戦争が4年目に入った1918年初頭、クナッパーツブッシュは王立歌劇場総支配人フォン・ヒュルゼン(ゲオルグ・ヒュルゼン=ヘーゼラー伯爵。1903年から1918年までベルリン王立演劇、および宮廷歌劇場総支配人だった-「ブルーノ・ワルターの手紙」白水社註より)の力添えにより、ようやく軍務を解かれた(奥波本)。
年初早々、1月6日と10日(奥波本とHuntでは日程が異なるが、René Trémine’s DATAで両日ともコンサートがあったことが分かった)、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演、ワーグナー/「パルジファル」から数曲と、ツェルナー/交響曲第3番を指揮する。
ハインリヒ・ツェルナーは、1854年7月4日にライプツィヒで生まれ、1941年5月4日にフライブルクで亡くなった作曲家である。主にオペラを作曲したが、交響曲も3曲作曲している。ただ、現在ではほとんど演奏されないため、交響曲第3番がどのような作品であったのかは分からない。ハインリヒ・ツェルナーは、当時の同時代音楽のひとつだと言える。
1918/01/06 ツェルナー: 交響曲第3番, ワーグナー:「パルジファル」抜粋 (前奏曲, 花の精たちの場面, 聖金曜日の音楽) コンセルトヘボウ管弦楽団, アムステルダム (program available)
1918/01/10 ツェルナー: 交響曲第3番, ワーグナー: パルジファル 抜粋 (前奏曲, 花の精たちの場面, 聖金曜日の音楽) コンセルトヘボウ管弦楽団, アムステルダム (program available)
(René Trémine’s DATA)
軍隊を離れ、音楽界に復帰したクナッパーツブッシュをドイツ国内で身が立つよう、世話をしてくれたのはケルン音楽院での作曲の恩師、オットー・ローゼだった。
ローゼのことはワルター「主題と変奏」に出てくる。
ワルターは1894年、練習指揮者(合唱指揮とコレペティートルだった)としてハンブルク市立歌劇場に就任した。
「市立歌劇場の借受人であるとともに独裁的な支配人であったポルリーニは、驚くべきアンサンブルを作り上げていた。天才的な首席楽長としてのグスタフ・マーラー、天分に恵まれた次席楽長としてオット・ローゼ…」(「主題と変奏」)とワルターは書いている。
ワルターはハンブルク市立歌劇場の指揮者では一番下っ端だが、ローゼは第二指揮者だった。またローゼは優れたソプラノ歌手カタリーナ・クラフスキーの3番目の夫でもあった。
1895年、カタリーナとローゼの夫妻は、アメリカのダムロッシュ歌劇団に参加するため、ハンブルク市立歌劇場の契約を途中で破棄、離任してアメリカに渡る。ワルターがローゼの後を継いでめでたく楽長に就任するのだが、ポルリーニはふたりの優れた音楽家が同時にいなくなるため損失が非常に大きく、病気になるほどだった。
カタリーナにくっついてのローゼのアメリカ遠征は1897年までで、その後ドイツに戻り、1897年からシュトラスブルク、1904年からケルン、1912年からライプツィヒと、それぞれ市立歌劇場を率いた。1901年から1904年まで、イギリスのコヴェント・ガーデンにも登場、活躍している。
ローゼは1858年9月21日にドレスデンに生まれ、1925年5月5日にバーデン=バーデンで亡くなったドイツ音楽界の実力ある重鎮だったといえる。ケルン音楽院で作曲を教えていたことからもわかる通り、ローゼは作曲家でもあった。「不本意な王子」というオペラも作曲しているが、どのような作品であったのか、現在では演奏される機会がないため、詳細はよく分からない。
クナッパーツブッシュが軍隊を離れた頃、ローゼはケルンからライプツィヒ市立歌劇場の音楽監督に就任していた。クナッパーツブッシュを自分と同格の第一指揮者として(実際には第二指揮者の扱いだったようだが)招聘した。ローゼはライプツィヒ市立歌劇場の指揮者ポルストが健康上の理由で退任することが決まったとき、恐らく後任の選択のために網を張っていて、その中にかつての教え子クナッパーツブッシュを見出したのかも知れない。あるいは、フォン・ヒュルゼンやフランケンシュタインなどから、軍籍を離れたクナッパーツブッシュのことを聞いていたかだ。また、クナッパーツブッシュ自身、エルバーフェルトから更なる飛躍を目指して、さまざまな歌劇場にあたりを付けているときに、恩師ローゼの目にとまったのかも知れない。
その同じ年、クナッパーツブッシュはエレン・ゼルマ・エリーザベト・ノイハウスと婚約する。エルバーフェルトで工場を経営するエレンの両親は結婚には反対だったが、「最後には若い二人の門出を祝福することになる」(奥波本)
クナッパーツブッシュは生まれ故郷のエルバーフェルト劇場で5月27日、ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で惜しまれつつ最後の指揮を行う(奥波本による。Huntでは5月2日)。
翌28日(René Trémine’s DATAでは29日になっている)に結婚式が行われた。ローゼがライプツィヒからドイツを横断して結婚式に参加してくれ、祝福のセレナードを指揮した。
1918/04/21 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 エルバーフェルト Günther Lesnig’s DATA
1918/05/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 エルバーフェルト(Joachim Dorfmueller, Wuppertaler Musikgeschichte, Born, Wuppertal 1995.による)
クナッパーツブッシュが軍隊を離れ、アムステルダムで指揮をしたすぐ後、1月18日から2月3日にかけて、ウィーン、ブダペストのストライキがドイツにも波及し、ドイツ全土で100万人の労働者がストライキに突入した。ドイツ全土といってもミュンヘンやニュルンベルクでは散発的で、ベルリンのストライキが参加労働者40万人と、最も規模が大きかった。和平への要求の他、「連合国との和平交渉に労働者の代表も加えること、食糧配給を増やすこと、戒厳令の廃止、全ドイツを通じての民主的政府の樹立」などがストライキの要求に盛り込まれた。
ストライキはすぐに鎮圧され、労働者はそれぞれの職場に帰されたが、ドイツ国民の不満は戦争を遂行する皇帝ウィルヘルム二世のフォーエンツォルレン家と政府に向けられ、ヒトラーなど最前線の兵士たちは迫り来る連合軍、叱咤命令する上官、意気上がらない新兵の補充兵、厭戦化する銃後の間で宙ぶらりんの状態に置かれた。
それでも敵は眼前に迫り、作戦行動は休む間もなく行われる。ヒトラーの部隊は、ルーデンドルフ参謀長が作戦を指揮するソンム、エーヌ、マルヌの戦いに転戦した。
クナッパーツブッシュはライプツィヒに着任、6月30日に「ジークフリート」でデビューを飾る。
「その演奏ぶりからはっきり将来が嘱望される。客演して同作品を指揮したときと同じく今回も気質、響きの感覚、際立ったリズム感を示し、音楽的に繊細な感性を持った思慮深い芸術家であることを証明したのである」(ライプツィヒの当時の新聞の評。奥波本による)
現在の記録からは見えないが、クナッパーツブッシュは、デビュー前に既にライプツィヒ市立歌劇場にたびたび客演していたようだ。クナッパーツブッシュはキビキビとしたテンポで、「ジークフリート」を指揮したようである。
続く7月2日と7日にもベートーヴェン/「フィデリオ」、モーツァルト/「魔笛」を指揮した。新聞の評には、後のクナッパーツブッシュの指揮する音楽を彷彿とさせる評が載った。
「…細部をきわめて慈しみながら扱うそのしかた。歌手たちを導き助け、楽器の響きを望ましいものに直し、いっさいを最も活き活きと形づくる際の、その動きの少ない確かな指揮振りである」(奥波本)
クナッパーツブッシュは、むろんまだ指揮台で大暴れをしていただろうが、演奏者や歌手の注意を引きつけるためには、むしろ小さな動作の方が好ましいということに気が付いていたのだろうか。いわば、この頃既に指揮にメリハリがつき、演奏者が演奏しやすいような指揮振りになっていったと言えるのかも知れない。
とにかく、クナッパーツブッシュのライプツィヒ就任は、まずは成功してスタートした。
1918/06/30 ワーグナー/「ジークフリート」新劇場,ライプツィヒ
1918/07/01 クナッパーツブッシュは、1923年6月30日まで有効な契約をライプツィヒ市立歌劇場と結ぶ。
1918/07/02 OR 03 ベートーヴェン/「フィデリオ」新劇場,ライプツィヒ
1918/07/07 モーツァルト/「魔笛」新劇場,ライプツィヒ
1918/07/10 ワーグナー/「タンホイザー」新劇場,ライプツィヒ
(René Trémine’s DATA)
ところが8月半ば、クナッパーツブッシュは重いジフテリアを患い、休職を余儀なくされてしまう。後遺症に苦しんだとあるから、ジフテリアの後遺症である神経麻痺に苦しんだのだろうか。
8月8日、連合軍の大規模な反撃が開始され、ドイツ軍は苦戦を強いられる。この日は、後にルーデンドルフ将軍に「ドイツ陸軍敗北の暗黒の日」と言わしめた。以後、連合軍各国の大反撃が波状のように続き、ドイツ軍には陣容を立て直す時間も余力もなかった。ドイツ軍兵士の士気の低下も著しく、補充兵が戦場に向かうと、撤退する兵士から「スト破り」と罵られるありさまだった。ヒトラーは「戦争に負ける」という輩が許せず、殴り合いの喧嘩までしている。
ヒトラーは9月に母親の実家であるシュピタルで休暇を過ごした後、部隊と共にフランドルに転戦する。すでに軍最高司令官ヒンデンブルクによるウィルヘルム二世に対する休戦の説得が行われていたが、説得は難航した。戦闘はまだ続く。
ドイツ・オーストリアはアメリカ大統領に休戦の提議を行うが、そのアメリカ大統領の示した休戦の条件は、ウィルヘルム二世の退位と議会制主義的政治体制への移行だった。
10月5日、ウィルヘルム二世はついに議会制主義的政治体制を承認、戦争が終わった後の体制作りが急がれる。また、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒト、クルト・アイスナーなど反戦、反帝国主義の左翼政治犯の釈放も相次いで行われた(12日から11月3日にかけて)。
戦争がまさに終結しようとしていた矢先、10月13日から14日にかけての夜半、ヒトラーのいたリスト連隊はイープル南方のモンターニュでフランス軍の毒ガス攻撃を受ける。14日の朝にはヒトラーは目に焼けつくような痛みを覚え、ほぼ失明状態になってしまった。ヒトラーは後方のパーゼヴァルク陸軍病院に入院、失明の恐怖と戦わねばならなかった。
ヒトラーが病院で失明の恐怖と戦っていたとき、10月29日から30日にかけてヴィルヘルムスハーフェンでドイツ水兵の反乱が起こる。11月3日にはキール軍港で、より大規模な水兵の反乱が起こり、水兵評議会を樹立、ドイツ革命が発生する。
一方、ドイツ南部バイエルンでは、11月7日、北部ドイツプロイセンの動きとは全く異なる形で、牢獄から釈放されたばかりの独立民主社会党の主導者クルト・アイスナーを代表にしたバイエルン革命が起こる。ルードウィヒ三世が国王であったドイツの領邦バイエルン王国のヴィッテルズバハ家は倒れ、「バイエルン共和国」が宣言される。ルードウィヒ三世は車で脱出するも道路から飛び出してしまい、ジャガイモ畑で立ち往生した。「それがバイエルン君主制のふさわしい終焉だった」(トーランド本)。
ドイツ革命の波はドイツ全土に波及し、ベルリンでは11月9日、ウィルヘルム二世が不本意ながら退位、穏健な社会主義者である社会民主党のフリードリヒ・エーベルトに戦後を託すことになった。同日、過激な共産主義者カール・リープクネヒトは宮廷のバルコニーから「社会主義共和国」の樹立を宣言、エーベルトの社会民主党と対立する。10日には、ウィルヘルム二世は特別御用列車を仕立てて、オランダへの亡命を余儀なくされた。11日、パリ郊外のコンピエーニュの森のフランス軍フォッシュ元帥専用列車内で、ドイツ敗北の休戦条約調印式が行われた。
ワルターがミュンヘンに嫌気が生じたとすれば、このドイツをめぐる混乱、とりわけバイエルン革命の騒ぎが最初であったものと思われる。ワルターはミュンヘンでその混乱の一部始終を見、またその混乱の渦の中にいた。
宮廷歌劇場の総支配人クレメンス・フォン・フランケンシュタインは貴族であったために退任を余儀なくされ、ワルターが演劇の責任者とともにその任を引き継いだ。宮廷歌劇場から、州立(バイエルン国立)歌劇場への移行はスムーズに進んだようである。
ただ、バイエルンでの混乱は、ワルターの期待する穏やかな終息はなかった。
「革命と反革命、外国からの圧力とそれに対する反作用が、政治の気圧計をたえず釘づけにするような大気の状態を生み出したのである。新聞の記事からも察しがついたし、通りでも市電のなかでも劇場でもレストランでも、どこにいても感じられたことだが、興奮が爆発となることは必至であった」(以上、「主題と変奏」)。
翌年のアイスナー暗殺を引き金に、ミュンヘンはますます混乱の中へと墜ちて行く。
ドイツ国内がめまぐるしく動いていた頃、ジフテリア、その後悪性の風邪を引いたクナッパーツブッシュは、11月15日にようやくフンパーディンク/「王様の子供たち(王子王女)」で指揮台に復帰する。ただ、クナッパーツブッシュが病気で療養している間、代用指揮者スツェンドライが雇われていた。その処遇などを巡って、クナッパーツブッシュのライプツィヒでの立場は微妙になってゆく。
1918/11/15 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
1918/11/18 ビゼー/「カルメン」 新劇場, ライプツィヒ
1918/11/25 ベートーヴェン/「フィデリオ」 新劇場, ライプツィヒ
1918/12/02 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
1918/12/17 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
1918/12/21 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 新劇場, ライプツィヒ
1918/12/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 新劇場, ライプツィヒ
1918/12/28 ビゼー/「カルメン」 新劇場, ライプツィヒ
((René Trémine’s DATA)
ところが、第一指揮者の筈であるのに、「劇場に自分専用の個室がない、リハーサルの時間がもらえない、オペラのキャスティングに自分が参加させてもらえない」などのクナッパーツブッシュの不満が蓄積し、やがて音楽監督であるローゼとの確執に繋がってしまう。クナッパーツブッシュは1918年の内に、ライプツィヒを離れ、他の地に職を求めることを考えていたようだ。
パーゼヴァルク陸軍病院に入院していたヒトラーは、11月19日、「ようやく新聞の大見出しが読める程度」で不本意ながら退院を許可され、病院を追い出される。「病院のカルテは革命のさなかに作成された。実際にのところ個人的な診察を受けた者は一人もなく、われわれは十把一からげで退院を許された。例えば私は兵士としての給与支払手帳さえ受け取らなかった」(トーランド本)。
ヒトラーは自分の連隊の補充大隊へ出頭を命じられ、補充大隊のいるミュンヘンに向かった。ミュンヘンの兵舎は兵士評議会が支配しており、規律は乱れに乱れ、豚小屋同然だった(トーランド本)。
「我が闘争」第7章に「すべての犠牲はムダであった」という一説があり、ヒトラーのその時の恐らく真情と怒りが書かれている。長くなるが引用する。
「かくしてすべてはムダであった。あらゆる犠牲も、あらゆる労苦もムダだった。はてしなく幾月も続いた飢えもかわきもムダだった。しかもわれわれが死の不安に怖れながらも、われわれの義務をはたしたあの時々もムダだった。その時倒れた200万の死もムダだった。祖国を信じて、二度と祖国に帰らない、とかつて出生していった幾百万の人々の墓はすべて開かれてはならなかったのではないか?墓は開いてはならなかった。そして、無言の、泥まみれの、血まみれの英雄たちが、この世で男が自己の民族にささげうる最高の犠牲を、かくも嘲笑にみちた裏切りで、故郷への復讐の亡霊として送られてはならなかったのではないか?こんなことのために、1914年8月と9月に彼ら兵士たちは死んだのだろうか?こんなことのために、同年秋に、志願兵連隊は古い戦友の後を追ったのだろうか?こんなことのために、17歳の少年は、フランドルの地に埋もれたのだろうか?ドイツの母親たちが当時決して再会しえない悲痛な気持ちで、最愛の若者たちを出征させたとき、かの女たちが祖国にささげた犠牲の意義は、これだったのか?これらいっさいのことは、いまや一群のあさましい犯罪者の手に祖国を渡さんとするために生じたことなのか?
こんなことのためにドイツの兵士は、灼熱の太陽や吹雪の嵐の中に、飢え、かつえ、そして凍えながら、眠られぬ夜と、果てしなき行軍に疲れてももちこたえてきたのだろうか?こんなことのために、兵士はつねに祖国を敵の侵略から守るべき唯一の義務を忘れず、退却せずに、連続速射の地獄の中で、また毒ガス戦の熱の中で倒れたのだろうか?」(「我が闘争」角川文庫)
ヒトラーはミュンヘンの兵舎に嫌気がさし、仲間とともにザルツブルクから少し離れた捕虜収容所の監視兵に応募して、ミュンヘンを離れる。