1924年 ミュンヘン時代3

 ミュンヘン一揆の年が明けた1924年、クナッパーツブッシュは1月6日公現祭で恒例となった「パルジファル」を指揮、8日にも「パルジファル」を振った。調べてみると8日は金曜日にあたり、聖金曜日という意味があったのか(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)。

1924/01/14 アカデミー・コンサート フランケンシュタイン/マイアベーアの主題による変奏曲(世界初演)、R.シュトラウス/ドン・ファン、ベートーヴェン/交響曲第3番 MAM
1924/01/20 ビゼー/「カルメン」 ミュンヘン
1924/01/24,25 ウィーン演奏協会 モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」、ハイドンのチェロ協奏曲第2番(vc:エマヌエル・ファウエルマン)、ベートーヴェン交響曲第7番 Wiener Symphoniker Archives
1924/01/27 モーツァルト/「魔笛」ミュンヘン
1924/01/30 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/02/04 アカデミー・コンサート チャイコフスキー/交響曲第5番,バウスネルン/交響曲第5番「刈り入れびと、その名は死神」 MAM
1924/02/07 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1924/02/10 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1924/02/15 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1924/02/18 アカデミー・コンサート ベートーヴェン/交響曲第9番 MAM
1924/02/20 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1924/02/21 J.シュトラウス II/「こうもり」 ミュンヘン
1924/02/28 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1924/02/29 ヘンデル/「ユリウス・シーザー」 ミュンヘン
1924/03/03 J.シュトラウス II/「こうもり」 ミュンヘン
1924/03/04 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1924/03/07 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1924/03/10 アカデミー・コンサート ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」,ヨアヒム/ヴァイオリン協奏曲「ハンガリー風」,ウェーバー/オベロン序曲 MAM
1924/03/16 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1924/03/24 ベートーヴェン/交響曲第5番,ブラウンフェルス/テ・デウム(作曲者自身の指揮による世界初演) [ベートーヴェン 交響曲第4番ではなく…]
1924/04/04 ウィーン演奏協会 R.シュトラウス/「ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら」,シネガーリャ/ピエモンテ舞曲, マーラー/交響曲第4番 (Felicie Huni-Mihacsek) Wiener Symphoniker Archives
1924/04/06 ベートーヴェン/交響曲第9番 (Nelly Merz/ Frieda Schreiber/ Hans Depser/ Berthold Sterneck) 午前中のコンサートで、小児医療関係者向けだったようだ。MAM
1924/04/08 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1924/04/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/04/19,21 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン Trémine DATAには記載がない
1924/04/20 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン
1924/04/23 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/04/25 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン

1924/04/27 プッチーニ/「トスカ」 ミュンヘン
1924/04/28 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン
1924/04/29 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1924/05/02 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン
1924/05/07 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1924/05/08 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン 「エレクトラ」の代演 Günther Lesnig’s DATA
1924/05/15,16 ウィーン演奏協会 ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」, ブラームス/交響曲第4番 Wiener Symphoniker Archives
1924/05/23 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1924/05/24 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン
1924/05/25 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1924/05/30 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1924/06/08 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/06/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン R.シュトラウス週間 Günther Lesnig’s DATA
1924/06/13 R.シュトラウス/「サロメ」 アウグスブルク R.シュトラウス週間 Günther Lesnig’s DATA
1924/06/21 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1924/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン

夏のミュンヘン・モーツァルト・ワーグナー祭
1924/08/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1924/08/03 ワーグナー/「ラインの黄金」
1924/08/04 ワーグナー/「ワルキューレ」
1924/08/06 ワーグナー/「ジークフリート」
1924/08/08 ワーグナー/「神々の黄昏」
1924/08/10 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1924/08/13 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン[レジデンツ劇場]
1924/08/15 ワーグナー/「パルジファル」
1924/08/19 ワーグナー/「パルジファル」
1924/08/20 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン[レジデンツ劇場]
1924/08/23 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン[レジデンツ劇場]
1924/08/24 ワーグナー/「パルジファル」
1924/08/26 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン[レジデンツ劇場]
1924/08/27 ワーグナー/「パルジファル」
1924/09/03 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン[レジデンツ劇場]
1924/09/06 ワーグナー/「パルジファル」
1924/09/09 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
(ワーグナーの記録は”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による。ワーグナーはプリンツレゲント劇場での公演)
(René Trémine’s DATA)

 この年、「パルジファル」は新演出だった。クナッパーツブッシュは「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」の新演出の際に、「クンドリーという秘儀」という論文を発表した(奥波本)。1913年にミュンヘン大学に提出した学位請求論文「ワーグナーの《パルジファル》におけるクンドリーの本質」と、どの程度関係があるのかは分からない。ただ、クナッパーツブッシュにとって、「パルジファル」とその登場人物のひとりであるクンドリーは大きな意味を持っていたようである。後の録音を聞けば分かるが、クナッパーツブッシュは「パルジファル」第二幕でのクンドリーの苦悩の告白をひじょうに重く受け止め、そこを最重点に「パルジファル」全体を形づくっていったのではないかと思える。さまざまな指揮者による「パルジファル」とクナッパーツブッシュの演奏の違いは、その力点の在処だと言ってもいいのだ。このことは、実はクナッパーツブッシュによる他のワーグナーのオペラにも当てはまる部分もあるといえるのかも知れない。いわゆるドラマの力点をどこに置くのかが問題となる。

 プフィッツナー「愛の園のバラ」を振ったのは10月と考えていたが、Trémine DATAでは、すでに4月から記録が残っている。
 後年の1930年、オスカー・フォン・パンダーによるクナッパーツブッシュのベートーヴェン交響曲第9番を批判したことに端を発した「批評家裁判事件」の公判記録に、「ミュンヘン最新報」の代表コスマンがエーラースに語ったという「愛の園のバラ」に関する言葉が奥波本に紹介されている。
「……あれはほんとうにすばらしかった。またしてもユダヤの報道のでたらめぶりが明らかになったわけだ(コスマンもユダヤ人であるにも関わらず・Syuzo註)。クナッパーツブッシュをじょうずに指揮をこなすだけの技術屋に仕立てあげ、彼には魂が欠けていると大嘘をついている。魂で感じない者は、あの歌劇のふくよかな旋律内容を歌わせることなどできないのだが、クナッパーツブッシュ教授はじつにふくよかに歌わせていた。率直にいって、きみのクナッパーツブッシュへの賛辞は度が過ぎていると思っていたが、今では全く正しいと思わざるをえないよ」
 コスマンはプフィッツナーの親友であったため、プフィッツナーが演奏されれば上機嫌、という傾向があったらしい。
 エーラースはクナッパーツブッシュのオーディション時には懐疑的だったが、すでにクナッパーツブッシュの礼讃者に回っていたらしい。
 また、コスマンはユダヤ人嫌いのユダヤ人だった。「ミュンヘン最新報」自体、国粋主義的とまでは行かなくても、どちらかというと愛国主義的な新聞で、当時編集長だったフリッツ・ゲルリヒは「ミュンヘン一揆」で失敗したヒトラーに同情的だった。もっとも、ゲルリヒは熱烈なワルター礼讃者でもあり、この時にはまだバランスを取っていたようだ。後のゲルリヒは、そのバランスをカトリックの熱狂的な信者という立場で、反ナチの方向に大きく傾かせてゆく。
 さらに、コスマンは1923年1月22日から2月12日までの間、すなわちミュンヘン一揆の前にヒトラーを案内して、病気でミュンヘンのシュヴァーベンにある病院に入院中のプフィッツナーを見舞いに行った(胆嚢炎であったそうだ。「長木誠司著「第三帝国と音楽家たち」音楽之友社 1998/4)。コスマンは国粋主義者で人種主義者の親友プフィッツナーをヒトラーに会わせ、友誼を結ばせようと思ったのかも知れない。
 ところが、ヒトラーは、痩せて髭を生やし、大きな鼻をしたプフィッツナーを見て、ユダヤ人か半ユダヤ人だと勘違いした。会見後、ヒトラーは「あのラビとは二度と会いたくない」と帰り際に、一緒に訪問していたヒトラーの思想的師匠格であるエッカートに言った。プフィッツナーの生まれはモスクワだが、両親ともドイツ人で生粋のアーリア人である。後年、ゲッベルスもそのことにはお墨付きを与えているが、その時のプフィッツナーに持った印象を、ヒトラーは生涯変えることはなかった(マイケル・H・ケイター「第三帝国と音楽家たち」アルファベータ)。

 この年の夏、1915年以降、第一次世界大戦で開催ができなくなっていたバイロイト祝祭音楽祭が再開された。音楽祭の実権はジークフリートからヴィニフレートに移り始めていたようであり、「ヒトラーとバイロイト音楽祭 ヴィニフレート・ワーグナーの生涯」上巻(ブリギッテ・ハーマン著 吉田真監訳 鶴見真理訳 アルファベータ 2010/4/17)に、クナッパーツブッシュに関する記載があった。
 クナッパーツブッシュはジークフリートの許可を得ていると考え、再開されるバイロイトに指揮者として呼ばれると考えていた。
 しかし、呼ばれたのはフリッツ・ブッシュだった。クナッパーツブシュはそのことでヴィニフレートを長く恨んでいたという。クナッパーツブッシュは第二次世界大戦が終わり、1951年にバイロイトが新たな出発を向かえるまで、バイロイトには縁がなかった。
 ハーマンはヒトラーが金髪碧眼で背の高いブッシュを好んでいたためと書いているが、クナッパーツブッシュも金髪碧眼で背が高かった。
 真相は実に簡単で、バイロイトの公演とライバル関係にあったミュンヘン「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」の首席指揮者を務めるクナッパーツブッシュは、時期的にも、基本的にバイロイトには出演できないという伝統と暗黙の決まりがあったためだ。
 結局、再開されたバイロイトでは、「パルジファル」をジークフリート・ワーグナー、カール・ムック、ヴィリバルド・ケーラーが、「ニーベルングの指環」をジークフリート・ワーグナーとミヒャエル・バリングが、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」をジークフリート・ワーグナーとフリッツ・ブッシュがそれぞれ指揮した。

1924/10/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/10/20 アカデミー・コンサート ブルックナー/交響曲第8番 ミュンヘン MAM
1924/10/23,24 ウィーン演奏協会 ベートーヴェン/交響曲第2番,ブラームス/交響曲第2番 Wiener Symphoniker Archives
1924/10/26 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1924/10/30 プフィッツナー/「愛の園のばら」 ミュンヘン
1924/11/02 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1924/11/07 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/11/08 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/11/13 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 (ゲネラルプローベ?世界初演) ミュンヘン
1924/11/15 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 ミュンヘン [たぶんこの日付が世界初演として正しい]
1924/11/17 アカデミー・コンサート ハイドン/交響曲第1番,プフィッツナー/ヴァイオリン協奏曲(初演),シューベルト/交響曲第6番 MAM
1924/11/20,21 ウィーン演奏協会 モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, フランケンシュタイン/マイヤベーアの主題による変奏曲 ,チャイコフスキー/交響曲第5番 Wiener Symphoniker Archives
1924/11/27 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 ミュンヘン
1924/11/28 ワーグナー/「ジークフリート」ミュンヘン
1924/12/01 アカデミー・コンサート コーネリウス/「ル・シッド」序曲,R.シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」 (バウスネルンが自作を指揮した。バウスネルン/「オルガン讃歌」(初演)) MAM
1924/12/06? R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/12/08 アカデミー・コンサート フランケンシュタイン/ラプソディ(初演),モーツァルト/交響曲第29番,ベートーヴェン/交響曲第1番 MAM
1924/12/10,11,13,17 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1924/12/15 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 ミュンヘン
1924/12/20 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1924/12/21 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 ミュンヘン
1924/12/26 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1924/12/28 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1924/12/29 マスカーニ/「道化師」,レオンカヴァレッロ/「カヴァレリア・ルスティカーナ」 ミュンヘン いつものようにTrémine DATAにレオンカヴァレッロの名前がない]
1924/12/30 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 クナッパーツブッシュは、11月15日国民劇場でワルター・ブラウンフェルス「緑ズボンのドン・ギル」を初演している。オペラ「鳥」のヒットの後、ブラウンフェルスのオペラは待たれていた。後にブラウンフェルスはユダヤ人(人種法によると4分の1ユダヤ人だった)のため、後のナチ政権下では苦労を強いられることになる。

 ミュンヘン一揆の失敗で捕まったヒトラーは、2月26日からミュンヘンで第1回公判に臨む。ルーデンドルフやレームも同じく公判に臨んだ。ルーデンドルフの無罪は確定していたようなものだったが、注目はやはりヒトラーが集めた。ヒトラーの強制国外退去、母国オーストリアへの追放という声もミュンヘン警視総監から上がったが、裁判所、政府はこれを拒否する。負傷者は(ヒトラーはミュンヘン一揆で肩を脱臼していた)追放免除にすべきだと言う主張が通ったからだが、バイエルン政府の法相ギュルトナーは親ナチだった。
 公判の裁判長もヒトラーに同情的だった。さらにヒトラーは裁判所を演説会場に変えてしまう。事件の全責任は自分ひとりにあるが、徹底して無罪であることを主張した。このことが共感を呼ぶ結果になった。
 4月1日、量刑の決まったヒトラーは再びランツベルク刑務所に収監される。裁判長はヒトラーに同情的だったものの、5年間の禁固刑を言い渡された。もし無罪だった場合、ミュンヘン警察から上級法廷のあるライプツィヒに控訴される可能性があった、とヒトラーは後に回想している。公判のための拘留期間6ヶ月を差し引いて、ヒトラーの量刑は4年半と確定した。
 そのランツベルク刑務所で、ヴィニフレート・ワーグナーが差し入れた紙やペンを使い、ヒトラーを慕って自首したルドルフ・ヘスの手で(自首は、匿われていたヘスの恩師カール・ハウスホーファー教授の薦めでもあった)、「わが闘争」は口述筆記によって書かれた。
 ヒトラーは「ミュンヘン一揆」を起こす前、9月30日(トーランド本)に、初めてバイロイトのワーグナー家を正式に表敬訪問している(以前にバイロイトを見学したことがあったが)。前々からヒトラーの信奉者であったヴィニフレートはヒトラーを歓迎したが、ジークフリートは当初、「あれはペテン師だ」と冷ややかな反応しか見せなかった。
 ヴィニフレートとともにヒトラーを歓迎したのは、ワーグナーの娘婿であるヒューストン・スチュワート・チェンバレンだった。チェンバレンはローゼンベルクが「二十世紀の神話」で発展させることになる「十九世紀の神話」の著者で、ワーグナーの擁護者、ドイツ民族を支配民族とするドイツ国粋主義者だった。ヴィニフレートとチェンバレンはイギリス人である。ヒトラーはバイロイトでドイツ人ジークフリートからは嫌われ、ドイツ化したイギリス人に熱烈な歓迎を受けるという、後から俯瞰してみると奇妙な結果になった。
 ヒトラーがランツベルク刑務所で刑に服している間、ナチは名前を変え、党の活動を選挙で議席を獲得することにより、合法的政治活動に切り替えようとする北ドイツ・ナチの指導者グレゴール・シュトラッサーとそれに協力するローゼンベルクのグループ、ローゼンベルクに反感を抱くオーストリアに亡命していたグループに分裂を始めていた。ヒトラーは自分のいない間、党のとりまとめをローゼンベルクに託したが、ローゼンベルクは政党的人間としては全く人望がなかった。さらにルーデンドルフ、レーム、グレゴール・シュトラッサーは「国家社会主義自由運動」を組織、このことは後にヒトラーと対立する火種となった。「国家社会主義自由運動」はバイエルン州選挙でバイエルン人民党に次ぐ投票数を集め、全国選挙でも32名の当選者を出した。その名前の中には、シュトラッサー、レーム、フェーダー、フリック、ルーデンドルフの名前が見える。レームはあくまでもヒトラーの上官であるという意識を捨てていなかった。
 さらにヒトラーに党を追い出されかかったドレクスラーはフェーダーとともに反ヒトラー・キャンペーンを指揮し始めた(トーランド本)。ふたりは古いトゥーレ協会のメンバーである。
 それらの党の分裂、混乱に対して、獄中にあるヒトラーの戦略は「何もしない」、いわば党を混乱状態においたままにしておくということだった。ヒトラーはランツベルク刑務所で、「我が闘争」の口述執筆に精を出す。
 結局、ヒトラーの刑期は大幅に短縮され、この年の12月20日に仮出獄する。ヒトラーは、元の狭いミュンヘンのアパートに帰った。
 留まることを知らないインフレに喘いでいたドイツの経済情勢は、ヒトラーの服役中に大きく動き始める。ドイツ金割引銀行が設立され、会長に就任したホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハトは魔術的ともいえる手段で海外からの融資を可能にした。また、もう少し後にはライヒスバンクが設立、1兆マルクは1ライヒスマルクに変更され、インフレ紙幣は落ち着きを取り戻す。シャハトは、そのライヒスバンク総裁にも就任する。
 さらにアメリカのチャールズ・G・ドウズによる、ドイツの連合国に支払う賠償金の支払い方法の変更の案件がロンドンで可決された。ドウズ案と呼ばれる。これにはドウズ案が実施された場合、巨額のドウズ公債の発行、フランス・ベルギーのルール地方からの撤退も含まれていた。ヴァイマル政府もこの案を呑み、ドイツ経済はインフレと不況を脱し、動き始める。

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