クナを聞く 第88回
ワーグナー編その8−6 「パルジファル」


 1951年と1952年にバイロイトに登場したクナだが、1953年はバイロイトと決別し、登場しなかった。クナはどんどんとモダンに斬新になってゆくヴィーラントの演出を嫌っていた。クナはワーグナーの楽劇の演出という点では超保守主義者だった。「パルジファル」もそうだが、より伝統的な演出からかけ離れてゆく「ニーベルングの指環」に違和感を持っていたらしい。
 ナチ政権時代、ワーグナーの息子、ジークフリートの妻であったヴィニフレートがバイロイトを支配していた(ジークフリートは1930年に死去)。ジークフリートの義兄で、バイロイトの思想的支柱であったスチュワート・チェンバレン(イギリス人だったがヒトラーを支持し、その社会的地位の確立に力を貸した)の薫陶もあり、バイロイトはナチ色が非常に強かった。第2次大戦後、バイロイトを復活させるためにはナチ色を払拭しなければならない。予算を切りつめる必要と古典的な楽劇の演出から抜け出すために、ヴィーラントは極端とも言える象徴的な演出を行った。それはそれで新バイロイト様式として定着し、ヴィーラントの舞台芸術は花開くのだが、そのあまりに先走った方法にクナはついて行けなかったのかも知れない。
 とにかく、クナはバイロイトと決別した。1953年は、やはりヴィーラントとの対立からカラヤンもバイロイトと袂を分かっている。カラヤンは1953年以降、バイロイトに復活することはなかった。
 1953年のバイロイトの主役は、1952年の「ニーベルングの指環」からプロジェクトに加わっているヨーゼフ・カイルベルトと、バイロイトに初登場になったクレメンス・クラウスである。もうひとり、オイゲン・ヨッフムもバイロイト初登場を果たしている。1953年のバイロイトでの演目と指揮者は以下の通りだった。
参考 richard wagner homepage

Clemens Kraussの若い頃。さすが高貴な顔立ちだな。  ウィーン国立歌劇場とバイエルン州立歌劇場の指揮者だったクレメンス・クラウスのオペラ指揮者としての実力は相当なものだった。1953年より遙か以前、1936年にクナはナチによってバイエルン州立歌劇場から追放され、クラウスはその後釜に座るのだが、これはヒトラー直々の希望だったと言われている。
 クナを嫌っていたヒトラーは、練習嫌いで歌劇場運営にいい加減なクナでは、計画中のミュンヘンに建設する巨大な歌劇場の指揮は無理だろうと考えていた。ヒトラーの意中の指揮者はクラウスで、ナチは、普段からナチを嘲笑していたクナの言動をきっかけにバイエルン州からクナを追い出し、さらにドイツ帝国内での指揮活動を禁止した。クナはウィーンをその活動の主舞台にせざるをえなくなるのだが、逆にウィーンからバイエルンにやってきたのはクラウスだった(途中プロイセン国立歌劇場が入るが)。クラウス自身、バイエルンでのその地位を望んでいたのかどうかは分からない。マイケル・H・ケイターは「第三帝国と音楽家たち」(明石政紀訳アルファベータ刊)の中で、「ドイツのウドの大木クナッパーツブッシュに比べると、クラウスは南洋の優雅な棕櫚の木のようだった」と書いている。ケイターはよほどクナが嫌いらしく、同書でボロクソに書いてある(同様にフルトヴェングラーもクレンペラーもボロクソだ。逆にR・シュトラウス本人や、R・シュトラウスに近かったクラウスやカール・ベームには同情的だ。その辺り、意図的なものかケイター自身の嗜好なのかが伺えて面白い。ケイターはワーグナーも嫌いなようだが・・・)。クナに関しては、ケイターの本を読むだけでは不十分で、是非、奥波一秀著「クナッパーツブッシュ」(みすず書房刊)の併読をお薦めする。
 とにかく、ナチによる世界的規模の歌劇場の建設と運営、という大事業にクラウスは関わることになる。ナチは巨大歌劇場の基礎となるバイエルン州立歌劇場に対し経済的、物質的に大きな支援を行う。クラウスはナチの巨額の支援の元、バイエルン州立歌劇場の実力を引き上げた。クラウス本人はむしろウィーンに帰りたがっていたようで、厚かましくもミュンヘンだけではなく、ウィーンでの地位もナチに要求したりしている。
 結局、世界最大の巨大な歌劇場は建設されることなくナチは没落し、クラウスはバイエルンからウィーンへ帰る。クラウスは、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを初めて行い、それを定着させたり、オペラ指揮者としての実力はかなりのものだったが、ナチ協力者のレッテルがついて回った。日本でも善玉フルトヴェングラー対悪玉クラウスのイメージが定着、聞きもしないでクラウスの評価を下げる評論家やファンは多かった。聞かないで評価を下げるほど、危険なことはない。実は小生もそうだったのだが・・・。
 話は戻って1953年、クナとカラヤンに決別されたヴィーラント・ワーグナーは困らなかった。元々ヴィーラントはクラウスの音楽が好きで、クレメンス・クラウスをバイロイトの指揮者に指名、1953年のクラウスのバイロイト初登場となった。ヴィーラントとクラウスの芸術観は齟齬を起こさなかったのか、ヴィーラントはクラウスの創り出す音楽を気に入る。1954年以降も、バイロイトの主要な指揮者としてクラウスは引き続き起用されるはずだった。ところが1954年5月16日にクラウスは楽旅先のメキシコで急死してしまう。慌てたバイロイトは再びクナと和解(クナとの和解に動いたのは弟のヴォルフガングだった)、クナは死の前年までバイロイトに登場することになる。
 クレメンス・クラウスのバイロイトでの記録は、「ニーベルングの指環」「パルジファル」ともその録音は残っていて聞くことができる。クラウスの指揮は、ワーグナーの楽劇からクナのような哲学的、思索的な音楽を聞くことはできないものの、オペラとしての面白さはクナ以上だ。実に分かり易くワーグナーの楽劇を聞かせてくれる。恐らく、「いい悪い」「ワーグナーオペラの本質を突いている突いていない」は別にして、ワーグナーの望んだ楽劇の音響としては、クラウスの方が近いような気がする。
 クラウスによる1953年バイロイトでの「パルジファル」を聞いていると、そのしなやかなフレージングとメロディの歌わせ方の巧さはさすがだ。さらに、歌手達はクラウスの指揮の元では感情移入がしやすかったようで、アンフォルタスのロンドン、グルネマンツのヴェーバー、クリングゾルのウーデとも、素晴らしい歌唱を披露している。恐らく、「パルジファル」をストーリーの流れを重視した聞き方をするなら、クナよりもクラウスの方が適している。実に分かりしやすく「パルジファル」を結実させている。ティトゥレルを歌うグラインドルも、その威圧的な声が実に雰囲気とマッチしている。その歌手達の力量を引き出すクラウスの力は見事としか言いようがない。
 ただ、クナを聞き慣れてしまっている耳には、全体の「パルジファル」の流れが通俗的で、ネアカな「パルジファル」に聞こえてしまう。アンフォルタスやクンドリの奥深い悲劇のようなものが迫ってこない。管弦楽も、クナのもたらす響きは木訥だが、クラウスのもたらす響きは洗練されている上に効果的で実に美しいのだが、「パルジファル」の本質をえぐり込むような凄みには乏しい。
 しかし、これは、クナの「パルジファル」を聞き慣れてしまっているからで、クラウスの「パルジファル」は、その演奏史の上で、かなりの高みにあることは間違いがない。第2幕の面白さはウーデの悪役に徹した怪唱や花の精たちのテンポが快調で、クナ盤以上にその面白さを堪能できる。むせ返るようなスペクタクルとでも言えばいいか。ただ、メードルのクンドリは、「フィガロの結婚」や「ばらの騎士」の伯爵夫人のイメージで、大昔に呪いをかけられた悲劇の持ち主による抜き差しならないパルジファルの誘惑には聞こえない。パルジファルを歌うヴィナイはトリスタンの雰囲気で、たっぷりとその心情を歌う。美しい二重唱だが、アンフォルタスの悲劇を頓悟するパルジファルのリアリティの奥深さには到達していない。これは、クナとクラウスの「パルジファル」の捉え方の違いだろう。
 第3幕前奏曲は、その悲痛な心情に広がりはないものの魅力的な響きは素晴らしい。その悲劇的な響きに呆然とすると言うより、ごく自然な慟哭は涙を誘う。ヴェーバーとヴィナイのやりとりも素晴らしく、背後の管弦楽も見事に第3幕前半の寂寥感を描いてゆく。素晴らしい演奏だな・・・。前半は見事な泣き節になっている。グルネマンツのヴェーバーも、クラウスの指揮によく応えている。パルジファルのヴィナイはまるでアンフォルタスのようだが。"Und ich! - ich bin's,der all'dies Elend schuf!(わたしだ、わたしだ。こういう悲惨時の一切をまきおこした張本人は)"の叫びと前後の管弦楽はまことに凄まじい。
   クンドリの浄めとグルネマンツによる洗礼の場面から、辺り一面の野原が輝きを増す場面では、ヴィナイのパルジファルはさすがに苦しいが、管弦楽の高貴な響きはクンドリの仕草を想像させ感動を誘う。ヴェーバーのグルネマンツは快唱というべきだろう。野原の輝きの音楽も見事だ。素直に感動してしまえる音楽になっている。イタリアオペラの盛り上がりのようでもあるが、その分実に分かりやすい。
 第3幕の舞台転換の音楽も迫力がある。クナのもたらす巨大で抜き差しならないような響きではないが、その舞台を彷彿とさせるようで実によい。続く騎士達のコーラスでは管弦楽とコーラスのテンポと感情の表出に少し齟齬あるが、小さな傷だ。最後、パルジファルが聖杯王として宣言し、フィナーレに至るまでオペラとしての感動は素晴らしかった。最後のコーラスと管弦楽の清々しさはハリウッド製聖書映画にも似て、少し気恥ずかしさは残るものの感動的だ。ヴィナイは、やはりここではパルジファルには不似合でその歌唱も苦しそうだが、よく健闘はしている。
 クレメンス・クラウスの「パルジファル」はもっと聞かれてもしかるべき録音だろう。クナの描き出す「パルジファル」の世界とは異なる、物語性に優れた「パルジファル」を聞くことができる。
 なお、小生はクラウスの「パルジファル」では2種類のCDを確認しているが、Archipel盤は高域をイコライザーで持ち上げたような、くっきりはっきりした音が特徴。かなり迫力はあるが、Arlecchino盤の方がおとなしやかながら自然な音を聞くことができる。ただし、ドンシャリ傾向ながらArchipel盤も、歴史的録音のCD化としてはそれほど悪い復刻ではない。第1幕前奏曲で同じところで音がよじれるので、恐らくマスターは同じものだろう。
ARLA18-21
ARPCD 0171-4
Clemens Krauss

Amfortas...George London
Titurel...Josef Greindl
Gurnemanz...Ludwig Weber
Parsifal...Ramon Vinay
Klingsor...Hermann Uhde
Kundly...Martha Mödl
(rec.1953 L)

Arlecchino/ARLA18-21(Italy)4CDs
Archipel/ARPCD 0171-4(Germany)4CDs

KICC-2341
GM 1.0053
Amfortas...Hans Hotter
Titurel...Theo Adam
Gurnemanz...Josef Greindl
Parsifal...Wolfgang Windgassen
Klingsor...Gustav Neidlinger
Kundly...Martha Mödl
(rec.1954 L)

King Seven Seas/KICC-2341-44(Japan)4CDs
Golden Melodram/GM 1.0053(Croatia)4CDs
 クナ1954年の「パルジファル」は2種類のCDが手元にある。King Seven Seas盤は1993年11月にリリースされたもので、ミュンヘン・ハンス・クナッパーツブッシュ協会のフランツ・ブラウン氏からテープの提供を受けたものだ。当時金欠病の小生はこのCDが買えず、長い間1954年盤を聞くことができなかった。小生のホームページを見ていただいている方からお譲りいただいたものだ。
 もう1種はGolden Melodramの一連の復刻もののひとつで、音はGolden Melodram盤の方が素晴らしい。King Seven Seas盤は原テープにあったのかホワイトノイズが盛大で、強奏での音の混濁や音揺れなど、原音源の劣化を感じさせる。Golden Melodram盤の音はめざましく、ノイズも少なく、モノラルながら立体感のある音になっている。Golden Melodram盤もフランツ・ブラウン氏がかんでいるCDだが、King Seven Seasにテープを提供した後、より状態の良いテープが発見されたのだろう。これは、Golden Melodram盤がリファレンスで問題がない。

第1幕
 2年ぶりのバイロイト復帰を果たしたクナの、気合いのこもった前奏曲が聞ける。木管楽器が突出しして聞こえる箇所はあるものの、全体的にクナのテンポが実に「パルジファル」という深刻なオペラにマッチしていることが分かる。1952年盤と同じようなタイミングだが、感動的な前奏曲が繰り広げられてゆく。
 1954年のグルネマンツはヨーゼフ・グラインドルが歌う。「ニーベルングの指環」での悪役ぶりが際立つグラインドルだが、クナの「ニーベルングの指環」全曲の録音は1956年、この2年後だ。グラインドルは、グルネマンツにしては張りのある艶やかで素晴らしい声を聞かせてくれる。ただ、グルネマンツという役柄を歌うには、当時のグラインドルはまだ年齢を重ねる必要があったようで、グルネマンツというより、第2の騎士の方がまだ合っているような気がする。
 しかし、それは贅沢な望みだ。グラインドルの豊かな声を楽しみにしながら、1954年盤を聞いてゆこう。どこか恫喝するようなグルネマンツだが、その声の魅力はかなりのものだ。
 クンドリが馬に乗って現れる場面、管弦楽は重く盛り上がる。その迫力やクンドリが落馬した辺りの弦楽器の崩れ落ちるようなフレーズの魅力的なこと!メードルのクンドリが歌い出すと、グラインドルの貫禄不足が出てしまう。やはり、ルードウィッヒ・ヴェーバーのどこか枯れた歌声の方が相応しいようだ。グラインドルは朗々とした声でメードルや管弦楽に対抗するが、まだ、この時代は老獪さには欠ける。
 凄いのはやはり管弦楽で、どこを取ってもクナの確信に充ちた演奏が聞ける。暖かな血が噴き出してきそうな「パルジファル」だ。その引き延ばされたような豊かな呼吸感と迫力は、クラウス盤を聞いた直後だからか「パルジファル」に相応しい、懐かしい音を聞いたような錯覚に襲われる。そのゆったりとしていながらも、緊迫感はもの凄い。
 アンフォルタスをハンス・ホッターが歌うが、このアンフォルタスは貫禄がありすぎる。老境に至ったようなアンフォルタスで、劇のイメージからすれば少し老けすぎか。グルネマンツとアンフォルタスが、その年齢と貫禄で逆に聞こえてしまう。ホッターの感情移入がもの凄い、嘆きに充ちたアンフォルタスはこれはこれで大きな聞き物だが。
 アンフォルタスが「クンドリ」と呼ぶさまは、まるでティトゥレルがクンドリを呼んでいるかのようだ。ただ、ホッターはグラインドルとは違い、メードルの貫禄には負けていない。
 この1954年盤では、小姓たちがうまい。第3、第4の小姓をゲルハルト・ウンガーとゲルハルト・ストルツェが担当していて、なるほどと思った。いわゆる旧世代のワーグナー歌手達の中で、グラインドルは当時少々異質なのだが、声量のある声そのものは実に魅力的だ。グルネマンツの"Das ist ein And'res(それは別問題だ)"からのグラインドルの演技とクナのもたらす凄まじい管弦楽の響きは、アンフォルタスがクリングゾルに返り討ちに合う、家臣としてやりきれない場面を実に巨大な迫力で描いてゆく。グラインドルに対する違和感が共感に変わってゆきそうな素晴らしだ。"Die Wunde ist's,die nie sich schließen will!(だが、二度閉じようとしない傷口ではなあ)"の嘆きは、ハーゲンの嘆きのようだが・・・。その後のクリングゾルの思い出は実に魅力的で説得力がある。この辺りは、グラインドルの若々しさが良い方向に働いて、クナの管弦楽共々魅力的だ。クリングゾルの邪悪な行いがパノラマのように眼前に広がる。クリングゾルが聖槍を握ったその姿が実に憎々しく語られる。グラインドルの歌唱は非常にドラマティックに「パルジファル」第1幕を盛り上げる。
 白鳥が射落とされ、その迫力たるや管弦楽の威力、グラインドルの威力、合唱の威力が加わってもの凄い迫力を獲得している。この1954年盤では、ヴィントガッセンの"Gwiß Im Fluge treff'ich,was Fliegt(そうさ、空を飛ぶものなら、どんなものだって射てみせてやらあ)"が、それほど齟齬を起こしていないように聞こえる。続く、グラインドルが諭す場面では、「諭す」というより怒っているようだが、グラインドルの諭す声は迫力があり、間然とするところがない。こういう声で怒られたら怖いだろうなあ。
 グラインドルのグルネマンツと、ヴィントガッセンのパルジファルは実にいいコンビだ。威嚇的なグラインドルの前で、ショボンとうなだれるパルジファルが実にうまく表出されている。その後も、ヴィントガッセンのパルジファルは1952年から格段の進歩を遂げており、純粋無垢な愚か者を、それに相応しく演じてゆく。パルジファルの思い出話も、実に楽しい。クンドリに「母が死んだ」と告げられ、逆上するパルジファルを止めるグルネマンツの"Verrückter Knabe!Wieder Gewalt?(これ、気でも狂ったか。また腕力ざたとは)"の後の管弦楽の真に迫った迫力、そしてその後のクンドリの寂寥感を増して行く音楽は真に迫ってくる。
 クンドリの"Nein Nicht schlafen! - Grausen faßt mich!(いや、眠ってはいけない。恐ろしくなってきた)"辺りの、残酷に突き刺すような管弦楽。そして、クンドリは"Machtlose Wehr!Die Zeit ist da(ああ、ふせぐ力がない。時がきた)"と、眠りにつき、第2幕でクリングゾルの手先として姿を現す。多くの「パルジファル」と同じように、ここでGolden Melodram盤は盤面が変わる。
 グルネマンツにうながされて、パルジファルは時空を越えて聖杯城に向かう。場面転換の音楽は、グルネマンツとパルジファルが話をしている間にも、ゆったりと迫力を増して行く。聖杯城の輝かしさと、その壮麗さが見事に音化される。クナの魔術のような指揮で、何度この壮麗な聖杯城が眼前に現れ出でたことだろう。1954年盤は暗ノイズが少しやかましいが、それでも聖杯城の音楽の素晴らしさにはうっとりと聞き惚れてしまう。その止まりそうな不思議な時間感覚を追体験できる。
 やがて、ゆったりと聖杯の騎士達の入場が始まる。騎士達の合唱が始まり、聖なる儀式が始まる。クナの管弦楽は少しギクシャクして聞こえるが、そのゆったりとした音楽は何物にも代え難く、素直に壮麗な儀式を目の当たりにして感動している自分に気が付く。青年達の合唱のザワザワとして臨場感のあること!"Der Glaube lebt(信仰は生き)"からのゆったりと感動的な合唱は、卒倒しそうなくらい素晴らしい。
 ティトゥレルをテオ・アダムが歌う。アダムは当時まだ若かったが、ここでのティトゥレルはしっかりとリアリティが確保されている。ティトゥレルの聖杯の開帳への願いの後、ホッターのアンフォルタスによる嘆きが前面に出てくる。さすがにホッターの嘆きは素晴らしい。そのホッターの嘆きに輪をかけるように管弦楽が迫ってくる。アンフォルタスにしては多少違和感はあるが、その嘆きは凄まじく、アンフォルタスの苦悩がそのままスピーカーから飛び出してくるかのようだ。管弦楽もホッターも音楽は沈み込み、アンフォルタスの苦恨と救いのない苦痛にさいなまれるさまがゆったりしたヴィヴラートで切々と歌われる。真に迫ったアンフォルタスの苦しみを聞くことができる。ホッターはアンフォルタスには多少不向きのような気もするが、その歌唱を聴かされてしまうと有無を言わせない素晴らしさで聞き手をグイグイと引っ張ってゆく。"Erbarmen!Erbarmen!(あわれみたまえ!あわれみたまえ)"は、もう絶唱としか言いようがない。
 そのホッターの絶唱の後の、"Durch Mitleid wissend(共に悩みて悟りゆく)"からの清浄な合唱やティトゥレルの"Enthüllet den Gral!(聖杯を開帳せよ)"の素晴らしさ!そして、運命の哀しい扉が開かれるように、聖杯は姿を現す。ゾクゾクするような凄い音楽が聞ける。聖杯の開帳される場面のなんと陶酔的なことだろう!聖なる儀式が大きな意味を持つかのように、音楽は合唱の清浄さを保ちながら、聖杯の音楽へとつながってゆく。そして、"Nehmet hin mein Blut(わが血を受けよ)"からの凄みのある神秘さ!クナがもたらす感動は極めて大きい。ティトゥレルの感極まった"Oh!Heilige Wonne!(おお、聖なるよろこび)"は、アダムに少し貫禄不足だが、少年達から騎士達に受け継がれ、力強さを増して行く合唱に変わって行く。騎士達の合唱はそれほど洗練された歌唱ではないが、その不器用でざわついた感触は、無骨な騎士達の歓びを素直に表現しているようにも聞こえる。そして、音楽はどこまでも膨らんでゆくかのようにクレッシェンドしてゆき、"Selig im Glauben!(信仰に幸あれ!)"の再び清浄な合唱に戻ってゆく。哀しくなるような聖杯の音楽が聞こえ、それが感極まったように豊かな厚みを伴ったメロディが奏でられる。音楽は見事なドラマを形作りながら、聖杯の儀式自体は喜ばしいものであったことを表現する音楽が、哀しげなメロディと交互に流れる。やがて、音楽は行進曲に変わり、聖杯の儀式は終わりをつげる。木管楽器のメロディが魅力的に演奏される。
 儀式を茫然自失で見ていたパルジファルに失望したグルネマンツはパルジファルを聖杯城から追放する。ここでも、グラインドルの声は威圧的である。少年達と青年達の合唱の"Selig im Glauben!(信仰に幸あれ)"が引き延ばされ、第1幕は終了する。

第2幕
 1952年盤で少し頼りなかった第2幕への前奏曲が確信と緊張感を持って演奏される。クリングゾルは、グスタフ・ナイトリンガーが歌う。その"Die Zeit ist da(時がきた)" の第一声でナイトリンガーのクリングゾルが素晴らしいものであることが分かる。1951年のウーデをさらにニヒルにしたように、クリングゾルの暗黒の力を感得できる素晴らしさだ。クナの凄いところは、クリングゾルの暗黒の力と不気味さを表現するだけではなく、クリングゾルとクンドリの、運命に絡め取られた哀しみのようなものを表現してしまうところだ。クンドリが目覚める直前の寂しげで哀しい音楽は聞き物だ。
 クナは第2幕冒頭こそ速めのテンポで押しまくるが、クンドリが目覚める前後からゆったりとしたテンポで、その抜き差しならないクンドリの運命をいたわるかのように管弦楽は響く。
 ナイトリンガーはかなり強者のクリングゾルを演じてゆく。その声量は凄まじく、メードルに一歩もひけをとっていない。クナのゆったりとしたテンポに乗って、クンドリをいたぶってゆく。"Gefiel er dir wohl,Amfortas,der Held(おまえには、あの勇み肌のアンフォルタスが、気に入ったのか)のいやらしさは、クンドリの罪にさいなまれながらの肉欲的な歌を引き出す。メードルはまだ叫んでいるだけだが、ナイトリンガーの嘲笑を伴った堕落した聖杯の騎士とパルジファルの戦闘の様子の描写は、ほぼ理想的な戯画的な場面を作りだしている。クリングゾルの命令に逆らいながらも、クンドリは「誘惑」という自分の性に逆らうことができない。クリングゾルの手の中では、クンドリは誘惑という快楽から逃れ出ることはできないのだ。
 クリングゾルは魔法の城を花の精の園に変え、花の精たちが群がり出てくる。その渦を巻きながら群がり出てくる様子が実に効果的に聞こえてくる。のんびり気味のヴィントガッセンの声も、無垢な若者としては効果的だ。ヴィントガッセンのパルジファルに対する表現力は確実に上がっている。
 クラウス盤よりも、花の精たちのパルジファルを取り合っての輪舞はむせ返るようだ・・・と、思っていたら、Golden Melodaram盤は、その花の精たちの輪舞の途中で盤面が変わってしまった。残念。
 気を取り直して、3枚目のCDを聞こう。ゆったりと揺りかごに揺られているようなテンポで、クナは花の精たちの輪舞を描いてゆく。その快楽に埋没してしまいそうな響きは実に魅惑的だ。いつまでもその快楽に中に身を浸らせていたい、と思わせる官能的な音楽が聞ける。毎回の事ながら、弦の高域の扱いが独特で、クナは優れて官能を描くことができるようだ。
 そして、クンドリが蠱惑的にパルジファルの名前を呼ぶ。パルジファルは名前を呼ばれて、自分がパルジファルと呼ばれていたことを、母の甘い追憶と共に思い出す。メードルの歌唱はどれを聞いても見事だが、この1954年盤も見事に魅了されてしまう。そして、クンドリが花の精たちに立ち去るよう諭すそのテンポ!クナの息の長いフレーズ作りは、その後のクンドリとパルジファルのやりとりまで、かなり深い呼吸感を感じる。その息が止まりそうな呼吸感の中で、夢の中でのようにクンドリはパルジファルを誘惑する。1952年まで不満が残ったヴィントガッセンは、ここではまったく不満がない。管弦楽、メードル、ヴィントガッセンとも、とろけそうな素晴らしく甘い官能と追憶の世界を描いてゆく。この、時間が追憶の中で溶解してゆくような感覚は、クナの演奏でしか聞き得ないものだろう。クナの強面の顔を想像していてはまるで理解不能の世界だが、クナは官能的な世界を誰よりも的確に描くことができた。その一つの証のような演奏が1954年盤で繰り広げられている。メードルの重い、それでいて甘くとろけるような歌唱がその演奏に大きな魅力を付け加えている。
 やがて、クンドリはパルジファルの母、ヘルツェライデの悲しい死を語ってゆく。そのズブズブと沈み込んでゆく情感の凄さ!パルジファルはその泥沼のような悲しみにはまりこむように、母の元を去ったことを悔いる。その悲しみにつけいるように、クンドリはパルジファルを、"Bekenntnis wird Schuld in Reue enden(懺悔をすれば、罪は後悔となって消えるものよ)"と包み込んでゆき、パルジファルにキスをする。
 ところが、パルジファルはそのキスで、アンフォルタスの得ている苦しみの源泉を閃いたように理解する。アンフォルタスの苦しみが押し寄せてきて、パルジファルは共苦する。その渦を巻くような管弦楽は実に見事だ。ヴィントガッセンのパルジファルは、真面目に五感を充たす官能の快楽が、アンフォルタスを苦しめる源であることを知る。その苦恨の元を知ったパルジファルの背後で、聖杯の音楽が哀しく切なく鳴り響く。"Erlöse,rette mich aus schuldbekleckten Händen!(罪に汚れたる手より、われを救い助けよ)"という神の嘆き声を聞く。感動的なパルジファルの悟りの場面だ。そして、クンドリの誘惑の仕草のひとつひとつがアンフォルタスを堕落させ、自分をも堕落させようとしていることを理解し、クンドリをなじる。
 パルジファルに突き放されたクンドリもまた、共悩するひとである。ただ、その解決方法が異なるだけだ。その解決方法が異なるため、クンドリは汚れている。クンドリが考える自分が救済される方法とはパルジファルに抱かれることだが、そのクンドリの苦しく悲しい性が1954年盤では真に迫ってくる。その深く暗い寂しさと悲しみを、クナは愛情と同情を持って描き出す。単なるクンドリの誘惑の場面としてだけではなく、クナは「パルジファル」というオペラの臓腑をあぶり出してゆくかのように、クンドリの本質に迫ってゆく。誠に凄い心理描写の音楽が聞ける。このオペラの本質は、パルジファルの聖性を描くことではなく、人間の本質的な問題とも言えるクンドリの悲しい性を描き出すことにあったのだ、とも言える内容を持っている。確かにオペラはアンフォルタスとパルジファルの共悩を描き、真に聖なるものに到達する重要な事柄を言っているようであるが、現実はクンドリの蠱惑的な性への誘惑と、そこから逃れ出ることが困難な性(サガ)を描いて余すところがない。また、不幸に陥れられている人を嘲笑する優越感が、クンドリへの呪いとなって現れるように、人間の持つ弱みを追求してゆく。げに、第2幕は「パルジファル」の肝である。
 クンドリはパルジファルに放浪の呪いをかけ、クリングゾルを呼ぶ。クリングゾルは聖槍をパルジファルに投げつけるが、パルジファルの頭上で止まり、パルジファルによってクリングゾルの魔法の城は瓦解する。"in Trauer und Trümmer stürz'er die trügende Pracht!(目を欺く華麗な眺めも、槍よ、突き崩して悲哀と残骸に変えよ!)"という象徴的な言葉が印象的だ。パルジファルは、クンドリとの再会を暗示しながら、第2幕は終わる。
 凄い第2幕だった。

第3幕
 人間という存在の、苦しみの源泉と人間の性まで迫った第2幕の哀しさを知った上で、この第3幕前奏曲を聞くと、心に染み入るものがある。アンフォルタスの苦しさ、クンドリの悲しさは我々のものではないか?という、突き刺すような問題提議が行われ、解決されないまま第3幕に流れ込む。
 グラインドルのグルネマンツは、硬質の鈍い光を放つ金属のようだが、この第3幕ではどこかその歌声にホッとできる。グルネマンツは茨の垣の中で苦しむクンドリを発見し、いたわってやる。クンドリの苦しみとグルネマンツの優しさを、管弦楽が雄弁に語ってゆく。クンドリの不吉な叫び声の後の、"Du tolles Weib!(おい、気でも狂ったか。おまえ)"からの優しい心情が、強ばったクンドリの心を癒してゆく。グラインドルの歌声は、第3幕で暖かみを持つように響く。隠遁した老人には聞こえないが、その声は魅力的にクンドリに同情してゆくグルネマンツを描いてゆく。むしろ、パルジファルが変わり果てた姿で現れる辺り、古武士のような風格がある。
 調子が狂ったような行進曲のリズムに乗って騎士の姿でパルジファルは現れ、グルネマンツはパルジファルと気づかずに、聖金曜日は武装すべきではないと諭す。クナの呼吸とグラインドルのその古武士のように風格のある歌声が素晴らしい。管弦楽の深い音色が実に印象的に響く。パルジファルはグルネマンツに諭されるまま兜を脱ぎ、グルネマンツはその騎士がパルジファルであることに気が付く。そして、パルジファルの持つ槍が聖槍であることに気が付くセリフとその管弦楽の見事な響きは優れて描写的だ。
 ヴィントガッセンのパルジファルは、"Heil mir,daß ich dich wiederfinde!(あなたに再会するとは、しあわせの至りです)"と柔らかく歌い出す辺りはゾクゾクする。グルネマンツが、"Wir kamst du heut'?Woher?(どうしてきょうここへおいでだ?いったいどこから?)"と尋ねるところで、Golden Melodram盤は盤面が変わる。
 パルジファルは、迷いに迷ってようやく聖杯城への道にたどり着いたことを物語り始める。アンフォルタスの痛みと苦しみを知った後、パルジファルは苦難の放浪を余儀なくされていたのだが、その苦しい道のりを管弦楽、ヴィントガッセンとも見事にリアルに語ってゆく。そのパルジファルの言葉に感極まったグラインドルの歓びの声も素晴らしく感動的だ。グラインドルの鋼のようでありながら、どこか暖かい歌声は聖杯城を取り巻く、悲しく暗い現実を明らかにしてゆく。そのもの語りの素晴らしさは、グラインドルに対して違和感があった第1幕がウソのように共感しながら聞くことができる。ゆったりとして沈み込むような管弦楽の音は深く、グルネマンツの悲しいもの語りに感情を付加してゆく。このテンポ感というか、悲しみに浸り込んだような管弦楽はまさしくクナならではのものだ。ティトゥレルの死を話し、悲しみに打ち震えるようなグルネマンツの"er starb - ein Mensch wie alle!(世を去ってゆかれたのです。やはり誰とても同じ人間のみですね)"は涙なくしては聞けない。
 パルジファルは聖杯城にもたらされた悲劇は、全て自分のせいだと激しく自分をなじる。クンドリとグルネマンツは静かに落ち着いている。激高するヴィントガッセンと静かなグラインドルの対比が見事で、グルネマンツとクンドリはパルジファルの旅塵を落とそうとする。アンフォルタスの元へと、心が急くパルジファルを、グルネマンツは優しくいたわる。そして、アンフォルタスの聖杯の儀式への心づもりを語る。
 クンドリはかいがいしくパルジファルを浄めているが、そのゆったりとした音楽の清浄で美しい響き!悔い改めたクンドリの心情がにじみ出るような音楽になっている。グルネマンツはクンドリから香油を受け取り、パルジファルを救世主として洗礼する。救世主としての自覚を持ったパルジファルは、最初の務めとしてクンドリを洗礼する。音楽は輝かしく救世主を祝福し、クンドリはその悦びに激しく泣く。感動的な音楽が悠揚迫らざるテンポで静かに鳴り響く。聖杯城での儀式の場面は大人数によるクライマックスだが、「パルジファル」の真のクライマックスは、このパルジファルの救世主としての自覚、クンドリの洗礼、そしてそれに続く輝ける野原の場面ではないかとつくづく思う。それほど、この場面はワーグナーの霊感と良心を聞くことができるかのようだ。パルジファルに、聖金曜日は生きとし生けるものが嘆き悲しむ日ではないか?と問われたグルネマンツの、"Du siehst,das Reuetrünen sind es,(ごらんのとおり、それは違います)"と答え、全てのものが慈悲の心を持つ日だ、と語ってゆくその音楽のなんと穏やかで、平和な気分に充ちていることか!グラインドルの名唱がその平和な場面を説得力あるものにしている。管弦楽もじっくりと、しかも自然に内から湧き起こる感動的な音楽を聞かせてくれる。希有な感動的な体験を、この1954年盤第3幕はもたらしてくれる。
 やがて、午になり舞台転換の音楽へと変わってゆく。その音楽は打ちひしがれたように暗い。うねるような低弦域がその悲しさの城への道行きを暗示する。音楽はひととき勇壮さを持つが、また暗く沈み込み、葬送行進曲を奏でながらアンフォルタスが苦しむ聖杯城の大広間へと舞台を移してゆく。テンポの遅い管弦楽は実に効果的に、聖杯の儀式の場というより、ティトゥレルの葬儀の場へとおもむくかのようだ。
 ティトゥレルの悲しい葬儀の合唱が流れる。重く何かに押さえ込まれているかのような葬送行進曲だ。その引きずるような、そして悲しみが渦を巻くような合唱と管弦楽はもの凄い迫力で迫ってくる。
 騎士達の"Zum!letztenmal!Zum!letztenmal!(いまをさいごに、これを限りに)"の叫び応じるようにホッターのアンフォルタスの慟哭が始まる。ホッターはどこか諦念を感じさせるように父ティトゥレルを悼み、自分の罪をなじる。ホッターの歌声は、その悲しさの深さを感じさせるようで、聞き物だ。死への憧憬はどこか甘い響きを漂わせている。録音や映像によっては、このアンフォルタスの嘆きがわがままにしか聞こえないものがあるが、さすがホッターはアンフォルタスの嘆きの深さと苦悶を必然性のあるものにしている。クンドリの誘惑に乗ってしまったアンフォルタスにしては貫禄がありすぎではあるが・・・。「ワルキューレ」での、ヴォータンのブリュンヒルデとの別れを彷彿とさせる嘆きを聞くことができる。
 パルジファルが進み出て、アンフォルタスの罪が浄められることを宣言し、アンフォルタスの傷口に聖槍をかざす。傷口が癒えたアンフォルタスは聖なる喜びの表情を浮かべ、パルジファルは新たな聖杯王として聖杯の開帳をうながす。
 クナはヴィーラント・ワーグナーに、バイロイト復帰のひとつの条件として最後の場面で鳩を出すことを挙げたようだ。ヴィーラントは自身の象徴的な舞台では、具体的な鳩を出すようなことは考えていなかったが、クレメンス・クラウスの替わりに急遽クナを指揮台に座らせなければならない。ヴィーラントはオーケストラピットのクナだけが見える位置まで鳩を降ろすことで妥協した。鳩が出てこなければ「パルジファル」は祝福されないし、ドラマは完結しないと考えていたクナは、客席からは見えない鳩にいたく満足したのだそうだ。むろん、クナは自分だけが鳩を見ているとは思っていなかった。客席からも見えているものと思いながら指揮をした。
 そして、「パルジファル」大団円は極めて感動的なものになった。

 凄い「パルジファル」だった。1951年盤も1952年盤も凄かったが、1954年盤の感動はさらにそれを上回る。第1幕では違和感の残ったグラインドルも第3幕では感動的な名唱を聞かせるし、貫禄がありすぎるもののホッターのアンフォルタスも素晴らしかった。メードルやナイトリンガーの役柄に徹した歌唱も光る。
 さらに、それらの歌手達を上回るクナの「パルジファル」に対する共感が、最後までゆったりと渦を巻くような感動的な音楽を作りだしたと言える。これは奇蹟のような「パルジファル」だった。1956年盤以降も、この感動を味わえるのだろうか?
 次回、1956年盤「パルジファル」を取り上げる。