クナを聞く 第166回
リヒャルト・シュトラウス編 その1「ドン・ファン」


 クナはワーグナーのスペシャリストであると共に、リヒャルト・シュトラウスのスペシャリストでもあった。リヒャルト・シュトラウスとクナはほぼ同時代に生きたため、その音楽はクナにとってほぼ同時代音楽であると言える。リヒャルト・シュトラウスは1864年生まれ、クナは1988年生まれである。
 クナの演奏会記録を見ると、そのオペラを指揮した数は半端ではない。ほとんどの演奏記録が録音という形で残っていないのは極めて残念だ。演奏会記録では「アラベラ」と「エジプトのヘレナ」はそれぞれ1回だけだが、「サロメ」17回、「エレクトラ」9回、「ばらの騎士」ではなんと53回を数える。
 管弦楽曲も多く、「町人貴族」組曲、「ツァラトゥストラはかく語りき」、「ブルレスケ」、「「ドン・ファン」、「ドン・キホ−テ」、「アルプス交響曲」、「家庭交響曲」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、「死と変容」など、リヒャルト・シュトラウスの主要な作品はほぼ演奏している。

 最近まで、日本の音楽ジャーナリズム、ファンの間でのナチ協力者としてのリヒャルト・シュトラウスの毀誉褒貶ぶりは凄かった。1933年にナチの御用音楽政策の代表である帝国音楽局総裁に就任したのがその主な理由だが、1935年にはナチと対立、職を離れている。リヒャルト・シュトラウスのナチとの「闘争」に関しては、マイケル・H・ケイター著「第三帝国と音楽家たち」(アルファベータ刊)、山田由美子著「第三帝国のR.シュトラウス」(世界思想社刊)に詳しい。それらの伝記を読むと、確実に日本でのリヒャルト・シュトラウスの名誉回復は進んでいると言える。
 何よりリヒャルト・シュトラウスはナチが政権を奪う前からの大音楽家であり、ナチとリヒャルト・シュトラウスはお互いを利用しようとしたものの、本質的なところで相容れなかったと思える。

1956/5/7 "Don Juan" Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire de Paris(Decca Recording)

KICC-2107
POCL-4599
SBT-1338
King Record/KICC-2107(Japan)
PolyGram/POCL-4599(Japan)
Testament/SBT-1338(England)
King Record/KICC-2314が抜けている。
 クナの「ドン・ファン」の演奏会記録は以下の通りである。  残念ながら、ライヴ録音での「ドン・ファン」はまだ聞くことができない。
 演奏会記録を見ていて興味深いのは、1943年に占領地域であるパリにベルリン・フィルと出かけて「ドン・ファン」振っているが、戦後1952年にパリを訪れた時はパリ音楽院管弦楽団を振って「ドン・ファン」を演奏していることだ。その下地があったからか、パリ音楽院管弦楽団とのDeccaスタジオ録音では「ドン・ファン」がその曲目の一曲に選ばれたのか?
 吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」(キング・インターナショナル刊)によると、パリ音楽院管弦楽団との「ドン・ファン」「死と変容」は、クナがパリで「ニーベルングの指環」チクルスを振っていた時に、Deccaのプロデューサー、ジョン・カルショーもショルティのチャイコフスキー:交響曲第5番を録音するためにパリに滞在、そのわずかな期間を利用してクナとパリ音楽院管弦楽団の録音が行われたのだそうだ。
 LPやTestament盤がリリースされる前のCDではモノラルで、だれもモノラル録音であることを信じて疑わなかったのが、TestamentがDecca録音をディストリビュートしてリリースした時にはステレオだった。小生などは耳を疑ったほどだ。クナのパリでの録音はステレオ収録されていたのだ。まさか「ドン・ファン」と「死と変容」がステレオで残されているなど、思いもしなかった。
 「ドン・ファン」のライブ録音は、前述の通りまだリリースされたことはないが、Deccaスタジオ録音のCDも意外なほど少なかった。現在、確認できたのは3種類。
 リファレンスは文句なくTestament盤だろう。そのステレオ録音の威力は素晴らしい。クナの指揮共々、オーケストラの音の渦に身を預けていられる。

 「ドン・ファン」に関しては、テンシュテットを聞く 第27回で一度取りあげたことがある。その時にさまざまな指揮者による録音を聞いたが、そのどれもがなかなか優れていた。クナ盤のことを「薄っぺらい音」と書いているが、まだTestament盤がリリースされる前で、Testament盤を聞いていたなら、恐らく表現が変わったものと思われる。
 パリ音楽院管弦楽団とクナとの相性は、驚くほどよい。というか、クナはオーケストラに好きなようにやらせているようだ。言い方を変えれば、弦楽器はドイツのオーケストラのように完璧なピラミッドバランスではないものの、クナはオーケストラの自発性を引き出し、透明な音を再現しているとも言える。木管楽器の主張が、クナが指揮した時のウィーン・フィルやベルリン・フィルよりもあか抜けているのは面白い。ドイツやオーストリアのオーケストラを聞く限りにおいては、クナは木管楽器にヴィヴラートを必要以上にかけるのを好まなかったようだが、パリ音楽院管弦楽団はかけ放題だ。オーボエなど、グラマラスとも言える音だ。金管楽器も健闘している。クナはフランスのオーケストラの特性を逆手にとって、見事なスタジオ録音を行ったと言っても過言ではない。なにより、オーケストラの団員が気持ちよさそうに楽器を鳴らしている。トランペットなど、いかにも楽しそうだ。縦の線がふらつくのも何のその、クナの横の線を呼吸感を持ってつないでゆく音楽の作り方の中で、好きなように吹いている。その上で、クナ独特の各フレーズごとに自然な流れをもたらしている。
 ただ、響きが少しドイツ風に言うとザッハリッヒ過ぎるようにも聞こえる。クナは「録音だし、パリのオーケストラは好きなようにやらせれば威力を発揮する」と達観していたのだろうか。もっと洗練されてはいるが、アンドレ・クリュイタンスも同じような方向でパリ音楽院管弦楽団を鳴らしていた。
 試しにカラヤンとウィーン・フィルによる1960年の録音を聞いてみた(Decca)。さすがの演出に舌を巻く。同じスコアを演奏しているようには聞こえない。田舎の田園風景の中での漁色と言うより、現代的で都会的な響きだ。さすがにクナの演奏の泥臭さとは異なる。
 もうひとつ、フルトヴェングラーとウィーン・フィルによる1954年のスタジオ録音(EMI)も聞いてみた。こちらもさすがに素晴らしい演出に驚いた。音楽は生きているようにうねり、聞く者を陶酔させる。音楽から発散する色気や的確な情景描写ははさすがにフルトヴェングラーだと思った。グロッケンシュピールの音にさえ、表情がある。
 フルトヴェングラーを聞いたら、クレメンス・クラウスをはずすわけには行かない(Testament)。1950年の録音である。カラヤン、フルトヴェングラー、クラウスのすべてがウィーン・フィルとの演奏録音であったというのは面白い。クラウス盤もさすがに面白い。リヒャルト・シュトラウスとクラウスの方向性がぴたりと一致しているというのか、細部までしなやかで生き生きとした、それでいて下世話にならない洗練された音楽を聞かせてくれる。クラウス盤を聞くと、クナの演奏録音はまるで田舎芝居だ。
 クラウス盤を聞くと、さらにメンゲルベルク盤もはずせない。小生の持っているのはHistory盤だからその音は心許ないが、取りあえずは聞ける。リヒャルト・シュトラウスのユーモアと茶目っ気、そしてなにより物語の語り口と楽曲の面白く聞かせてくれるということではメンゲルベルク盤が一番か。録音は1938年と今回聞き直した中では最も古いが、ちゃんとオーケストラの音がしているし、コンセルトヘボウ管弦楽団はべらぼうにうまい。他の作曲家の楽曲ではそのポルタメントに辟易とすることがあるメンゲルベルクの演奏だが、リヒャルト・シュトラウスではそれほど気にならず、むしろこれくらいのポルタメントがあった方が面白く聞ける。
 再びクナ盤を聞いてみる。クナは真面目である。それに、フレージングが柔らかく、極めて自然に聞こえると言うことに驚いた。それとクナの演奏録音を聞いていて最近感じることの多い「優しさ」である。カラヤンやクラウスの洗練されたドラマ、フルトヴェングラーのうねるような生き生きした表情、メンゲルベルクの面白さとは違う「ドン・ファン」が聞こえてくる。その弦楽器群の響きは最も魔術的で、最も湿った情感を持っているのはクナ盤だった。田園風景の中で繰り広げられるドン・ファンの放蕩する音楽が意味深く、劇的な音楽から更に踏み込んだ深みのある表現が聞ける。実に落ち着いた「ドン・ファン」だ。
 各フレーズで伸縮が異なるので、どれのテンポが早いとか遅いというのは虚しいが、一応タイミングを比較してみる。
クラウス15'57"
メンゲルベルク16'28"
カラヤン17'07"
クナ17'08"
フルトヴェングラー18'38"
 クナによる「ドン・ファン」の録音は今のところこのDecca録音しかないわけで、その意味で貴重だし、パリ音楽院管弦楽団という、縦の線を意識する指揮者にはじゃじゃ馬のようなオーケストラをコントロールした(あるいはしなかった)ということでも面白い演奏録音だ。クナのこの録音の後、ショルティは同じパリ音楽院管弦楽団とチャイコフスキー:交響曲第5番を録音したが、オーケストラと対立しかなり苦労をしたらしい。
 クナの「ドン・ファン」は、リヒャルト・シュトラウスの楽曲にしては質朴で重く、幾分泥臭い表現だが、その暖かみは何ものにも代え難いと思える。