1928年 ミュンヘン時代7

1928/01/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1928/01/06 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984))
1928/01/03 ヴァルターシャウゼン/ 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1928/01/09 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1928/01/14 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/01/15 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1928/01/18 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/01/23 レーガー/セレナード op/95, モーツァルト/交響協奏曲 KV 364, ブルックナー/交響曲第7番 ミュンヘン MAM
1928/01/28 マグデブルク ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(“Einhudert Jahre Berliner Philharmonisches Orchester” Band I – IIIによる。この年もまた、フルトヴェングラーはやはりニューヨークに出かけていて不在だった)[Not mentioned by Trémine]
1928/02/06 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1928/02/07 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/02/09 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1928/02/13 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

2月15と16日、クナッパーツブッシュはベルリンに出かけて、ベルリン州立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)とレコーディングを行っている。すでに電気マイクロフォンが発明されており、1925(1924)年のアコースティック録音とは異なる。録音された曲目は、ヨハン・シュトラウス2世のワルツだった。
 クナッパーツブッシュはその晩年に至るまで、ウィンナ・ワルツが好きで指揮をした。エーリッヒ・クライバーやクレメンス・クラウスにもウィンナ・ワルツの古い録音が残っているが、クナッパーツブッシュのウィンナ・ワルツは、その最初から他の指揮者とはかなり違っている。
 フランスTAHRAに”The King of the Waltz”という古い録音のウィンナ・ワルツを集めた4枚組CDがあり(TAH 358/361)、エーリッヒ・クライバーとクナッパーツブッシュの「加速度」が順番に収録されているため(エーリッヒ・クライバーの録音は1932年)、その楽曲への対し方の違いをよく理解できる。エーリッヒ・クライバーのシンフォニックな「加速度」に比べ、クナッパーツブッシュのウィンナ・ワルツはどこか柔らかいのだ。ただ面白のは、1928年のクナッパーツブッシュは7分33秒で「加速度」を指揮しているのに対し、エーリッヒ・クライバーは8分05秒をかけて演奏しているところか。
 それでも、クナッパーツブッシュの演奏の方が、どこか明るく、馥郁としてのんびりしている。大都会ウィーンではなく、田舎都市ウィーンを感じさせる。メロディの歌わせ方もずいぶんと人懐っこい。そして全体に優しさが溢れている。クナッパーツブッシュは、まだウィーンに客演するようになって間がないが(その頃、ウィンナ・ワルツを振ったという記録はない)、ウィンナ・ワルツの一面をみごとに捉えていたと言ってもいいのかも知れない。ウィンナ・ワルツはマーチとの関係が深いが、クナッパーツブッシュは「軍楽隊長」と揶揄された割には、マーチとはかなり遠い地点でウィンナ・ワルツを指揮していたようだ。

ヨハン・シュトラウス2世「加速度」
ヨハン・シュトラウス2世「ドナウの精」
ヨハン・シュトラウス2世「人生の歓び」
ヨハン・シュトラウス2世「ウィーンの森の物語」
ヨハン・シュトラウス2世歌劇「こうもり」序曲

1928/02/23 ウィーン演奏教会 R.シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」, ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 (Winifred Christie),Max von Oberleithner/Feueridyll melodrama (Speaker/Georg Retmers), ブラームス/交響曲第3番 WTO Vienna Announcement NFP
1928/03/04 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1928/03/05 ゲイエルハース/創作主題による変奏曲 (世界初演), ブレイレ/スケルツォ (世界初演), ベルリオーズ/幻想交響曲 ミュンヘン MAM
1928/03/09 チャイコフスキー/交響曲第5番 , J/シュトラウス II/こうもり 序曲,「加速度」ワルツ,「ウィーンの森の物語」, Donau-Walzer Det Kgl/ Kapel, Copenhagen
1928/03/11 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/03/15 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1928/03/19 グラズノフ/交響曲第7番, マーラー/「大地の歌」 ミュンヘン MAM
1928/03/22 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
1928/03/25 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1928/03/27 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/03/29 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/04/01 バッハ/マタイ受難曲(復活祭コンサート) ミュンヘン MAM
1928/04/09 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン ”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)
[08/04/28 Not mentioned by Trémine]
1928/04/13 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1928/04/22 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1928/04/24 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1928/05/01 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/05/05 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/05/11 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1928/05/14 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/05/15ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1928/05/29 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1928/06/07 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1928/06/09 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1928/06/15 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1928/06/17 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/06/20 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1928/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン

夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1928/07/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1928/07/30 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1928/07/28 ワーグナー/「パルジファル」
1928/08/01 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1928/08/06 ワーグナー/「パルジファル」
1928/08/07 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1928/08/08 ワーグナー/「ラインの黄金」
1928/08/09 [クナッパーツブッシュはモーツァルト・ワーグナー祭の成功について語っているが、Trémineデータでは?マークがついている]
1928/08/10 ワーグナー/「ワルキューレ」
1928/08/12 ワーグナー/「ジークフリート」
1928/08/14 ワーグナー/「神々の黄昏」
1928/08/23 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1928/08/27 ワーグナー/「パルジファル」
1928/08/28 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1928/08/31 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
(ワーグナーの演目は”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
(René Trémine’s DATA)

 8月31日に「ミュンヘン夏のモーツァルト・ワーグナー祭」最終日を終え、クナッパーツブシュは再びベルリンに向かい、9月4日と5日、2月に続いてベルリン州立歌劇場管弦楽団とレコーディングを行う。

ハイドン交響曲第94番「驚愕」
リヒャルト・シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
リヒャルト・シュトラウス「サロメ」より「七つのヴェールの踊り」
リヒャルト・シュトラウス「インテルメッツォ」より「ワルツ」

1928/09/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1928/09/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/09/11 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1928/09/16 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/09/19 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1928/09/21 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/09/23 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1928/09/25 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1928/09/28 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/10/06 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン ゲネラルプローベ Günther Lesnig’s DATA
1928/10/07 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1928/10/08 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」ミュンヘン初演(“Münchner Theaterzettel 1807-1982″、”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる) Günther Lesnig’s DATA
1928/10/09 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1928/10/12 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/10/16 ヘンデル /コンチェルト・グロッソ 6-5, ハイドン/交響曲第92番, ベートーヴェン/交響曲第5番 MAM
1928/10/17 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/10/20 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/10/23 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/10/28 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1928/10/30 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/11/01 モーツァルト/レクイエム 万聖節コンサート ミュンヘン MAM
1928/11/04 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/11/09 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/11/10 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1928/11/12 シューベルト/交響曲第8番「未完成」, 「さすらい人」幻想曲(リストによる管弦楽編曲版), 交響曲第6番 ミュンヘン MAM
1928/11/24 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1928/11/26 オネゲル/パシフィック231, R.シュトラウス/「アテネの大祭」, ブラームス/交響曲第3番 ミュンヘン
1928/12/01,02,04,06 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1928/12/09 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/12/14 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/12/15 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1928/12/16 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1928/12/17 グレーナー/コメディエッタ(ミュンヘン初演), ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲, R.シュトラウス/「死と変容」 ミュンヘン MAM
1928/12/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1928/12/21 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1928/12/22 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

 1928年には、手兵バイエルン州立歌劇場管弦楽団との録音がある。吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」、Huntとも、1928年12月の録音となっている。
 クナッパーツブッシュは第二次世界大戦前、1922年から1935年までバイエルン州立歌劇の音楽総監督の地位にあったが、オペラを含めてミュンヘンでの録音はこの2曲しか知られていない。当時、録音機材やスタッフがベルリンに集中していたためか、ミュンヘンではあまりレコーディングが行われなかったようだ。

ロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲
ウェーバー「魔弾の射手」序曲

 第一次世界大戦が終わり、10年を経過してポーランドではオーバーシュレージェンのドイツ人が少数民族として、ポーランド政府から差別・圧迫されていた。1928年1月7日、ヴァイマル共和国はポーランドのドイツ人への圧迫を、ハーグの国際司法裁判所に提訴している。第二次世界大戦は、そのポーランドによるドイツ人圧迫を口実にヒトラーによって始められたが、すでにその芽はこの頃から吹き出していたことになる。
 ベルリンでは、演説を禁止されていたゲッベルスだったが、「デア・アングリフ」で反ヴァイマル政権の論陣を張り、ますますその宣伝に力が入っている。
5月20日 国会総選挙が行われたが、ナチは12名しか議席を獲得できずに凋落する。いまだ景気は上向きで、労働組合を擁する社会民主党や共産党は健在ぶりを示しているが、極右勢力への人々の関心はそれほど大きくはなかった。
 ゲッベルスは初当選するも、議員の立場で議会制民主主義への批判を強める。ゲッベルスは「わたしは国会議員なのではない…不逮捕特権の保持者であり、鉄道の無料切符の保持者なのである」、「これで国会で堂々とシュトレーゼマン外相に対し、フリーメーソンであり、ユダヤ人女性と結婚しているのか?と質問できる」と「デア・アンゲリフ」に議会制民主主義への挑戦とも受け取れる発言を書いている。ゲッベルスは元々社会主義的傾向が強かったが、ナチに入党することによって国家社会主義者となり、座して議論にばかり集中する議員を激しく嫌っていた。これはヒトラーも同じだった。
 この頃、ヒトラーはオーバーザルツベルクのベルヒテスガーデンに「ハウス・ヴァッヒェンフェルト」を入手、私邸を持った。といっても、その家はナチ党員の女性から借りたもので、まだヒトラーの私物ではない。ヒトラーは異母姉のアンゲラ・ラウバルに「ハウス・ヴァッヒェンフェルト」の切り盛りを頼む。アンゲラは二人の娘を連れてベルヒテスガーデンにやってくる。その娘の妹の方が、ゲリと呼ばれる母親と同じ名前を持つ娘だった。ヒトラーはゲリを溺愛し始める。
 ただ、ヒトラーとゲリは叔父と姪の関係にあり、トーランドによると倫理について喧しいヒトラーはゲリと肉体関係を持ったことはないそうだ。もしそれが公になると、ヒトラーは私生活の面から政治生命を断たれることになる。
 トーランドは、ヒトラーの思想面での後に引けない分岐点が、この長閑ともいえる時期に確立したと書いている。「1928年の夏の終わりまでに、ヒトラーは彼の最もさし迫ったふたつの確信……ユダヤ人の危険とドイツにとっての充分な生活圏の必要……が、たがいにからみ合っているという認識に達した」、「これが十中八九、ヒトラーがもはや後には引けなくなった地点であり、彼の世界観の本質だった」。ヒトラーは戦友でナチ党員のマックス・アマンを相手に「我が闘争」の次の著作となる本の口述筆記したが、この書はヒトラーの存命中、世に出なかった。「ヒトラーの秘密の書」と呼ばれ、32年後にはじめて出版された。いたるところに、ユダヤ人絶滅への予感を孕んだ箇所があり、ヒトラーの最終目的が露見することを怖れたからだという。
 9月28日 ヒトラーはプロイセンでも演説禁止の処分を食らっていたが、この日に解除される。それまでプロイセンやその他のヒトラーの演説を禁止していた地域では、ヒトラーの演説原稿を、後にクナッパーツブッシュをミュンヘンから追放することになるアドルフ・ワーグナーが代読していた。声の高さ、バイエルン風の訛りまで、ワーグナーはそっくりヒトラーに似せていた。
 10月20から22日 ドイツ国家人民党はアルフレート・フーゲンベルクを党首に選出。ドイツ国家人民党はナチ党の唯一の友好党であり、クナッパーツブッシュは選挙の際、この党に投票をしていた(奥波本)。ドイツ国家人民党はユンカー(大地主)がその支持母体であり、君主制への回帰を標榜していたが、フーゲンベルクは君主制への回帰には反対で、以後、その根本的な党の意志を変えてゆく。フーゲンベルクはもとクルップの支配人で、数々の新聞社、通信社、最大の映画会社(Ufa)の代表者でもあった(「ヒトラー全記録」。「ナチス一党支配体制成立史序説」からの引用より)。
 また、「全記録」を見ると、ベルリンを中心とした労働者の多い都市では、労働組合による賃上げ争議が頻繁に起こっている。特にベルリンは共産党の力が強く、ナチは共産党に対する対抗手段をさまざまに模索した。
 11月16日 ヒトラーはプロイセンでの演説禁止解除後の初演説をベルリンで行う。約1万人の聴衆が集まった。人々はコロコロと変わる内閣に嫌気がさしていたのは確かなようである。極論を説得力のある言葉で披露するヒトラーの演説は一種の政治ショーであり、右派的考え方を持つひとたちはカタルシスを味わうひとつの愉しみとして、ヒトラーの演説に聞き入ったのではないかと思える。むろんその中から、ナチへの入党者がいたが、まだぞくぞくと人々が鉤十字の旗の下に集まるという政治環境ではなかった。ナチはこの時期ジワジワとしか党勢を伸ばしていない。

 日本では2月20日に初の普通選挙となる衆議院選挙が行われた。この選挙で、共産党や左翼が議席を獲得、政府はそのことに対する危惧の念から共産党を弾圧し始め、共産党員大量検挙の三・一五事件が起こる。
 中国北部では蒋介石が北伐を行っていたが、日本人保護、権益確保のために駐留していた日本軍との間に紛争が起こる。日本人居留者が大量に殺害されたのがことの発端だった。済南事件と呼ばれる。多くの日本人居留者や中国人が首謀者不明のまま虐殺され、被害にあった。一旦はこの事件は落着したように見えるが、次に起こる「満州国」の建国、日中戦争への胎動であったといえる。
 中国の混乱に乗じて、中国東北部の支配権を確立したい日本の関東軍は、6月4日、中国北部軍閥のボスのひとり、張作霖を列車で移動中に爆殺する。
張作霖は日本の支援を受けていたが、国民党軍の北伐の成功により、アメリカやヨーロッパ諸国と接近、アメリカやヨーロッパ諸国の中国での権益が絡んで、反日勢力へと旗幟を変えていた。張作霖は大元帥になったことを宣言し北京で中華民国の指導者になることを目論んだが、国民党軍に敗退、本拠地の奉天に戻る最中だった。
ところが日本の関東軍は、中国東北部に日本の傀儡となる「満州国」建国を目論んでおり、張作霖が奉天に戻って勢力を張られたのでは邪魔者になる。日本国内の政治家には張作霖を援助し再起させろという意見も根強かったが、結局、張作霖は関東軍に殺されてしまった。関東軍は中国東北部への進出を目論み、天皇からの奉勅命令を期待したが、奉勅命令は出なかった。そのための火付け的な事件とも言われている。
複雑なのは、日本軍の張作霖軍事顧問も同じ列車に乗っており、災難に遭ったということか。日本国内での政治的駆け引きを無視して、関東軍による独断専行があったということになる。張作霖爆殺事件に関しては、ソヴィエトの陰謀が絡んでいるという研究もあり、その真相は錯綜している。
11月10日、天皇の即位の礼が挙行され、裕仁親王が大正天皇と送り名された前天皇の後を継いだ。

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