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クナッパーツブッシュ
ヴァルター・パノフスキー著
石橋邦俊訳 |
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ハンス・クナッパーツブッシュ---彼の名が喚び起こす愛情と畏怖の念、つまり独
特のこの崇敬の感情を、我々の世代はデモーニッシュな指揮者たちにも、冷徹で電動
機械のような「現代的な」指揮者たちにも向けることはない。彼の高齢を考えれば、
敬意は当然であるが(時はクナッパーツブッシュの傍らを痕跡を留めずに流れ去って
いるように思えるのだから)、思うに、この感情は、むしろ彼の人格に向けられてい
るのである。彼の人柄は、言葉の最良の意味において「反時代的」だ、貴族的で、理
想主義的で、自分を自覚していると同時に謙譲である。彼の生は音楽への奉仕であり、
過去の偉大な巨匠たちへの献身である。彼の最も深い、測り難い中核にあるのは、疑
りとは無縁な、作品への絶対の信仰である。この信仰を彼は、音楽家にも、同じく聴
衆にも魔術を以って伝達し、かくして深い信仰で結ばれた共同体を創り上げる。そこ
で演奏されるのがモーツァルトであれ、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、
或いは彼の「十八番」、たとえばカール・コムツァークの「バーデン娘」、シャルパ
ンティエの「ルイーズ」、また、彼の愛する「陽気な女房たち」であれ、それは関係
ない。クナッパーツブッシュが神々の黄昏の葬送行進曲のタクトを振り降ろす前に、
バイロイトのオーケストラの「蓋」の下に極限まで張り詰める、息もできぬほどの緊
張を一度でも自ら感じ取った者ならば、権威とは、最大の成果をひき出すだけの途方
もない能力を人に感じさせると同時に、他方、努力を通して得られる完璧さからは決
して生み出されない、芸術的な印象の数々を伝え得るものであることを知っている。
神々の黄昏と、そして何よりもパルジファルが、リヒャルト・ワーグナーの全作品と
ともに、彼の存在の中心にある。巨大な弧を幾重にも張り渡し、これを幾時間にも亙っ
て悠然と自在に配置し、あの長い腕でオーケストラを自然の根源の力そのものの頂点
まで幾度も引き上げ、それが不要となれば歌手を伴奏し、眼差しひとつで最弱のピア
ノへ抑え込む、このクナッパーツブッシュの能力故に、我々の世代にとって、彼はお
よそワーグナー指揮者というものの精髄である。彼がラインの黄金前奏曲を始める時、
神秘と神話の深淵からコントラ・変ホ音を喚び起こす時、あの三和音を、あの始源の
旋律を徐々に照らし出して行く時、この時、クナッパーツブッシュは、指環の音楽の
世界を誰にも増して隅無く知りつくしている彼は、神々の黄昏を閉じる変ニ長調の消
え行く和音を既にその耳に聴いていると言って良い。ワーグナーの作品への愛を彼に
教えたのは、ハンス・リヒターだった。1876年8月、バイロイト祝祭劇場で指環四部
作を初演した指揮者、つまり、いわばワーグナーの眼と耳のもとで正統的解釈を創り
上げることができた指揮者である。彼の弟子、それ故、この鎖を作り成す一個の環、
そして伝統の護持者であることをクナッパーツブッシュは常に感じていた。1957年夏、
神々の黄昏終演後、小さな指揮者控室で、まだ感謝の言葉を捜していた私に、彼はこ
う言った、「ハンス・リヒターは私に満足だろうと思います」 この時ほど幸せそう
なクナッパーツブッシュを、私は見たことがなかった。
ヴィーラント・ワーグナー
バイロイト祝祭劇場の観客席の明かりは疾うに消えていた。しかし、まだ沈黙があっ
た、多分に長い沈黙があった、そして、ハンス・クナッパーツブッシュはパルジファ
ル前奏曲の指揮棒を揚げたのである。どうにか抑え込んだ内心の動揺を、彼はまず、
制御しなくてはならなかったのだ。既に63才の彼は、だが、この時初めてバイロイト
で指揮をするこの瞬間を、自分の人生の至上の時と感じたのである。ここの、このバ
イロイトのオーケストラピットで、彼は四十余年前、助手としてハンス・リヒターの
足元に座していたのだ。ここで彼は、リヒターが生前のワーグナー自身から受けとっ
たものを忠実に自分の中に取りこみ、それを心の中でじっくりと吟味してきたのだ。
ここで彼は、当時既に、リヒャルト・ワーグナーのクルヴェナールとなっていたのだ。
「最も多くのもの、そして最も深いもの」をワーグナーのおかげで知り得たことを、
彼は公言して憚らなかった。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェン、シューベル
ト、ブラームス、そしてブルックナー、シュトラウスやプフィッツナーへ寄せる愛情
がワーグナーに比して少なかったというのではない、彼なりのやり方であれ、こうし
た作曲家の本質の中核へ参入しようとすることを怠ったというのではない。しかしク
ナッパーツブッシュは、自分の音楽上の本来の充足を常にワーグナーの世界のみに求
め、また、見い出してきた。唯一、ワーグナーのスコアの解釈が求めるもの、つまり、
衝動的な、感覚的な、いや、陶酔的ですらある音楽への没入と、巨大な均衡と形式を
解する絶対にあやまたぬ感覚の結合、そして、ワーグナーの楽劇というスタイルを、
モティーフというテクニックの持つ、いわば音楽外の事象への隷属とも見えかねぬと
ころから絶対的に音楽的な、一種の根源的現象へ引き上げるもの、つまり、大きな呼
吸、滔々と流れる感情、それはクナッパーツブッシュの音楽的世界観にも彼の芸術上
の気質にも完全に合致している。日常、彼が如何に己れを閉ざしてみせようとも、ワ
ーグナーの音楽の中で彼は自分を十全に開いてみせるのである。どの演奏にも彼は自
分の紋章を封印し、しかしそこで彼は自身を、彼が何の留保もなく心服しているその
音楽の単なる仲介者としか感じていない。個人的な信仰告白と自分の解釈の「正しさ」
に寄せる絶対的な信仰は溶け合い、かくしてクナッパーツブッシュは、かつてハンス・
フォン・ビューローによって形を与えられ、アルトゥール・ニキシュまで受け継がれ
たひとつの指揮者の典型を体現することになる。他のすべての指揮者に混じっても、
クナッパーツブッシュのスタイルは判然としている。時に随分恣意的な悠揚たるテン
ポだけではない。彼が愛して止まぬ、たっぷりと広がるロマンティックな響きもそれ
である。ディテールを十分に味わい尽くしつつ、しかし失われぬ大きな線(この能力
において、今日、彼に比肩できる者はいない)もそれである。本能と悟性と感情の独
特な混ざり合い、彼を際立たせているこの混合、多くの場合、かくも本能を失い、感
情に乏しく、メトロノーム的な我々の世界における、いわば、素晴らしいアナクロニ
ズムもそれなのである。---ハンス・クナッパーツブッシュは1988年3月12日、エルバ
ーフェルトに生まれた。旧ベルク公国領出身の製造業者の家系の出である。12才の折
りの彼の最初の指揮の手習いを満足気な誇らしさを抱いて容認していた両親は、息子
が真剣に希望した音楽学校への進学を「まるで話にならぬものとして」言下に拒絶し
た。両親の抵抗を崩したのは、父親の時ならぬ死であった。クナッパーツブッシュは
ボン大学の哲学と音楽学の講義に聴講手続きを取った。同時にケルン音楽院に入学し、
ラツァロ・ウツィエリスのピアノのクラスと、フリッツ・シュタインバッハの指揮の
クラスに通った。後者は殊に注目に値する。ヨハネス・ブラームスの世界への目を彼
に最初に開かせたのは、おそらくシュタインバッハだろう。クナッパーツブッシュは
大学の勉学をミュンヘンで終えるよう企図していた。「ワーグナーのパルジファルに
おけるクンドリーの本質について」という学位論文が提出され、受理されたが、生ま
れ故郷エルバーフェルトでの契約のため、口頭試問は行われなかった。これは彼の最
初の契約ではない。1909年から1912年、彼は既にルール河畔のミュールハイムとボー
フムで、当時資金繰りに苦しんでいた小さな劇場で働いていた。遥かに重要なのはバ
イロイトとの最初の出会いである。同時期に、つまり1909年から1912年の間、彼は音
楽祭に際し、ジークフリート・ワーグナーと、(何よりも)ハンス・リヒターの助手
を務めた。クナッパーツブッシュがエルバーフェルトの契約を受け、「隠者の鈴」で
登場した時、総支配人フォン・ゲルラハは弱冠25才の新進指揮者のために、既に様々
な重要な仕事を用意していた。彼はクナッパーツブッシュにオランダのワーグナー音
楽祭の音楽上の指導を委ねたのだった。ここでクナッパーツブッシュは1914年、初め
てのドイツ人指揮者として「パルジファル」を指揮している。殊に好んだこの作品を
彼はエルバーフェルトでも舞台にかけた。1913年、ワーグナーの死後三十年を経て、
「パルジファル」はようやく祝祭劇場の外でも演奏できるようになっていたのである。
(今日、クナッパーツブッシュはバイロイト以外の地で指揮することを断固、拒否し
ている。ワーグナー自身が定めた三十年の留保がその決断の根拠だそうである。)第
一次大戦の間、クナッパーツブッシュはエルバーフェルトを離れなかった。1918年、
ライプツィヒへ招聘されたが、早くも一年後、デッサウのフリードリヒ劇場の総指揮
を、当時最年少のドイツ人音楽総監督として引き受けた。その後、クナッパーツブッ
シュはブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンへやって来るのである。1922年5
月2日、オデオンでのアカデミー・コンサートに客演し、5月4日、州立劇場で「マイ
スタージンガー」を、更に二日後、「魔笛」を、そして、その更に二日後、客演指揮
者という立場のまま「ヴァルキューレ」を指揮した。五ヶ月後、1922年10月5日、「ト
リスタンとイゾルデ」を以って、彼は生涯に及ぶこととなるミュンヘン歌劇場のため
の仕事を開始する。他の数多くの人々同様、ライン地方に生まれたクナッパーツブッ
シュもイーザー河畔の街に短時日のうちに根を下ろした。この街に彼は、今日にいた
るまで忠誠を保っている、他ならぬこのミュンヘンで彼は二度、苦い経験をせざるを
得なかったのだが。1935年10月、バイエルン州立歌劇場総支配人兼音楽総監督の職を
辞すよう強いられた。1933年来くすぶっていたヒトラー一統との軋轢が爆発したので
ある。クナッパーツブッシュは一切、自分のことに口を挟ませないで通していた。自
分の見解を、取り繕わぬ、しばしばショッキングな言い方で口にするのが常だった。
彼に軍服姿の後見役を付けようと目論まれたこの時も、そうしたのだった。彼を「引
退させる」だけでは不十分だった。ミュンヘン滞在は今後、望ましくない旨、当局は
ほのめかした。クナッパーツブッシュが「ウィーン流刑」(その間、ウィーン・フィ
ルと最も緊密に結ばれていた)からミュンヘンへ帰還するのは、1945年になってであ
る。指揮台に上った彼は嬉しさの余り、常々の習慣に全く反して、ニ、三、挨拶を述
べた後に、メンデルスゾーンの「凪の海と楽しい航海」の指揮棒を上げたほどである。
1945年夏、彼は早くも州立劇場再建に様々な案を練っていた(彼は今も、焼け落ちた
この劇場跡を、あたう限り、避けている)。だがこの時、同年冬、占領軍当局の指揮
活動禁止命令が、平手打ちさながらに彼にもたらされた。クナッパーツブッシュであ
れば、同業の誰よりもこの非難に抗弁できたのである、このいわれ無い濡れ衣に易々
と反証を提示できたのである。だが、彼のプライドがそれを許さなかった。彼は自身
の名誉回復に指一本動かさなかった。苦い思いを噛みしめながら、粗末な仮の宿りへ
引きこもった。ベッドとピアノの上には、天上から落ちて来る漆喰を受ける布のシー
トが張られた。こうした情況でクナッパーツブッシュは、疾うに暗譜していたスコア
に向き合った。年齢とともに交際嫌いの癖は表われていたのだが、それが病的なまで
に強まったのは、この完全な無為の年であり、今日まで変わっていない。多くの陳謝
の言葉を添えて、遺憾な誤解であったとして指揮活動禁止命令が撤回された時、クナッ
パーツブッシュが最初のコンサートを指揮したのはミュンヘンではなく、バンベルク
であった。前プラハ・フィルの数多くの楽員がここに集まり、新しいオーケストラを
創設していたのだ。シューベルトのロザムンデ序曲と交響曲第五番、そして第七番が
プログラムに組まれていた。バンベルクに次いでクナッパーツブッシュは、この演目
をベルリンで再演した。禁止命令撤回からようやく二ヶ月を経て、彼はヨハネス・ブ
ラームスの没後五十年の命日に、ミュンヘン・フィルの記念演奏会を指揮した。ブラ
ームスの交響曲第三番と第二番、ミュンヘンで最初に指揮したコンサートと同じ作品
を、彼はこの時にために残しておいたのだった。1948年4月、ようやく13年を経て州
立歌劇場の指揮台に再び登場した折りの「ヴァルキューレ」は忘れ難い。クナッパー
ツブッシュがこれまでミュンヘンで指揮したオペラは120を越える。主としてワーグ
ナー、シュトラウス、そしてモーツァルトの作品である。しかし、これらを含めた定
番作品と並んで、彼のレパートリーには、音楽総監督ほどの指揮者ならば、普通、取
り上げない珠玉のような作品が少なくない。たとえば、フンパーディンク「王の子供
たち」やペーター・コルネリウス「バグダッドの理髪師」である。他方、数字やデー
タ、統計は、余人はともあれ、クナッパーツブッシュの場合、さしたる意味を持って
いない。ヨーロッパの主要都市のほとんどでクナッパーツブッシュは指揮をしたと言っ
ても、彼ほどの指揮者であれば、特別とは言えない。また、クナッパーツブッシュは
ミュンヘンに居を定めているが、故郷は彼にとって、唯一、バイロイトである。誰の
目も届かない、天蓋に護られたこの貝殻の中が、彼の自分の場所なのだ。「丘」のバ
リアーに包まれたここで彼は、他のどこよりも上機嫌で、伸び伸びと振る舞っている。
以前は、他のすべての指揮者と同じく、喝采に答礼することもあった。その後しかし、
時とともに彼はあからさまに拍手を避ける風を強めていった。袖からオーケストラの
前に戻るのは稀であり、カーテンコールを繰り返すなどほとんどない。登壇の折りの
拍手も、今では遠慮なく指揮棒を振り上げて、できるだけ手短に打ち切ってしまう。
クナッパーツブッシュはともかくも可能な限り、拍手を避けているのだ。「ウィンザ
ーの陽気な女房たち」の新演出上演では、オペラ第二部のファルスタッフのモノロー
グの間に、気づかれぬように指揮台に上り、彼の登場の度ごとに起きるのが通例のオ
ーベーションをさせなかった。これほどの誉められ嫌いが一体何に由来するのか、そ
れは心理学の専門家に考えて頂こう。虚栄を嫌う心が「虚栄心」に変わる境界がある
のかも知れない。だが、彼の音楽上の世界観の基底であるロマン主義とは奇妙に矛盾
しているが、過度の個人崇拝に逐一抗う彼の姿勢が、つまるところ、彼にとって重要
なのは音楽のみであるという理由であるのは確かである。「ここでは音楽だけが大切
なのです」 とは言え、彼の拍手嫌いがこれで説明し尽くされたわけではない。自ら
孤独を選ぶことで身を護ろうとしているその外の世界が、彼の心と時経るごとに異質
になり、他ならぬその異質さゆえに彼の領域を過度に侵害するやも知れぬというこの
点にも、原因があるのだろう。無論、この一風変わった自己防御は、彼個人について
は有用だが、必要不可欠な内面の平安から常に新たに再創造される作品の場合、その
効果は減少する。「自己と、そして人類との孤独な共同性」(クナッパーツブッシュ
の交際嫌いをこのワーグナーの言葉以上にうまく書き換えるのは、およそ不可能だろ
う)は彼の芸術上の様々な意図を実現するための決定的な前提といってよい。コンサ
ート会場に備え付けるよう彼が求める指揮台の木枠は、単に体を支えるためでは決し
てない、聴衆が彼に寄せる愛情が無抑制に、無制限に、直接的になるに応じて強くなっ
てきた彼の隔絶の意志が必要とする具体物である。だがそれでも、聴衆を軽視する彼
のポーズは、熱狂の火を一層煽るだけなのだ。クナッパーツブッシュにあって人を圧
倒するのは、その容貌だけではない。彼の指揮ぶりにも、大きく動く時も抑制してい
るかに見える場合も、皇帝のごとき趣きがあり、それはオーケストラ以外の人にも伝
わって来る。彼の拍の取り方は変わっているが、オーケストラにはすぐ理解される。
決して拍子振りではない。彼の棒が描くのは、変化して止まぬ速度を示す線、曲線、
言い換えれば、無限へ消えて行く双曲線である。ワルツをメトロノームのような拍で
振るなど、決してない。我々の目の前でそのワルツを肉づけし、彫り上げて行くのだ、
身振りや視線で、ほとんどわからないほど眉を上げて、或いは親指と人差し指で弾く
音をたてて。クナッパーツブッシュはカフスボタンを上げるだけでピアニシモをフォ
ルテシモに変えることができる唯一の人物だ、かつてエーリヒ・クライバーがこう言っ
た。これは事実である。このように外的に最小限の力で内的に最大限の力が生み出される様、クナッパーツブッシュの視線のもとでのみ、紛うことないあの響きが易々と
引き出される様、幾度経験した者にも、それは常に奇跡に等しい。他の指揮者が足を
踏み鳴らし大きく体を揺り動かす所でも、クナはほんの一度、少しばかり眼を上に向
けるだけである。彼はデーモンでもなければ、メトロノームでもない、狂信の修行僧
でも、掛け声に合わせるだけのボート漕ぎでもない。「エレクトラ」の困難を極める
アウフタクトでも、彼が宙に二、三の不可思議な模様を描けば、それでオーケストラ
が揃うのである。「神々の黄昏」の葬送行進曲のシンバルのリズムを全身で指揮する
クナッパーツブッシュは、オクタヴィアンとゾフィーの出会いの場の銀のチェレスタ
には、ほとんど気づかれぬくらいに首を傾げるだけでよしとしている。ブルックナー
のクレシェンドのような場合には、悠然と腕を振り上げ、巨大な石の伽藍を造り上げ
る、だがその後で指揮棒がずっと下ろされていることもある。既に解き放ったリズム
を、彼は眼差しだけで保持して行くのだ。彼の指揮棒から流れ出る、息を呑むばかり
の作用を文字に表わすのは難しい。聴衆の目に映るのは、見事なまでに簡素な、節約
された身振りである。それに対し奏者は、テレパシーといっても過言ではないような
かたちで指示が送られるのを経験する。指揮者は自分だけを見ている、そう誰もが思
いこむ。直かに声をかけられている、いや、激励されていると誰もが感じるのだ。だ
がしかし、クナッパーツブッシュが奏者に及ぼす強制力は、いわば自由への強制力で
ある。音楽芸術作品の誕生の時を彼が自ら、常に新しく、繰り返し直観を以って体験
しているからこそ、彼は彼に助力する彼らにも同じものを求めるのである。精確無比
の時計を動かすのではない、彼は心臓の弁と心室を開くのだ。彼は「即興する」、つ
まり、一種突発的な感情から、瞬間の閃きから演奏を形造る。午前のプローベでは確
定されたと思われた箇所が、夜の公演で別様に奏されることなど、幾度もある。指揮
法も決して同一ではない、計算されたものでは決してない。これも、多くは彼の自発
的な閃きから生まれるのだ。反応がないことも少なくない。時は、星の運行はその夜、
彼の味方ではないらしい。また、何かに立腹したのか、クナの方が演奏の最中に集中
力を、いや、意気を失う場合もある。しかし同じく、忽然として彼が再び完全に「そ
こに立つ」こともあるのである。突如、響きが広がり、同じクナの指揮棒のもとです
ら、これまでにはなかったと思われるほどに美しい、一回限りの演奏となることもあ
る。幾十年に亙って彼の演奏に接した者ならば、その数々の演奏が中核において毫も
変化していないことを知っている。以前は、或いはより俊敏で激しかったかも知れな
い。クナッパーツブッシュも年齢を重ねて、ようやく究極の簡素さに到達したのだ。
しかしまた、彼はいかなる形式主義とも無縁である。アレグロがアレグレットになる
日も、アンダンテがアダージョに、逆にプレストがプレスティシモになりかねないよ
うな日もある。しかし、テンポ解釈の相対性こそが、彼の直感的造型の証である。ど
のテンポも、彼には「正しい」のだ、彼のテンポは計算の帰結ではなく、常に感覚に
よって得られるにほかならないのだから。そこから生じる演奏時間の差は時に唖然と
するほど大きい。1951年夏のバイロイト音楽祭の「神々の黄昏」第一幕はゲネラルプ
ローベより15分以上長かった。「マイスタージンガー」の第三幕にある時は129分を
要し、だが別の折りには114分しかかからなかったという記録もある。しかしながら、
どのテンポにもそれぞれに説得力があるのである。強弱記号も彼には手掛かりに過ぎ
ず、命令ではない。書き込まれてはいない流れの変化こそ、彼にはより重要である(
だが、恣意的と言うのは控えるべきだろう)。彼は決して中立的ではあり得ない、客
観視することはできない。そして、彼もそれを望んでいない。現代の音楽の世界で頻
繁に使われる客観性という概念は、彼には存在していない。芸術上の客観性など、彼
は、ゲーテの言う「党派的狂信」としか解し得ないのだ。だがそれは同時に、彼の内
的世界の境界線でもある。主観的な取り組みを禁じる音楽、或は、それが不可能と言っ
てもよい音楽、それにはどのようなものであれ、初めから彼は疑りの目を向けずには
いられない。クナッパーツブッシュにはロマン主義的な意味での「実質のある音楽」
しかないのである(この場合、歴史上の様式概念である「ロマン主義」は、また、自
ずと主観主義の最高の形態と把握されずにはいない)。自我と、自我によって呼びか
けられる「なにものか」の融解、クナッパーツブッシュの解釈すべてに刻印を与える
のは、これである。他の大指揮者たちであれば生涯に亙る課題となり、その創造行為
の中核を成すことも往々であったアポロとデュオニュソスの、実り豊かながらも苦し
く、終わりのない相克を、この指揮者は己が胸中に味わう必要がなかった。クナッパ
ーツブッシュにあっては、両極を成すふたつの世界の一種有機的な均衡が、敢えて求
めずとも、成立しているのである。それは自ずから成立しているのである。例えば、
クナのワーグナー演奏以外にも、彼が指揮をとるすべてに対して、それは当てはまる。
ワーグナーとブラームス同様、モーツァルトを彼はこれまでずっと採り上げてきた、
その「アポロ的」世界にクナッパーツブッシュが示した関係は、早い時期から独特だっ
た。パウダーシュガーに埋もれたロココというイメージが全般的に修正され始めるよ
り遥かに前に、彼はいたずらに遊戯的なものや上べばかりの愛くるしさをモーツァル
トから取り去っていた。モーツァルトの音楽に彼が賦与したのは、純粋な遊戯の魔法
を以ってしても稀にしか覆い隠し得ぬ、絶え間ない感情の炎である。たとえばパパゲ
ーノの歌である。ザラストロの世界、そして星に輝く女王の世界にパパゲーノの旋律
を、彼のように対置し得た者は皆無といってよい。古典派とロマン派の中で彼が疎ん
じた作品はほとんどない。そして、彼が好んだ作品は多い。例えばベートーヴェンの
2番、4番、シューベルトの5番、シューマンの1番、そしてブラームスの3番である。
他の指揮者が採り上げたがらない作品が彼を惹きつけ、確たる理由なく等閑に付され
ているものを、彼はあるべき位置へ引き戻す。こうした努力のためならば、プログラ
ムのまとまりを犠牲にすることも、彼は時に厭わない。内的に共通性を示している作
品を常に組み合わせるというわけではないのだ。時々彼は、何らつながりのない作品
を並べさえするが、そのどれもが彼の心に適うのである。区別するのではなく、愛す
のである。根本においてこのような姿勢であれば、クナッパーツブッシュが決して足
を踏み入れない交響的世界があるのも、何ら不思議ではない。あらゆる信号、どんな
信号でも受信し、これを適切に変圧する中継局と自分を見なすなど、彼には不可能で
ある。彼は常に「反響」であるよりなく、また、そうありたいと望んでいる。すべて
のロマン主義者と同様、彼は党派的であり、その姿勢は初めから決められている。彼
の心に触れるもの、彼のうちの最も深い所にある琴線とでもいうべき何かを黙させる
もの、彼が向き合うのはそれなのだ。その余に対し、彼は決して耳を貸さない。彼は
一度も(指揮者として)フランス印象派に関らなかった。しかし同様に、確定できる
限りにおいて、一度もロッシーニの序曲を振らなかった。つまり「住めば都」とは行
かないのである。これは決して、軽い作品や軽音楽を鼻であしらったというのではな
い。彼の大好きな作品の一つは、たとえばチャイコフスキーの「胡桃割り人形」組曲
であるし、クナッパーツブッシュによるウィンナ・ワルツやマーチを知らない人は、
彼の音楽的感性の広がりを把握しているなどと主張できるものではない。ここでは、
ヨハン・シュトラウスもカール・コムツァークも彼には同等である。鈴の音や鞭の響
き、小太鼓やシンバルといった愉快な効果のひとつひとつを、クナッパーツブッシュ
は、一杯の滑らかなワインを傾けるように存分に味わい尽くす。長たらしい準備を嫌
うことで広く知られているこの人物から予想されるよりも遥かに長いプローベを、ワ
ルツの夕べのプログラムに費やしたのも、一度や二度ではない。クナッパーツブッシュ
にとって、練習は必要悪にほかならない。彼の独自の音楽にすべての音楽かがあらか
じめ完全に馴染んでいるなどあり得ないと、彼は心得ている。しかしまた、練習が過
度にわたれば、音楽家の本能的な自発的な音楽のやり方が損なわれることも、彼は知っ
ている。彼は一度も完璧を期しはしなかった。感情表現、音符の列の背後に隠された
計測し得ぬものこそ、彼にはより重要だった。そして密かに、同じ心構えを楽員たち
にも望んでいる。広げられたスコアは彼自身にとって「典礼の小道具」に過ぎないが、
彼はオーケストラの各パートに対しても(どれほど難しい箇所もこなし得るテクニッ
クとともに)この姿勢を自明のものと、前提している。演奏の瞬間に、彼の直感的な
形成意欲がなにものにも遮られないこと、これは当然なのだ。無用に長々とした練習
を止めさせるのも、これである。慣例となっていた、確認のためのプローベに時間通
りに現れた彼が、歌手と楽員に丁重に挨拶した後で、手短にこう言ったことがある、
「この作品を皆さんはご存じです。私も知っています。夕方、会いましょう」 もっ
とも、このような態度は彼が敢えて自らに課す、自発的な音楽を求める心構えを、楽
員にも歌手にも前提とした上でのものである。これが欠けると、オペラの一幕や一曲
の交響曲を単に終わらせる以外の何の努力も彼が払わなくなることもないわけではな
い。凡庸以上に彼にとって厭わしいものは(拍手を除いて)ない。そのような折りに
彼がもらす片言双句の辛辣さは、つとに有名だ。怒鳴りつく彼には遠慮も作法もあり
はしない。通例、彼の警句は意図的に意地悪く表明される死の宣告なのだが、そうし
た形で、万人が口にする表現や伝統的な決まり文句に彼が抱こうとしいている高貴な
敬意を表わしている場合もあるのである。彼の発言の多くは、例えばクナッパーツブッ
シュに「ヘド」を催させた「ヒンデミットの猿まね屋ども」という有名な言葉から、
果てはヴィーラント・ワーグナーとのいつもの口喧嘩に至るまでエピソードとして人
口に膾炙している。同時代の音楽については、昨日と今日の差が大きくなるにつれ、
緊張が増大してきた。20年代末頃、クナッパーツブッシュは彼の指揮するアカデミー・
コンサートで、当時のフルトヴェングラー同様、例えばストラヴィンスキーのスキャ
ンダラスな「春の祭典」やヒンデミットの管弦楽作品、或はオネゲルの「パシフィッ
ク231」のような、その頃のモダンな作品を数多く採り上げているのである。しかし、
これもフルトヴェングラーと同じく、年齢を重ねるにつれ、クナッパーツブッシュも、
自分の言葉はやはり別のものだという認識から、伝統という領域に己れを制限するよ
うになった。彼は彼でしかあり得ないのであり、彼以外のものになることなど、毛頭、
望んでいない。向かう所、何でも指揮して見せる「なんでもござれ」の音楽家などでは、
決してなかった。だが、ワーグナーの孫たちと彼の関係について言えば、心中に分裂
を覚えつつも護っている、彼のクルヴェナールの忠誠を見れば良い。伝統、規律から
の逸脱ひとつひとつに、クナッパーツブッシュは呆然とし、傷つき、憤りを覚えてき
たのだ。それは今も変わりない。バイロイトの「丘」に永久に背を向けようと望んで
いるかに思われた時もあった。彼はそうしなかった。個人的な感情は眼前の大事の下
に抑え込み、従前と変わらず、ひとつの芸術上の理想に、彼の人生を満たして来た理
想にこれからも仕えていこうと試みたのだ。彼の師、ハンス・リヒターからかつて彼
が受け取ったものを護り、増やし、後世に伝えること、クナッパーツブッシュはそれ
を己れの義務とも責務ともみなし、ここに何に迷いもない。それ故彼は、バイロイト
に限らず、一つ一つのオペラやコンサートの演奏に伝統という紋章の封印を施し続け
ているのである。二度の世界大戦の二重の破壊は我々すべての者の心に、新しいもの
への希求を呼び覚ますより、むしろ昨日の世界への愛着、過ぎ去った、そして過ぎ去
りつつある世界への憧憬を育んだ。クナッパーツブッシュはこの昨日の世界の美しい
一部であり、我々には過ぎ去ることのないものと思える過去のあるものの証人である。
おそらくそれが、究極の理由であろう、我々の尊敬、我々の敬愛のみならず、さらに
我々の愛情を、感謝をこめた愛情を彼が得ているというそのことの。 |