○未解決の問題点、不明点
資料によっては1月10日をクナのコンセルトヘボウへの初客演としているものもある。この時期のクナのオランダでの活動にはまだ不明の点が多い。
註記にも書かれているように、デッサウの劇場はもともと宮廷劇場だったが、帝政からの移行にともない、1919年10月1日からフリードリヒ劇場と改称された。したがって、そのオーケストラの名称もHofkapelle Dessauから改称されている可能性がある。
ウィーン・フィル・アルヒーフの記録によると、オランダの市立劇場での公演らしいが、詳細は不明。あるいは、ウィーン国立歌劇場の引越し公演とも考えられる。
1曲目の交響曲と2曲目のヴァイオリン協奏曲が具体的にモーツァルトのどの作品を指すのか、不明。
全曲演奏の部分的な録音か、全曲録音計画の一部といわれている。
「フルトヴェングラーと独墺マエストロの黄金時代」(DLVC-1082)及び「世紀の指揮者大音楽会」(DLVC-1009)に収録されている映像がそれぞれこのときの演奏会及びリハーサル風景と思われる(DVDの解説では1942年の演奏とされているが、クナは1942年にはベルリンpoと第9の演奏は行っていない)。この時のソリストの顔ぶれは不明。前年のフルトヴェングラーによる第9の映像がやはり残されているが、映像を比べた限りではそのときと同一のソリストでは思われる。因みに、フルトヴェングラーの演奏のソリストは、ハントのディスコグラフィによると、E・ベルガー、G・ピッツィンガー、H・ロスヴェンゲ、H・ヴァッケである。
ウィーン・フィル・アルヒーフの資料でM.K.H.またはMitte. Krtz. H.されている会場の正式名称は不明。
ウィーン・フィル・アルヒーフの手書きによる資料の文字が判然としないため、会場名は推定による。あるいはPalais Elam-GallasないしPalais Glam-Gallasかもしれない。
具体的にR. シュトラウスのどの作品を指すか、不明。
TahraのCD(TAH216)に使用されたブレーメン放送の原テープには12月12日と記載されている。10日に同プログラムの演奏会が行われたことは、ブレーメン州立poからの報告及び同CDに写真が掲載されているプログラムからみて間違い無いと思われるが、果たして12日にも演奏が行われたのかどうか、そしてブレーメン放送は(10日ではなくて)12日の演奏を収録したのかどうか、疑問がもたれる。
ウィーン・フィルの定期公演は、土曜日に公開総練習(Generalprobe)、日曜日に本来の定期演奏会を行うのが通例であった。しかしウィーン・フィル・アルヒーフの資料を見ると、土曜日の演奏についてGeneralprobeときちんと注釈がついているものと、そうでないものが混在している。当演奏会記録ではウィーン・フィル・アルヒーフの資料を尊重し、資料にGeneralprobeと明記してあるものについてのみ、その旨をNote欄に記載し、他は定期演奏会の一連の公演の一部と見なした。
岡田安樹浩氏からの情報により、詳細は不明ながら、クナは1926年、27年、29年、30年と4回にわたってレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(現サンクト・ペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団)に客演していたことが判明している。
ベルギー在住の篤志家、Prof. Dr. Eric Deromより、クナのベルギーでの公演記録が多数寄せられており、その全貌が明らかになりつつある。 |
○各オーケストラ、オペラ劇場の調査状況 ▼ほぼ全貌が判明しているもの
第2次大戦後についてはほぼ全貌が判明したが、終戦前についてはまだわかっていない点が多い 公演日についてはほぼ確定したが、出演歌手についてはまだ判明していない部分が少なくない 1952年12月の演奏会についてはまだ疑問が残る
同歌劇場の公演記録"DER CHAROTTENBURGER OPERNHAUS VON 1912 BIS 1961"にはクナの名前は無く、1912年から61年までは通常の公演を振ったことは無いらしい(但し、放送用録音は除く。1942年3月にはパルジファル第3幕の放送用録音を行っている)
ミュンヘン在住のMr. Armin Diedrichによる、Berlin Opera House Archiveの調査により、ほぼ全貌が判明した。▼ある程度判明しているもの 多くの情報が寄せられているが、全貌はまだつかめていない。吉岡豊紀氏が劇場に直接問合せを行ったが、戦後の情報のみ(しかも演目と回数、時期は特定できるも特定の日時は不明)しかわからなかった。
部分的にはわかってきたが、不明な点も多い。吉岡豊紀氏が同楽団に直接問合せを試みたが、期待するような情報は残念ながら得られなかった。
吉岡氏が同楽団に対して直接問合せを行ったが、戦後の情報のみしかわからなかった。一方で、吉岡豊紀氏の調査によるとクナのドレスデン・デビューは1933年とのことであり、また奥波一秀氏より1942年の2つの公演が報告されている。また矢向博氏によるSaechsische Staatstheater Jahrebuchの調査により、以下の内容が判明している。
奥波一秀氏により音楽監督時代の貴重な記録が発掘・提供されているが、まだ知られていない公演も少なくないと思われる。
以上4つの劇場に関しては、奥波一秀氏により貴重な記録が発掘・提供されているが、まだ知られていない公演も少なくないと思われる。
数々の公演記録がクナ研の諸兄により発掘されているが、その全貌はまだわかっていない。 山崎浩太郎氏により貴重な記録が発掘・提供されているが、まだ知られていない公演も少なくないと思われる。 ムジークフェライン・ザール、あるいはコンツェルト・ハウスでの共演については多くの情報が発掘されているが、それ以外の会場での公演についてはまだほとんど不明。 ▼ほとんどわかっていないもの こちらのホームページによると、過去の客演指揮者の一人として、クナの名前が挙げられている。また奥波氏の著書「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」では、1920年代前半に共演した可能性が指摘されている。
同団のホームページの歴代指揮者一覧をみると、1930年から1935年まで、クナがGeneral Musik Direktorであったとの記述がある。マイヤーの記事でも、数十年にわたりマタイ受難曲で共演していたとの記述がある。 クナの生まれ故郷のオーケストラ。同団ホームページの楽団小史によると、客演したことがあるらしい。当演奏記録にすでに採録されているElberfeldでのコンサートのうちのいくつかはこのオーケストラとの共演とも考えられるが、詳細は不明。 同劇場のホームページによると、戦後、クナが客演している模様。1953年4月、ナポリでの「指輪」全曲はこの劇場での公演か? 戦前、何度か客演しているらしい。戦後は共演していない模様。
奥波一秀氏、熊谷勇人氏によってその記録の一部発掘されているものの、詳細は不明な点が多い。 第二次大戦中、第三帝国の肝煎で創設されたオーケストラ(1944.4.6〜1945.3.14)。クナも客演していた。断片的な記録しか残されていないが、帝国管の歴史を綴ったホームページを作成された高橋一紀氏より、その貴重な記録の一部をご提供いただいている。
市村氏から寄せられた情報によると、フルトヴェングラーが音楽監督だった1920年から1922年の間に、フランクフルト・アム・マインでの"Museum"コンサートに少なくとも1度、客演している模様。 同団ホームページの楽団小史に客演指揮者としてクナの名前が挙げられている。 1919年から22年の間、クナが音楽監督を務めていたという。デッサウ・フリードリッヒ歌劇場付きのオーケストラとは別団体? 同劇場ホームページの小史に客演指揮者としてクナの名前が挙げられている。1920年代にワインガルトナー、ストラヴィンスキー等と共に、客演していた模様。 同楽団ホームページの小史に客演指揮者としてクナの名前が挙げられている。
英TESTAMENTから発売された、クレンペラー指揮、デンマーク王立管弦楽団のライヴ録音のCD(SBT2242)の解説書によると、クナもこのオーケストラに1914〜1930年にわたって客演していた模様。
Dieter Haertwigの"125 Jahre Dresdner Philharmonie : 1870 - 1995"によると、クナは1930年代にこのオーケストラに客演したことがあるらしい(Prof. Dr. Eric Deromからの情報)
ケルン放送響 |