デッサウ・フリードリヒ劇場で精力的に指揮活動を始めたクナッパーツブッシュだったが、デッサウ時代に面白いエピソードがある。
奥波本によるとクルト・ヴァイルとの一件である。ヴァイルは後に「三文オペラ」で大成功するが、それは1928年になってからのことで、1919年はフリードリヒ劇場でコレペティートルをしていた。デッサウはヴァイルの生まれ故郷である。
ヴァイルはユダヤ人で背が低かった。クナッパーツブッシュは背が高い。ヴァイルはクナッパーツブッシュよりも2歳年下なだけだが、クナッパーツブッシュはヴァイルに対して威圧的であったようだ。また、後年「栄光のウィーン・フィル」でオットー・シュトラッサーが回想していることだが、クナッパーツブッシュは物わかりのいい反面、規律には厳格であった。
「ある晩、ヴァイルは舞台裏でテノール歌手に合図を送るのを、うっかり失念してしまった。上演後、クナッパーツブッシュはすごい勢いで舞台裏に駆け込んできて怒鳴った--『あいつはいつもチビだったが、今日はとうとう完全に消え失せてしまったな!』」(奥波本)
ヴァイルはクナッパーツブッシュの剣幕を怖れて、すでに遁走していたようである。結局ヴァイルはクナッパーツブッシュには馴染めず、1919年11月末にはベルリンのリーデンシャイトの劇場に転出し、1920年春にはベルリンのプロイセン音楽院でフェルッチオ・ブゾーニが新たな作曲講座を開くということを聞き、応募してブゾーニ門下に入る。
ヴァイルには逃げられたが、クナッパーツブッシュの活躍は順調だった。シーズン前の8月には、クナッパーツブッシュのフリードリヒ劇場音楽総監督への正式な就任と、向こう4年間の契約が発表された。クナッパーツブッシュはまだ32歳だった(奥波本)。ケルン音楽院時代の同窓生フリッツ・ブッシュの方が早熟で出世は早かったが、クナッパーツブッシュもようやく追いつき始めた。
クナッパーツブッシュはフリードリヒ劇場だけではなく、デッサウのオーケストラを率いて、デッサウの近くの都市ケーテンやマグデブルクに客演した。
ワルターのいるミュンヘンや客演先のウィーンは、戦争が終わり、革命騒ぎが収まってからも、食糧事情はいっこうに好転しなかった。1919年の5月か6月のことをワルターは書いている。
「戦争はすでに半年も前に終わっていたにもかかわらず、栄養補給はあい変わらず問題で、何もかも《代用品》だった。《ほんものの》かぶ--バイエルンで《ドチェン》と呼ばれる--が、ほとんど毎日食卓にのることは、親子の恐怖の的になった」(「主題と変奏」)。
ワルターはマーラー交響曲第6番初演当時に知り合い、以後親友となり、アメリカに渡ったオシプ・ガブリロヴィチから食糧を送ってもらっている。
ミュンヘンに住んでいたガブリロヴィチはロシア人で、第1次世界大戦が始まると、敵性国人のスパイを疑われて逮捕された。それを救おうと動いたのが「主題と変奏」によるとワルターと当時のバイエルン宮廷歌劇場総支配人クレメンス・フォン・フランケンシュタインだった。ガブリロヴィチは釈放されて家族共々アメリカに渡る。ガブリロヴィチはウェストン・ゲイルズの跡を継いで1918年にデトロイト交響楽団の音楽監督に就任、1936年まで同楽団を率いた。
「アメリカにいるオシプから送られた最初の《慰問袋》が届いた日は、なんという喜びの日であったろう。オレンジに、チョコレートに、あらゆる種類の缶詰に、白い小麦粉と、信じられないような貴重な品物がざくざくと出てきたのである。すぐにその粉で焼いたホット・ケーキを、子供たちは喜びの涙をながしながら、むさぼるように食べた」(「主題と変奏」)。
ウィーンでの食糧事情はもっと悪く、
「当時私がウィーンで食べることのできたパンは、ほとんど食品とも思えないもので、どんな頑丈な体質の人でも胃腸障害を引き起こすのであった」(「主題と変奏」)。
ドイツ労働者党の党員となったヒトラーは、弁士として活躍を見せ始める。「我が闘争」では、ヒトラー初期の演説に参加した人数を少なく書いているが、村瀬興雄著「ナチズム」(中公新書)によると、ドイツ労働者党の母体であるトゥーレ協会は常時300名くらいの演説会への動員力を確保できていたそうである(ミュンヘン警察の調査による)。
ヒトラーの演説は挑発そのもので、戦闘的な大衆演説家として人気を博し始める。
さらにヒトラーはドイツ労働者党を、トゥーレ協会員でドイツ労働者党全国議長であるスポーツ・ライター、カール・ハラーの「政談サークル」に留めたいという考えから離れ、大衆政治政党への離脱を計り始める。この考えは、「我が闘争」によるとヒトラー個人から出たもののように受け止められるが、軍の意向が働いていたのではないかとも思える。ドイツ労働者党は、ヒトラーを代表者名にして貧相ながら事務所を仮り、初めて事務職員を一人雇った。
ヒトラーはドイツ労働者党を介して、ライヒスヴェーアのレーム大尉と「おれ、お前」で呼ぶ間柄になり(立場的にはレームの方が上だった)、エッカートにさまざまな教えを請い、ローゼンベルクから反ユダヤ主義、反ボリシェビズムの思想的基盤を得ることになる。
ドイツ労働者党の代表ドレクスラーもヒトラーに影響を与えたエッカートも、元々トゥーレ協会のメンバーでもあった。その関係から、エッカートはドイツ労働者党にも大きな影響力を持っていた。ローゼンベルクが元々トゥーレ協会のメンバーだったのか、エッカートに誘われてトゥーレ教会に属したのか分からない。恐らく、その思想の同一性からエッカートに誘われてトゥーレ協会に所属したのかも知れない。
トゥーレ協会の正式な名称は「トゥーレ協会・ドイツ性のための騎士団」で、チュートン騎士団を模して1912年に結成された秘密結社「ゲルマン騎士団」(ゲルマニア教団)の分派だった。ゲルマン騎士団は多分にオカルトの性格を内含していた。
「トゥーレ協会」の発足は1918年で、その目的はレーテ共和国の打倒だった。「トゥーレ」とは「紀元前4世紀に古代ギリシャ人が渡航した土地の名前で、イギリスから北方へ6日間の船旅をした地点」(「ナチズム」)にある極北のことだそうである。左翼陣営の攻撃をかわすため、表向きは政治談義をする学術研究団体だった。
しかし、バイエルン第2次革命の時には、左翼によって7人のトゥーレ協会員が逮捕監禁され、殺害されている(トーランド本、他)。
トゥーレ協会は、思想的には極端なゲルマン賛美で、ローゼンベルクが発展させることになる北方ゲルマン民族への憧憬、アーリア人至上主義、異郷的な神秘主義、反ユダヤ主義だった。ヒトラーに近い協会員には、ヒトラーを軍の特別教育課程で教えたゴットフリート・フェーダー、エッカート、ローゼンベルクの他、ナチ・ドイツで重要な位置を占めることになるルドルフ・ヘス、ハンス・フランクもいた。当時、トゥーレ協会としてはバイエルンに約250人(村瀬本では220人)、ゲルマン騎士団としてはバイエルンに約1500人の会員を抱えていたという資料もある。トゥーレ協会は、さまざまな極右組織の母体でもあった。
ヒトラーそのものは、フェーダー、エッカート、ローゼンベルクを介してトゥーレ協会の思想に大きく影響されたが、トゥーレ協会には属していない。逆にヒトラーはトゥーレ協会の影響力からドイツ労働者党を離脱させることを目論んでいた。あるいは、軍から兵士たちを吸収する、また軍に協力する大衆政治政党の創設を命じられていたのかも知れない。