1920年 デッサウ時代2

 René Trémine’s DATAによると、デッサウ時代のクナッパーツブッシュの記録は以下のようになる。クナッパーツブッシュは、精力的にさまざまな作品と取り組んでいたことが分かる。

1920/01/01 フンパーディンク/「王様の子供たち」 デッサウ
1920/01/04 ワーグナー/「タンホイザー」 デッサウ
1920/01/14 ヴェルディ/「仮面舞踏会」 デッサウ
1920/01/22 IV. シンフォニック・コンサート: ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲, ベートーヴェン/「フィデリオ」より「人間の屑!」 (Lilly Hafgren) , J.S.バッハ : ブランデンブルク協奏曲第3番, ワーグナー/「温室にて」「悩み(心痛)」「夢」 (Lilly Hafgren) – チャイコフスキー/交響曲第5番 デッサウ
1920/01/25 ヴェルディ/「アイーダ」 デッサウ
1920/01/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 デッサウ
1920/02/09 ベートーヴェン/エグモント序曲, J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番, ウェーバー/オベロン序曲,ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1920/02/13 ワーグナー/「神々の黄昏」 デッサウ
1920/02/18 ヴェルディ/「アイーダ」 デッサウ
1920/02/19 V. シンフォニック・コンサート: ベートーヴェン/「レオノーレ」序曲第2番, ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(Konrad Ansorge) ,交響曲第2番 デッサウ
1920/03/11 VI. シンフォニック・コンサート: エナ/「クレオパトラ」序曲, R.シュトラウス/「グントラム」最終場面, ブラームス/交響曲第3番 デッサウ
1920/03/12 プッチーニ/「トスカ」 デッサウ
1920/03/20 R.シュトラウス/「ばらの騎士」デッサウ(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)ただし、デッサウ初演は12月25日となっている。
1920/03/24 プッチーニ/「トスカ」 デッサウ
1920/03/26 ヴェルディ/「仮面舞踏会」 デッサウ
1920/03/30 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 デッサウ
1920/04/04 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1920/04/06 プッチーニ/「トスカ」 デッサウ
1920/04/11 モーツァルト/「フィガロの結婚」 デッサウ
1920/04/20 モーツァルト/「フィガロの結婚」 デッサウ
1920/04/22 VII. シンフォニック・コンサート: ベートーヴェン/交響曲第4番, ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 (Heinrich Bornemann), シューベルト/交響曲第8番「未完成」 デッサウ
1920/05/02 ワーグナー/「ワルキューレ」 デッサウ
1920/05/09 マックス・フォン・シリングス/「モナ・リザ」 デッサウ
1920/03/29 ?? ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲, ヘンデル/「陽気な人、憂鬱な人、穏やかな人」よりレチタティーヴォとアリア(Ilse Helling-Rosenthal) , スメタナ/「モルダウ」, R.シュトラウス/ふたつの歌曲 (Ilse Helling-Rosenthal) ,ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン [この日付、演奏会場には疑問が残る]
1920/05/11 モーツァルト/「フィガロの結婚」 デッサウ
1920/05/14 プッチーニ/「トスカ」デッサウ
1920/05/18 マックス・フォン・シリングス/「モナ・リザ」 デッサウ
1920/05/26 マックス・フォン・シリングス/「モナ・リザ」 デッサウ
1920/05/28 ビゼー/「カルメン」 デッサウ
1920/05/30 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1920/09/01 契約は、40,000マルクの年俸で、1924年8月31日まで延長された。
1920/09/05 ワーグナー/「ローエングリン」 デッサウ
このシーズンのシンフォニック・コンサートは8回計画された。
1920/09/22 マックス・フォン・シリングス/「モナ・リザ」 デッサウ
1920/09/23 I. シンフォニック・コンサート: ブラームス/交響曲第2番, ヴェルディ/「仮面舞踏会」抜粋(Julius vom Scheidt), R.シュトラウス/「ドン・ファン」 デッサウ
1920/09/26 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 デッサウ
1920/10/03 プッチーニ/「蝶々夫人」 デッサウ
1920/10/07 プッチーニ/「蝶々夫人」 デッサウ
1920/10/15 プッチーニ/「蝶々夫人」 デッサウ
1920/10/21 II. シンフォニック・コンサート: マーラー/交響曲第4番(Bertha Schelper), チャイコフスキー/ピアノ協奏曲 第1番(Fritz Malata), R.シュトラウス/「ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら」 デッサウ
1920/10/24ワーグナー/「ワルキューレ」 デッサウ
1920/10/27 ブラームス/交響曲第2番, グルック/「オルフェ」よりアリア(Emmy Neiendorff), サン=サーンス/「サムソンとデリラ」よりアリア (Emmy Neiendorff) デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1920/11/07 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1920/11/14 ヴェルディ/「アイーダ」 デッサウ
1920/11/17 III. シンフォニック・コンサート: チャイコフスキー/交響曲第5番 (アンダンテ・カンタービレのみ), ヴァイオリン協奏曲 (Georg Otto),交響曲第6番「悲愴」 デッサウ
1920/11/19 ワーグナー/「タンホイザー」 デッサウ
1920/11/21 チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」, ベートーヴェン/交響曲第5番 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 マグデブルク
1920/11/28 チェリウス/「マグダラのマリア」 (世界初演) デッサウ
1920/12/01 チェリウス/「マグダラのマリア」 デッサウ
1920/12/03 プッチーニ/「蝶々夫人」 デッサウ
1920/12/13 ベートーヴェン/レオノーレ序曲第2番, ピアノ協奏曲第4番(Gerhard Haase) , 交響曲第7番 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1920/12/16 ベートーヴェン/交響曲第9番 デッサウ(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)
1920/12/17 ベートーヴェン/交響曲第9番(Bertha Schelper, Emmy Neiendorff, Hans Nietan, Emil Treskow) デッサウ(16日の誤記載か2日続けてのコンサートがあったのどうかは不明)
1920/12/19 ベートーヴェン/「フィデリオ」 デッサウ
1920/12/25 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ初演Günther Lesnig’s DATA
1920/12/29 ワーグナー/「タンホイザー」 デッサウ
(René Trémine’s DATA)

 1920年になり、その春、ワルターのバイエルン州立歌劇場にある事務室に、一人の老指揮者が尋ねてきた。カール・ムックである。ムックはバイロイトの常連で「パルジファル」を得意としていたが、ボストン交響楽団の音楽監督・首席指揮者としてその主舞台はアメリカだった。
 しかし、第一次世界大戦の勃発、アメリカの参戦で、ムックは敵性国人として収容所に入らなければならなかった。ワルターは「主題と変奏」で、20年ぶりに会ったムックについて書いている。
「その彼がいまドイツに帰って来て、ドイツの音楽界に復帰したいという祈願をもらしたのである。私はほとんど20年も、彼に会っていなかった。60を越したこの人の疲れた気分や態度とその厳粛な外観は、私の覚えている精力的で、強固で、嘲笑的なまでに鋭敏な40歳の彼と、感動的な対象を示していた」(「主題と変奏」)
 ワルターは「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」の一部をムックに引き受けてもらい、オデオン・ザールでの幾つかのコンサートもムックに提供したと「主題と変奏」にはある。
 しかし、奥波本によるとムックをミュンヘンに招聘したのはフランケンシュタインの後、総支配人になっていた演劇畑出身のカール・ツァイスで、「著名なヴァーグナー指揮者の客演は、ミュンヘンのヴァーグナー演奏がどのような水準に落ち込んでいたかをまざまざと見せつける結果になったため、今度もムックをミュンヘンに招待するようなら辞任するとヴァルターは脅しをかけた」という、ナチの機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」に掲載された1929年のマックス・ノイハウスの記事が紹介されている。
 想像するに、ムックがワルターを尋ねたのは本当だろう。アメリカからドイツに帰国したムックだったが、夫人がオーストリアのグラーツ出身で、そのサナトリウムで静養していた。まだ駆け出しのカール・ベームがグラーツの劇場で「ローエングリン」を指揮、たまたまその公演を見、ベームの指揮の欠点を見抜いたムックがサナトリウムにベームを呼び、教えたのはこの頃のことである。
 ムックの意気消沈した姿に同情したワルターはツァイスに「ムックを招聘するよう」働きかけたのかも知れない。ツァイスはユダヤ人ワルターの指揮するワーグナーのオペラが聴衆の一部に不評で、その話に積極的に乗った。
 ところが、ことはワルターの予想を大きく上回り、ムックのワーグナーは想像以上に好評だった。ワルターはそのことに嫉妬した、ということが真相かも知れない。これはあくまで想像だが。
 バイエルン第二次革命の失敗以降、ミュンヘンは右翼の発言力が大きくなり、反ユダヤ主義の声がしだいに高まっていた。
「1920年3月のカップ一揆(後述)がゼネ・ストのために挫折して以来、ミュンヘンでも不安がつのり、オペラや演奏会の活動にこそ影響はなかったが、私の思想はこれに刺激されて、バイエルンにおける明白な右傾化や、中世的な秘密裁判や、街頭の野蛮な暴力沙汰や、《国民社会主義ドイツ労働者党(1920年夏から改称された党名。これを略した俗称がナチである)》という、人工的な不協和音をひびかせる名前の新政党の集会に人びとを招き寄せるあの運動、これらの意味をさぐろうと試みた。鉤十字という古い護符と、ビラの血のように赤い色が、私の胸の中に戦慄と嫌悪のおぼろな感情をかき立てたのである」(「主題と変奏」)。

 実際には、1920年当時、ワルターは自分に対する風当たりを強くしている政党のことについて、実はまだよく分かっていなかったようだ。ナチはまだ勃興期でそれほど大きな力は持っていなかったものの、その不気味な圧力をワルターは少しは感じていたのかも知れない。ワルターの前任者でワーグナー指揮の第一人者のひとり、フェリックス・モットル時代を懐かしむ声はその当時もあったから、ナチだけが騒いでいたわけではなかったが、「ワルターではなくムックを(あるいは生粋のドイツ人指揮者を)!」という声の出所の一番喧しいところを探ろうとしたのかも知れない。

 1920年1月5日、ドイツ労働者党のドレクスラーは全国議長のハラーを解任、名称の変更を求めた。社会主義政党と間違われるためである。
 ドイツ労働者党の名称変更の日付に関しては、さまざまな説があるらしい。4月18日説もかなり説得力があるが、「ヒトラー全記録」(柏書房)を編纂された阿部良男氏はさまざまな説を紹介しながら、2月20日説を取っている。小生もこれに倣うことにした。2月24日にホーフブロイハウス・ケラー」(いわゆるミュンヘンの大規模なビアホールのひとつ)で最初の大規模な党大会があり、それに党名を合わせたものではないかと思えるからだ。その名称が広まってゆくのに少し時間がかかった。8月名称変更説もある。とにかく、ドイツ労働者党(DAP)は「国家(国民という訳を当てている本も数多い)社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」に名称を変更した。通称ナチと呼ばれる。
 ナチは、社会主義者(Sozialist)が「ゾチ」と蔑称で呼ばれたのに対し、NSDAPは「Nationalsozialist」の「Na」と「zi」を取り、「ナチ」と蔑称で呼ばれた。蔑称ではあったが、誰にでも覚えやすく愛称としても使い易いため、非公式にNSDAP党員にも使われたようである。その蔑称が世界的に正式名称として広まってゆく。
 2月24日の最初の党大会で25条の綱領が発表された。いわば、政党としての態勢を整えてきたわけである。ヒトラーは2000人の参集者を前に、綱領の是非を問うための2時間30分に及ぶ大演説を行う。
 翌日、フェルキッシャー・ベオバハターにローゼンベルクが訳した「シオンの長老の議定書」が掲載された。後に悪名高い偽書と分かるのだが、当時はロンドン・タイムズに「ユダヤ人のためにユダヤ人の手によって書かれた本物の文書である」主旨の長文の記事が掲載され(1920年5月)、ヨーロッパだけではなく、アメリカにまでその評判は拡がった。
「シオンの長老の議定書」は「シオンの長老達が世界征服の陰謀のためにスイスのバーゼルで開いた24時間の秘密会議の逐語的な報告」と称するものだった(トーランド本)。トーランド本の脚注によると、「議定書」は「反ユダヤ主義の温床であるフランスでロシア皇帝の手先によって書かれ(村瀬本によると、パリのロシア帝政政治警察の事務局)、数年後の19世紀の終わりにロシアで出版された」とある。村瀬本では、1903年に初めてロシアで報道されたとある。
 しかし、ロンドン・タイムズの記事を書いた記者同様、ヒトラーも「議定書」を信じた。ローゼンベルクの衒学的な話に耳を傾けるようになり、ボリシェビズムの危険性を肝に銘じるようになった。
 以後、ヒトラーの反ユダヤ主義、反ボリシェビズムへの攻撃にさらに拍車がかかる。もっとも「議定書」は後にナチから全く顧みられなくなるが、このころはまだ反ユダヤ主義の熱気があり、有効なユダヤ人=悪人説の「証拠」だったのだろう。

 3月9日から10日にかけて(13日にカップの首相の座奪取が起こる)、ベルリンでは東プロイセン総監で極右のヴォルフガング・カップを首謀者とした「カップ一揆」が起こるが、エーベルト政権はゼネストでこれに対抗、カップは国民の支持を得られず、またたくまに鎮圧され失敗に終わる。ヒトラーとエッカートはベルリンに潜入、極右勢力の革命が可能か、探りを入れている。ただ、二人がベルリンに到着したときには、すでにカップ一揆は失敗に終わった後だった。
 ところがカップ一揆の後、ザクセン、ルール地方では左翼が勢いを盛り返し、各地方にボリシェビキの左翼政権が誕生しそうな気配が生まれる。エーベルト政権はこれに対抗、退任したノスケの跡を継いだハンス・フォン・ゼークト将軍に鎮圧を命じている。義勇軍による血なまぐさい左翼への殺戮が行われた。ヴァイマル共和国は、左右からの揺さぶりに対応せざるを得なかった。
 一方、バイエルンではホフマン社会民主党政権が崩壊し、右派のグスタフ・フォン・カールが首相に選ばれる。バイエルンの右傾化の具体的な現れだった。
 ヒトラーは3月31日に除隊し、軍籍を離れた。恐らく上官の命令ではなかったかとトーランドは書いている。軍を離れ、民間の軍事組織を充実させるためである。ヒトラーは50マルクの除隊手当、コート、帽子、上着、ズボン、下着上下、シャツ、靴下、靴と、一通りの民間人の服を支給され、兵舎から狭いアパートに引っ越していった(トーランド本)。
 ヒトラーはその狭いアパートから演説のために、あるいはNSDAPのためにでかけ、軍隊とはまた違う生活を送り始める。軍はヒトラーに任務を授けていたが、ヒトラーは自身の目的のために、その命令を逆手に取るようにNSDAPの活動にのめり込んでゆく。
 8月17日、ミュンヘンで発行されていた反ボリシェビズム、反ユダヤ主義の新聞(当時はまだ週2回発行だった)「フェルキッシャー・ベオバハター」にエッカートが編集長となる。その頃、「フェルキッシャー・ベオバハター」はトゥーレ協会の幹部により買収され発行されていた。元は「ミュンヘナー・ベオバハター」と言い、さらにその前身はバイエルンのミースバッハー村で発行されていた「ミースバッハー・アンツァイガー」という国家社会主義の小新聞である。
 その「フェルキッシャー・ベオバハター」は、多くの誹謗中傷記事を掲載したため、いくつもの訴訟を受けており、賠償金の支払いで立ちゆかなくなった。12月「フェルキッシャー・ベオバハター」は売りに出され、それを知ったヒトラーはドレクスラーやエッカートに新聞社を買収するよう働きかける。レームとマイル大尉もそれに協力、第7陸軍司令官リッター・フォン・エップ将軍の手を介して、国防軍から資金が貸与された。また、編集長エッカートも、あちこちから金を出させ、自身も金を出したようだ。エッカートの尽力によって、「フェルキッシャー・ベオバハター」をNSDAPのために買収することができた。ヒトラーにとって、自身、自党の機関紙を持つことはひじょうに重要なことだった。

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