クナを聞く 第87回
ワーグナー編その8−5 「パルジファル」


Karl Muck & Kna

 バイエルン州立歌劇の客演指揮者で、「パルジファル」の先輩指揮者であったカール・ムックの「パルジファル」が抜粋ながらCD化されている。数多くのレーベルからリリースされているが、Preiser盤とNaxos盤が比較的入手しやすいようだ。1枚はPreiser/MONO 90270、1928年のドイツ国立歌劇場でのスタジオ録音のSPからの板起こしで、第3幕が収録されている。もう1枚はNaxos/8.110049-50の2枚組で、Preiser盤と同じ1928年第3幕の録音と、1927年バイロイトでの第1幕抜粋と第2幕の花の精たちの踊りが収録されている。Naxos盤には1913年のアルフレート・ヘルツ指揮による第1幕からの抜粋と、1927年ジークフリート・ワーグナー指揮による聖金曜日の奇蹟が収録されている。この、ムックの録音は貴重であり、1927年の第1幕でのコーラスは時代を感じさせるが、その管弦楽の立派さには年代を感じさせないだけの力がある。共感に満ちた、クナと同質の透明な管弦楽が聞ける。
 ここに1葉の珍しいムックとクナの写真がある(Thanks いち君)。バイエルン州立歌劇場にクナが着任した早々か、あるいはしばらく経ってからの写真だと思われるが、クナの成金坊やのような生意気さが笑える。しかし、ムックとクナは師弟関係こそ結ばなかったが、クナはムックの「パルジファル」には大きな影響を受けていたと思われる。
 フルトヴェングラーも、1936年と1937年にバイロイトで「パルジファル」を振っている。残念ながら録音は残っていないようだ。1931年の世界最長記録と言われるトスカニーニのバイロイトでの「パルジファル」とともに、一度聞いてみたい演奏だ。残念ながら、どちらも部分的にも残っていないようだが。
 その点では、ムックの録音が残っているのは、実にありがたい。なにろし、ムックは1901年にバイロイトで「パルジファル」を振り、その後1928年までダブルキャストでの指揮はあったものの、バイロイトで「パルジファル」を振り続けている。バイエルン州立歌劇場の先輩と言うだけではなく、クナの先駆とも言える「パルジファル」指揮者で、その残された記録を聞いていると「なるほど」とうなずけるリアリティを獲得している。多くの指揮者はデロデロと指揮をしたがるか、あるいは大げさにしてしまうきらいのある「パルジファル」をしっかりとメリハリを付け、ごく自然に「パルジファル」を表現してゆく(たとえば、第1幕への前奏曲にテヌートやレガートは必要ないと思うのだが・・・。あるいは大仰なポルタメントも)。その上、管弦楽が透明で素直に「パルジファル」の世界に入って行ける。前述したように、バイロイトでの1927年録音は合唱が大時代的で少し気恥ずかしくなるが、1928年ベルリン国立歌劇場管弦楽団と合唱団を使ったスタジオ録音での見事な第3幕の前奏曲や、時代がかってはいるもののゴッドヘルフ・ピストーア、ルートウィッヒ・ホフマン、コルネリス・ブロンスヘーストの歌が聞ける(合唱の方は見事である。フーゴー・リューデルるという合唱指揮者だった。トスカニーニに反抗したひとだそうで、バイロイトの合唱指揮者でもあった)。それほどロマンティックな表現ではないが、寂寥感を伴った音楽はなかなかのものである。
 ムックに関しては、Masahide's ゲテモノ・クラシックの、ムックに詳しい。

以上参照richard wagner home page

GM 1.0051
ARPCD 0112
Amfortas...George London
Titurel...Kurt Böhme
Gurnemanz...Ludwig Weber
Parsifal...Wolfgang Windgassen
Klingsor...Hermann Uhde
Kundly...Martha Mödl
(rec.1952 L)

Golden Melodram/GM 1.0051(Croatia)4CDs
Archipel/ARPCD 0112-4(Germany)4CDs
 クナの1952年「パルジファル」は、現在2種類のCDを聞くことができる。ただ、この録音を聞くことができるようになったのはごく最近だ。
 どちらも音としては満足できるもので、1952年のライヴの割りにはかなり良い音だ。幾分、Golden Melodram盤の方が柔らかく、ARchipel盤の方が硬質な音でドンシャリ傾向だが、たいした差ではない。Archipel盤のくっきりした輪郭の音を好まれる方も多いだろう。どちらを購入しても、1952年「パルジファル」は堪能できる。恐らく、マスターは同じものである。小生は、Golden Melodram盤をリファレンスにして聞こうと思う。
 なお、プロジェクトとしては1951年とほとんど同じで、ティトゥレルがアルノルト・ファン・ミルからクルト・ベーメに変わっているだけだ。

第1幕
 第1幕への前奏曲は、1951年盤よりも音に緊張感があり、さらに静けさが漂ってくるような出だしだ。テンポは落ち着いており、ゲネラルパウゼから寂寥感が漂い出てくる。弦楽器の音は乾いているようにも聞こえるが、ほどよく湿り気があり主部に入ってからはビロードのような触感がある。客席の咳やマスターテープに起因する劣化ノイズが時折聞こえるが、鑑賞の妨げにはならないだろう。音の分離は比較的よく、帯域はナローだがしっかりと1952年「パルジファル」を聞くことができる。金管楽器の恫喝するようなフォルテシモで奏でられるドレスデン・アーメンの凄い響きと、シミジミとした宗教的感慨に浸れる静かな部分との対比が実に見事だ。木管楽器の音色も質朴で、巧みではない分「パルジファル」から「味」のようなものを引き出している。これは、オーケストラが下手で質朴とした味わいになったと言うより、クナはウィーンフィルでもベルリンフィルでも、同じように質朴と鳴らさせているので、クナの響きに対する好みのようなものか。弦の高域の独特な人なつっこさのようなものも、この深刻な前奏曲を救い、寂寥感濃厚ながらも味わいのある音楽にしている。前奏曲は巨大な波というより、生い茂った巨木を仰ぎ見るような豊かさがある。迫力と緊張感に充ちた素晴らしい前奏曲の演奏である。なお、1951年盤とのタイミングの差は、1951年盤14分16秒、1952年盤は13分57秒だった。
 前奏曲が終わり、聖杯城の外の場面、ヴェーバーは好調で、1951年盤よりも若々しい。朝を告げるバンタの金管楽器の音もよく聞こえる。朝に祈りの音楽は1951年盤よりも幾分テンポは速いようだが、質朴として心のこもった祈りの音楽が聞ける。少し、オーディエンスノイズがやかましいが。
 続くグルネマンツの、小姓たちにアンフォルタスの沐浴の見に行くよう命令する部分での音楽の振幅がかなり大きく、第2の騎士の登場も緊迫感がある。ただ、グルネマンツを歌うヴェーバーの位置が変わったのか、"Toren wir,auf Lind'rung da zu Hoffen(思えば我々も愚かなもの。治療の方法はひとつしかないのに)"から、歌声が奥に引っ込む。
 クンドリの登場はかなり迫力がある。低弦域の渦を巻く様子や、緊張感を持った管弦楽がかなりの迫力で鳴り響く。
 クンドリの登場から音楽は沈み込む。グルネマンツの悲痛な迎えの言葉から、アンフォルタスの登場となる。ジョージ・ロンドンのアンフォルタスは好調そのもの。アンフォルタスの王としての威厳を失わずに、その呪われた運命を嘆く。その引き延ばされたフレーズの凄さ!"Im heil'gen See wohl labt mich auch die Welle(あの湖で水浴すれば、さざ波もこの身みを元気づけてくれようし)"からの息の長いセリフ回しは素晴らしい。
 アンフォルタスがガーヴァンを思い出し、第2の騎士が応唱するが、その切実な第2の騎士のセリフ回しも素晴らしい。第2の騎士を、ヴェルナー・ファウルハーバーが歌っている。お経のように聞こえてしまうこの長大な場面が、しっかりとメリハリを付けて演奏されてゆく。その、ロンドン、ヴェーバー、ファウルハーバーの歌のドラマと、背後の管弦楽のドラマが、空恐ろしいほどに雄弁に響き、退屈さを逃れている。
 クンドリの"Nicht Dank!Fort,fort!Ins Bad!(さあ、早く、早くご水浴を!)"のセリフの後の、苦しみを和らげるために沐浴に向かうアンフォルタスの苦痛と一時の慰めが、管弦楽によって見事に音化されている。
 小姓たちのクンドリをなじる言葉にグルネマンツはクンドリの不思議な行動を語るが、ここも劇的な振幅が大きく、緊迫感がある。第4の小姓が"Eine Heidin ist's,ein Zauberweib(それに異教徒ですし、しかも魔女です)"と突き放す残酷さ。小姓たちにその言葉を抗われ、グルネマンツはクンドリを弁護してゆくが、ヴェーバーは1951年盤よりもそのセリフ回しが堂に入っており名演だ。もしかすると1951年盤の第1幕はゲネプロからの収録だったのかも知れない。この、1952年盤のヴェーバーの緊張感に溢れたセリフ回しは、劇そのものを見るかのように迫力がある。それに、小姓たちのクンドリをなじる言葉が、リアリティを持って迫ってくる。グルネマンツの"Das ist ein And'res(それは別問題だ)"の前と後の恐ろしい響き!そして、グルネマンツの"den Zaub'rer zu beheeren?(だれがそれを阻止しえたろう?)"からの、クリングゾルの魔手から王を救えなかった忠臣の心の叫びが巨大な小山のように迫ってくる。もの凄い聞き物だ。クナの緊迫感溢れる管弦楽とヴェーバーの歌唱には、凄いとしか言いようがない。
 沐浴が終わったアンフォルタスの痛みが一時的に引いた様子に、グルネマンツは「二度と閉じようとしない傷口ではなあ」と言う嘆きの後、聖杯グラールがティトゥレルの元にゆだねられた顛末からクリングゾルの件まで、ヴェ−バーはあまりに熱唱過ぎて位置を見失ってしまったり音程がふらつく箇所があるが、小さな傷だ。管弦楽も、ヴェーバーの熱唱に煽られるようにテンポを少し早め、恐ろしいほど盛り上がる。クリングゾルが魔法の園を作った顛末や、アンフォルタスがティトゥレルから聖杯の守護職を引き継ぎ、悲劇的に返り討ちに合った場面まで、テンポは幾分早めに振幅が大きく、豊かな音楽を聞かせてくれる。クリングゾルが槍を奪って、聖杯までも奪った気になっていることを嘆くグルネマンツの嘆きも劇的だ。
 そして、聖杯に現れた神託を歌うヴェーバーの敬虔さ。少し息が苦しそうだが。"durch Mitleid wiisend der reine Tor,harre sein',den ich erkor(共に悩みて悟り行く、純粋無垢の愚か者。かかる男を待てよかし。われの選べる者なれば)"の、グルネマンツと、小姓たちの歌は切実だ。
 その、神託の言葉から音楽いきなり荒々しく巨大になり、白鳥が射落とされる。もの凄い迫力だ。パルジファルに説教を垂れるグルネマンツの歌も真意がこもっている。「これを、おい、見てみろ。お前はここに矢を射あてたのだぞ」からのグルネマンツの悲しみのこもったセリフ回しは、パルジファルが弓矢を捨て去るにふさわしいリアリティを持っている。パルジファルが弓矢を捨て去ってからの、パルジファルの心情を描写する管弦楽の豊かな音楽の素晴らしさ。ヴィントガッセンは相変わらず落ち着いたパルジファルだが、1951年盤よりも、よりパルジファルにふさわしい歌唱になっている。そのパルジファル登場場面のボーっとした様子が極めてリアルに歌われる。ただ、"Ich hab'eine Mutter(おいら、母さんがある)"から、無垢の若者にしては少し苦しいが。
 メードルのクンドリは、ここでは憎まれ役に徹しているようで、パルジファルとの子供じみたやりとりでは相応しい。クンドリのパルジファルの母が死んだ、というセリフはまるで劇のようだ。グルネマンツはクンドリの理解者として優しい。
 メードルのクンドリは、ゆったりと"Nie tu ich Gutes(善なんか、わたしは、決してしませんよ)"から、「今はただ休みたいばかり」と眠りにつくまで、静から動へと、そしてまた静へと実に劇的だ。Golden Melodramの1952年盤はここで1枚目のCDが終わる。Teldec盤と同じだ。唐突感があるが、収録時間の関係で仕方ない部分か。
 グルネマンツはパルジファルを伴って、聖杯城に戻る。時間を空間に変えた場面転換の音楽が始まる。かなり力強い場面転換の音楽だ。聞き慣れてしまったからか、聖杯城の音楽が聞こえるだけで、その重く壮麗な音楽を想像して感動してしまう。舞台転換のゴロゴロという低域のノイズが聞こえ、Fレンジはある程度充たしていることが分かる。オーケストラは低域不足な音であるのは否めないが、それを想像させ、充足してしまうだけの音をこの1952年盤は持っている。さらに凄いのは高域の伸びで、むろん現代のハイファイ録音はないが、充分この感動的な聖杯城への到着の音楽を聞くことができる。チャイムや銅鑼は電気的処理がしてあるようで、生の楽器には聞こえにくいが余り気にならないだろう。凄い迫力の聖杯城の音楽が聞ける。
 聖杯の騎士達の合唱は、最初少し管弦楽に比べて迫力不足に聞こえるが、徐々にその威力を獲得してゆく。フォルテシモで音がダンゴになってしまうが。木管楽器が実によく聞こえるので、迫力だけではない透明感を感じる。この聖杯城手の到着は1951年盤よりも圧倒的な力感を感じることができる。
 青年達と少年達の声の合唱が、感動的に信仰に対する信念の歌を聞かせる。"Der Glaube lebt(信仰は生き)"からの少年合唱は神々しいばかりだ。ティトゥレルを1952年盤ではクルト・ベーメが担当している。少し引っ込み気味の声ながら、その独唱はお経そのもののように響く。もう少し効果的であってもと思うが満足すべきだろう。その直後、アンフォルタスの"Wehe!Wehe mir der Qual!(ああ、この苦しみのつらさ!)"とティトゥレルの応唱からべーメのティトゥレルは素晴らしくなり、ロンドンの威厳をかなぐり捨てた聖槍から受けた傷の痛みと、邪淫によって得てしまった心の苦しみの絶唱が聞ける。ロンドンのアンフォルタスは、この1952年盤ではかなり力が入っている。それを支える管弦楽の暗くも凄まじい響き!クナはアンフォルタスの苦しみを、音によって顕在化してゆく。そして、そこから救済されることへの憧れを響かせて余すところがない。切なくなるような救済への憧れだ。しかし、聖槍に刺し抜かれ、流れ出る血が十字架上のイエスの血とは似てもにつかない邪淫の罪の血であることを嘆き始めると、音楽は寂しさと苦恨の色を濃くしてゆく。そして、アンフォルタスは自身が犯した罪への苦恨が極まってゆく。ここでのテンポは歌手の呼吸を考えたのか、あるいは劇性をより持たせるためなのか幾分早い。"durch Mitleid wiisend der reine Tor,harre sein',den ich erkor"の合唱は、揃っていないが優れた映画の場面を見るように効果的だ。
 ティトゥレルが"Entüllet den Gral!(聖杯を開帳せよ!)"と命じ、音楽は苦しげに沈み込む。"Nehmet hin meinen Leib(我が肉を取れ)"からの合唱は恐ろしげに厳かな聖なる世界を描き出す。1952年盤は、1951年盤を上回って聖なるものの厳かさと神秘を現してゆくかのようだ。聖杯が一条の光に照らし出され、その輝きが音楽だけでも味わる。クナの音楽は空恐ろしくなるほど、聖なるもののリアリティに溢れている。
 もの凄い低音が儀式のリズムを奏し始める。最初平穏に少年合唱が"Wein und Brot des letzten Mahles(さいごの聖餐のぶどう酒とパンを)"と歌い始め、青年達や騎士への合唱に受け継がれてゆくが、その力強さは、アンフォルタスのいやがっている聖杯の儀式とはうらはらに、周囲の者に力を分け与えてゆくものであることが理解できるだけの力強さだ。騎士達の合唱は盛り上がり、"Selig in Liebe!(愛に幸あれ!)""Selig im Glauben!(信仰に幸あれ!)"の清浄な感動へと導いてゆく。そして、音楽は聖杯の音楽が静かに力強く響いてゆく。金管楽器が多少不調だが、この壮大な音楽の中では些細な傷だ。音楽が壮麗に儀式の終わりを告げる中、音楽は現実に引き戻されたかのようになり、グルネマンツのパルジファルへの失望と聖杯城からの追放へと変わる。グルネマンツの失望の深さと、情け容赦のない追放の言葉が聞ける。アルトで歌われる"durch Mitleid wiisend der reine Tor"が雰囲気たっぷりで、その上に合唱が加わり、第1幕は終了する。

第2幕
 第2幕への前奏曲は少し頼りない。音楽は力感があるのだが、録音が最初のうち、その力感を捉え切れていないようだ。それでも、テンポの速い前奏曲は進行を続けるとかなり凄い響きになる。
 クリングゾルは1951年と同じヘルマン・ウーデだ。その最初ので出しは1951年のニヒルさはなく、暖かい。おとぎ話の悪役のようだ。その表情が少しスポイルされているように聞こえる。ただ、声の威力はさすがにウーデで、1951年盤に比べて、健康的なクリングゾルか。クリングゾルはもっと不健康であった方が似つかわしいと思うが、ウーデの1952年はどういう訳かハンサムで健康的である。
 クンドリがクリングゾルの魔法の城で目覚めて、ウーデの歌声はますます磨きがかかったようにツヤを帯びてゆく。ただ、声を張り上げているだけのようにも聞こえるが。迫力ではかなりのものだが、クリングゾルのリアリティには乏しい。
 メードルは、クリングゾルの"Gefiel er dir wohl,Amfortas,der Held,den ich zur Wonne dir gesellt?(お前には、あの勇み肌のアンフォルタスが気に入ったのか。おまえのなぐさみとして、おれがつきあわせてやったあの男がさ)"から、ようやく意味のあるセリフと性格描写が必要な場面に入ってゆくが、その声の威力は第2幕でのパルジファルを誘惑する場面が楽しみになる。
 城壁まで来たパルジファルに堕落した聖杯の騎士達が立ち向かうが、てんで歯が立たない。それを城壁の上から眺めているクリングゾルの描写も、管弦楽は立派だがウーデがその役所をしっかりと聞かせてくれない。クリングゾルは、堕落した騎士達がパルジファルにやっつけられる場面では、もっと冷笑していなくては、と思ってしまう。
 花の精たちの登場場面はテンポが速く、畳み込むように進行する。花の精たちの合唱は少し時代がかっており、若々しさに欠けるような気もするが、そのキャストの中にリタ・シュトライヒの名前を発見してしまった。
 パルジファルを恨むのかと思いきや、花の精たちは「きれいなお姉さんたち」の一言で、パルジファルを誘惑し始める。舞台上を花の精たちが走り回るノイズも生々しく、花の精たちの合唱は夢幻的に魅力を増して行く。クナの指揮はテンポが速いのか遅いのか、まるで判然としないような伸縮のあるフレーズ感で音楽を進めてゆく。そのため、リズムはしっかりとメリハリが効いて聞こえるのに、メロディが魅力的に響き、花の精の色香にむせぶような音楽を形作る。ただ、この場面での夢幻的な魅力は1951年盤の方が濃厚だった。
 美しく姿を変えてクンドリが登場、パルジファルの名前を呼ぶ。音楽はよりゆったりと夢幻的になり、メードルの蠱惑するような歌声が魅力的だ。コケティッシュに花の精たちはパルジファルの側を離れてゆく。"Dies alles - hab'ich nun geträumt?(これは、何もかも夢だったのか?)"というパルジファルのつぶやきは男性であれば、誰でも持つような夢からの醒め方か。
 しかし、花の精たちを上回る魅力的な歌声で、クンドリはパルジファルの籠絡に取りかかる。メードルは1951年を上回るビロードのような柔らかく優しい声音でパルジファルを誘惑する。最初は母性を感じさせるように、子守歌を歌うようにヘルツェライデのパルジファルに注ぐ愛とその悲劇を歌って行く。ゆったりとしたクナの管弦楽が揺りかごのように音楽に適切な振幅を与えながら、そしてその魅力的な弦楽器や木管楽器の響きでパルジファルへの偽りの愛に肉体を与えてゆく。その、フレージングのなんと魅力的なこと!音楽は自然に高まってゆく。やがて、ヘルツェライデの悲しい死を歌って行くメードルの深い歌声は素晴らしい。
 母の死の顛末を聞かされたパルジファルは嘆き苦しむ。ヴィントガッセンはパルジファルのリアリティには少し乏しい気もするが、その声はやはり魅力的だ。
 それに応唱するメードルは、さすがに柔らかな歌声でパルジファルを慰撫するようだ。その歌声は魅惑的だ。そして、言葉巧みにクンドリは誘惑を完成させるためにパルジファルに口づけをする。その緩やかで夢を見ているようなメードルの歌声の魅力には抗しがたい。
 クンドリに口づけされたパルジファルは、いきなりアンフォルタスの苦しみの源泉を知る。その頓悟の音楽の凄まじい響き。ヴィントガッセンは純粋無垢な愚か者には向かないが、この頓悟したパルジファルの"Amfortas!"からの叫びは、その本領が発揮されたように、リアリティを獲得してゆく。クンドリの接吻前と接吻後で、パルジファルは表現を180度変えなければならないため、その役作りは難しいだろう。ヴィントガッセンは接吻後の悩めるパルジファルにあい相応しい。ここからヴィントガッセンは水を得たように、パルジファルを演じてゆく。少し不調のようだが、この悩めるパルジファルは納得が行く。パルジファルは、アンフォルタスの苦しみと痛みを共にする。その共悩するパルジファルの背後での管弦楽は恐ろしく共感豊かに雄弁にパルジファルの心情を描いてゆく。その苦恨への心の高まりは凄まじく、聞き手をもパルジファルの心情に同調させてゆく。
 それに続く、クンドリの"Gelobter Held!Entfieh'dem Wahn!(みんながほめそやす勇士のあなた。そんな妄想はお捨てなさい)"はゾッとするほど魅力的だ。
 そして、パルジファルはアンフォルタスの苦痛の種がクンドリの誘惑であった事に気ずく場面での畳み込むような迫力、続くクンドリの焦り、半ば諦めながらの誘惑の、息せき切る様子も凄みがある。クンドリの"Ich sah - Ihn - Ihn - und - lachte..."の叫びの凄まじさ!十字架に向かうイエスを嘲弄したクンドリの呪われた過去とクンドリの苦恨が痛いほど伝わってくる。メードルは恐るべき表現力で熱唱を聴かせる。そのクンドリの心情を余すところなく描いてゆく管弦楽も凄い響きだ。そのような呪われた身を抱いて救済して欲しいというクンドリの誘惑は狂おしいばかりだ。
 "Auf Ewigkeit(永遠に)"からの悩めるパルジファルの決然としたセリフは、ヴィントガッセンならではの声の魅力(不調さは変わらないが)とセリフ回しは素晴らしい。狂おしく迫ってくるクンドリをはねつけるだけの力を感じる。花の精たちの愛の音楽が狂おしく響く中、クンドリはなおパルジファルに愛を求める。パルジファルの音楽が"Wer durft'ihn verwenden mit der heik'gen Wehr?(神聖なその槍で、なにものが、あえて王を傷つけたのだ?) "から勇壮さを増し、パルジファルはクンドリを"Vergeh',unseliges Wieb!(消え失せろ!不吉な女め!)"と突き放す。
 クンドリは叫びとともにパルジファルに放浪の呪いをかけ、クリングゾルを呼ぶ。ウーデの最後の登場場面は少し迫力不足だが、ヴィントガッセンと管弦楽の神々しさがそれを補って余りある。
 クリングゾルの魔法の城はもろくも崩れ去り、パルジファルの放浪を暗示して第2幕は終了する。なぜか、音はフェードアウトする。Golden Melodram盤は、3枚目のCDに第2幕だけが入っていて、第1幕の唐突な盤の切り方ではないため、ここでは好感が持てる。

第3幕
 ワーグナーのオペラと言えば、「トリスタンとイゾルデ」にしても「ニュルンベルクのマイスタージンガー」にしても第3幕への前奏曲が極めて悲劇的で魅力的だ。クナ1952年盤はゆったりとした中にも突き刺すかのように前奏曲が奏でられる。救済を求めるその充たされない苦しさが、けっこう早いテンポで演奏される。埃っぽい録音ながら、管弦楽のなんと魅力的なこと!
 音楽は苦しさにあえぎながら減衰してゆき、クンドリのうめき声が聞こえる。グルネマンツはクンドリに気が付く。ヴェーバーのグルネマンツはここでも、しっかりグルネマンツに相応しい歌声を聞かせてくれる。クンドリを発見する背後の管弦楽の雄弁なこと!その後、クンドリをいたわる歌声は地声に近いが、慈愛がこもっている。
 管弦楽は幾分テンポは早めで、「パルジファル」第3幕を余すところなく描いてゆく。録音が比較的良いためか、その振幅の大きな管弦楽やクンドリの叫びが生々しい。
 ヴェーバーは隠者になった騎士の寂寥感をも表現しているかのようだ。実に素晴らしいグルネマンツだ。
 クンドリは奉仕を始め、遠景にやつれた姿のパルジファルが姿を現す。パルジファルの重い足音を現すかのような低弦域のピツィカートが凄い迫力で響く。
 やつれた旅人にグルネマンツはさまざまに問いかける。パルジファルは頭を下げたまま動かないので、ほぼグルネマンツの一人芝居だが、ヴェーバーのグルネマンツの歌声はそのさまざまな場面を確信を持って歌っており、グルネマンツの心情に対する共感度が豊かだ。
 そして、パルジファルが兜を取り、その姿を現す場面での管弦楽の残酷さを秘めた響きとフレージング。ほれぼれと聞き惚れてしまう。弦の息の長いフレーズがリアリティを持って魅力的に響く。
 目の前にいるのが、自分が追放した若者だと気が付いたグルネマンツの戸惑い、聖槍を発見した歓びに至る管弦楽とヴェーバーの歌声は見事としか言いようがない。魅了されてしまった。
 悟りを開いたヴィントガッセンのパルジファルは本当に素晴らしい。第1幕や第2幕の前半で「純粋無垢な愚か者」にしては分別くさかったヴィントガッセンの歌声は、ここでは放浪と辛酸をなめてきたパルジファルがリアルに響く。ヴィントガッセンは第3幕では好調そのもの、突きぬけたような救済者としてのパルジファルを聞かせてくれる。
 それに対するグルネマンツの"O Gnade!Höchstes Heil!(おお!神のおめぐみ!この上ない仕合わせ!)"の叫びのリアルさと、それに続く敬虔な管弦楽に乗ったヴェーバーの歌声が素直に喜びを秘めて響く。
 グルネマンツは、聖杯城で起こっているアンフォルタスの絶え間ない苦痛と死を願う姿、聖杯の儀式を拒否しているため衰弱してゆく騎士達を語ってゆく。悲痛な管弦楽が聞こえる。力強いはずの聖杯の儀式の音楽が、寂寥感を伴った音楽に飲み込まれる。ティトゥレルの死を歌うグルネマンツはすすり泣くかのようだ。
 既に、救済者として、アンフォルタスと共悩する者であることを自覚しているパルジファルは、自分の救済が遅れていることに自責の念にかられる。そのヴィントガッセンと管弦楽も凄いが、パルジファルがその悲しみに崩れ落ちる音楽の寂寞とした音楽は静かながらなお凄い。グルネマンツと、かいがいしく動くクンドリの動きが手に取るように理解できるかのようだ。
 救済者としてパルジファルを認め、その足を香油によって浄めているクンドリを表現する音楽のなんと優しく、共感に充ちていること!グルネマンツは香油をパルジファルに振りかけることによってパルジファルを祝福する。音楽は穏やかに盛り上がり、「パルジファル」を聞く上で至福の時間へと入ってゆく。
 自然が優しく美しく輝きだし、救済者の現れは平和で優しいものだということが表現される。音楽は哀しいまでに優しさを含み、聞き手を包み込む。パルジファルの歌声も優しさに溢れている。それが、聖金曜日の霊験だとグルネマンツは語り、パルジファルは聖金曜日とは、生きとし生きるものが悲しむ日ではないかと訝しいむ。それを、優しくグルネマンツが、そのような日だからこそ生きとし生けるものは慈愛の心を持ち、「罪を浄められた自然全体が、きょうこそ無垢無罪の日を迎えるのです」と諭す。クナの1952年盤を聞いていると、この場面が名場面だと素直に思える。実に感動的だ。これから8回も別の録音を聞いて感動できる小生は幸せ者だ。
 その幸福感は、クンドリへの祝福へと変わってゆく。呪われたクンドリは、パルジファルによって浄められ、至福の涙を流す。音楽はクンドリを優しく祝福し、安息を与える。
 午を告げる鐘の音が響き、グルネマンツはパルジファルを聖杯城へ誘う。第3幕の場面転換の音楽は始まる。第1幕での場面転換の音楽とは異なり、悲劇的な色彩の強い音楽が展開される。そのグワンと鳴る鐘の音は恐ろしいほどに、運命の残酷さを描き出す。ゆったりとしたテンポ、ド迫力で大広間へと場面は転換してゆく。
 騎士達の合唱は、勇壮さを多少秘めながらも、呪われた運命を嘆き、さらにアンフォルタスをなじる。ここでは最初のうちは合唱よりも管弦楽の方が雄弁だ。それでも、第1の騎士達のグループと第2の騎士達のグループが合体すると、威嚇するような恐ろしげな合唱になってゆく。
 騎士達の威嚇に、アンフォルタスが嘆きの歌を歌い出す。ロンドンの気品を失わないながらも、なりふり構わぬ嘆きは痛切だ。"Mein Vater!(おお、父上!)"の前の弦楽合奏から、音楽はゆったりとアンフォルタスの苦痛と悲しみをえぐり出して行く。管弦楽も凄いが、ロンドンも凄い。死を願うアンフォルタスの心情が切々たるこの音楽のなんと甘く痛々しいことか。
 騎士達はそのようなアンフォルタスをさらに非難するかのように、脅迫するように聖杯の開帳をうながす。
 アンフォルタスは「自分を殺せ!」と叫ぶ。アンフォルタスの苦痛がいかに深いか、ロンドンの歌声はそれを分からせてくれるかのようだ。
 アンフォルタスの悲痛な叫び声を慰撫するように、ヴィントガッセンの声が響く。ここでは、陰影のある分別くさいヴィントガッセンの歌声が救いのように優しく聞こえる。少し、セリフ回しに苦しいところがあるが、最後の場面の感動は変わらない。
 最後の最後、木管楽器の高域は苦しそうだが、神秘的な"Höchsten Heiles Wunder Erlösung dem Erlöser!(この上ない救いの奇蹟よ。救済者に救済を)"の合唱は極めて感動的だ。最後の平和な瞬間が永遠に続くような余韻を残して「パルジファル」は終わる。

 もし、DECCA-Teldecの1951年の録音ではなく、この1952年の録音が最初に聞かれた「パルジファル」だったら、その聞き手はどう感じたのだろう?と想像してしまうのは楽しい。1951年盤「パルジファル」も非常に優れた成果だし正規盤だが、劇としての緊迫度、管弦楽の迫力は1952年盤の方が圧倒的に上であるのは事実だ。音も、1952年という年代を考えるなら、かなり満足できるレベルだ。
 通常、晩年の「パルジファル」に関心が行ってしまいそうだが、是非、1952年盤も耳にして欲しい。優れたドラマとヴェーバー、メードルの名唱を聞くことができる。
 次回、1954年の「パルジファル」を取り上げる。