【ワルターのその頃】
1911年、バイエルン宮廷歌劇場(後のバイエルン州立歌劇)音楽監督フェリックス・モットルが亡くなり、ブルーノ・ワルターに白羽の矢が立てられた。当時、ワルターはウィーン国立歌劇場の指揮者のひとりであり、ひじょうに人気が高かった。
ワルターは1876年9月15日にベルリンで生まれているから、クナッパーツブッシュより11歳年長である。本名をブルーノ・ワルター・シュレジンガーという。ワルターが1896年、ハンブルク市立歌劇場の上司であったグスタフ・マーラーの推薦があり、ブレスラウ(ヴロツワフ)の歌劇場に楽長として招かれたとき、劇場支配人レーヴェからブレスラウのあるシュレージェン(シレジア)地方にはシュレジンガー姓が多く、その名前に呑まれてしまうので、姓を変えた方がいいと言われたと「主題と変奏」にはあり、「ワルターの手紙」には、マーラーがブレスラウの劇場支配人レーヴェに「ブルーノ・ワルター」とだけ手紙に書いて(推薦状か)送ったのかも知れないとある。レーヴェからの契約書には「ブルーノ・ワルター」とだけ書かれていた。ワルターの兄は、なぜシュレジンガー姓を取ったのかと怒ったらしい。兄にその経緯を説明する手紙が残っている(「ワルターの手紙」)。
1911年、バイエルン宮廷歌劇場はワルターに白羽の矢を立てたが、ワルターの希望する年俸や休暇と折り合いが付かなかったり、ウィーンはなかなかワルターを手放したがらず、結局、ワルター招聘の決定から実際にワルターがミュンヘンに就任するまで、1年以上の期間が開いて1913年だった。「主題と変奏」には、条件、待遇面で折り合いがつかなかったことは書かれていないが、「ワルターの手紙」には両親にあてた手紙の中にはそのことが書いてある。条件、待遇面で折り合いが付かなかった場合、宮廷歌劇場音楽監督の座には、バイロイトで活躍していたミヒャエル・バリングが就くだろうとワルターは予想している。
ワルターが実際にバイエルン宮廷歌劇場音楽監督に就任したのは1913年である。ワルターは歌劇場総支配人クレメンス・フォン・フランケンシュタインとともに、さまざまな改革を行う。バイエルン宮廷歌劇場は「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」はむろんのこと、シーズン中もモーツァルトやワーグナーのオペラを頻繁に取りあげるなど、レパートリーは保守的だったが、ワルターはその他の作曲家の作品を数多く取りあげ、レパートリーを拡大していった。
また、ワルターはオペラだけではなく、ミュンヘン王立管弦楽団(後のバイエルン州立歌劇場管弦楽団=バイエルン州立管弦楽団)とのコンサートでも新しい作品を取りあげた。さらにミュンヘン教員合唱協会との関係で、シェーンベルク「グレの歌」やプフィッツナーの「ドイツ精神について」など、幅広く同時代の作曲家の作品も演奏した。後年(1922年)、クナッパーツブッシュがワルターの跡を継ぎ、オデオン・ザールでの毎年恒例となった復活祭の日のバッハ「マタイ受難曲」も、ワルターが開始している(「主題と変奏」)。
ところがワルターがバイエルン宮廷歌劇場音楽監督に就任した翌年には、第一次世界大戦が勃発してしまう。ワルターも、歩哨や橋の警備くらいはできるだろうと、場合によっては志願しようとも思ったらしい(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。
それくらい、ドイツ国内での戦争に対する熱は高かった。「主題と変奏」には、ワルターは歌劇場の責任者として「不可欠」の存在だと言い渡されていたと書かれており、兵役につくことはなかったが。
第一次世界大戦の初期の頃、バイエルン宮廷歌劇場はワルターの元でひとつの黄金時代を迎えた。トーマス・マンや、ミュンヘンを代表する新聞「ミュンヘン最新報」の主宰者パウル・ニコラウス・コスマンとも、この頃に友情を厚くした。ワルターは1900年の「哀れなハインリヒ」ベルリン初演以来、ワルターの親友となっていたプフィッツナーがシュトラスブルク(ストラスブール)で第一次世界戦中に完成させたオペラ「パレストリーナ」をミュンヘンで初演し、大きなハイライトを向かえる。ちなみに、ワルターと同様コスマンもユダヤ人なのだが、なぜか人種主義者プフィッツナーの親友でもあった。
「パレストリーナ」初演を成功させ、スイスでも引っ越し公演を行ったが、ドイツの食糧事情は極めて悪くなり、ワルターやその家族も窮乏した生活を余儀なくされている。
エルバーフェルトや隣国ベルギーで駆け出し指揮者として出発したクナッパーツブッシュだったが、1915年、クナッパーツブッシュは徴兵されてしまう。
また、クナッパーツブッシュは後年、口の悪さでも有名になったが、悪口雑言の語彙を増やしたとしたら、恐らくこの軍隊生活である。
後に大歌手になるデンマーク出身のヘルゲ・ロスヴェンゲ(1897年生まれ)の公式デビューは、1921年ノイシュトレーリッツでの「カルメン」ドン・ホセだったが、その前からコンサートやドイツの小さな歌劇場で歌っていた。公式デビュー前のロスヴェンゲと、クナッパーツブッシュの恐らくエルバーフェルト時代かライプツィヒ市立歌劇場の頃だと思われる話が残っている。軍隊時代のことを考えるとエルバーフェルト時代だと思われるが、詳細は不明である。
「クナッパーツブッシュと、後に有名になる歌手ヘルゲ・ロスヴェンゲが共にまだ駆け出しだった頃のこと。歌劇場でクナーの指揮のもと、ロスヴェンゲは舵取りやエリックのような脇役を稽古していたが、クナーは何度も彼の歌唱に注文をつけた。
もうたくさんだと思ったロスヴェンゲは、なんとクナーに向かって大声で「おれのケツでもなめやがれ!」とやってしまったのである。これに面食らったクナーは練習を中断すると、監督のもとに行き、このロスヴェンゲの「申し出」に対してどうしたものかと相談した。
監督は葉巻のケースを開け、クナーに勧めると自分も1本取った。しばらく二人は静かにふかしていたが、「ケツをなめろ」と言われたことについて、監督はクナーにそっとなだめるように言った。「忠告しておきますが、それだけはしないことですな。絶対に」。(「ハンス・クナッパーツブッシュの想い出」フランツ・ブラウン著野口剛夫訳編・芸術現代社。この文章はミュンヘン・フィルのホルン奏者だったアルトゥール・アイトラーの小冊子からのもの。以下、「アイトラー」)
音楽評論家カール・シューマンはクナッパーツブッシュの罵りについて、「彼ほど『クソ』という言葉の罵り方を千変万化に駆使し得た者はいない」と語っているが、ロスヴェンゲとの話の頃は第一次世界大戦前で、クナッパーツブッシュはまだウブだったのだろう。
ただ、後の口の悪さとはうらはらに、クナッパーツブッシュは頭の天辺から足のつま先まで紳士だった。
「紳士とはどのような人かと問われたら、まっさきに『クナ』が思い浮かぶ。繊細な思いやりとやさしさを内に秘めながら、万事控えめにふる舞った」。(ルーペルト・シェトレ著「指揮台の神々」喜多尾道冬訳・音楽之友社)
クナッパーツブッシュが徴兵されたのはいつのことだったのかは分からない。奥波本には「(19)15年のある日」とだけ書かれている。クナッパーツブッシュは召集令状が届いた翌日には他の新兵と一緒にベルリンに移送されたらしい。「アウグスタ女王近衛歩兵第4連隊の予備大隊に配属された」(奥波本)。
裕福な企業家の次男で、音楽界に身を置いていたクナッパーツブッシュは、その他の新兵との共同生活で苦労をしたらしいことが奥波本に書かれている。育ちのよいクナッパーツブッシュは
「就寝前に歯磨きをするとたいそう珍しがられたという話が伝わっているが、この笑い話の中にも苦労の跡がしのばれる」(奥波本)。
ただ、クナッパーツブッシュは母方(ヴィーゲント家)の遠戚にあたる大尉のおかげで兵舎外の居住を認められ、「さらに軍楽隊の一員となり、歩哨交替の際には、ブランデンブルク門から王宮まで太鼓を打ち鳴らしながら行進したという」(奥波本)。
記録を当たっていてよく分からないのは、1916年5月3日、ロッテルダムでワーグナー/「ジークフリート」、1917年3月3日、ロッテルダムでユトレヒトのメンバーと「トリスタンとイゾルデ」、10月15日、ロッテルダムでエルバーフェルト劇場の公演だったが、アルンヘムのオーケストラとワーグナー/「ワルキューレ」を振ったという記録が残っていることだ(Hunt)。クナッパーツブッシュはまだ兵役中のはずだが、客演指揮を認められたのか、休暇を利用しての指揮だったのかは分からない。あるいは軍楽隊の指揮をしていたため、ロッテルダムへの客演を認められたのかも知れない。
ただ、このクナッパーツブッシュの軍隊経験は、後にヒトラーから「軍楽隊のバンドマスター」と揶揄される遠因となった。
1915年、塹壕戦に変わった西部戦線でも、ヒトラーは勇敢な兵士であることには変わりがなかった。その頃ヒトラーのいる部隊はベルギーとフランスの国境にいたが、海岸線に近いためかひどい湿地であったようだ。
「天候は最悪です。しばしば激しい放火のもとで何日も腰の上まで水につかっています」、「……休みなしに降りしきる雨と(およそ冬らしくありません)、海が近いのと、低い地形のために、牧場や畑は底なしの泥沼も同然で、通りはねばねばした泥に覆われています。この湿地帯を貫いてわれわれの部隊の塹壕が走り、トーチカや、通信壕や、鉄条網や、狼の巣や、地雷が同居しています。要するにひどいところです」
と、ヒトラーはヘップ判事やポップ夫妻に手紙で書き送っている(トーランド本)。
1915年の夏頃になると、勇敢な伝令兵としてヒトラーは部隊に欠かせない人間になっていった。電話線はしばしば砲撃で寸断され、人力でなければ司令部や他の部隊との連絡が取れなかったからである。無線は既に発明され、数々の実験が行われていたが、陸軍ではまだ安定して実用化されるまでには至っていなかった。「ヒトラーは異常なほど前線に出たがり、しばしば頼まれもしないのにほかの伝令の任務を引き受けた」(トーランド本)。ヒトラーは何度も死地をくぐり抜けている。
普段のヒトラーは物静かで、時間があるときは絵を描いて過ごし、上官や戦友の信頼が厚く尊敬されていた。ただ、政治談義が始まるとウィーンでの癖が再燃するのか、やはり異常に興奮して滔々とまくし立てるように演説をした。それで戦友たちの反感を買うことはなく、戦友たちはむしろ喜んでヒトラーの演説に耳を傾けた。ヒトラーは物知りであった。
戦線は膠着状態で、やがて再び冬が来た。
「その年の12月は雪がなく、ただ休みなく雨が降り続くだけだった。曲がりくねった塹壕はどこもかしこも水びたしだった」(トーランド本)。
同じ軍隊にいても、クナッパーツブッシュとヒトラーでは、その生活が全く違っていたことだけは確かだ。
1914年8月23日(大正3年)、日本は連合国側としてドイツに参戦する。9月2日、日本軍はドイツの租借地、山東省に上陸した。日本軍はドイツ軍の駆逐に成功する。
その山東省で捕虜になったドイツ軍兵士たちが、日本の徳島県板東(現鳴門市)で1918年6月1日ベートーヴェン交響曲第9番を演奏したのが、日本において第9が初めて鳴り響いた日だと言われている(「初演」という言葉は当たらないという意見もある)。
1915年1月には、日本は中国に21箇条の要求をつきつける。ドイツに変わって山東省を支配すると共に、中国東北部での権益を拡大するものだった。21箇条の要求を呑んだ袁世凱は、大統領制をやめ、12月には中華民国皇帝を宣言する。21箇条の要求自体、孫文によると袁世凱が皇帝になるために日本に認めてもらえるよう、起草されたものだという見方もある。