリートの心の高まりと、小鳥の歌声が素晴らしく、"Fort jagt mich's jauchzend von hinnen,fort aus dem Wald auf den Fels!(このおれを、何かが歓声を上げつつ、ここ、森からあの岩山へと駆り立てる)"の盛り上がりに必然性を感じさせる演奏になっている。ジークフリートは小鳥に導かれて岩山をめざすところで、第2幕は幕となる。
 実に落ち着いた聴き応えのある第2幕だった。

第3幕
 第3幕は、重い嵐の音楽で幕を開ける。それでも、暗さはなくどこかエネルギッシュだ。ヴォータンは自分の謀ごとがうまく行っていることに自信を得ているのだろうか?
 ヴォータンのヴァーラ(エルダ)を起こす声の大迫力!ホッターのヴォータンの威力は真に凄まじい。ゆったりとした管弦楽は、エルダの起きてくる場面の音楽の神秘さを描いてゆく。マリア・フォン・イロスヴァイは3年連続してエルダ役だが、1958年盤が最も安定してエルダの神秘的な姿を現している。ヴォータンのエルダを賞賛する歌声は畳み込むようだ。エルダは"Mein Schlaf ist Träumen(私の眠りは夢)"からの音楽も、神秘的で冴え冴えとしている。イロスヴァイの息は、長く引き延ばされたクナのテンポで続かない場合もある。それでも、神秘的な運命を司る女神としては立派な歌だ。
 ヴォータンの、ことの顛末の語りにエルダは混乱し、ヴォータンに嫌気がさし、さらなる眠りを要求する。エルダは既にヴォータンに神性はなくなってきていることを告げる。ヴォータンは自分の破滅には感づいてはいるが、ジークフリートが神々の世界を引き継ぐことで自分の偉大な使命が到達される、と期待をかけている。ヴォータンの独白でホッターの名唱が聞ける。クナの管弦楽も緩急自在で素晴らしい呼吸感を獲得している。
 エルダを眠らせると、ジークフリートが小鳥に導かれてやってくる。元々、小鳥はヴォータンの配下だ。それと知らず、ヴォータンに操られてジークフリートを導いてきたのだが、怖いヴォータンの存在に気づき逃げてしまう。ヴォータンとジークフリートのダイヤローグが続く。ヴィントガッセンのジークフリートは、聞いている上では知的である。このダイヤローグはゆったりとしたテンポだが、音楽のダイナミックレンジはヴォータンのいらだちで緊迫した箇所もあり、なかなか素晴らしい。ヴォータンの"Kenntest du mich,(わしのことを知っていたなら)"から、諦念を持ちきれないヴォータンの生々しい感情がにじみ出てくる。
 そして、ヴォータンとジークフリートは一気に緊張した関係になる。ヴォータンはやけっぱちのように"Ein Feueremeer umflutet die Frau(炎の海があの女性をめぐって燃えている)"と、ブリュンヒルデの眠る岩山を教える。ヴォータンはジークフリートに父の敵として槍を砕かれてしまうのだが、ホッター、ヴィントガッセン、管弦楽ともすごい表現で聞く者に迫ってくる。ヴォータンを去らせたジークフリートは、ついにブリュンヒルデの眠る岩山に到達する。陶酔するような大音量の管弦楽は重量感があって凄まじく、ジークフリートとブリュンヒルデの邂逅の場面に必然性のある音楽を形作る。
 ローゲの炎が下火になり、グラーネとブリュンヒルデが見えてくる。対訳のト書きを読みながら聞いていて、その場面がまざまざと想像できるようで、まことにクナの魔術的な音楽は凄い。
 安らぎに充ちた弦楽器の音楽の美しいこと!
 ジークフリートはやがて"Selige Öde,auf sonniger Höh!(陽光を浴びた高みの至福の荒れ地だ!)"であっけにとられたかのように歌い出す。ヴィントガッセンの演技が見事だ。弦楽器で演奏される「神々の黄昏」で回想される音楽も美しく、ヴィントガッセンの陶酔するような歌声が魅力だ。
 ジークフリートがブリュンヒルデの甲冑を裁ち切り、女性だと分かる"Das ist kein Mann!(男ではない!)"以降の官能的な管弦楽の響きと憧れに充たされたジークフリートの心の動きは、実に美しく、切実な心情を表現して余すところがない。管弦楽、ヴィントガッセンとも実に雄弁でジークフリートの憧れと怖れに中に飲み込まれるようだ。"Wie end'ich die Furcht?Wie fass'ich Mut?(この怖れをどうやって終わらせようか?どうしたら勇気が出るのか?)"のヴィントガッセンの押さえた演技は聞き物だ。
 そして、魅入られたようにジークフリートは眠っているブリュンヒルデの唇に、自分の唇を押し当てる。ブリュンヒルデの目覚めの音楽の、なんと官能的なこと!ゆったりとした呼吸感、巨大なクレッシェンドとメロディの美しさでクナ1958年盤は際立っている。
 まるで、ヴィーナスの誕生のようにブリュンヒルデは目覚める。"Heil dir,Sonne!(太陽よ、ごきげんよう!)"と歌い出すヴァルナイの神々しさは、1958年盤でも健在だ。"der mich erweckt?(勇士は、誰?)"まで、その陶酔感が匂い立つような素晴らしい音楽が聞ける。ジークフリートの返答の後、"Heil dir prangende Erde!(壮麗な大地よ、ごきげんよう!)"までのクレッシェンドも凄い!
 ヴァルナイのブリュンヒルデはかなり貫禄があるが、ヴィントガッセンも負けてはいない。ブリュンヒルデとジークフリードの二重唱も素晴らしい。
 ブリュンヒルデの歌のテンポは1957年盤よりもさらにゆったりとした感じがする。"O Siegfried!Siegfried!Seliger Held!(ああ、ジークフリート!ジークフリート!こよなく仕合わせな勇士!)"からの、ゆったりとした音楽は実に素晴らしい。その歌の中に、いつまでも身をゆだねていたいほどの豊かな音楽が聞ける。
 ブリュンヒルデは、なぜジークフリートのことを知っていて、出会う前から愛しているのか告白するが、ジークフリートにはそのことが理解できない。"Denn,der Gedanke-Dürftest du's lösen!-mir war er nur Liebe zu dir!(この考えは−、あなたがそれを解るなら!−それは、ただあなたへの愛だったの!)"のブリュンヒルデの陶酔するような音楽!
 ブリュンヒルデは自分にとっては理にかなった話をしているが、ジークフリートは直情的で、ブリュンヒルデの話はさっぱり理解できない。徐々に、不安と恥辱にさいなまれてゆくブリュンヒルデの背後での管弦楽が見事にブリュンヒルデの心情を描いてゆく。直線的にブリュンヒルデを求めるジークフリートに、ブリュンヒルデは拒否を始めるが、ヴィントガッセンはやはり1957年のアルデンホフよりも突き抜けた歌を聞かせてくれる。ヴォリューム感のあるヴァルナイを向こうに回して、存分に振る舞っている印象だ。そのため、ブリュンヒルデの"Wehe!Wehe!Wehe der Schmach,der schmählichen Not!(悲しい!悲しい!この恥辱が悲しい!不名誉な苦難が悲しい!)"という叫びが宙に浮くことがなく、リアルに響く。
 ブリュンヒルデの叫びはエスカレートし、恐ろしいほどの管弦楽の爆発は凄い。ブリュンヒルデの"Sieh'meine Angst!(私の不安を見つめて!)"で音楽は沈静化し、短いパウゼの後、"Ewig war ich,(私は永遠の身だった) "から、「ジークフリート牧歌」のメロディが始まる。ヴァルナイも名唱だが、クナの管弦楽も素晴らしい情感を湛えている。これは、聞き物である。二カ所だけ、"Sahst du dein Bild im klaren Bach?(あなたは、自分の姿を清らかな小川に映したことがあるの?)"の"Bach"がどこかに行って聞こえないのと(これは小生の間違いだった。最後の"Bach"が非常に柔らかなイントネーションで歌われているため、"klaren"の"n"を引き延ばしたように聞こえてしまったのだ。Thanks吉田真さん、小生は情けない耳だな^^;)、"O Siegfired!Leuchtender Sproß!(ああ、ジークフリート!輝かしい若者!)"で感極まったのか、フレージングがヴァルナイ、管弦楽ともおかしくなるが、小さな傷だ。その感情のうねりの見事さを聞くべきだろう。
 ブリュンヒルデは自分の運命を悟り、ジークフリートの直情的な要求を受け入れるが、神々への怒りを新たにしてゆく。この最終場面のうねる管弦楽と、ヴァルナイ、ヴィントガッセンは見事という言葉を通り越して、もはや言葉がないくらいだ。ブリュンヒルデは、「笑いつつ、わたしたちは破滅し−笑いつつ、没落しましょう!」とシニカルに構えながらジークフリートとの愛の中に沈み込んでゆくのに対し、ジークフリートはブリュンヒルデを手に入れたことが嬉しくてたまらない終幕に突き進んでゆく。少し、ヴィントガッセンとヴァルナイの歌が行方不明になりそうな箇所はあるものの、実に体が火照るような素晴らしい第三幕終盤だった。


 クナの「ジークフリート」を三種聞いてきて、それぞれに素晴らしい演奏だったが、起用された歌手による部分と、クナの音楽的な変化のためか、三種とも少しずつ違う「ジークフリート」が聞けた。1958年盤は、その中でも最も落ち着いた表現で、「ジークフリート」の隅々まで聞くことができる。
 「クナを聞く」の合間に、さまざまな他の指揮者の「ジークフリート」を聞いてみたが、小生にはクレメンス・クラウス1953年盤ライヴ(GARA)と、カール・ベーム1966年盤ライヴ(PHILIPS)が実に素晴らしいと感じた。クラウスの「ジークフリート」は自然な歌手の呼吸と歌が素晴らしく、ベーム盤は軽めの音楽作りながら、「ジークフリート」の戯画化的な物語を雄弁に鳴らしているという感じだった。ベーム盤のビルギット・ニルソンのブリュンヒルデもさすがに素晴らしかった。
 次回、1956年盤「神々の黄昏」を取り上げる。


参考文献
オペラ対訳ライブラリ「ワーグナー ニーベルングの指環」下 高辻知義訳 音楽之友社
スタンダード・オペラ鑑賞ブック 4 「ドイツ・オペラ」下「ニーベルングの指環」 吉田 真著 音楽之友社

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