クナを聞く 第107回
ブルックナー編その1−6 交響曲第3番
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(rec.1964/01/16 L)
Living Stage/LS 1003(Slovenia)
Golden Melodram/GM4.0008(Croatia)7CDs...Reference
Chaconne/CHCD-1002(Japan)
King Seven Seas/KICC-2359(Japan)
クナはこの後、ミュンヘンで「フィデリオ」、ウィーンでブラームス:「ハイドンの主題による変奏曲」、ブルックナー:交響曲第4番を振り、再度ミュンヘンでオペラを指揮(ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」、ベートーヴェン:「フィデリオ」)、そしてバイロイトでの「パルジファル」4回の公演がその指揮の最後になった。
「Hans Knappertsbusch Dicography」(キング・インターナショナル刊)によると、バイロイトが終わって、10月には、ハンス・ホッターの新演出による「さまよえるオランダ人」を振る予定だったそうだが、果たされなかったそうだ。クナは、1965年にも「バイロイトに出演、「パルジファル」を振る気だったが、その前に天はクナを召してしまった。
この、クナ1964年ブルックナー:交響曲第3番の演奏録音を、「Hans Knappertsbusch Dicography」(前掲)の中で吉田光司氏は、「ミュンヘンでの最後の演奏会の録音は、衰えが端々に聞かれ痛々しい。響きの透明な美しさは例えようがないのだが。」と書かれている。
小生はどう聞いたかというと、前回のクナを聞く 第106回でもそうだったのだが、演奏の巧拙を別にして、さらに目頭が熱くなるような演奏だった。1964年盤の馥郁とした雰囲気、第一楽章から哀感がこもり、その哀感が昇華されてゆくような演奏に、改訂を繰り返したブルックナー最晩年の境地、クナのたどり着いた、やはり最晩年の境地に心を打たれる。内容として、クナ好きなら超絶的名演に聞こえる演奏である。
第一楽章
ひとつひとつのフレーズが実に意味深く語りかけてくる。これほど心に訴えかけてくるブルックナー:交響曲第3番の演奏は他にない。その分、ブルックナーの交響曲に期待する迫力やケレンは少し後退しているように聞こえてしまうかも知れないが、この澄んだ響きは大きな感動をもたらしてくれる。
1964年に録音された音の割に、リファレンスに選んだGolden Melodram盤とて、それほど目の覚めるようないい音ではない。それでも、ゆったりしたクナのテンポ、真情に溢れた演奏を聞いていると、その音の悪ささえ、我慢をさせてしまうなにものかを持った演奏と言える。
最初の弦楽器の刻むようなフレーズからしてそのたたずまいは一種異様で、11小節のフルートが出てきてもうその哀感のこもった音色に、何かしらの真情の吐露を感じて感動してしまう。それは、クナのものか、オーケストラのものなのかは分からない。確実にブルックナー:交響曲第3番の心地よい音響の渦に巻き込まれてしまう。
31小節の最初のクライマックス前、リタルダンドしてクライマックスを築くのだが、そのリタルダンドの素晴らしく効果的なことや、クライマックスに突入してからのゲネラル・パウゼは実に見事だ。そして、34小節からの弦楽器群が静かにかなでるフレーズの何とふくよかなこと!39小節からの2回のクライマックスの直前、クナは足を踏みならして、オーケストラに決然とした響きを要求する。しかし、そのクライマックスの響きは重く、1954年頃の演奏録音の響きとはかなり異なっている。
34小節の弦楽器群による経過フレーズは、その後も42小節、一音上げて48小説にも登場するが、そのフレーズの、たとえば44小節のピアニシモで演奏される第2音が素晴らしく意味深い。フレーズの膨らみとその後に続くメロディを、しっかりと有機的に、なおかつ意味を持って演奏させている。
52小節からのオーボエの響きも素晴らしく、59小節からのフォルテシモでなだらかに崩れ落ちるようなフレーズは、透明な響きで感動を誘う。
冒頭が繰り返され、87小節からのクライマックスは明るい響きで、さらに大きな感動的をもたらしてくれる。
101小節から、ブルックナー特有ともいえる弦楽器によるメロディ!1962年NDRとの演奏も素晴らしかったが、この1964年ミュンヘン・フィルとの演奏では、さらに表情が透明になり、優しく、なおかつ暖かな情感を聞くことができる。139小節からの滔々と流れるようなメロディは、憧憬が昇華され、明るく解放されてゆくようで、実に素晴らしい音楽を堪能できる。そのような優れてゆったりと優しく演奏されてゆくため、171小節からの弦楽器の跳躍も、変にギクシャクしては聞こえない。自然な流れの中で聞くことができるようなフレージングになっている。
トランペットが少々不調で、音がひっくり返ったり出るタイミングがほんの少しずれたりするが、この自然に流れるような演奏の中では、それほど「あ!間違えた!」と大げさに騒いで聞く必要はないだろう。クナの底なし沼のように深い呼吸の中で、自然に身をゆだねて聞いてゆくべき演奏である。
217小節からも、極めて淡々と音楽は進んでゆき、231小節辺りから、再び音楽は哀感を深めてゆく。247小節のピアニシモで演奏される全音符のつながりには、ゾクゾクする。そして、266小節から、冒頭の弦楽器がゆらゆらと舞い降りてくるフレーズに乗って、さまざまなテーマが断片的に配置されるが、その表情の優しいこと!
294小節から、弦楽器のピツィカートに乗り、木管や金管が少し息の短いフレーズを奏で、321小節から、第1ヴァイオリンに痛切な響きが訪れる。そのフレーズが拡大され、プレストのようになって、341小節のからの、何度目かになるか分からない巨大なクライマックスを築く。その連続するクライマックスの響きはひじょうに柔らかい。柔らかいと云っても、変にフワフワした演奏ではなく、音楽に愛情がこもっているように聞こえると表現した方がいいかも知れない。そのクライマックスの持続の後、低弦域が執拗に下降音型を奏でる中、金管楽器がなにかの勝利宣言のようにファンファーレを響き渡らせる。
ティンパニが静かに鳴り、405小節から、弦楽器による魅力的なメロディへとつながってゆく。音楽は静かに静かに下降してゆくようだが、クナのフレージングのマジックというか、この辺りも実に意味深い音楽になっている。
再び、冒頭の楽句に戻る。ホルンが少しずれたっていいじゃないか。その音楽の流れはひじょうに素晴らしい。461小節からのクライマックスは、かなりゆったりと演奏される。
490小節からにゆったりとした進行も、ただテンポが遅いだけではなく、各フレーズ愛情の塊という感じだ。そのゆったりとした音楽が巨大な波のように盛り上がってゆき、さらに大きな波を形成するのかと思いきや、音楽はさらに浮沈を繰り返し、沈静化する。再び冒頭の音型に戻り、音楽はさらに巨大化を試みる。621小節で嵐の前の静けさのように、木管楽器だけで静かなフレーズが奏でられ、第一楽章はフィナーレに突き進んでゆく。残念ながら、クナの足音一発にオーケストラは付いてゆけず、モタモタしながら最後まで行ってしまうのは残念だが、実に愛情のこもった、素晴らしく温かくて哀しい響きのする第一楽章だった。
第二楽章
冒頭から、素晴らしい響きが聞ける。テンポは第一楽章を想定すると幾分早めだが、その情感たるや、実に素晴らしい。憧憬への焦りのような楽句が2回繰り返され、徐々に寂寥感を増して行く。この第2楽章でも、全てのフレーズが生きているように聞こえる。
そして41小節から、ブルックナーの天上の音楽が聞ける。これは、もう身をゆだねて聞いているしかない。ゲネラル・パウゼの意味までもが明らかにされ、音楽は雲上の世界をゆったりと、気持ちよく逍遥しているかのように進んで行く。
時折クナの足音が入って、音楽の流れがごく自然に別のベクトルをめざして進んで行く。クナのテンポは、この第二楽章では決して遅くはない。170小節の強奏から、その後のファンファーレをめざして音楽は上昇を続けて行く。
188小節から、2回の巨大な山を築くが、さらに206小節からの方が、仰ぎ見るように巨大である。その頂ははるか雲の中に隠れているようだ。音楽は静けさを取り戻し終了する。
第三楽章
重くゆったりとした見事なスケルツォである。1小節目から、さまざまなブルックナー:交響曲第3番第三楽章の響きとは異なる。これで録音がよかったらと悔やまれるが、その見事に愛情のこもった音楽は精神の余裕すら感じさせる。61小節からのメロディも素晴らしく、迫力と明るさを併せ持ち、神経が行き届いているかのような暖かみがある。
トリオのひなびた味わいは、これはもうクナの独擅場だろう。その平穏な田園での生活世界の歓びとユーモアがにじみ出ている。優れた絵画に見ることができるような、田園詩が繰り広げられて行く。
スケルツォ冒頭部に戻ってからも、その優れた演奏は迫力と勢いだけで押し切った演奏ではないだけに、じつに渋くて素敵だ。
第四楽章
ゆったりとしたテンポでの開始だ。そのダイナミックさは見事だが、やはり62小節からリタルダンドをして、65小節からの愛らしいメロディがシミジミと染み込んでくる。NDRの演奏も素晴らしかったが、より余裕があるというのか、しっとりと愛情がこもっている。どこまでも終わらないで欲しいような、素敵な音楽が延々と続いて行く。
139小節からの舞踏曲のようなリズム、メロディも素晴らしい。音楽は徐々に寂寥感を帯びてきて、155小節からの弦楽器と金管楽器のエコー効果のような音楽は、平和な世界に響き渡るく鐘のようだ。音楽はかなり盛り上がる。214小節からの平和な生活世界を慈しむような音楽も見事だ。
再び、噴水のような弦楽器に載せて、金管楽器がファンファーレを奏でる。
その音楽のどこにも刺激やはったりはない。音楽はもの凄い音響で響き渡っているのに、その表情は極めて自然だ。ゆったりとした大河が、奔流となって流れるような音楽を聞くことができる。
327小節からの弦楽器のピツィカートと、チェロとホルンのメロディもゆったりと素敵な響きを奏で、65小節のメロディが繰り返される。けっして、深刻にならないブルックナーの田園詩と天上世界へのオマージュが素直な響きとなって聞く者を魅了する。クナは、何度か足を踏みならし、響きのベクトルを変える。
もっと勢いをつけても良さそうな音楽が、クライマックスまでの道程を、しっかりとした足取りで進んで行く。392小節からのクライマックスの、明るい情感は聞き物だ。489小節でトランペットがテンポを間違えそうになるが、そのまま巨大な終結部へと押し進んで行く。
むしろ、NDRとの1962年盤よりも演奏の傷は少ないといえる。その上で、クナの滋味のような愛情が全てのフレーズに宿っているような演奏録音だった。これだけ豊かな演奏を聞かせられると、演奏の巧拙よりも、クナがブルックナー:交響曲第3番で表現したかった、天上世界を描いてはいても、生身の人間に寄り添った演奏の内容に耳が行ってしまう。温かなぬくもりと、柔らかさが全面に出た演奏だ。
クナによるブルックナー:交響曲第3番は、5つともそれぞれに聞き所がありよかった。
小生の中で、一番遅く馴染んだブルックナーの交響曲がこの第3番だった。いかにも通俗的なメロディ進行が耳に付き、元々があまり好きな音楽ではなかった。
ところが、テンシュテット 禁断の部屋 その13でスコアを見ながらこの交響曲を聞いているうちに、段々とブルックナーの直接的なヴィジョンの描き方に好感を持つようになってしまった。
クナは晩年になればなるほど、交響曲第3番への共感を深めていったのではないかと思える。その響きは、最近の演奏とはかなり異なる。
まず、1954年のバイエルン盤を聞くべきだ。その後は、1962年NDRとのライヴでも、1964年ミュンヘン・フィルとのライヴでも構わない。クナの解釈そのものは大きく変わらないが、そのテンポの取り方や、重点を少し変え、愛情のこもった弦楽器のフレーズを聞くとき、クナを通してブルックナーのヴィジョンに共感している自分を発見する。1954年Deccaのウィーン・フィルとのスタジオ録音もむろん悪くはない。ウィーン・フィル独特の音色と、明るい色彩は聞く者を満足させてくれる。
しかし、その一発勝負のライヴで、クナはその巨大な愛情を楽曲に注ぎ込むことができたと言っても過言ではない。
1964年盤の素晴らしさは、言葉にしにくいくらいのクナの愛情が結晶化した演奏だと思うのだ。ミュンヘン・フィルというオーケストラ、ミュンヘンというクナ第二の故郷での最晩年の演奏記録は緊張感に充ちたものではないのは事実だが、それをはるかに上回る愛情の産物を聞くことができた。
次回「クナを聞く」は、ブルックナー:交響曲第4番を取りあげる。



