日本ハンス・クナッパーツブッシュ研究会・研究会資料

ハンス・クナッパーツブッシュ 〜生誕百年に寄せて〜
ガブリエレ・E・マイヤー
会員番号2879 石橋 邦俊 訳


 1923年4月5日、ハンス・クナッパーツブッシュは初めてミュンヘン・フィル(当時はまだコンサート協会管弦楽団の名称だった)の指揮台に立った。全く一目惚れの相思相愛とでも言ってよいだろうか、新歌劇場監督としてミュンヘンに着任して一年を経たばかりのこのコンサートが、1965年10月のクナの死に致るまで四十年以上続くこととなるフィルハーモニカーと彼の協同作業の始まりとなったのである。


I.

1888年3月12日、旧ベルク公爵領地方の飲料製造業者の息子としてエルバーフェルトに生まれたハンス・クナッパーツブッシュの指揮者の才は、既に早くから現れた。12才で児童オーケストラを、ギムナジウム生徒時代は、無論、生徒たちのオーケストラを指揮した。両親はこうした小手だめしに初めは好意と微笑を送っていながら、だが、家格にふさわしい進路を計画していたものの、しかし、息子の気持ちを翻すことはできなかった。クナはボン大学哲学部で音楽学を修め、哲学の講義を聴講した。実践的な教育はケルンのコンセルトヴァトリウムで取得した。クララ・シューマンの弟子であるイタリアの女流ピアニスト、ラツァロ・ウツィエリ(1861-1943)のピアノクラスと、ギュルツニヒ管弦楽団の音楽監督、フリッツ・シュタインバッハ(1855-1916)の指揮のクラスに通ったのである。迷うということを知らぬクナの頑固さのためか、当時、衆目の認めるブラームス指揮者であり、また、作曲者とも親交のあったシュタインバッハは、この若者を「才能無し」として早々に追い出してしまったが、クナの意気は毫も削がれなかった。数十年後、クナの特異な解釈に質問を向けた詮索屋のある批評家にこう答えている、「シュタインバッハと全く同じようにやっているのです。でも、これはご内密に願いますよ」 ブラームスの解釈について、「クナ」(彼のファンは愛情をこめてこう呼んだものだが)は大学時代、何か学ぶところがあったかに思えるが、この点は後に述べよう。
 博士号請求論文「ワーグナーのパルジファルにおけるクンドリーの本質」は、リヒャルト・ワーグナーのオペラに熱心に取り組んだ成果である。論文は受理された(残念ながら写しは残されていない。ワーグナー作品の中心人物の一人、クンドリーに対するクナの見解は、間違いなく興味深いだろうが)。しかし、口頭試問の時期が遅すぎた。論文を提出した当のクナは、ミュールハイムとボーフムで最初の仕事に就いてしまっていたのである。ほぼ同じ頃、1909年、1911年、1912年、歌劇場が休みとなる夏、バイロイトでジークフリート・ワーグナーと、彼の唯一の偉大な模範となったハンス・リヒターの助手を務めた。1913年から18年、故郷の歌劇場監督を、また、この間二度、オランダのワーグナー祭の音楽監督を務めた。ほんの短期、ライプツィヒに滞在した後、1920年、デッサウのフリードリヒ劇場でドイツ最年少の音楽総監督の地位を与えられた。そしてついに1922年、ワーグナーのスペシャリストという評判を露払いに、ミュンヘンからの招請を受諾したのである。
 5月2日、彼は最初のコンサートを「オデオン」で行い、数日後、州立劇場で『魔笛』と『ヴァルキューレ』を指揮した。ほとんど不動の姿勢で指揮をするこの巨人は、名声に違わぬ実を示したに違いない。5月11日、「音楽総監督局はハンス・クナッパーツブッシュをバイエルン州立劇場第一カペルマイスター兼歌劇場監督として」(「バイエルン州新聞」)雇用する旨、発表したのである。五ヶ月後、この新監督は活動を開始した。「気さくな音楽家でも、禁欲的な托鉢僧でもない、ましてや、ブルーノ・ワルター流の人好きのする人物でもない、権威ある司令官が部署についたのである」(バイエルン放送生誕百年記念番組でのカール・シューマンの言葉)クナッパーツブッシュを熱狂的な喝采で迎えたミュンヘンの聴衆は、この新しい指揮者の活躍にこれまでになかったほどのの期待を寄せた。


II.
 1923年4月のミュンヘン・フィルとのあの最初のコンサートでは、ブラームスの作品がプログラムに載せられていた。二重協奏曲(ソリストはアドルフ・ブッシュとパウル・グリュンマー)、ヴァイオリン協奏曲(アドルフ・ブッシュ)、そして第三交響曲である。「ミュンヘン最新情報」の批評は讃辞に溢れている。「ハンス・クナッパーツブッシュの指揮したコンサート協会管弦楽団のブラームスの夕べの第三交響曲(指揮者はこの曲に格別の愛着を覚えているものと見受けられる)は、感情の集中と緊張に満ち、ヴァイオリン協奏曲のアドルフ・ブッシュは、ヴァイオリンの技巧においてもその音楽自体においても理想的であった」(1923年4月7日) その二日前、同紙はクナッパーツブッシュのウィーン初登場コンサートの、彼地での批評を転載していた(ベートーヴェンの「エロイカ」とブラームスの「第三」)「…大きな身振りはない、指揮棒を不安定に大きく振り回すこともない…手と指と頭の小さな動き…クナッパーツブッシュ、ウィーンでこの名は銘記されねばならぬ」(J. コルンゴルト、「新自由新聞」) 早い時期のこの二つの批評には、早くも音楽家ハンス・クナッパーツブッシュの二つの独特な特性が描かれている。凝集された強靭な感情を伝えるに小さな身振り、小さな動き(時とともに彼はそれを最小限度の簡潔な暗示に縮小していった)でよしとする、この点、リヒャルト・シュトラウスの指揮法に比べられる。この上なく込入ったリズムの箇所でも拍を分割しなかったというのに、オーケストラが彼の指揮棒をどのようにして追うことができたのか、それはしばしば謎である。同じく指揮者、エーリヒ・クライバーがこう語ったことがある、「ハンス・クナッパーツブッシュは、左袖のカフスボタンを上げるだけで、100人のオーケストラをクレシェンドさせ、轟然たるフオルティッシモへ引き上げることができる唯一人の指揮者だ」
 「クナ」はショウマン指揮者ではなく、つとから喝采を唾棄していた。唯一、作品だけが大切だった。彼の演奏はどれも、替えられ得ぬもの、繰り返され得ぬもの、いや、絶対的に一回限りのものという相を帯びている。クナッパーツブッシュはインスピレーションを信頼し、念を入れすぎた練習(プローベ)の産物である完璧主義より、音楽する自発性と直観(彼は劇的なパトスを愛していた)を是としていた。プローベは彼にとって、演奏会のための無味乾燥な訓練だった。残された録音のほとんどが全くのライヴであり、レコード用のそれが僅かしかないのも偶然ではない。「クナ」には真剣勝負の場が、コンサートにおける即興の息吹きが、そして聴衆さえもが必要だったのである。レコーディング・スタジオの雰囲気は彼にとって、厭わしいばかりだった。無論、作品そのものを如何に尊重していても、彼の主観的な音楽のやり方は、賛同ばかりを得たわけではない。これは如何とも為し難い。当時の新聞の一部は彼をはっきりと拒絶している。だが、彼の解釈への様々な非難に、クナッパーツブッシュの側も全く冷静だったというわけではない。1929年1月28日、「オデオン」でのベートーヴェン「第九」についてのオスカー・フォン・パンダーの酷評は、何ヶ月にも及ぶ「批評家裁判」を惹き起こした。この時のクナッパーツブッシュの、一片の配慮もない文筆業者に対する態度については、実名入りで報じられた、「クナッパーツブッシュ氏も芸術家として、批評家に対し無神経というよりない。若い頃には随分と思い切った手段に訴えられたことがある。デッサウで指揮者であった折りのこと、ある批評家を扉から放り出し、ロバ呼ばわりされたとか」(ミュンヘン電信新聞、1930年1月30日)


III.
 ハンス・クナッパーツブッシュがオペラの全レパートリーを掌中に収めていたことは言うまでもない。だが、好みの作曲家が少なくなかったとはいえ、中心を統べる神はリヒャルト・ワーグナーだった。コンサートにおいても同様である。多くの作品を指揮したが、晩年には以前に増して、繰り返しベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーを取り上げ、また、モーツァルト、シューベルト、チャイコフスキー、そしてリヒャルト・シュトラウスにも立ち返った。しかしである、ミュンヘンで活動を始めた頃、クナッパーツブッシュは完全に近現代音楽の促進者と目されていたのである(結局、そこから本当の結びつきが生まれるに到らなかったが)。「オデオン」では、アルフレド・カセラ「パルティータ」(1927年11月14日)、パウル・ヒンデミット「管弦楽のための協奏曲」作品35(同年11月28日)、イゴール・ストラヴィンスキー「春の祭典」(同年12月5日)、アルチュール・オネゲル「パシフィック231」(28年11月26日)、そしてベラ・バルトーク「第一組曲」(30年11月17日)で物議を醸し、州立劇場では、ヴァルター・ブラウンフェルス「緑ズボンのドン・ギル」(24年11月25日)、ヴォルフ=フェラーリ「天国の装い」(27年4月21日)、アルバート・コーツ「サミュエル・ペピス」(29年12月21日)ヤロミール・ヴァインベルガー「愛しい声」(31年2月28日)、ハンス・プフィッツナー「心」(31年11月12日)、これらの作品の世界初演を、また、アルベルト・ネルテ「フランソワ・ヴィヨン」のドイツ初演(23年11月24日)を行った。新しい演目では他に、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト「死の都」(22年12月9日)や、当時まだ知られていなかったヘンデル「ジュリアス・シーザー」(23年11月28日)がある。オペラ指揮者にしてはヴェルディやプッチーニを取り上げていないが、「マクベス」のミュンヘン初演(34年12月22日)を行い、プッチーニの「トゥーランドット」(27年11月11日)や「西部の娘」(34年3月 3日)を指揮している。 しかし、「クナ」がその本質においてウィーン古典派と19世紀音楽のものであることは疑いようがない。時とともに彼は同時代の作曲家に自分を閉ざしていった。「ヒンデミットの猿まね屋ども」は、「食べ過ぎちまって、反吐が出る」のである。近現代音楽と彼の、幾分、不協和な関係は、1948年のエピソードにも反映している。「新音楽」の熱心な援護者であり、戦後、初代のミュンヘン・フィル総音楽監督を務めたハンス・ロスバウトが、ある日、ハンス・クナッパーツブッシュの客演したミュンヘン・フィルのコンサートを訪れた。休憩時間に一冊のスコアを抱え、ロスバウトは先輩を訪ね、質問した、「このスコアをどう思われますか、如何でしょう」、「クナ」は表紙をちらりと眺め、作曲者の名前を呼んだ。カール・アマデウス・ハルトマン。そして、ぶっきらぼうに唸ったのである、「やれ、あなたはまぁ、糞みたいなものを何でも指揮するのですな」 後の後のこと、音楽評論家、ヴァルター・パノフスキーが、オルフの「ベルナウの女」を誉めちぎったことがある。すぐさま、短い答えが返ってきた、「私には、内容のある音楽しかありません。この言葉をあなたが別様に解していても、私のせいではありません」 バッハ、ヘンデル、グルックの音楽にも、彼は同様に興味を示さなかった。特筆すべきことに、バッハの中で「マタイ受難曲」だけは、彼自身、好んでいた。ブルーノ・ワルターが始めた慣習に従って、彼はミュンヘンで、毎年、聖金曜日に、数十年にわたってこの作品を教員合唱協会と演奏したのである。


IV.
 やむを得ず、長期にわたる休止を余儀なくされる1935年以前の「クナ」とミュンヘン・フィルのコンサート活動については、残念ながらほとんど不明である。ただ、1931年から32年の冬のシーズンに、「0番」とヘ短調交響曲も含めて演奏されたブルックナー交響曲全作品の初のツィクルス(音楽評論家パウル・エーラーの発案で「ミュンヘン劇場協会」が催した)に「第八」で参加したこと、そして「ジークムント・フォン・ハウゼッガー60才記念シリーズ」の最終夜で1903年の「鍛冶屋ヴィーラント」と大編成オーケストラと終曲部合唱のための「自然交響曲」(1911年)を指揮したことがわかっているだけである。「ハンス・クナッパーツブッシュとミュンヘン・フィル、教員合唱協会によるハウゼッガーの二作品の演奏は、四日間の祝祭を締めくくるに相応しかった…」(O・フォン・パンダー、1932年10月28日「ミュンヘン最新情報」) さて、時代情況は微妙になってきた。別種のコンサートにも出演しなくてはならなくなったのである。1933年12月5日、ミュンヘンのSSが催した祝祭演奏会(おそらくこの種のコンサートに「クナ」が登場した唯一の例だろう)を報じる、きわめて典型的な記事は、この指揮者を「ドイツ的な」音楽家と誉めそやしている。「ハンス・クナッパーツブッシュが舞台に現れる。すっくと立った痩身の長躯、まさしくドイツ的音楽家の姿だ。彼がゆっくりと指揮棒を上げる。荘重な弱音がホールを満たし、すると、ワーグナーの音楽の魔力が人々を捕らえ、放さない。悠々と、だが正確な動きで、指揮者はこの易しくはない作品(原注:タンホイザー序曲)を見渡し、オーケストラを最大のフォルテッシモまで導いていく。その卓越した能力の開示…指揮者とオーケストラと音楽は、分かち得ぬ統一体となる。このような演奏はただ、全霊を以って芸術家たる者だけに可能なのだ。人々は心を奪われ、黙し、座し、この世のものとは思われぬ表情を浮かべ聞き入っている。…短い休憩、その後、ミュンヘン・フィルは「エロイカ」を演奏する。…再び、人々は敬虔の思いに身を沈める。先程のワーグナー聴いた我々には、これを凌ぐものは最早あり得まいと思われたのだが、このオーケストラの演奏とこの指揮者のタクトのもとで、ベートーヴェンの作品は、それをもたらしたのだった…」
 絵本にでも出てくるようなこの浮き世離れした指揮者は、はじめ、民族主義的な思想一般に多くの意味で共感を抱いていたようだ。彼の自分の神、リヒャルト・ワーグナーが関わるとなると、殊にそうである。1933年2月10日、ワーグナー没後50年に寄せてミュンヘン大学大講堂でトーマス・マンが行った記念講演に抗議した、あの不名誉な「リヒャルト・ワーグナーの街ミュンヘンのプロテスト」に、困ったことに一役買ってしまったのも、このためである。実のところ、ワーグナーなどとはまるで無関係なこの「阿呆くさい吊し上げ」(トーマス・マン)には、ただ一人、画家ハンス・プルマンを別にして、すべてのアカデミー会員が一致団結して(稀な出来事である)署名した。ハンス・プフィッツナー、リヒャルト・シュトラウス、そしてジークムント・フォン・ハウゼッガーの名もあった。「ドイツの民族意識の高揚が堅牢な骨格を得た今となっては、偉大なドイツの巨匠、リヒャルト・ワーグナーへの想いを誹謗から護るべく、我々が公に呼びかけても、それが非本質的な些事と受け流されることはあり得ない。我々はワーグナーを最も深いドイツ的感情の、音楽的戯曲的発現であると感じている。このドイツ的感情は、トーマス・マン氏のまことに持って回った口調のリヒャルト・ワーグナー記念講演を一例とするような、形式美の次元のみに終始するスノビズムによって侮辱されてはならない…」
 他方、クナッパーツブッシュは、自分のこととなると決して「口出しさせなかった」 同様に、音楽にせよ言葉にせよ、「クナ」の言い切り御免の衝動的な反応とそれを押し通す意志の力は、彼の特徴だった。情況は先鋭の度を増してきた。1934年の年末頃、「歌劇場監督のポストの交替が考慮さるべきである」という風評は公式に否定され、時とともに緊張が高まっていたものの、クナッパーツブッシュは信任されていたのだが(「バイエルン州政府は、音楽総監督クナッパーツブッシュ教授が、その州立劇場の芸術的指導に対し政府の全幅の信頼を得ているという声明に重きを置くものである」)、それも最早僅かな期間しか続かなかった。1935年10月、軍服の芸術審査官は、歌劇場長の歯に衣着せぬ発言に遂に緒を切った。クナッパーツブッシュの、国家社会主義政権への徹底的な拒絶、功績ある多くのユダヤ人芸術家擁護、そしてミュンヘン大管区長への不妥協が、とうとう彼の「熱冷まし」、つまり、解雇とミュンヘンでの指揮停止処分という結果を生んだのである。その数日前、「クナ」は「オデオン」での演奏後、彼に熱狂的な喝采を送る聴衆に別れの言葉を述べていた、「最終的にどうなるのか、私にはわかりません。ですが、私がここに留まろうと、望まずして去ることになろうと、私の心は常にミュンヘンにあります」
 ミュンヘン市民には、翌年2月の短い新聞報告で十分だった、「帝国バイエルン総督は、バイエルン州立歌劇場音楽総監督、ハンス・クナッパーツブッシュ教授を、帝国に対する氏の忠実な貢献に謝辞を述べるとともに、休職とする」 クナッパーツブッシュの一件は片が付いたかに見えた。しかし、もう公衆の前に立つことはない「クナ」を、権力者たちは明らかに少なからず恐れていた。彼が「運動の中心都市」にこれ以上滞在するのは望ましくなかった。クナッパーツブッシュはウィーンへ向かった。…だが、彼のミュンヘンへの想いは、どれほど魅力的な条件が出されても他の歌劇場とは一切契約しなかった一事を以ってしても、証明される。 1944年春(ミュンヘン・フィルの本拠地、テュルケン・シュトラーセの「トーンハレ」は、まだ破壊されていなかった)、文化局と当時のミュンヘン・フィル音楽総監督オスヴァルト・カバスタは「1944年ミュンヘンの夏音楽祭の一環として、著名な客演指揮者による大規模な交響曲連続演奏会」を企画した。ミュンヘンを離れ、ウィーンに暮しているハンス・クナッパーツブッシュが念頭に浮かんだ(クナッパーツブッシュは以前と変わらず、ドイツ国内にも登場していた。ベルリンのコンサートにも出演していたのだ。おそらく、悪化した情況を糊塗するための看板だったのだろう)ともかくも、急遽、差し支えなしという許可を得た後で、ウィーンへ招待状が送られた、「このツィクルスのうち、一つ、もしくは、二つのコンサートに客演していただきたい」 選り抜きの丁寧な言葉で「クナ」は断った。第二の故郷ミュンヘンを長期にわたり不在とした後に再び指揮台に立つとして、その最初の演奏会がある別のオーケストラとであるならば、彼の昔なじみの州立管弦楽団を深く傷つけることとなろうというその理由は、間違いなく、単なる言い逃れの口実ではなかった。音楽アカデミーの演奏会活動の情況から見て、州立管弦楽団とのコンサートは、当面ほぼ不可能である旨、「帝国指導者閣下」みずから、取り急ぎ確言したのだったが、クナッパーツブッシュはまたも断った。今度は前回に輪をかけて丁重だった、いや、ほとんど皮肉であった。「毎年の習いであるスイスでの湯治と、ドイツ国外でのベルリン・フィルへの客演」のため、日程を変更できない、遺憾ではあるが、いずれかの後日を(!)期すこととする…


V.
 第三帝国崩壊後、「クナ」はすぐさま、バイエルン州立歌劇場の最初の催しへ帰ってきた(州立管弦楽団にしても、恥ずべきやり方で追放の憂き目にあった彼らの音楽総監督を「返還して」もらうため、ずっと手をこまねいていたわけではなかった)。1945年8月17日金曜日17時、遂にその時が来た。文化相ヒップ教授と州立歌劇場総支配人バウクナー教授の幾らかの挨拶の後、ハンス・クナッパーツブッシュが、フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディの序曲「凪の海、そして楽しい航海」の指揮棒を降ろしたのだ。そして僅かに数日後、8月21日、ミュンヘン・フィルは、思い焦がれ待ち焦がれていた彼らの客演指揮者を迎えることができた。彼は、プリンツレゲント劇場で「政治的信条のため、国家社会主義に迫害された人々を顕彰する」コンサートを指揮した。
 もっともその後、どうしたわけか、彼は新たに運命の手に捕らえられたかに見えた。同年晩秋、早くもクナッパーツブッシュは、いわゆる反ユダヤ的発言のために「終身」指揮活動禁止処分を受けとった。今度はアメリカ人からである。「クナ」は抗わなかった。自らの名誉回復のための、何の手も打たなかった。人を避ける彼の生来の傾向が強まっていった。急場凌ぎの住まいで(何としてもミュンヘンで仕事がしたかったのだ、ウィーンではなく)、自分のスコアに没頭し、苦々しい幻滅を噛みしめながら「遺憾なる誤った処遇に対する謝罪」を待ちわびていた。 1947年の復活祭期間、六十才を目の前にしてクナは、バンベルクとベルリンの演奏会の後に、ようやくミュンヘンの聴衆の前に現れた。ミュンヘン・フィルの、このヨハネス・ブラームス没後50年記念コンサートのプログラムは、第二、第三交響曲だった。1923年のデビューでもミュンヘン・フィルと奏でた、彼が殊のほか愛した「第三」である。
 1947年4月のこのブラームス記念演奏会が、ハンス・クナッパーツブッシュとミュンヘン・フィルの新たな出発点となった(1945年8月25日の再会第一回のコンサートは、とても比較できる状態ではなかった)。「南ドイツ新聞」すら、センセーショナルな性格のある催しという表現を用いている、「音楽総監督ロスバウトの招きを受け、ハンス・クナッパーツブッシュは復活祭の三日にわたり、ヨハネス・ブラームス没後50年記念演奏会を指揮した。この催しはセンセーショナルな性格を帯びていた。ナチ台頭以前、久しきにわたってミュンヘン州立歌劇場の命運を導き、長い不在の後に多くの賛美者の前に姿を現したこの人は、この地で忘れられてはいない、そして、常にいつまでも、歓迎される客人であるだろう。指揮台に登場した時の嵐のような喝采、そして、ブラームスの交響曲の彼の演奏に感謝する、これも劣らず激しい喝采がその証拠である。クナッパーツブッシュが大変な指揮者であることに議論の余地はない。きわめて節約された身振りで、拍子を打っているだけのようでありながら、あるかなきかの暗示的な指示で、彼が心にかけているものを宙に描き出す(現存する指揮者すべての中で、彼ほどアルトゥール・ニキシュの指揮法を想起させる人物はいない)。そして、すべてがオーケストラから、全く彼が望んだそのままに生み出される。言うまでもなく全くなじみのないこのような棒に順応する術を心得たフィルハーモニーも、みごとに訓練されたオーケストラである。ブラームスのヘ長調とニ長調の交響曲の演奏に際し、クナッパーツブッシュは第一に響きから組み上げていった(因みにこの点もニキシュに似ている)。すばらしい音楽である、温かな音の美しさに溢れ、微かな吐息のようなピアニッシモ、細やかに上昇するクレシェンド、そして品位ある朗々たるフォルテと、デュナーミクのニュアンスは無限に豊かであった。このブラームスがブラームスではなく、時にほとんどワーグナーを思わせたのは、こうした響きの饗宴に、また、悠然と広がる全体のテンポとルバートの多用に依るのだろう。ともかく、この北ドイツの巨匠の男性的な渋さ、感情の抑制は、この交響曲の作曲者に完全にふさわしいかたちではないにせよ、様々に表わされていたと言ってよいだろう」(H.プリングスハイム、1947年4月9日「南ドイツ新聞」)


VI.
 さて、以降、クナッパーツブッシュは以前に増してミュンヘン・フィルに来演するようなった。当時このオーケストラを率いていたのは、カバスタの後継者、ハンス・ロスバウトである。オーケストラの芸術的安定を高めるために彼が掲げた原則は、伝統的な交響管弦楽作品の演奏の向上、やむを得ず等閑に付されて来た近現代の古典の修得、そして、アヴァンギャルトへの取り組みであった。このため、この新音楽の解釈唱道者はプログラムを組むに際し、「我々の古典派、ロマン派の掛け替えのない財産と我々の時代の作曲家の刺激的で興味を惹く作品の結合」を重視した。クナッパーツブッシュのプログラムはこうした方向に則してはいなかったが、ロスバウトの意図を様々な点で補完したことは確かである。ミュンヘンの聴衆には、おそらく、二人の指揮者の人となりから来る音楽へのアプローチの対比は、多分に魅力だっただろう。
クナッパーツブッシュは何がどうあれ、分析的な指揮者ではなかった。彼にとって音楽会は、決して別方法の音楽学ではなかった。だが、「クナ」の瞬間々々から組み上げていく暗示的な音楽のありかたが、ロスバウトの、時によってはアカデミックな大学教授風の音楽スタイルに比して、よく受け入れられたとしても、およそ不思議ではあるまい。  ロスバウト退任後、1949年10月にフリッツ・リーガーが着任するまで、クナッパーツブッシュの来演はさらに増えた。代表的な曲目を挙げれば、ベートーヴェンの交響曲第三番、第四番、第五番、そして第七番、「エグモント」序曲とヴァイオリン協奏曲(ソリストはヴォルフガンク・シュナイダーハン)、ブラームスの第三、第四交響曲とハイドン・ヴァリエーション、チャイコフスキーの交響曲第五番と「胡桃割り人形」組曲、ドヴォルザークの「新世界より」、そしてブルックナーの「第三」と「第八」がある。
 この時期、クナッパーツブッシュはバイロイトから招待を受けとっている。彼はミュンヘン・フィルを率いて赴いた。両者とも無償のヴォランティアだった。無論、このリヒャルト・ワーグナーの街でオペラが演奏されるまでにはまだ時間を要した(心からのこの願いをクナは、1951年7月、バイロイト音楽祭再開の「パルジファル」で果たすことになる)。彼には、尊敬する巨匠の生誕136年記念コンサートの指揮が委ねられたのである。かくして1949年5月22日、彼は生涯で初めて(!)、再建された劇場の指揮台に立ったのである、熱狂と歓迎の喝采を受けて。「演奏されたのはベートーヴェン「献堂式」のほかにワーグナーの作品 一「神々の黄昏」、「トリスタンそして「マイスタージンガー」一 からの抜粋であった。クナッパーツブッシュはこれらの作品を演奏会用編曲ではなく、オリジナルの結尾のまま演奏したが、それは劇場のスタイルに適っていた。ワーグナー家の人々が臨席したなかで、この忘れがたい祝祭の時を音楽会の全聴衆は感動を以って受けとめた」(1949年5月23日、アーベント・ツァイトゥング)ミュンヘン・フィルのこの客演演奏会は、バイロイト祝祭劇場における戦後初のコンサートだったのである。
 フリッツ・リーガーの新監督就任後も、確かに回数は減ったものの、「クナ」はミュンヘン・フィルの指揮台に立ち、少なくとも年一回、ほとんどの場合、一月、御公顕の祝日に「彼の」フィルハーモニカーと音楽を奏でた。ファンは楽しみにしていた。1950年代、旅行嫌いと言ってもよかった彼がスイスへ二度も楽旅を行っている。ベルン、バーゼル、ジュネーヴ、ツューリヒを巡った最初の旅(1951年4月9)のプログラムは、ブラームスの「第三」とベートーヴェン「エロイカ」だった。バーゼル、アスコーナ、ツューリヒへの二度目の旅(1956年10月)の楽譜鞄には、ベートーヴェンの交響曲第八番、ボッケリーニのチェロ協奏曲(ソリストはフリッツ・キスカルト)、そしてブラームス「第二」が収められていた。赴く先ではどこでも、彼の芸術への、いつもの喝采。
 クナッパーツブッシュがミュンヘン・フィルと演奏するのを最も好んだのは、ベートーヴェン交響曲第三番、第八番、シューベルトの大ハ長調交響曲、ブラームス「第二」と「第三」、そしてブルックナーの奥義、「第八」である。レコード録音が残っている(非正規ながら)のが、まさしく「エロイカ」、シューベルトの大ハ長調交響曲、ブラームスの「第二」(演奏会ライヴ)、また、1962年、63年にショルン通りのスタジオで作成された、他ならぬブルックナー第八交響曲(最近、日本でCD化された)とワーグナーの前奏曲、序曲集であるのは、特筆に値する。他の作品はほとんど、一、二度プログラムに上ったにとどまる。だが、ここには、「クナ」が特に愛好したものが抜けている。ウィンナ・ワルツ。別けてもカール・コムツァークの「バーデン娘」には、彼はまさしく夢中だったようだ(選りによってこの作品を彼は一度、実際にミュンヘン・フィルと演奏した可能性がある、すなわち、1945年8月21日である!)。
 このように、クナッパーツブッシュには常に作品の性格が、作品が自ずと備えている魅力が大切だった。「内容のある音楽」でなければならなかったのだ、無論ロマンティックな意味で。客観性の度合が強い近現代作品に手をつけることはあまりできなかった。殊に晩年には。
 ブラームスの解釈者としてクナッパーツブッシュは模範的である。彼は構造の法則を十分に弁え、どんな音にも重みがあった。彼の指揮するブラームスは、まだ、正統の息吹きを帯びていた。彼の唯一の偉大な模範だったハンス・リヒターは1877年に「第二」の初演を、六年後には「第三」のそれを指揮している。この作品をブラームスの「エロイカ」と名づけたのも彼である。リヒター以前にも、若きクナッパーツブッシュは放り出されるまで、ブラームスの友人、フリッツ・シュタインベルクのもとで既に「専門を学んでいた」のだ。「クナ」が、その生来の性向は別にしても、すべて本質的なことを吸収していたのは間違いない。これらの交響曲を一度でもこの指揮者で聴いた者にとって、それは忘れられぬ体験であった!


VII.
 カイム交響楽団の名で創設されたミュンヘン・フィル、時に「ブルックナー交響楽団」(フェルディナント・レーヴィによる1897年10月の「第五」ウィーン初演の圧倒的な成功に由来する)とも呼ばれたこのアンサンブルの歴史に、クナッパーツブッシュのブルックナー解釈の数々も欠かすことはできない。尤も、彼は、終生、第一版やコンサート用の版、つまり、シャルクやレーヴェの改作版を好んでいた。30年代初頭以降、原典版との関りの中でブルックナーの作曲様式について展開していった見方を、彼は頑なに無視し続けた。
 「クナ」が自ら選んだ故郷、この他ならぬミュンヘンが、招待客を前に、ジークムント・フィン・ハウゼッガー指揮するフィルハーモニーによって、初のブルックナー交響曲全曲連続演奏会の最終夜、レーヴェ版の後に原典版が、「第九」の原典版が初めて演奏された地であることを思えば、いっそうの驚きを禁じ得ない。しかし「クナ」には、彼の理解に照らせば、原典版は音楽的に不十分だと思われたのだ。彼はブルックナーの改作認可を理由として挙げているが、これは問題の核心を衝いているとは言い難い。作曲者は自分の手稿(原典)に別の価値を置いていたに相違ないのだから。
 ブルックナーのプラグマティズム、いや、改作者たちへの迎合は、むしろ、自分の作品を一度でもコンサートで耳にしたい、そしてでき得るならば、成功を手にしたいという、もっともな願望の帰結だった。当時の解釈や演奏のあり様は、ウィーン宮廷図書館(今日のオーストリア国立図書館)に遺贈したそのままの、オリジナルな形、「後世に」ようやく理解されるようになる形とは対立していた。(尤も、ブルックナーの独特な構造の組み立てのために、今日でもなお、種々の版・稿の細部に未解決の問題が残されている。) ともかく、ブルックナーの弟子、フェルディナント・レーヴェとフランツ・シャルクの企てはすべて、彼らが尊敬する巨匠の芸術を世に知らしめるためであった。これを根拠として二人は、「ブルックナーの意図を把握した上で」改作を行ったのだ。オーケストラと実地で接していた彼らは、その時代の、つまり19世紀末葉の響きのイメージから出発した。更に彼らは、楽想の移行に明確な輪郭線を引かない、ワーグナー風の「混合音響」をいやがうえにも熟知していたのである。ブルックナーの音楽は、その渋く近寄り難い峻険さ、その画然とコントラストをなした重層性において、全く対極に位置していた。二人が彼らの先生を如何に評価していても、異質だったのである。それ故、修正は如何なる点においても、まずはブルックナーの作品になじんでいない当時の人々にそれをわかり易くするためだったのである。
 さて、クナッパーツブッシュはワーグナーの伝統に出自を持っていた。ハンス・リヒターとジークフリート・ワーグナーの指導を受け、この伝統に取り組み、自らの最も内なる確信に従って、この伝統の熱烈な唱道者となった。当時彼が受け取ったものを、彼は決して忘れなかった。
 「クナ」はブルックナーに「ヴァルハラのカトリック支店、リヒャルト・ワーグナーのオーストリアの異母弟」(バイエルン放送ハンス・クナッパーツブッシュ生誕100年記念特集でのカール・シューマンの言葉)を見たのだった。「クナ」が知ったブルックナーの交響曲は「ワーグナー風の」手が加わったもの以外ではなかったのだ。かくして彼は、シャルク=レーヴェ版を護る最後の「正統の」闘士となったわけである。こうした版の中核とも言うべきシンバルを彼は二重に重ねさえしたが、それが気に入っていたのである。  1948年3月31日のある演奏会評は、みごとな一例である。「プログラムの「原典版」と言う言葉には線が引かれていた。クナッパーツブッシュは「第七」を、84年、ミュンヘンの「オデオン」でヘルマン・レーヴィの指揮の下、ブルックナーが自ら耳にしたとおりに響かせたのだ。こうして我々には、第二楽章でシンバル奏者が立ち上がり(クナッパーツブッシュはシンバルを二対、打たせた!)、膝まづかずにはいられないあの盛り上がりに点睛を加える時、あの一度限りの、荘厳極まりない瞬間が再び与えられたのだ。いわゆる原典版に、このシンバルはない。(…)彼(クナッパーツブッシュ)の解釈には、他の誰にも見いだせない滔々と流れる静謐が湛えられている。(…)拍子を刻むメトロノーム風の振り方や、また、青筋を立ててオーケストラを駆りたてる専制君主の狂熱から彼が離れて久しい。彼ほどに何も「しない」者はいない、また、そこで彼ほどに多くを与える者はいない(…)。彼がミュンヘン・フィルを指揮した二日は、大いなる日だった(そして二日目の金管は、とりわけ見事だった!)。…」(ヴァルター・パノフスキー、南ドイツ新聞)
 新聞評はどれも例外なく、クナッパーツブッシュの解釈、特にブルックナーの交響曲解釈に注目を促している。時にあまりに遅くなるテンポや原典版の問題(後年になるにつれ、確かに言及が増加している)については、慎重な批判が繰り返し見られるが、情感に富みスケール感のある彼のスタイルと響きの効果に対する彼のセンスには讃辞が呈されている。
 「クナ」のお気に入りは、「三番」「四番」「五番」「七番」、そして「八番」だった。カール・シューマンは1960年1月、こう書いている。「ハンス・クナッパーツブッシュは八番を、彼に心服しているフィルハーモニーと幾度も演奏してきた。彼の音楽性にある内発性を考えれば、彼が何か固定された解釈の規範を基礎にしたりなどしなかったのは、明白である。常に「前とは違った」第八であり、なおかつ、常にクナッパーツブッシュの第八であった。ブルックナーのこの雄大な交響曲の最新の演奏では、デュナーミクは一層見通しよく、移行は一層滑らかに、そしてトロンボーンとテューバの響き全体は一層品位と厳かさを加えたように思われた。(…)ミュンヘン・フィルは、細部の意味を十分に弁え、また、表情豊かに雄大なテンポで荘厳な歩みを進め、紛れもないブルックナー交響楽団としての高度の資質を保持していた。演奏終了後、数秒あって割れんばかりの喝采となったが、聴衆の深い感銘の十分な証しである」(1960年1月27日、南ドイツ新聞)  三年後、ヴァルター・パノフスキーには「八番の解釈が、今回ほどこれまでの演奏と大きく異なったと思われたことはなかった。彼はこの作品を全く新たに洞察し、心に受けとめたのだろう。巨大な石造りのこの作品の荘厳な不協和音の尖角を、これほど鋭く切り出したことはなかった。これほど厳しくリズムを前進させたことはなかった」(1963年1月23、24日のコンサート)。「クナ」の最後の「八番」だった。
 クナッパーツブッシュは聴衆を、その解釈で魔術師のように虜にしたが、自分にそれが終わってしまえば、有無を言わさず刎ねつけるような身振りや口ごもった言葉で、魔法を破ってしまった。ある時「五番」の演奏が終わったところで、水を打ったような感動に沈む会場に、数秒後、ぶっきらぼうな唸り声が聞こえた、「おしまい!」
 このように、彼の距離の置き方は尊大とも見えかねないほどだが、ミュンヘンで彼ほどに愛された音楽家は、彼以前に皆無に近い。「クナ」が終演の喝采を避ければ避けるほど、聴衆は一層有頂天に反応したのである。クナッパーツブッシュのコンサートが告知されれば、その特別な意味を誰もがよく知っていた。彼のコンサートはどれも、特別演奏会だったのである。


VIII.
 クナッパーツブッシュとの結びつきの意味をミュンヘン・フィルは十分に評価していた。この大指揮者は、彼の指揮するオーケストラを常にきわめて慎重に選択し、彼との集中的な協同作業という特典を無選択に賦与したりは、決してしなかったのである。収入の点でどれほど魅力ある申し出があっても、クナッパーツブッシュはミュンヘンでは、ミュンヘン・フィルと州立管弦楽団しか指揮しなかった。
 深い感謝のしるしとしてミュンヘン・フィルは、このレギュラーの客演指揮者の70才の誕生日(1958年3月12日)に「ミュンヘン・フィル名誉指輪」を贈った。クナッパーツブッシュは感動した謝辞を述べている、「「ありがとう」と書き送るべき先は千を優に超えているのですが、貴殿(当時の事務局長エミール・ヴェルデ)は、私の謝意を誰よりも早く受け取るべき人物の一人です。貴殿と貴殿のフィルハーモニーは私に大変な喜びを与えてくれました。指輪はたとえようもなく美しい。この指輪には特に御礼を申し上げます。私の安静期間が遠からず終われば良いのですが。そうすれば、私は貴殿と貴殿のフィルハーモニーのもとへ赴くことができます。私自身、それを千秋の思いで待っているのです」
 フィルハーモニーとクナッパーツブッシュの共演だけに見られた特別な結びつきのしるしは、無論、数え切れるものではない。だが、練習の際には、彼の場合、短い言葉、いや、大抵は、励ますような、あるいは、咎めるような眼差しだけで十分だったとオーケストラのメンバーは一致して述べている。外面は最小限の動きで、彼は最大限の内的な効果を目指していた。彼の正確な記憶力も賞賛と畏怖の的だった。練習に際しあるメンバーに彼が、今回は三年前と同じ箇所を弾き損じないようにと指摘したことまであるのである。「クナッパーツブッシュ教授とのこうした友好関係では、どんな時期にも彼に助言を求めることができましたし、どんな時にも彼はそばで助言と助力を与えてくれました。このような誠実と信頼は、今日、こう言わざるを得ませんが、もう決して日常のものではなくなってしまいました」(エミール・ヴェルデ、クナッパーツブッシュの75才の誕生日に) 1965年10月イタリア楽旅の途路、ミュンヘン・フィルに、40年以上にわたって忘れられぬ夕べを共に体験してきた、彼らの敬愛する指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュの訃報がもたらされた。
 ミラノ・スカラ座での二回のコンサートは、彼の思い出に捧げられた。


付録
ミュンヘン・フィルとのラストコンサ−ト評

クナッパ−ツブッシュ、ブルックナ−とリヒャルト・シュトラウスを指揮
ミュンヘン・フィル第6回演奏会

 ミュンヘン・フィルの第6回演奏会でハンス・クナッパ−ツブッシュは、彼が全く特別な愛着を抱いていると思われる二つの交響作品を指揮した。リヒャルト・シュトラウス「死と変容」とアントン・ブルックナ−の第三交響曲ニ短調である。シュトラウスの交響詩では、見事な管弦楽法から生み出されたワ−グナ−風の深刻さ、荒々しさが指揮者には魅力だったのだろう。つまり、死との闘いを描いた箇所や、幾分ユ−ゲントシュティ−ルを思わせる回想の世界を突き破ってくる変容のモティ−フの劇性である。ブルックナ−の第三交響曲では、シンフォニックな規模の大きさと灼熱である(単に好みというものを基準にしても、この些か不均整な交響曲の最も価値のある箇所 −即ち、第一楽章の提示部、第二楽章の主題の変奏、フィナ−レの副次モティ−フの壮麗な展開− はブルックナ−が書いた最も美しいペ−ジに属するといっても、まず間違いなく、理解を得られるだろう)。いずれにせよ、リヒャルト・シュトラウスの優れた管弦楽作品とブルックナ−の交響楽の圧倒的な力を併置したプログラミングが生み出した対照は、既に交響曲の冒頭数小節において、瞠目すべきものだった。二つの世界は全く異なっていたのである。
 病熱の気分を表す冒頭の鈍い脈動をクナッパ−ツブッシュは、鬱々と思い悩むような暗い趣ではなく、むしろ一種、明澄さを志向して、つまり、主題とリズムの精確な提示に眼目を置いて指揮した。オ−ケストラはこの時点で、彼にまだ、十分な集中力でついて行っていたとは思えないので、或は彼は、そうせざるを得なかったとも考えられる。それだけに、彼を措いて何人もなし得ない指揮法から繰り広げられ、終わりなく続くかと思われた、死との闘争の強音部は、一層強烈だった。そのあまり、きわめて洗練され、かつ、豊かな和声を備えた変容の主題すら、それが最後に壮麗極まりなく響きわたる時にも、この死の印象を消し去ることはおろか、和らげさえできなかったほどだ。
 ブルックナーの三番、終始幽暗の世界に漂うシュ−ベルトのハ短調ソナタ第一楽章との共通性を、なお文字どうりの細部に多く残しながら、他方、ワ−グナ−の「指環」和声を交響作品の進行に取り入れようという意図を持つこの作品は、クナッパ−ツブッシュにとって、いわばクレシェンドの祝典であった。彼が主眼を置いたのは、レントラ−の副次主題やトリオの優美な旋律ではなく、強音の箇所であった。おそらく、異なる和声ブロックを意識して置かれたと覚しいわずかなゲネラル・パウゼは(こうした箇所でオケが示した敏感さは、誰の目にも明らかだった)、和音を相互に際立たせ、かつ、移行を明瞭に示していたが、その際の徹底した静けさは、交響曲における表現の雄弁さのまさに見事な一例だった。このような時クナッパ−ツブッシュが目立って遅いテンポを取ることは決してない。緩徐楽章は、根本においてアレグレットの、動きのあるアンダンテだった。また、フィナ−レはこれ以上に早く演奏されることはないだろう。かくしてこの老指揮者は全聴衆を、彼の愛するブルックナーの世界に引き込んだのである。演奏後の拍手に彼は簡単に、そして非常に丁寧に応えていた。その時、彼はコンサ−トマスタ−、フリッツ・ゾンライトナ−の肩を嬉しそうに叩いていたが、それをこの優れた音楽家は、あるいはドイツ音楽の偉大な伝統から彼に贈られた、名誉ある叙任の名誉ある叙任の刀礼と感じたのかも知れなかった。

(ヨアヒム・カイザ−、「南ドイツ新聞」1964年1月17日)

出典 "Philharmonische Blätter der Münchner Philharmoniker" Jg. 3, Heft 6-8, München 1988


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