ワルターは1922年10月3日、ミュンヘン州立歌劇音楽総監督である立場を「フィデリオ」で終わった。
クナッパーツブッシュはデッサウでの最後のコンサートを9月5日に終え、ミュンヘンに向かう。デッサウ就任時と同じ、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」がプログラムに組まれていた。
クナッパーツブッシュは10月4日にバイエルン州立歌劇の仕事を引き継ぎ、挨拶を行った。クナッパーツブッシュのバイエルン州立歌劇音楽総監としてのキャリアは、翌5日「トリスタンとイゾルデ」で開始される。
ただ、「その「トリスタンとイゾルデ」公演は、当時の新聞評では概ね好評だったが、失敗した箇所もあったらしく、クナッパーツブッシュはカーテンコールに現れなかった。
10月9日、オデオンザールでバイエルン州立管弦楽団とアカデミー・コンサート(MAM)を行う。クナッパーツブッシュのアカデミー教授就任は翌1923年だが、すでにコンサートの指揮を始めている。
1922/10/05 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1922/10/09 オデオンザールでアカデミーコンサート。J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番,ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲, ベートーヴェン/交響曲第4番
1922/10/13 モーツァルト/「魔笛」ミュンヘン
1922/10/21 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1922/10/25 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1922/10/26 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1922/10/29 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
1922/10/31 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1922/11/01 オデオンザールでアカデミーコンサート。ベートーヴェン/「ミサ・ソレムニス」
1922/11/03,05,07,09 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1922/11/13 オデオンザールでアカデミーコンサート。シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレート」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」
1922/11/18 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1922/11/23 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1922/11/27 オデオンザールでアカデミーコンサート。ノッツェル/「ロマンティックな序曲」(初演)、トゥイレ/交響曲、デュカ/「魔法使いの弟子」
1922/12/04 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1922/12/09 コルンゴルト/「死の街」 ミュンヘン初演(“Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる)
1922/12/11 オデオン・ザールでアカデミー・コンサート ブラームス/悲劇的序曲、ハイドン/交響曲第92番「オックスフォード」、ベートーヴェン/交響曲第3番[ただし、Trémine DATAにはなく、オデオンザールの記録である]
1922/12/12 コルンゴルト/「死の街」 ミュンヘン
1922/12/14 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1922/12/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1922/12/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン 新演出 Günther Lesnig’s DATA
1922/12/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1922/12/27 コルンゴルト/「死の街」 ミュンヘン
1922/12/29 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1922/12/31 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
身長193cm、金髪碧眼のクナッパーツブッシュは、「ゲルマン民族の典型」ともてはやされ、バイエルン州立歌劇の音楽総監督就任は大きく歓迎された。
ワルターの後を引き継いだクナッパーツブッシュは、部下も引き継ぐことになる。ロベルト・ヘーガーとカール・ベームである。ヘーガーが第二指揮者、ベームが第三指揮者だった。
【ロベルト・ヘーガー】(1886/8/19-1978/1/14)
ヘーガーは、シュトラスブルク(ストラスブール)で生まれた。クナッパーツブッシュより2歳年長だった。長命で92歳まで生きている。
ヘーガーはクナッパーツブッシュの下で働いた後、1925年からウィーン国立歌劇場の指揮者に就任、1933年から1936年までベルリン州立歌劇場(リンデン・オパー)で、エーリッヒ・クライバーやフルトヴェングラーと共に活躍した。
「ヒンデミット事件」でフルトヴェングラーとクライバー辞任後、ベルリン州立歌劇場の第一指揮者として就任したが、カラヤンの台頭でその任期は短かった。
ナチが政権を握ったあと、1937年から1942年まで、ポーランド総督府のあったクラコウ(クラクフ)に就任している。ヘーガーは指揮者であるとともに作曲家でもあり、「ハーダスレフの祭り」、「名無しの乞食」、「失われた息子」、「レディ・ハミルトン」など、オペラも作曲している。
渡辺護著「現代演奏家事典」(全音文庫)に、昭和27年当時のヘーガーのことが紹介されている。そのころ、ヘーガーは現役指揮者だった。
「ヘーガーは典型的なドイツの指揮者である。堅実であり、適当なロマン味を持ち、ドイツ音楽を正しく表現している。曲のよさをすなおに聞こうとするには適当な指揮者である」
【カール・ベーム】(1894/8/28-1981/8/14)
ベームはオーストリアのグラーツに生まれた。ベームはクナッパーツブッシュの約5歳半歳下である。
クナッパーツブッシュとベームは最初の頃はうまく行かなかった。クナッパーツブッシュもまだ34歳と若いだけに、「バカにされたくない」という気持ちも強かっただろうし、前任者ワルターの弟子を自認するベームに対し、強圧的な態度で接したことは想像できる。ベームは「回想のロンド」で、クナッパーツブッシュが着任した当時とその後のことを語っている。
「ワルターのあとに来たのがクナッペルツブッシュ(訳文のまま)で、彼とわたしとはまず一戦まじえざるをえなかった。というのは、クナッペルツブッシュは外面的にも内面的な音楽のやり方でもまさにブルーノ・ワルターの正反対であり、当時すでに興隆期にさしかかっていたナチ運動から、ブロンドで蒼い目をした、背が高くスラリとしたゲルマン人の典型としてもてはやされていたからだ。だがクナッペルツブッシュ自身は次してナチ党員になったことはなく、のちには政府と激しい応酬をやって、ついにはゲッベルス宣伝相の命令でミュンヘンから追放の憂き目にあったことは強調しておきたい。しかし彼がブルーノ・ワルターとは反対の極にいたことはたしかだ」(「回想のロンド」)
ただ、クナッパーツブッシュとベームは、デッサウ時代のクルト・ヴァイルのようには失敗しなかった。クナッパーツブッシュとベームは徐々にお互いを認め合うようになる。
ベームはワルターに認められて歌手になった妻テーア・リンハルトのことに触れ、続けて「ばらの騎士」で成功、クナッパーツブッシュの信頼を勝ちとったことを話している。
「クナッペルツブッシュはわたしの妻にたいしてはあまり理解を示してくれなかったが、わたしと彼との関係は次第に好転してゆき、のちにはわたしは彼から同格の同僚として扱われるようになった。わたしの昇進は遅々たるものだったが、あるとき『ばらの騎士』を上演したあと—わたしはそれまでこのオペラをいちども指揮したことがなく、引き受けたときには24時間の余裕しかなかった……クナッペルツブッシュの信頼を最終的に獲得した。そのときには幸運にも歌手たちが第三幕で失敗しなかったのだ–もしそんなことになっていれば、はじめてこのオペラを振る指揮者はすべてを失ったことだろう。そのとき以来クナッペルツブッシュは、特にモーツァルトに関してはわたしの自由通行権を許した。振り返って判断を言わしてもらえば、彼自身はモーツァルトに対してプラトニックな関係しかもてなかったのである」(「回想のロンド」)。
なぜ24時間しか余裕がなかったのかは、「回想のロンド」の後の方に出てくる。
「第三ないし第四指揮者には当然のことながら、何の練習もなしにいろいろなオペラの指揮を引き受けねばならず、あるときはたった24時間の猶予で『ばらの騎士』を振ったこともあった。そのときのわたしには、まったくほかの逃げ道はなかった。クナッペルツブッシュは腕の病気にかかって棒が振れなかったし、ローベルト・ヘーガーは不在だった。ただ幸運なことに、歌手たちは困難な第三幕さえもひじょうによく稽古してあったため、なにごとも起こらずにすんだし、その後、大好きな終幕の三重唱をはじめての経験ながら指揮して盛り上げることができてわたしは幸せだった」(「回想のロンド」)。
腕の病気で指揮ができなくなったクナッパーツブッシュに代わって「ばらの騎士」を成功させたベームを、クナッパーツブッシュは同僚として扱うようになる。そして、クナッパーツブッシュがあまり得意としていなかったモーツァルトのオペラを、ベームに委ねるようになったのだそうだ。
クナッパーツブッシュはミュンヘンで歓迎されたが、一方で敵を作ることにもなった。ワルターへの支持はまだ厚く、ワルターと家族付き合いをしていたトーマス・マンをはじめとして、「ミュンヘン最新報」の代表パウル・ニコラウス・コスマンと同紙の編集長フリッツ・ゲルリヒ、ワルターの親友であった作曲家兼指揮者ハンス・プフィッツナー、モーツァルトの権威で音楽評論家アルフレート・アインシュタイン(ユダヤ人だったため、後にアメリカに亡命、アルフレッド・アインシュタインと呼ばれる。ノーベル物理学賞の受賞者で「相対性理論」で有名なアルベルト(アルバート)・アインシュタインの従兄弟である)などを始め、さまざまなミュンヘン文化人がワルターの流出を悲しんだ。
ワルター擁護派にはユダヤ人批評家も数多く混じるが、敵対者はユダヤ人だけではなかった。「ゲルマン民族の典型」とは、ナチを始めまだミュンヘンで大きな勢力を持っていたトゥーレ協会などが言いそうなことだが、大ドイツ主義の考えであり、バイエルンにはバイエルン分離主義者も数多くいた。バイエルン分離主義者のプロイセンへの嫌悪の根はそうとうに深い。
北部ドイツ・プロイセン対して、ミュンヘンは南ドイツ・バイエルンの首都で、プロイセンに対して強い対抗意識が元々あった。バイエルンはプロイセンに張り合うだけの歴史と誇りを持っている。第一次世界大戦で揺れ動くベルリンの動向と、ミュンヘンの動向は全く異なった様相を見せながら推移した。
ナポレオン戦争の頃、ナポレオンがバイエルンを王国に昇格させて以来、バイエルンはプロイセンと対立した。第一次世界大戦を引き起こしたのはプロイセンであり、バイエルンは戦争を起こしたプロイセンに搾取を受けたと恨みは深い。
「この反プロイセン感情はプロイセンによるドイツ統一の際に生じ、バイエルン政府は親プロイセンとなったが、バイエルン民衆に底流し続け世界大戦において『憎悪』として噴出した」(黒川康著「バイエルン・ドイツ・ヨーロッパ……ある地域主権の近・現代史 1918-1990」 埼玉新聞社 2008/5/1)。
バイエルンにはベルリン中央政府と距離を置きたいというバイエルン分離主義が根強く残っていたが、これはフランス、オーストリア、バイエルンが一体となってプロイセンと対抗する考えで、単純に北ドイツ、南ドイツの分離という意味ではない。当時の声が前掲書に紹介されている。
「ベルリンからの分離・独立を大前提に、南ドイツはオーストリア、フランスと合体する。この合体構想は経済的文化的に見てバイエルンに有利だ。これこそ国民融和の第一歩であり、バイエルン人にフランス憎悪をはない」。
バイエルン分離主義者にとってはプロイセン出身のクナッパーツブッシュは「勇ましいアーリア人」であり、軍楽隊出身であったため「軍楽隊長」、さまざまなオペラ演奏の破綻を補う技術を持っていたため「技術屋」と悪口で呼ばれた。ワルターのような「芸術家」ではないということか。また、クナッパーツブッシュはプロテスタントであったため、カトリック教徒の多いバイエルンではそのことも問題にされたのかも知れない。
もっとも、クナッパーツブッシュ自身は青春時代にミュンヘンに遊学していたこともあり、すぐにミュンヘンに馴染んだ。訛りもミュンヘン風に変わったようだ。
「とくに彼はどっしり響く力強いバイエルン訛りを好み、『どれもちゃんと国語辞典に載っているからな』と、そんな訛りを正当化していた」(ルーベルト・シェトレ著「指揮台の神々」喜多尾道冬訳 音楽之友社)
また、クナッパーツブッシュは口は悪かったが気取りがなく、そのこともバイエルンでは人気を得る大きな要因ともなった。クナッパーツブッシュは、オペラやコンサートの成功を軸に、一般聴衆の人気を惹きつけていった。ユダヤ人との関係においても、クナッパーツブッシュはあまり頓着していなかったようで、歌劇場に数多くのユダヤ人演奏家を雇用したり、1922年12月9日(Trémine DATAでは12月12日)にはナチの抗議にも関わらず、コルンゴルト「死の街」ミュンヘン初演を行った。「終幕後、非難の叫び声・口笛が飛びかうなか、自らの流儀に反して舞台にのぼり、作曲家と抱擁を交わした」(奥波本)
ヒトラーが手本とした当時の政治家に、イタリアのベニト・ムッソリーニがいる。1922年10月26日から28日にかけて、ムッソリーニを筆頭とした「4頭目指導下にローマに向かって政権奪取のためのファシストの大進軍」(全記録)が行われた。
意外なのは、元々ムッソリーニは右翼国粋主義者というよりも、レーニンから直接教えを受けたマルクス主義者だったということだ。ムッソリーニは社会主義を信奉ながらも、第一次世界大戦前には、開戦を計画している協商国フランスの手口に乗り、フランスなどの協商国との開戦を主張するようになった。そのため、ムッソリーニは所属していた社会党を除名される。
第一次世界大戦には志願兵として参戦するが、手榴弾の爆発で重傷を負う。大戦後、混乱し、左傾化するイタリアで、政治家を志すムッソリーニはそのような状況に不満を持つ旧軍人を組織して「戦闘者ファッショ」を組織する。この辺りから、ムッソリーニは社会主義者とは呼べなくなるのか。ムッソリーニは「戦闘者ファッショ」の中に「黒シャツ隊」を組織し、社会主義者や共産主義者と衝突を繰り返した。ムッソリーニは国民の人気を集め、「戦闘者ファッショ」を「国家ファシスタ党」(ファシスト党)に改称して、イタリア国会で35議席を獲得した。
そして、自身、クーデターを起こして首相の座を奪取すべく「ローマ大進軍」を計画する。「ローマ大進軍」は失敗する可能性も高かったが、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世は左翼による革命騒ぎを嫌い、戒厳令の布告を拒否してムッソリーニに組閣を命じてしまった。30日に、「ローマ大進軍」の隊列はローマに入り、ムッソリーニのクーデターは、まんまと成功してしまう。
この1922年のイタリアでの出来事が、ドイツのヒトラーたちを刺激した。
ドイツではマルクが1ドル9000マルにまで下落、インフレはますますひどくなり、収まる様子がなかった。中産階級は財産をなくして下層労働者と同じよな生活水準にまで落ち込み、ますます右翼か左翼の過激派に人気が集まるようになった。ドイツ政府は首相がコロコロと変わり、不安定さを増している。ナチも、政治集会への動員力を急激に伸ばしていた。ヒトラーは、秋に入党したヘルマン・ゲーリングを突撃隊(SA)の総指揮官に任命する。ゲーリングは「エアハルト海軍旅団」から借りてきている隊長クリンチェの指導を仰ぎながらの就任だったものと思われる(クリンチェは翌1923年5月、ナチ突撃隊を離れて元の組織に帰っている)。
レームはライヒスヴェーアの中で、金銭や軍事物資などをさまざまな極右戦闘団体を支援する立場にあったが、1922年12月5日付で黒幕の第7師団司令官エップ将軍から離れ、参謀部勤務を命じられた。エップの後援がなくなっても、しばらくの間、レームの影響力を伴った政治活動は続く。