1930年 ミュンヘン時代9 批評家裁判、ナチの躍進

1930/01/02 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/01/08 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/01/20 モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, 「羊飼いの王様」よりアリア, ヴァイオリン協奏曲第5番, 交響曲第40番 ミュンヘン MAM
1930/01/26,27 ブダペストに客演 モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, バウスネルン/「子供のときに過ごした国」,ベートーヴェン/交響曲第3番
(René Trémine’s DATA)

 とりあえず、ミュンヘンでは批評家裁判が1月下旬から始まった。1月27日、批評家裁判の弁論手続き始まり、クナッパーツブッシュは直接の裁判当事者ではないながら、その演奏と批判記事が元で起こった裁判のため、証言を求められている。クナッパーツブッシュが証言台に立ったのは1月29日だった。
 ところが、パンダーによる批評の妥当性よりも、裁判の焦点は「ミュンヘン最新報」の「党派性」の方に問題の重心が移る(以下、奥波本による)。
 1926年まで編集長を務めていたゲルリヒや、そのゲルリヒによって馘首されていたエーラースも呼ばれ、「ミュンヘン最新報」の記事に偏向があったのではないかが議論された。すなわち、ユダヤ人の代表者コスマンによるユダヤ人指揮者ワルターへの過度な肩入れがなかったかどうかが焦点になってしまう。
 パンダーの書いた記事自体、フルトヴェングラーやムックの鑑定もあり、クナッパーツブッシュの演奏への批判は妥当であるとのお墨付きが出た。
 しかし、音楽アカデミーの理事3人に対するパンダーの名誉毀損の訴訟は、パンダーの敗訴に終わる。2月8日、「批評家裁判」は決着した。ただこれはパンダーの「負け」というより、奥波本を読んでいると、悪意の目的による「ミュンヘン最新報」に対する攻撃が中心になった裁判ではなかったかという印象が拭えない。当時のバイエルン州司法大臣も親ナチだった。
 クナッパーツブッシュの、当初批判記事に噛みついたことも輪郭を失いかけている。
 ただ、世界大恐慌が起こり始める辺りから、ナチの勢力が拡大し始め、親ワルター派の批評家から批判を浴び続けていたクナッパーツブッシュは、ナチと仲良くなり始めていたことは事実のようである。ナチにとって、クナッパーツブッシュの容姿は「ゲルマン民族」の典型であり、なによりナチが神格化するワーグナーのオペラや、時の偉大なオペラ作曲家リヒャルト・シュトラウスを得意としていた。クナッパーツブッシュがナチと離反し始めるのは、1933年以降になってからである。この頃は、隆盛するナチとクナッパーツブッシュは接近していた。「長いものには巻かれろ」的意識、あるいは王党派であるクナッパーツブシュの、混乱するヴァイマル政府への批判、ローゼンベルクのクナッパーツブッシュへの接近もあったのかも知れない。
 ローゼンベルクはこの年の2月、「我が闘争」に続くナチの第二の聖典とも呼ばれる「二十世紀の神話」を出版した。ローゼンベルクの政治的立場はそれほど強くなかったが、ナチの思想的支柱としての存在を大きくアピールした。ヒトラーは後に「難しくてよく分からない」と言いつつも、ローゼンベルクの言葉に耳を傾け、自身の政治的行動の大きな指針としたことは間違いがない。ローゼンベルクは共産主義とユダヤ人を同書の中で激しく非難し、ユダヤ人と交わるドイツ人への嫌悪も露わにした。

1930/02/03 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1930/02/05 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1930/02/09 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/02/13 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1930/02/20 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1930/02/27 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1930/02/28 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1930/03/01 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/03/06 R.シュトラウス: 「ヨゼフの伝説」「炎の災い」ミュンヘン新演出 Günther Lesnig’s DATA
1930/03/10 フランク/オラトリオ「至福」 ミュンヘン MAM
1930/03/12 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/03/13 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1930/03/17 レーガー/「ある悲劇への交響的序章」, ファリャ/「スペインの庭の夜」, フランケンシュタイン/舞踏組曲 ミュンヘン MAM [プログラムにはファリャの後、モーツァルト ピアノ協奏曲第21番の記載がある]
1930/03/20 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/30/22 マクデブルクでベルリン・フィルを指揮したときのものが記録に残っている(”Einhudert Jahre Berliner Philharmonisches Orchester” Band I – IIIによる)。演奏曲目は不明。フルトヴェングラーはこの時期、ウィーン・フィルの首席指揮者としてウィーンにいた。
1930/03/23 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1930/03/25 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1930/03/27 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1930/03/30 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1930/03/31 ブルックナー/交響曲第8番 ミュンヘン MAM
1930/04/06 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1930/04/10 ウィーン演奏協会 コルンゴルト :「ヴィオランタ」より前奏曲と祭りの音楽, ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 (グレゴール・ピアティゴルスキー),バウスネルン/「子供のときに過ごした国」組曲, R.シュトラウス/家庭交響曲 Wiener Symphoniker Archives

レニングラードに客演
1930/04/20 モーツァルト/交響曲第39番、「セレナータ・ノットゥルナ」、ベートーヴェン/交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ」 レニングラード
1930/04/23 シューベルト/2つのドイツ舞曲、交響曲第8番「未完成」、R.シュトラウス/「英雄の生涯」 レニングラード
1930/04/26 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」、バウスネルン/管弦楽組曲4楽章、ウェーバー=ワインガルトナー/「舞踏への勧誘」、ヨハン・シュトラウス2世/シトロンの咲くところ」、「人生を楽しめ」 レニングラード
1930/04/30 ワーグナー/「タンホイザー」序曲、「パルジファル」より「聖金曜日の音楽」、「パルジファル」の紹介?、「神々の黄昏」より葬送行進曲、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲、「ワルキューレの騎行」、「神々の黄昏」より “暁とジークフリートのラインへの旅」、「リエンツィ」序曲 レニングラード
1930/05/02 チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「人生を楽しめ」、クス・ワルツ、「観光列車」? レニングラード
1930/05/03 チャイコフスキー/交響曲第6「悲愴」、交響曲第5番 レニングラード
1930/05/04 シューベルト/交響曲第8番「未完成」、ワーグナー/「ローエングリン」より(ニコライ・ペチュコウスキー)、シューベルト/2つのドイツ舞曲、ウェーバー=ワインガルトナー/「舞踏への勧誘」、ヨハン・シュトラウス2世/「シトロンの咲くところ」、「人生を楽しめ」「ウィーンの森の物語」、「浮気心」 レニングラード
1930/05/06 ヨハン・シュトラウス2世/「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、「人生を楽しめ」、「シトロンの咲くところ」、「ピツィカート・ポルカ」、「ドナウの乙女」、「我が家で」、クス・ワルツ、「さらば戦争へ」、「朝の新聞」、「加速度」、 「ウィーンの森の物語」、「浮気心」 レニングラード
(サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 ARCHIVES)

(4月13日、オデオン・ザールの復活祭コンサートで「マタイ受難曲」が演奏されたが、指揮はカール・エルメンドルフだった)
1930/05/11 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1930/05/12 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/05/14 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1930/05/19 「王様の子供たち」 or 「エレクトラ」 ミュンヘン(おそらく「王様の子供たち」)
1930/05/21 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1930/05/24 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA 
1930/05/29 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1930/05/31 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
[Trémineはクナッパーツブッシュの活動の抜けを見出している]
1930/06/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン新演出 Günther Lesnig’s DATA
1930/06/17 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1930/06/18 R.シュトラウス/「ヨゼフ伝説」、プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA
1930/06/19 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1930/06/21 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/06/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1930/07/06 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン

ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1930/07/21 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1930/07/22 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1930/07/26 ワーグナー/「パルジファル」
1930/07/29 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1930/07/31 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン レジデンツ劇場

1930/08/02 ザルツブルク音楽祭 
ベートーヴェン/交響曲第2番, ピアノ協奏曲第5番 (アドルフ・バラー), モーツァルト/交響曲第41番 (モーツァルテウム) [ピアノ協奏曲はMagda Tagliaferroで、Ballerではないとする報告がある]

1930/08/04 ワーグナー/「パルジファル」
1930/08/07 ワーグナー/「ラインの黄金」
1930/08/09 ワーグナー/「ワルキューレ」
1930/08/11 ワーグナー/「ジークフリート」
1930/08/14 ワーグナー/「神々の黄昏」
1930/08/16 ワーグナー/「パルジファル」
1930/08/18 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1930/08/19 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
1930/08/23 ワーグナー/「パルジファル」
1930/08/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1930/08/30 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 Günther Lesnig’s DATA
(ワーグナー、R.シュトラウスの演目はPlakat der Bayerischen Staatstheater,”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1930/08/18,19日のワーグナー: 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「さまよえるオランダ人」[Trémineはこの日の演奏に疑問符をつけている]

 7月21日から「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」が始まる。ワーグナー12回と、この年からリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」が復活、クナッパーツブッシュは最終日の8月30日に「ばらの騎士」を指揮した。
 この年のことかどうか不明だが、「ばらの騎士」を聞きにきていたヒトラーは、その見事な演奏に「こんなすばらしい演奏法をどこで身につけたのか」とクナッパーツブッシュに聞いた。クナッパーツブッシュは「ベルリンの老ユダヤ人、レーオ・ブレッヒのところで」と答えたという(「指揮台の神々」)。
 ヒトラーがミュンヘンでいつどのオペラを見たのかは定かではないが、トーランド本の記述をつなぎ合わせると、ヒトラーはゲリやエーファ・ブラウンと共に(当たり前の如く、ヒトラーをめぐる女性ライヴァルふたり一緒ということはなかったが)オペラやコンサートにはよく行っていたようだ。それが清教徒的な生き方をしていたヒトラーの唯一の娯楽だったといえる。宮廷劇場のコーヒーテラスでお茶を飲んでいるヒトラーの描写もある。記録によると、クナッパーツブッシュが「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」で「ばらの騎士」を指揮したとき、ヒトラーもまたミュンヘンにいた。
 また、「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」開催期間中の8月2日には、前年に続いてザルツブルク音楽祭に参加、ウィーン・フィルで、ベートーヴェン/交響曲第2番、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(p:アドルフ・ベラー、他の説ではマグダ・タリアフェロ)、モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」を指揮している。

1930/09/15 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1930/09/19 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/09/28 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1930/09/30 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/10/02 R.シュトラウス/「ヨゼフ伝説」「炎の災い」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/10/06 バッハ/ ブランデンブルク協奏曲第3番 , ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番, シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレート」 ミュンヘン MAM
1930/10/08 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1930/10/11 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/10/13 レスピーギ/「古風なアリアと舞曲」第2番, チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲, 交響曲第6番 ミュンヘン MAM
1930/10/18 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1930/10/26 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/11/02 ベートーヴェン :ミサ・ソレムニス ミュンヘン MAM
1930/11/09 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1930/11/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1930/11/17 バルトーク/管弦楽のための組曲第1番(ミュンヘン初演), シューマン/チェロ協奏曲, R.シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」 MAM (Odeon)
1930/11/18 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1930/11/22 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1930/11/26 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1930/11/27 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1930/12/05 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン (この後「ワルキューレ」がなく「ジークフリート」に飛んでるため「ニーベルングの指環」チクルスかどうか不明)
1930/12/07 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1930/12/10 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1930/12/13 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1930/12/15 モーツァルト/ディヴェルティメント KV 334, 6つのドイツ舞曲 KV 571, 交響曲第41番 ミュンヘン MAM
1930/12/18 ウィーン演奏協会 レスピーギ/「古風なアリアと舞曲」第2番, ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番 (Elly Ney), チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 Wiener Symphoniker Archives
1930/12/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1930/12/28 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 3月30日、混乱するヴァイマル政府の首相にハインリヒ・ブリューニングが指名される。増大する不況の中、政府与党は極右と極左勢力に間に挟まれ、議会の過半数を維持できていなかった。そのため、ヒンデンブルク大統領の「大統領令」に依存した内閣だった。
 6月末から7月にかけて、ヒトラーはグレゴール・シュトラッサーの弟で、ナチ党内で左傾化を強めるオットー・シュトラッサーをナチから追放、ナチは政府に対する不満分子の中でも、王党派ではない極右政党としての独自の主張を鮮明にし、強固にしている。
 また、この頃、ヴァイマル政府や各領邦ではナチの危険性を重視、バイエルン、ベルリンその他の地域ではナチの制服が禁止され、ハノーファーではヒトラー・ユーゲントが禁止された。
 7月18日、ブリューニング内閣は社会民主党の「財政に関する緊急令廃止」の動議が国会で可決されたことから、対抗処置として国会を解散、右派民主的多数派を狙う。
 8月、ヒトラーは飛行機を使ってドイツ全国を遊説、猛烈な選挙戦を行う。ヒトラーは「ドイツの空のヒトラー」、「救世主」と人気が高かった。ヒトラーの演説は、経済格差を攻撃する社会主義的傾向、外国との弱腰的な外交から昔日の栄光を取り戻すことを主題にしており、ひとびとの不満や不安を吸収、政治ショーとして圧倒的な人気を誇った。
 ただ、右翼革命を目指す突撃隊メンバーからは、ナチ党内での格差、順法精神にのった党の活動方針に対して不満がくすぶり、ベルリンではゲッベルスの大管区指導者の解任を求める動きなども出ている(その不満は、翌年シュティンネス・プッチともいわれる騒動が起こる)。ヒトラーは突撃隊司令官ザロモンを解任、ヒトラー自らが突撃隊と親衛隊の最高司令官に就任、ボリビアにいるレームをドイツに呼び戻し、突撃隊幕僚長に招聘しようという動きもあった。
 9月14日 国会選挙。ナチ党は12議席だった前回選挙から大幅に議席数を増やし107議席を獲得して、社会民主党に次ぐ第二党になる。大恐慌下での国民の不満が増大し、ヒトラーの独特の選挙戦などが功を奏した。ドイツ国民のヒトラーに対する人気は急激に上がっていた。ヒトラーの主張は「強力なドイツ」、「第一次世界大戦の賠償金支払いの拒否」、「金権貴族征伐」、「ベルサイユ条約破棄」、「全ドイツ人に職とパン」というもので、大恐慌下で増大する失業者とインフレに喘ぐ国民の大きな共感を得た。また農産物価格の暴落から、ヒトラーは多くの農民の支持も得た(全記録)。
 選挙戦に勝利したヒトラーだったが、議会制民主主義を批判、議会はそれ自体が目的ではなく、ナチは国民の支持を明らかにするために強いられて議会政党になっているにすぎないと演説している。国民の「一度、ヒトラーに政権を任せてもいいかも知れない」という漠然とした空気を生むことになった。それだけ、議会制民主主義、金持ち優遇政策への国民の不満が大きく、また逆に産業人にはドイツに共産主義国家が誕生する恐怖があり(共産党も77議席を獲得、大きく躍進していた)、両面での支持が集められたといえるのかも知れない。
 10月13日、新国会が開催され、107名のナチ国会議員は制服で議場に現れ、他の政党の国会議員は嫌悪感を感じている。ただその暴力的な雰囲気と勢いは侮れず、ブリューニング首相の不信任案、講和条約の廃棄提案を行い、その勢力の大きさとアピールの強烈さを印象づけた。
 11月7日、親衛隊は突撃隊の下部組織だったが、エリート集団親衛隊と、雑草的な性格を持つ突撃隊の軋轢が絶えず、ヒトラーは分離を指示している。
 12月末 ナチ党員数は389,000人となり、ドイツの失業者は440万人に膨れあがっていた。

 昭和5年の日本、2月には共産党員の全国一斉検挙が行開始され、右傾化への動きを強めている。また、日本が統治していた朝鮮、台湾では反日暴動が起こった(第一次間島事件、霧社事件など)。
 ロンドン海軍軍縮会議でアメリカ、イギリス、日本の海軍軍艦保有量の条約が結ばれたが、帝国海軍は天皇の統帥権の下にあり、それを無視した形での条約締結は統帥権干犯だとする右派の不満が増大した。11月14日、濱口首相が東京駅で銃で撃たれ、重傷を負う暗殺未遂事件が起こる。
 また、言論統制も行われ始め、日本は帝国として右傾化への道をますます強め始める。

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