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1951年、バイロイトでは第二次大戦後初めての復活公演が行われた。レコード業界もその復活公演に注目し、EMIのウォルター・レッグやDECCA&TELDECのジョン・カルショウがそれぞれのレコードチームを率いてバイロイトに乗り込み、多くの録音を行った。
その時の録音でレコード化されたのは、EMIではフルトヴェングラーのベートーヴェン:交響曲第9番、カラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ワルキューレ」第3幕、DECCAではクナの「パルジファル」だった。
DECCAのカルショウはクナの「ニーベルングの指環」全曲を録音したが、レコードとしてリリースできるクオリティを備えた録音とは言えず、また、録音の不備があり、その全ての録音を破棄した、と伝えられてきた。事実、クナの「ニーベルングの指環」公演は「ジークフリート」までクナは不調で、平々凡々とした演奏だったと言われている。
ところが、1999年にいきなり1951年盤クナの「神々の黄昏」バイロイト・ライヴがEMIのディストリビュートを行っていたTESTAMENTから発売されるとインフォメーションがあり、すでにその録音は存在しないと思っていたファンの度肝を抜いた。テープは存在していたのだ。
この48年ぶりにベールを脱いだ録音がなぜ発売されなかったのか、おおよそのところはTESTAMENT盤のライナーノートに書いてあるが、レッグはカラヤンで「ニーベルングの指環」全曲を録音する計画を持っており、DECCAの録音とそのリリースを妨害したらしい。DECCAにとって最も痛手だったのは、歌手たちをEMIに囲い込まれ、事実上リリースができなくなってしまったことだ。
ただ、実情は恐らくそれだけではないだろう。当時のレコード会社の姿勢を考慮する必要がある。1951年「パルジファル」を例外として、DECCAはライヴ録音を発売する意欲がなかったのではないか、と思えるのだ。
当時のレコード会社の録音に対する位置づけは、スタジオ録音が第一で、ライヴ録音はやむを得ない場合でしか行われない一段低い録音方法と見なされていた。レコードはそのために整備されたスタジオ(クラシックのスタジオ録音の多くはホールで行われるが、ウィーンフィルの録音会場であったソフィエンザールは元々プール(冬はスケート場だったか。舞踏会も行われたようである)で、そのソフィエンザールの平戸間の上に板を張り渡して録音が行われたことや、カラヤンのDGへの初期録音はベルリン・イエスキリスト教会で行われたが、録音風景を見るとまさに録音スタジオのそれだということなどが、クラシックのスタジオ録音の何たるかを教えてくれるだろう)で優秀なマイクを林立させて行われ、綿密なリハーサルと失敗箇所の録り直しを必要とした。
レコードは完璧な音楽缶詰としての商品が要求され、録り直しの効かないライヴ録音は嫌われた。それに、ライヴ録音ではレコード会社のプロデューサーは口を挟むことができない。
レコードは、プロデューサーやレコーディング・ディレクターの注文によって演奏され、間違いや失敗した箇所を録り直しながら「作られるもの」だった。
恐らく、ひとつの楽劇ではあり得るにしても、「ニーベルングの指環」という長大な連作楽劇をライヴ録音でリリースする勇気は、レコード会社の首脳陣は持てなかっただろう。DECCAの経営責任者モーリツ・ローゼンガルテンなど、その典型ではなかったか。当時のDECCAにはライヴ録音は非常に少ない。さらにローゼンガルテンは「ニーベルングの指環」全曲録音にも本来は懐疑的だった。
今でこそ、ファンはライヴでの一発録音を喜び、スタジオ録音を軽んじる傾向があるが、当時はレコードの買い手にもスタジオ録音の方が喜ばれた。その方が録音のバランスがよく、演奏のミスはないし、オーディエンスノイズによって「音楽そのものを聞く」行為を妨害されることはないからだ。高価なレコードは、傷物であってはならなかった。
小生がレコードを聞き始めた当時、スタジオ録音が正規でライヴ録音は色物だった。これは、クラシックだけではなくポピュラー音楽も同じで、少しの例外を除き、ライヴ録音が喜ばれていたのはジャズだけではなかったか、と記憶している。
クラシックのライヴ録音にしても、現在もその多くは本番とリハーサルが収録され、ミスのある箇所やまずい部分は編集される。クラシックファンは、一夜の演奏記録として名演であったと伝えられるライヴ録音を聞きたいのに、レコード会社はまだそのことに気が付いていない。せっせと編集してしまう。
1951年の一連のバイロイトでのレコード会社の録音もそのように本番とリハーサルから編集されている。クナ1951年の「パルジファル」を、そのような編集の痕跡から嫌うファンもいるし、カラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、編集されたEMIの録音よりも、編集の跡が入っていないMYTO盤やURANIA盤の方が臨場感にあふれている。
とにかく、1951年クナの「神々の黄昏」はEMIの妨害、DECCAのライヴ録音をリリースする気のなさなどから陽の目を見なかったものだと思う。
レッグは、DECCAが「ニーベルングの指環」をショルティでスタジオ録音を始めたとき、「そんなもの売れないさ」とうそぶいた。実情は、カラヤンで「ニーベルングの指環」レッグ版を夢見ていたのに、結局カラヤンは1952年に「トリスタンとイゾルデ」を振ったきり、バイロイトと決別してしまう(EMIには、「トリスタンとイゾルデ」はフルトヴェングラーによってスタジオ録音される計画があった。それは見事に実現した)。さらにカラヤンはフルトヴェングラーの後を襲ってベルリンフィルに行ってしまい、録音の活動の場の多くをEMIからドイツ・グラモフォンに移した。レッグの「ニーベルングの指環」の夢は壊れ、横目でDECCAの仕事を眺めていたのだと思う。ショルティの「ニーベルングの指環」は、レコード録音の偉業と讃えられ、レッグの予想とはうらはらに驚くほど売れた。続いて、PHILIPSからベームのバイロイトでの記録(1966〜1967年)がリリースされ、さらにカラヤンが1970年代にザルツブルク復活祭音楽祭をからめて「ニーベルングの指環」をスタジオ録音、ドイツ・グラモフォンからリリースした(ベーム盤が先にリリースされたのか、カラヤン盤が先だったか分からない^^;)。
EMIはメジャーレーベルとして「ニーベルングの指環」発売が最も遅く、フルトヴェングラーの1953年イタリアでのコンサート形式のライヴ録音をリリースしたのは1970年代に入ってからだし、グッドオールの英語版「ニーベルングの指環」は1973年から1977年、ハイティンクとサヴァリッシュのバイエルンでの録音は1980年代後半になってから録音された。
レッグはすでにEMIのレコード・プロデューサーを解任され(1964年)華々しい「レコード業界の帝王」の座を降りていた。
序幕
クナの「神々の黄昏」序幕は、意外と健康的である。もっと暗いドロドロした世界を描くことも可能だし、冷たく物語の運命を語ってゆくことも可能だ。現実にそういう演奏もある。クナは黄泉の国に住まうノルンたちではなく、血肉が通ったノルンの世界を描き出す。
そのため、ノルンたちの世界は市井の世界に近くなる。管弦楽は暗い、というより悲しみにが優先され、どこか暖かい。暗闇の中で運命の縄を解きほぐしてゆくノルンたちのイメージよりも、世をはかなんだおばさんたちの世界だ。そのため、音楽にも暖かさが宿り、ノルンたちの歌も、世界の盛衰や期待、幻滅を事細かに描き出してゆく。テンポは幾分早めか。
1951年盤のノルンたちはそうやって、ヴォータンやローゲを見舞った出来事を歌ってゆく。弦楽器は重いのだが、まだその残酷な響きを獲得していない。1956年盤以降の意味深さより、管弦楽に血が通っているという印象が強い。
音質は立派である。元々、DECCAのプロデューサー、カルショウがレコードの発売を前提に録音しただけあり、1951年という年代を考えるなら、バイロイトの録音アルヒーフや放送用録音とは一線を画した響きだ。実にきれいに録れている。
ただ、「ニーベルングの指環」の登場人物たちのひとりひとりの運命が苛烈になり、暗い淵に落とされるようになると、管弦楽の威力が素晴らしい効果を上げる。第1のノルンをルース・ジーヴェルトが歌っているが、ヴォータンの行状を悲しみを込めて歌っており立派な歌唱が聴ける。第2のノルンのイーラ・マラニウクはそのうわずるような発声自体と短いブレスに小生のは疑問の箇所があり、今ひとつと感じてしまった。凄いのは第3のノルンで、マルサ・メードル(この1951年盤ではグートルーネも歌っている)その世界樹が燃える様子を歌う劇的な歌唱に思わず聞き惚れてしまった。ローゲの下りでもメードルの威力は凄く、"zehrender Brand zündet da auf den wirft der Gott in der Weltesche zuhauf geschichtete Scheite(すると恐ろしい劫火がそこに燃え上がり、その火焔は世界樹のとねりこのうず高い薪の山に投ずる)"の熱唱は素晴らしかった。
やがて縄は切れ、ノルンたちは来るべき未来に絶望し、母エルダの元に戻ってゆく。
「夜明けの音楽」の管弦楽のゆったりとした粘りは素晴らしく、ジークフリートとブリュンヒルデの岩山へと場面を移してゆく。ホルンの響きもゆったりとしており、質朴な響きの木管楽器が微笑ましい。
そして弦楽器が渦を巻きながら、輝かしい夜明けを告げる。クナの指揮はまだ若々しく、瑞々しい響きが聞ける。
そして、ヴァルナイのブリュンヒルデの登場。ヴィーラント・ワーグナーはキルステン・フラグスタートに復活するバイロイト音楽祭の出演を打診したが、フラグスタートは出演を断り、変わりにヴァルナイを推薦してきた。ヴィーラントはフラグスタートの薦めに従い、メトで歌っていたヴァルナイを抜擢した。ヴァルナイの登場はバイロイトの聴衆にも衝撃だったようで、以後ヴァルナイはバイロイトのヒロインとして君臨する。バイロイトには役柄を変えながらも1967年まで出演したと言うから驚きだ。その柔らかで豊かな声、それでいて張りを失わない声は素晴らしいの一言につきる。それにヴァルナイは役作りがうまかった。1951年盤から、その若々しい歌声が聞ける。
ジークフリートはアルデンホフが歌っている。声の張りは今ひとつだが、誠実に歌っており好感が持てる。ヴィントガッセンのようにテンポがどこかに行ってしまったり、セリフ回しがあやふやになることはない。ただ、声の魅力としてはヴィントガッセンが勝っている。
「ジークフリートのラインへの旅」が始まり、ブリュンヒルデが"O!heilige Götter!(ああ!気高い神々よ!)"と声を張り上げるが、ヴァルナイのピンと張りつめながらも余裕のあるその歌声はそれこそ突き抜けた凄さを感じる。
ブリュンヒルデとジークフリートのもの凄い高域での二重唱が終わり、管弦楽だけの「ラインへの旅」へと音楽は移る。テンポは速く若々しい「ラインへの旅」を聞くことができる。バックグラウンドでのノイズも生々しく、1956年以降の記録でも聞けた、クナのゴリゴリと押し進める音楽が聴ける。波を現す弦楽器の刻み込む音の正確さやどこか人なつっこいメロディラインなどを堪能できる。テンポが速い分、後年の巨大なスケールは獲得できていないが、物語を雄弁に感じさせる。録音も立派で、曖昧な部分がない。管弦楽の細かなところまで聞き取れる。クナの演奏の特徴のひとつである、その質朴とした木管楽器の魅力、渦を巻く管弦楽の魅力を聞くことができる。クナは縦の線をビッシリと揃えるということよりも、横の線のふくらみとして管弦楽を捉えているようである。
第1幕
グンターをヘルマン・ウーデ、ハーゲンをルードウィッヒ・ヴェーバーが歌っている。ウーデのグンターは後年でも聞け、その歌声は安定している。見事なグンターである。ヴェーバーのハーゲンは特徴的なグラインドルのハーゲンを聞き過ぎたためか、少しその悪辣ぶりでは物足りないが、ヴェーバーのハーゲンも実に立派である。グラインドルの凄みを感じる悪辣ぶりというより、気品のあるハーゲンを聞くことができる。ただ、セリフ回しはグラインドルの方が圧倒的にうまい。
グートルーネのメードルも気品があり、グリュンマーの可憐さはないが、以後の展開を期待させる。
管弦楽はそれこそ随所でうねっており、劇的なことでは1956年盤以降の録音よりも迫力がある。
グンターとハーゲンのやりとりを聞いていると、1958年盤ではオットー・ヴィーナーがグンターを歌っていて、気品とスケールに欠けていたが、ウーデのグンターは実に見事で、そのスケールの大きさとグンターという役のもつ剛毅さがしっかりと表現される。メードルのグートルーネもスケールが大きく、ギービヒ家が力を持つ豪族で、英雄グンターと気丈なその妹グートルーネがリアリティを持って迫ってくる。
ヴェーバーのハーゲンは、アプリオリに悪党という感じではなく、運命的にジークフリートに恨みを持つようになってしまったハーゲンを描いてゆく。
船に乗ったジークフリートが遠景として登場するが、その管弦楽はいままで聞いてきたどの「神々の黄昏」よりも説得力が強い。実に力強く、最初は小さくとも力強く、ハーゲンが呼びかけてから凄い勢いでギービヒ家に上陸するまでが描かれる。
ジークフリートが上陸してからも、管弦楽、歌手達とも力強い響きで物語をグイグイ引っ張ってゆく。ハーゲンのヴェーバーは声に粘りが出てきて、尻上がりに良くなって行くが、ジークフリートに隠れ頭巾の使い方を教える場面では少し迫力不足か。
ジークフリートを迎えるグンターの歌声の威厳のあること!実に立派なグンターが聞ける。
アルデンホフのジークフリートは、ここでは実にハンサムである。少し影を含んだ声だが、嫌味がない。安心して聞くことができる。
管弦楽の細かな動きを聞くことができるため、クナの演奏の魅力が際立っている。実に細やかに各歌手のセリフ、場面に寄り添った表現だ。グートルーネに勧められてハーゲンの仕組んだ忘れ薬を飲むジークフリートの、その最初は感謝の念から、やがて記憶を失ってゆく心理的な描写を実に鮮やかに聞くことができる。TESTAMENT盤はジークフリートが記憶を失い、グートルーネに激しく欲情する箇所で盤面が変わるが、2枚目に入ってのジークフリートのつぶやくような"Gunter,wie heißt deine Schwester?(グンター、おぬしの妹の名前は何と?) "と、続くグンターのハーゲンから聞いたブリュンヒルデの捕まえ方(^^;、の面白いやりとりは、リアリティがある。アルデンホフは熱に浮かされたようなジークフリートを好演する。
テンポはさらに速まり、ジークフリートとグンターは義兄弟の宣誓を行う。ウーデのグンターが実に見事で、アルデンホフとウーデが歌うジークフリートとグンターの義兄弟の盟約は重々しく貫禄充分の二重唱だ。
ジークフリートに「なぜ、ハーゲンはこの義兄弟の盟約に加わらないのか?」の問いに答えるハーゲンと管弦楽の粘り!ヴェーバーの悲しげな歌声と、その恨みのこもったような管弦楽が聞ける。
ジークフリートとグンターはブリュンヒルデを得るためにあわただしく旅立ってしまうが、そのテンポは早く、畳み込むようだ。グートルーネのジークフリートへの思慕の管弦楽も夢見るように美しい。
そして、グートルーネの思慕と対をなすように、ハーゲンの野望が告白される。その管弦楽のゆったりとした管弦楽の響きは見事にハーゲンの心情とその陰謀の不気味さを描いてゆく。ヴェーバーの歌声は音程がふらつき気味ながらも真面目な分、グラインドルのような内に秘めた想いが表面化するという凄みはないが、それを上回る管弦楽の説得力の強さだ。
ただ、フェイズシフターがかかったように、弦楽器の高域で少し波のような効果が出てしまう。
ギービヒ家からブリュンヒルデの岩山へと場面転換してゆく。ゆったりとしたテンポで、しかもなお迫力満点、クナの指揮の威力を思い知らされる。管弦楽は徐々に明るさを増しブリュンヒルデの愛の音楽へと移ってゆく。細かな弦楽器の動きや刻みなど、他の指揮者の新しい録音からなかなか聞けないシビアなスコアの再現も聞くことができる。
ショルティのスタジオ録音盤では、おどろおどろしく雷鳴が鳴り響くが、クナのさまざまな録音を聞いてきて、そのような場当たり的な効果はまったく必要ないのではないかと思う。
弦楽器が美しく盛り上がり、ブリュンヒルデのジークフリートへの愛の深さが表現される。ワルキューレの音楽が形を取り始め、ブリュンヒルデはワルキューレのひとりが岩山をめざしてやってくることを知る。
ヴァルトラウテが遠くからブリュンヒルデに呼びかける様子は極めて効果的だ。やってきたヴァルトラウテに、ブリュンヒルデはヴォータンの「真実の愛」を知ったと歌うが、1951年当時のヴァルナイは実に若々しく、しかも危なげがない。ヴァルナイは録音が少なく、認知度はキルステン・フラグスタートやビルギット・ニルソンには及ばなかったが、稀代のブリュンヒルデだと感じる。管弦楽も雄弁にブリュンヒルデの心情をサポートしてゆく。そのポルタメントやテヌートはうっとりとする。
ヴァルトラウテはエリーザベト・ヘンゲンで、クナの1956年から1958年までのヴァルトラウテに比べて、最も説得力の強い優れたヴァルトラウテを聞かせてくれる。その切迫感と、ブリュンヒルデの妹という役作りをみごとに演じている。大仰なヴィヴラートが気にならないではないが、その不満を上回る息せき切ったドラマティックなセリフ回しで、ヴァルハルに起こりつつある深刻な状況を物語ってゆく。"So sitzt er,sagt kein Wort(そうして座ったまま、父は一言も発せず)"からの不気味な静けさ、フライアの林檎を口にせず、自ら老け込んでゆこうとしているヴォータンの鬱状態を的確に描いてゆく。
管弦楽も、その悲劇的な静寂を見事に表現してゆく。クナの演奏はその細部の積み重ねと、息づくような細部のまとめ方が見事だが、ヴォータンの悲劇を余すところなく音にしてゆく。
終盤に行くほど沈み込むようなヘンゲンの歌、管弦楽とも素晴らしいヴァルトラウテの物語だ。そして、ブリュンヒルデに助けを求めるヴァルトラウテの心情が痛いほど伝わってくる。
ヴァルトラウテの物語に戸惑うヴァルナイの表現も適切だ。「なぜ?」というブリュンヒルデの心情が優れた管弦楽の情感を伴って歌われる。そして、指環のブリュンヒルデに対して持つ意味が切々と、感動的に歌われる。
ブリュンヒルデとヴァルトラウテの喧嘩別れの場面も、以上の優れた演奏があって、より深く説得力を持った場面になっている。ヘンゲンのヴァルトラウテの、ブリュンヒルデに持つ恨みの表現は凄絶も言えるほどよく伝わってくる。
そして、失意の中でとび去ってゆくヴァルトラウテと、ブリュンヒルデがその後ろ姿を見て"Blitzend Gewölk,vom Wind getragen,stürme dahim(稲光する雷雲よ、風に乗って、彼方へ去っておゆき)"とうそぶくまで、実に素晴らしかった。
ブリュンヒルデのジークフリートへの愛情の高まりを引きずりつつ、謎の人物の到来となる。グンターに化けたジークフリートを演ずるアルデンホフは声が甘くない分、結婚を迫る残酷さがよく出ている。
ヴァルナイの若々しい戸惑いと嘆きと恨みが実に見事だ。管弦楽の深刻さを増長する音楽も見事で、ブリュンヒルデを見舞う運命が緊迫感を持って描かれる。指環をついにグンターに化けたジークフリートに奪われる場面の管弦楽の迫力のあること!
そして、指環を奪われたブリュンヒルデの無力感とジークフリートの残酷な宣告が切々と音化される。
ジークフリートにせき立てられ、ブリュンヒルデは岩室に入り、ジークフリートはグンターへの貞節の誓いをノートゥングに託す。ノートゥングを鞘から抜くときの迫力も凄いが、緊迫感を増しながら第1幕は終了する。
第2幕
1951年盤のアルベリヒは、小生クナの1952年盤「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聞いてファンになってしまったハインリヒ・プフランツルだ。これは期待が大きい。
アルベリヒが登場するまでの、短い幕間の音楽も息をのむほど素晴らしい。微に入ったスコアの再現とその呼吸するような管弦楽は実に見事だ。
そして、プフランツルによるアルベリヒの登場。どこか夢の中から立ち現れてくるような現れ方だ。深く長く呼吸をしているような管弦楽の中で、プフランツルのアルベリヒとヴェーバーのハーゲン親子が対峙する。
アルベリヒはハーゲンの夢の中で語りかけるような表現だ。プフランツルは期待にそぐわず、アルベリヒを性格俳優のように演じてゆく。自分が愛のない中で生ませたハーゲンの方が、自分よりも力を持っている、と分かって期待をかけているようなアルベリヒの焦り複雑な心情を見事に表現してゆく。その押し殺したような「権力への意志」への想いは、ナイトリンガーも良かったが、プランツルもまた素晴らしい。
アルベリヒはハーゲンに自分に対する「誠」を期待しながら舞台から姿を消す。
ハーゲンの暗い心情で沈み込みそうな音楽が、ホルンの響きの後(これは不調だな)徐々に夜明けを暗示する音楽に変わり、ネアカな角笛とジークフリートの"Hoiho!"の声で暗さがうち破られる。この辺りは、ヴィントガッセンの明るく甘い歌声が実に効果的だったが、アルデンホフの声質は少し暗いため、目の前がパッと明るくなるような効果には乏しい。
ハーゲンに呼ばれたグートルーネがジークフリートの前に現れ、ジークフリートの貞節に疑念を抱く。メードルの歌は、少し舞台では遠目に聞こえるがドラマティックにジークフリートを疑う様を歌う。ジークフリートはその疑念を何とも思わずに、ことのあらましを語って聞かせるが、この辺りもヴィントガッセンの無責任を表現した歌の方が面白かった。アルデンホフは真面目である。
ジークフリートのネアカな言葉に安心したグートルーネはハーゲンに婚礼の準備を言いつける。
ハーゲンは「グンターが危ない」と偽って家臣団を集める。管弦楽はもの凄い威力だが、ヴェーバーの呼びかけは少し迫力不足だ。
家臣団が集まり始めるが、その揃っていないコーラスはより家臣団の集合というモヴシーンではふさわしい。もう少し、ヴェーバーに迫力があっても、と無い物ねだり的に感じてしまうが、この場面は、その騒擾ぶりが出て初めてその面白さが堪能できる場面だろう。クナのテンポは比較的ゆったりとしており、じっくりと引きずるようにこの場面を描いてゆく。
家臣団のことの真相が分かってからの哄笑や、ハーゲンをからかいながら喜ぶ合唱は実にリアリティがあって見事だ。小生は、このような場面でのズレは許容すべきだと思うし、一緒に楽しんでしまえばいいと思う(^^)。
ただ、惜しむらくはプロの録音エンジニアの常として、音がフォルテシモになると、フェーダーを下げてしまう。その分、フォルテシモの凄まじい響きが減殺さてしまうのは否めない。当時のテープレコーダーの限界からするとしかたのない部分ではあるが。
グンターのブリュンヒルデを得た喜びの演説は、ゆったりとしたテンポの管弦楽、最後の合唱が見事だ。クナ独特の息の長いクレッシェンドを聞くことができる。ウーデも、クナのテンポに付き切れていない箇所はあるものの、喜びと誇りに充ちた歌唱を聴かせてくれる。
その喜びが盛り上がりかけたところで、ブリュンヒルデの悲惨さを表現する音楽にいきなり変わる。ジークフリートの呼びかけに驚くブリュンヒルデの心情が、そのいらだった歌声と共に振幅の大きな管弦楽で表現される。ブリュンヒルデ、グンター、ジークフリートはそれぞれ、何が起こっているのか分からないいらだちにさいなまれるが、それに油を注ぐようなハーゲンのヴァーバーは少し迫力不足だ。ヴァルナイ、ウーデ、アルデンホフの緊迫した表現は見事だ。特にヴァルナイの苦しみにさいなまれるせっぱ詰まった表現は素晴らしい。"Ratet nun Rache,wie nie sie gerast!(今は復讐を勧めてください、これまで荒れ狂ったことのない復讐を!)"の怒りは凄まじい。管弦楽は畳み込むように、ブリュンヒルデの怒りを音にしてゆく。
ジークフリートの言い訳とブリュンヒルデの非難はテンポが息をのむように早い。早いだけではなく、細かな動機の断片を挟み込みながら迫力満点で進行する。家臣たちの懐疑とグンターの恥辱にまみれる場面のもの凄い響き!
ハーゲンの差し出す槍の先に、ジークフリートとブリュンヒルデは代わる代わるお互いを非難する誓いを立てるが、緊迫感はさらに強まり、ブリュンヒルデのジークフリートに対する憎しみが強烈に印象づけられる。家臣団の"Hilf Donner!Tose dein Wetter(ドンナーよ、力を貸したまえ、嵐を起こしたまえ!)"の合唱で、この緊迫した場面は頂点を迎えるが、クナは実に見事に緊迫度を増して行く。
ジークフリートはブリュンヒルデの行動にあきれ、家臣団に婚礼の準備を続けるよううながすが、ここでのアルデンホフは立派だ。セリフ回しがしっかりしているため、ジークフリートとグートルーネ、家臣団が去って行く管弦楽の見事さにしっかりとつないでいる。
ブリュンヒルデ、グンター、ハーゲンが舞台上に残り、ハーゲンの謀略にブリュンヒルデとグンターが乗せられる場面、最初のブリュンヒルデの嘆きの息苦しくなるほどの呼吸感が見事だ。実に粘り強く、浅い波が徐々に巨大になって行くようにその怒りが激しくなって行く。
そのブリュンヒルデの怒りを見たハーゲンは、甘い言葉でブリュンヒルデに復讐を申し出る。ヴェーバーは声量がなく、迫力ではイマイチな分、すり寄って行くようなハーゲンの表現が実にうまい。まるで、舌なめずりをしながらジークフリートの弱点を聞き出そうとするさまが目に見えるようだ。
ブリュンヒルデは、ジークフリートとの甘い追憶に浸りながらジークフリートの弱点をハーゲンに教えてしまう。
ウーデのアルベリヒは、その恥辱と絶望を、その高貴さと剛勇さ故により深くなってしまった嘆きを見事に歌う。
管弦楽は深く沈み込みながら、それでも怒りの波が静まらずに大きくなって行くかのように3人のジークフリート謀殺の密議を描き出して行く。"So soll es sein!Siegfried falle!(そうなるがいい!ジークフリートは仆れよ!)"を合い言葉のようにして、暗黒の三重唱が盛り上がって行く。
第3幕
最初のホルンが魅力的だ。遠近を現すようなホルンが効果満点に響く。そのホルンが徐々に束になって行き、弦楽器の波、木管楽器ののどかな響きによってライン河での第3幕幕開けを表現する。
ここでも、クナの管弦楽が見事だ。実に細かくライン河を描いて行く。
1951年盤では、遠目にラインの乙女たちの合唱が聞こえる。1957年盤、1958年盤のラインの乙女たちの合唱は魅力的で素晴らしかったが、1951年盤は少しアンサンブルがバラバラだ。その変わり、管弦楽がよく聞こえる音録りのため、細部に至るまでクナの魔術を満喫できる。
このラインの乙女たちのひとり、ヴォークリンデがエリーザベト・シュヴァルツコップで、レッグの細君になるため(既にEMIの専属歌手ではあったが)、クナの1951年盤が長く陽の目を見なかったひとつの理由だった、と伝えられている。ヴェルグンデはハンナ・ルートウィッヒでフロースヒルデはヘルタ・テッパーだった。
若い頃のシュヴァルツコップの歌をよく聞こうと思ったが、1951年盤第3幕第1場は歌手達の位置の問題からか、管弦楽の方にその占めるウェイトは大きい。残念ながら、シュヴァルツコップの歌を云々できるほどではなかった(^^;。
明るく楽しいラインの乙女達とジークフリートのやりとりが、フロースヒルデの"Behalt'ihn,Held,und wahr'ihn wohl,bis du das Unheil errätst(指環は持っていなさい、勇士よ、そして大事にしておくのよ、あなたが災いに思い至るまで)"から、暗く沈み込んでゆく。アルデンホフのジークフリートと管弦楽の見事さが素晴らしい。ラインの乙女たちに脅されてからかわれたと感じたジークフリートの意固地になって行く様子と、指環にかけられた暗い怨念のような呪いが交錯しながら、緊密な管弦楽の表情の変化で恐ろしくしっかりと描かれている。ライン河の波は聞いていて息苦しくなるかのようだ。
ラインの乙女たちが去り、ファンタジックな場面から狩りの角笛が聞こえ、現実的な場面に移る。ハーゲンの声が聞こえるが、ここでも歌手達の位置が良く聞き取れ、音の効果は立体的だ。ただ、ハーゲンの"Hier rasten wir und rüsten das Mahl!(ここで、大休止として、食事の支度をしてくれ!)"以下は、少し声が遠すぎて聞きにくい。"Du beutelos?(お前が獲物なしとは?)"でしっかり聞き取れるようになるが。
第3幕第2場のテンポも結構早く、めくるめくように場面は進行する。恥辱に沈み込んでいるグンターを尻目に、ハーゲンに乞われるままジークフリートは自分の生い立ちを歌い出す。アルデンホフはかなりの名唱を聞かせてくれる。言葉がひとつひとつしっかりしており、好感が持てる歌いっぷりだ。管弦楽にもうまく乗っている。アルデンホフは第3幕で実に安定した歌唱を繰り広げる。
ハーゲンに今度は「記憶を思い出す薬」を飲まされ、ジークフリートは岩山でブリュンヒルデとまみえた記憶を徐々に取り戻す。この背後の管弦楽の凄いこと!ジークフリートは甘い追憶から森のささやきを思い出す。ローゲの炎を突きぬけて、さらにブリュンヒルデとの甘い接触を管弦楽は実に見事に描いてゆく。
グンターはジークフリートの思い出にいらだち、ハーゲンはジークフリートの隙を見てその背中に槍を突き立てる。
ジークフリートの甘い追憶、グンターのいらだちから、もの凄い落差のジークフリートの死へ至る物語が聞ける。
グンターと家臣達の驚きがリアリティを持って迫ってくる。
ハープの分散和音と、弦楽器の高域の夢幻的な音楽に乗って、ジークフリートの最期の場面、息をのむ素晴らしさだ。ヴィントガッセンの甘さはないが、アルデンホフのブリュンヒルデとの追想は見事だ。アルデンホフは一般的には傑出したジークフリート歌手とは言えないが、ここで聞ける歌唱は立派である。
「ジークフリートの葬送行進曲」、この粘り、この悲劇的な響きは、クナならではの凄い葬送行進曲を聞かせてくれる。この深みはクナでしか成し得ないものではないか、と言えるほど凄い音楽だ。1958年の「葬送行進曲」も素晴らしかったが、1951年から、クナはすでに「葬送行進曲」をどう表現すればよいのか、確固としたものをつかんでいたようだ。少し、トランペットの音が突出するが、迫力があり、なお悲しみに充ちた「悲劇」の音楽を聞くことができる。聞いている方はトランス状態に落ち込みそうな凄い「葬送行進曲」だった。
ギービヒ家で不安を持ってジークフリートを待つグートルーネの場面、メードルが実に安定している(場面は安定していないが)。後年のグートルーネに比べて、一回り大きなグートルーネを演じる。そのドラマティックな歌唱と演技は見事である。グートルーネはもっと可憐な方が小生の好みだが、メードルの素晴らしさは別格だ。
ハーゲン「獲物を持ち帰ったぞ!」と戻ってくる辺りから、ヴェーバー、ウール、メードルはそれぞれに素晴らしく役柄にはまりこんだ歌唱が聴ける。ヴェーバーは音域の下の方が頼りない箇所はあるものの、ハーゲンのニヒルさがようやく出てくる。グンターの後悔も立派だ。
指環を争ったグンターは、大迫力の声でハーゲンに殺されてしまう。
ヴァルナイが遠くから歌い出すが、神々しいばかりだ。メードルとのやりとりも文句なく素晴らしい。管弦楽も大迫力で、ヴァルナイとメードルのやりとりに豊かな肉を付けてゆく。聞き手は、その管弦楽の音色の変化や振幅の大きなダイナミックレンジで、否応なく物語に引きずり込まれる。
グートルーネに「忘れ薬」をジークフリートに飲ませたと告白され、悲しみの中でブリュンヒルデは全ての謎を解くが、その場面は管弦楽だけで演奏される。その悲しさに充ちた響きの凄さ!
音楽はその響きだけでブリュンヒルデの心情の変化を描いてゆく。これだけ見事なブリュンヒルデの頓悟の場面は、今まで聞いてきた「神々の黄昏」の中でも最も素晴らしいものだ。
いよいよ「ブリュンヒルデの自己犠牲」が始まるが、管弦楽とヴァルナイのバランスが実にうまく捉えられており、モノラルでノイズの多いライヴ録音ながら、その音楽に引き込まれるようだ。ヴァルナイの歌は、若さが出る部分はあるものの、魅力的に悲劇の成就を歌って行く。クナは悲劇の表現が素晴らしい指揮者だが、この1951年盤でもその悲劇の意味するところを表現して余すところがない。
やがて、ブリュンヒルデは神々にその破滅を宣告し、薪に火を付ける。吹き上げるような管弦楽が聞こえ、切実なブリュンヒルデの叫びが聞こえる。少しバランスが管弦楽寄りになるが、そのドラマのうねりにまったく気にならない。気になる方がどうかしている。凄まじい響きに充たされながら、ブリュンヒルデはグラーネと共に炎の中に躍り込み、炎は燃えさかり、やがてローゲの炎はヴァルハルをも燃やす。「神々の黄昏」はもの凄い迫力で終幕を迎える。ハーゲンの"Zurük vom Ring!(指環に触るな!)"は聞けないまま、どこかに落ちてしまったようだが、そんなことも忘れさせる大迫力の第3幕終盤だ。
これだけカタルシスを味わえる演奏も希だろう。凄かった!
復活したバイロイトで、クナはあまりオーケストラとリハーサルをせず、カラヤンがそのリハーサルの大半を行った。第1チクルスをクナ、第2チクルスをカラヤンが振ったわけだが、「カラヤンがリハーサルをし、クナがそのリハーサルのもとで指揮をした」と言われている。
しかし、カラヤンの1951年「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」を聞く限りでは、カラヤンとクナは大きく違った解釈を行ったはずである。クナの1951年「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」は聞けないわけだし、カラヤンの「神々の黄昏」はARKADIAからリリースされたことはあるそうだが、小生は持っていない。聞いていないのだから偉そうなことは言えないが、クナとカラヤンの持つテンペラメントの違いから、恐らくかなり違う「神々の黄昏」であったと思うのだ。
「神々の黄昏」単体として、この1951年盤はクナの超絶的演奏のひとつということができるだろう。後年の豊かさより(これは録音のせいもあるが)、息苦しくなるようなドラマを聞くことができる。
まだ、もったいなくも1951年盤「神々の黄昏」を聞いたことがない方には、何を置いても是非盤でお薦めする。
次回は、1955年バイエルンでの「神々の黄昏」ライヴを取り上げる。
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