1933年 ミュンヘン時代12 ヒトラー政権奪取と「トーマス・マン抗議声明」事件

1933/01/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 この公演に、ヒトラーとエーファ・ブラウンが観劇に来ていたという、ハンフシュティングルの回想がトーランド本に紹介されている。
「その夜(1月1日)ヒトラーはヘス夫妻(ルドルフ・ヘス)とエーファ・ブラウンと一緒に、ミュンヘンで行われた『ニュールンベルクの名歌手』の公演を見に行った。終演後にみんな揃ってハンフシュティングル家でコーヒーを飲んだ。『ヒトラーはたいそうやさしかった』と、ハンフシュティングルは書いている。『われわれは彼とはじめて会った20年代に戻ったような気分だった。その夜の指揮者はハンス・クナッパーツブッシュだったが、ヒトラーは彼のテンポと解釈が気に入らなかったらしくて、主題を長々と説明した。彼は大いにセンスのあるところを見せて、歌詞を誦んじている多くの楽節をハミングしたり口笛で吹いたりして、それらの意味するところを解釈してくれた』」(ジョン・トーランド「アドルフ・ヒトラー」永井淳訳 集英社文庫 第二巻)
 エーファ・ブラウンはクナッパーツブッシュのファンで、クナッパーツブッシュの悪口を言うヒトラーに対し、擁護していたという話もある(奥波本)。ヒトラーは後年(1942年4月30日)、ベルクホーフでの夕食時にクナッパーツブッシュの感想を側近に話している。
「彼はブロンドで目は青く、確かにドイツ人だったが、残念ながら、耳はなくてもその気性でいい音楽を生み出せると考えていた。彼の指揮するオペラを聞くのは、まさに苦行そのものだった。オーケストラは音が大きすぎ、ヴァイオリンは管楽器に邪魔され、歌手の声はかき消されてしまう。メロディーの代わりに断続的な金切り声を聞かされ、哀れなソリストたちはオタマジャクシの一団のように見える。指揮者自身も気違いのようなジェスチャーに没頭しているから、彼を見るのはやめた方がいい」(ヒュー・トレヴァー=ローバー解説「ヒトラーのテーブル・トーク」吉田八岑監訳・三交社 1994/12/1)
 ヒトラーはクナッパーツブッシュに対し、音楽の解釈に関してひじょうなライヴァル意識を持っていた。うがった見方をすれば、背が高く(193cm)、金髪碧眼でゲルマン民族の典型ともてはやされたクナッパーツブッシュに嫉妬心を持っていたのかも知れない。エーファ・ブラウンという女性が絡めば余計にそのライヴァル心がむき出しになる。ヒトラーは後に明らかになるように、クナッパーツブッシュを外国に追い出そうとまで考えていた。

1933/01/05 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/01/09 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1933/01/10 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1933/01/15 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1933/01/21 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1933/01/28 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1933/01/30 シューベルト/交響曲第8番「未完成」, ブラームス/ピアノ協奏曲第1番, 交響曲第2番 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)

 1933年はドイツ、ヒトラー、クナッパーツブッシュにとって多事な年だった。
 新年早々、ドイツ国内は大きな岐路にさしかかる。シュライヒャーは選挙日を定めず国会を解散して、軍事独裁での政権維持を目論んだがヒンデンブルクの拒否に遭い、1月28日、54日間という短命政権で内閣は総辞職する。そのシュライヒャーとハマーシュタイン将軍が軍事クーデターを起こすというデマを元に、黒子よろしくパーペンが暗躍し、1月30日、ヒンデンブルクは戸惑いながらもヒトラーを首班指名、ヒトラーを首相とした内閣が誕生する(全記録)。パーペンが副首相の座に就いた。ナチからは、ゲーリングとフリックのふたりが入閣しただけだった。
 ヒンデンブルク、シュライヒャー、パーペンたちは、ヒトラーを自分たちが想いのままに操縦できると考えていた。ただ、それは漠然とした考えだった。ドイツ政界(主に軍関係者や軍のOBが多かったが)や産業人は自分たちの意のままになる内閣を誕生させたつもりで、竜の尻尾をつかまえてしまったことに最初は気が付いていなかった。
 政権を握ったヒトラーとその側近やブレーンの行動は早く、「政権奪取後」に向けて、綿密な計画が立てられていたことが窺える。政権奪取後のヒトラー政権の動きを見ていると、ジグソー・パズルのピースが、手早くありうべき所にはめられてゆくような感覚を覚える。それだけ動きは急で、知識人やヒトラーには反対する陣営も、ヒトラー政権の目的をゆっくりと吟味している時間的余裕はなかった。
 ウィーンで浮浪者同様の生活をしながら食い詰め、あげくにミュンヘンに流れ着き、第一次世界大戦が始まると勇敢な一兵士であったオーストリア出身の若者は、14年という歳月を要しながらも一国の首相になるまで登り詰めた。ヒトラーの台頭を許す時代だったということもあるが、人々の求める何かがヒトラーの中にあったと考えざるをえない。ヒトラーの魅力…、それは生真面目な反面、大風呂敷を広げ、それを信用させる「人たらし」としての資質が備わっていたと言うことだろうか。多くの証言記録を読むと、ヒトラーの人間的な魅力によって、その熱狂的な支持者になった者が少なくなかった。
 政権を奪取して、ヒトラーとナチはすぐさま共産党の弾圧に取りかかる(ヒトラー政権誕生と前後して、各地でナチ対共産党の衝突事件が頻発していた)。共産党を弾圧した後、社会民主党系の団体や、鉄兜団など右翼の団体も弾圧、取り込みの対象になった。ヒトラーは民主的な政権を目指していたわけではなく、ボリシェビキ流の一党独裁がその目的だった。クナッパーツブッシュが選挙の際に投票していたドイツ国家人民党のフーゲンベルクはナチの友好党党首として入閣するが、ヒトラーは友好党など必要だと思っていなかった。
 2月1日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに強要され、国会を解散。2月4日、「ドイツ国民保護のための大統領令」が出され、出版と言論の自由に対する厳しい制限が設けられる。地方議会の解散をも命令する。2月8日、ヒトラーはドイツ新聞の編集者たちに、新聞の発行量と報道の範囲は政府が決めると伝える。言論、報道の厳しい弾圧が早くも始まった。

1933/02/05,07,12 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン初演
(René Trémine’s DATA)

 2月10日、1929年にノーベル文学賞を受賞したトーマス・マン(1875/6/6-1955/8/12)は、ミュンヘンのゲーテ協会の招きにより、ミュンヘン大学で「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」と題された講演を行う。

1933/02/13 ベートーヴェン/交響曲第3番, ワーグナー/ジークフリート牧歌,ウェーゼンドンクの歌,「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲 ミュンヘン MAM
1933/02/15 ブダペストに客演 リスト ピアノ協奏曲第2番 (Jeanne-Marie Darré), ウェーバー/「オベロン」序曲, チャイコフスキー/交響曲第5番 放送あり
(René Trémine’s DATA)

2月21日、トーマス・マンは「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」講演のため、オランダ、フランスなどへの講演旅行に出かける。

1933/02/23 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1933/02/26,28 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 2月27日、国会議事堂放火事件が起こる。ナチの陰謀で首謀者はゲーリングだと言われていたが、現在では、事件直後に逮捕されたオランダの共産主義者ルッペの単独犯行であるという説が有力である(トーランド本)。ゲーリング主犯説は火事現場での「おれが国会議事堂に火を点けた」というゲーリング自身の言葉を聞いたハルダーの証言が元になっているが、これはゲーリングの悪い冗談であったようだ。
 ただ、真犯人が誰にせよ、国会議事堂放火事件はナチの共産党弾圧のかっこうの材料になった。共産党幹部は、事情が分からないまま次々と逮捕、収監されてゆく。
 3月1日、ヒトラーはバイエルン州首相ヘルトに対し、バイエルン分離主義に厳しく警告。バイエルン分離主義の風潮が強まるなら、国防軍出動による軍事的鎮圧もあり得ると威嚇する。
 3月5日、国会総選挙。ナチは647議席の内、288議席を獲得する。

1933/03/06 ブラームス/交響曲第3番, プフィッツナー/スケルツォ, R.シュトラウス/「死と変容」 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)

 3月9日、ヒトラーはヒムラーをミュンヘン警察長官に任命。赴任は4月1日だったが、それまでにヒムラーはダッハウに火薬工場を改造した政治犯強制収容所の建設を命令、収容人数は5,000名だった。

1933/03/12 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(not Trémine DATA)

3月13日 啓蒙宣伝省(情報宣伝省)が創設され、ゲッベルスが情報宣伝相に任命される。

1933/03/14 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
1933/03/15 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 3月16日 ナチ党員リッター・フォン・エップ将軍、バイエルン国家総監の地位に就く。突撃隊の実力行使でバイエルン州内閣のヘルト首相達は辞任に追い込まれ、バイエルン分離主義は封じ込められる。ナチによる強制的同化政策が推し進められた。
 また、この日を境として、バイエルン分離主義者は警察力を持つ突撃隊によって逮捕されている。「ミュンヘン最新報」元編集長ゲルリヒも、この頃逮捕された。

1933/03/19 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1933/03/20 ハイドンの2つの交響曲(曲目不明), ブルックナー/交響曲第7番 ミュンヘン MAM
1933/03/21 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
1933/03/22 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 3月23日、国会議事堂が焼失したため、クロル・オペラを改造した国会で「全権委任法」が制定され、ヒトラーの独裁政治が始まる。

1933/03/28 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 3月31日、「統合法」の発令。これによりドイツの各邦は自治権が消滅し、ドイツ中央政府(すなわちナチ)の意志で動かざるをえなくなる。
 4月1日、ナチによる全国規模では初めてのユダヤ人商店、企業へのボイコット運動が起こる。

1933/04/02 クナッパーツブッシュはバイエルン州立歌劇(摂政劇場)で「パルジファル」(not Trémine DATA)
1933/04/03 モーツァルト/「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1933/04/05 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

 4月7日、「官吏法」発令。ユダヤ人や反ナチ的な思想の持ち主を公的な職業から追放する法律である。

4月10日、クナッパーツブッシュはベルリン交響楽団とレコーディング。

ハイドン/交響曲第100番「軍隊」
モーツァルト/「ドイツ舞曲K.509」
ロルツィング/「ウンディーネ序曲」

1933/04/13 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1933/04/16 J.S.バッハ/マタイ受難曲 ミュンヘン [Trémine DATA では不明]
1933/04/16 ? ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1933/04/17 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン プリンツレゲント劇場[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による]
1933/04/18 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 復活祭の期間中、4月16日/17日付の「ミュンヘン最新報」に、トーマス・マンの「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」の講演に対して、「リヒャルト・ワーグナ都市ミュンヘンの抗議」が掲載され、スイスのルガーノにいたトーマス・マンはドイツに帰国できないことを悟る。ミュンヘンの実力者の署名を集める回状の手紙や、抗議声明を書いたのは他ならぬクナッパーツブッシュだった。

【トーマス・マン抗議声明事件】
 トーマス・マンはノーベル文学賞受賞者として、また進歩的ドイツ人として世界的な名声を確立していた。1929年のノーベル賞の対象作になったのは「ブッテンブローク家のひとびと」(出版されたのは1901年)である。その他の作品には「トニオ・クレーゲル」、「魔の山」、「ベニスに死す」などがあり、ドイツの代表的な作家だった。ドイツ北部に位置するリューベックの出身だが、両親の引っ越しに伴いミュンヘンに移住、そのままミュンヘンに住んでいた。
 またマンは熱烈なワグネリアンで、初期の短編に「ヴェルズングの血」や「トリスタン」という題名の作品がある。「ヴェルズングの血」は、「ワルキューレ」第一幕そのままの作品である。「ベニスに死す」は、ワーグナー最後のヴェネチア逗留をモデルにして書かれた。
 トーマス・マンは、第一次世界大戦のころは帝政派だった。1918年に書かれた「非政治的人間の考察」では、熱狂的ともいえる愛国主義者である。
 しかしドイツ革命によって王族が退位し、徐々にその考え方はリベラルなものに変わり、ヴァイマル政府を擁護した。1923年の講演「ドイツ共和国について」でヴァイマル共和国支持を訴えている。ナチは大嫌いだったようで、1930年の講演「理性に訴える」でナチを激烈に批判、社会民主党を支持して、労働者たちに「ナチへの抵抗」を促している。マンは、ドイツ国内における知識階級の反ナチ派の急先鋒になっていった。マンはフェルキッシュ(国粋主義的)ではない愛国主義者である。当時のドイツの危機的な状態に対して、警報を鳴らさざるをえなかった。
 ひとつの理由として、マンの妻カタリーナ(カチャ、もしくはカーティア)がユダヤ人であったことが上げられる。カタリーナはユダヤ人数学教授アルフレート・プリングスハイムの娘で、1905年にマンと結婚した。
 カタリーナの双子の兄は、1931年に来日、何度かの離日はあったが亡くなるまで日本で指揮者、教育家として日本の音楽界に大きな足跡を残したクラウス・プリングスハイムである。
 マンとカタリーナとの間には、六人の子供が生まれた。マンの名作「魔の山」は、心身症でサナトリウムで療養していた(最初は感冒と診断された)カタリーナとの経験を元に生まれた。プリングスハイム家はユダヤの豪商での家系で、経済的にも豊かだった。カタリーナの父アルフレートはユダヤ人ながらマンと同じく熱烈なワグネリアンで、「パルジファル」の初演者ヘルマン・レヴィとも親交があった。カタリーナの母は「ユダヤ人の解放者」ナポレオンの信奉者で、なんとなく来歴の似ているヒトラーを悪く思っていなかったそうである。まだヒトラーの政権掌握時は、人種政策がそれほど苛烈ではなかったからか。
 妻がユダヤ人である以上、マンはナチの人種主義とは相容れない。マンがその考えの上でナチと敵対関係にあったのは無理もないことである。
 1929年にノーベル文学賞を受賞して名声が上り、しかもワーグナーの熱烈な理解者であったマンは、請われてワーグナー没後50年記念の講演を引き受けた。
 「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大(リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ)」と題された講演は、まずミュンヘンで1933年2月10日に行われた。ヒトラー内閣誕生(1月30日)のすぐ後である。ミュンヘンでの講演後、21日からは夫人カタリーナを伴って外国に出かけ、同じ講演をアムステルダム、ブリュッセル、パリで行った。どの講演会場も真剣な多くの聴衆がトーマス・マンの声に耳を傾け、しかも大歓迎を受けた。さながら「凱旋行進のごとき観を呈した」とマンの弟は書いている。各国のドイツ大使館は、この偉大な大作家のために祝宴を催すほどで、講演は大成功を収めた(トーマス・マン「ワーグナーと現代」みすず書房 1985)。
 講演のためドイツ国外にいたマンは、2月27日の国会議事堂放火事件、3月5日の国会総選挙でのナチの勝利と共産党の非合法化、3月23日の全権委任法の国会通過などの報に接し、保養先であるスイスのルガーノを訪れた次男のゴーロ(ゴットフリート)・マンの助言もあり、しばらくドイツへの帰国を見合わせる。
 以下、2冊の本を主に参照にした。

「トーマス・マン日記 1933ー1934」岩田行一、浜川祥枝、森川俊夫訳 紀伊國屋書店 1985/12/1
ゴーロ・マン「ドイツの青春」林部圭一、岩切千代子、岩切正介訳 みすず書房 1993/12/1

 マンに対する攻撃がドイツで激しさを増していた。マンはドイツに戻ったら収監されるという情報をすでに得ており、危惧を抱いていた(「トーマス・マン日記 1933ー1934」)。
 ルガーノで、マンは知人のクレッパー夫人(この人については不明。近所の仲の良かった人のようだ)から、ラジオ・ミュンヘンでマンへの抗議と署名者の名前が放送で流れたと教えられ、その署名者の中にクナッパーツブッシュとナチ党員の市長カール・フィーラーの名前もあったことを知る(マンの日記では4月 16日)。マンは続いて日記に
「萎縮し、すさみ切り、そして国民全体を脅やかしかねないドイツ国内の精神状態からは、身の毛もよだつような、意気消沈させるような、興奮させるような印象を受ける」
 と、複雑な心境を書いている。さらに4月19日、4月16/17日号の「ミュンヘン最新報」に掲載された「リヒャルト・ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」と題されたトーマス・マン弾劾の抗議声明を読む。
「嫌悪と恐怖の入り交じった激しいショックは、きのう一日中その影を落としていた。ミュンヒェンには帰らず、全力を振って私たちのバーゼル定住の件を進めるという決心を最終的に固める」(「トーマス・マン日記)。
 単に「フェルキッシャー・ベオバハター」などのナチ機関紙に批判記事が載ったのなら、危険性は感じてもそれほど大きなショックは受けなかったかも知れない。ところが抗議声明が「ミュンヘン最新報」に載ったこと、さらに抗議声明に寄せられた全員の署名を見て、マンは大きなショックを受けてしまう。署名の名簿は45名に及び、バイエルン州文部大臣を筆頭に、ミュンヘン市長カール・フィーラー、音楽アカデミー校長ジーグムント・フォン・ハウゼッガー、商工会議所会頭、州立歌劇場総支配人クレメンス・フォン・フランケンシュタイン、音楽家ではリヒャルト・シュトラウス、ハンス・プフィッツナー、そしてハンス・クナッパーツブッシュの名前があった。その他にもミュンヘンっ子のマンとは古くからの親友であるデザイン画家のオラーフ・グルブランソンの名前があり、マンは事態が想像も付かないほど急速に変化していることを知る。帰国しても身に危険が降りかかる怖れがあったため、マンはそのまま亡命生活に入らざるを得なくなった。
 マンが外国にいる間、ドイツの国内情勢は大きく変わってしまっていた。1933年1月30日にヒトラーが首相に就任。その後、3ヶ月の間にナチはなし崩し的に独裁体制を敷いてしまった。ドイツ中央政府と距離を置き、独自路線を歩みたがっていたバイエルン州も、「統合法」によって、結局はナチの全国統合に飲み込まれている。ハインリヒ・ヒムラーが4月1日にバイエルン警察長官に任命され、「ミュンヘン最新報」は4月4日にヒムラーが組織したバイエルン政治警察の支配下に入っていた(阿部良男「ヒトラー全記録」柏書房)。「ミュンヘン最新報」の代表コスマンが政治警察に捕まりそうになり、プフィッツナーに助けられたのはこの頃だ。

 では、誰がマンを陥れたのか?
 「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」で奥波氏は、首謀者はクナッパーツブッシュだった可能性が高いと指摘している。署名活動を行い、多くのひとに署名を依頼する回状を送ったのはクナッパーツブッシュだったのではないかということ、またプフィッツナーが音楽評論家ワルター・アーベントロート(指揮者ヘルマン・アーベントロートとは関係がない)に宛てた書簡の中の、
「ワーグナーとトーマス・マンの偉大さの関係は、チンボラソ山とミュンヘンのノッカーベルクの関係になぞらえられる」
 とクナッパーツブッシュが抗議声明の最後に書きたがったのを、プフィッツナーが和らげたという文章を奥波氏は紹介している。
 チンボラソ山はエクアドルのアンデス山脈にそびえる海抜6310mの名峰で、地球の中心から測るとエベレスト(チョモランマ)よりも高いといわれている。地上からいきなり盛り上がったチンボラソ山の光景はきわめて雄大である。ノッカーベルクはシュメデラー・ビール醸造所のあったなだらかな丘のようなところで、ビール祭りが開かれのんびりと豊かに市民に憩いの場を提供した。
 確かに抗議声明には、クナッパーツブッシュが積極的に関与していたのは、間違いがなさそうである。回状の文章には、クナッパーツブッシュ・ファンには残念なことにクナッパーツブッシュらしさが溢れている。
「ドイツの精神力を証明できるのは世界でもほんの一握りの人だけなのですが、まさにそうした証明をなしえた人物を、こともあろうにおおげさにけなすような者に対しては、その顔色を青ざめさせ、とくにこの地では蒼白にさせねばなりません」。
 その文章の前に「同封の抗議声明を提案し、完全な賛同を得ました」と、自分が抗議声明を書いたことを明らかにしている(奥波本)。
 ケイターの「第三帝国と音楽たち」に明石政紀氏による同じ箇所の訳文が載っているが、これがさらに凄まじくもクナッパーツブッシュらしくて面白い。
「ドイツ精神の力を世界に証明した数少ない人物であるこの人を公然と矮小化せんとする者」は「白青バイエルンの鉄拳を食らって、目を白黒させることになろう!」
 しかし、クナッパーツブッシュが本当の首謀者だったのかというと、少し違う見方ができる。

 クラウス・ハープレヒト著「トーマス・マン物語 2」(岡田浩平訳 三元社 2006/5/1)に、クナッパーツブッシュに対してひどい誤解がありながら、なおかつ面白い記述があった。少し長いが引用する。
「抗議文の案文を作ったのは、ハンス・クナッパーブッシュ(訳文のまま)とみてよかろう。そのいかにもドイツ語らしい名前は「ファウストゥス博士」の世界から拝借してきたように思えるものだった。かれは、ハンス・プフィッツナーの熱烈な同調者であったので、トーマスが『パレストリーナ』の作曲者(プフィッツナー)から離反したことを許せなかったし、加えて--ハンス・ヴァゲットの研究『ミュンヘンのプレリュード』--ブルーノ・ヴァルターとトーマスの追放[『フランクフルト一般新聞』1994年5月14日号]--で指摘されているように--次の点の責めもトーマスに帰していたらしい。つまり、トーマスの隣人にして親友のヴァルター、このよりにもよってユダヤ系の音楽家が、羨望の的であるバイエルン国立オペラの総監督の地位について、ミュンヘンのワーグナーの伝統を支配するようになった点の責任も、トーマスのせいにしていたのだった。クナッパーブッシュの怨念をトーマスは知らないわけではなかった。それでもトーマスは、1932年の初め自分の下の子供たちのために、指揮者クナッパーブッシュの写真にサインをしてもらっている。ちなみに子供たちは、この有名な指揮者の指揮棒を持っていた。クナッパーブッシュが『ジークフリート』を指揮している最中にあまりに熱を入れすぎたため指揮棒が手から離れて観客席に飛び、ちょうどミヒャエルとエリーザベトのあいだに落ちたのだ、とトーマスが面白がって伝えている。
 1933年の当初、トーマスに対する卑劣なキャンペーンを展開したのは、プフィッツナーではなくて、クナッパーブッシュであった。トーマスが講演の中で、ワーグナーを美学化の俗物根性で侮辱した、というのが非難の中心であった。激昂したこの指揮者が驚いたのはとりわけ、精神分析との関わりやワーグナーの『壮大なディレッタンティズム』の指摘のことだった。--それは、クナッパーブッシュの理解力を越える言い方のようだった」(クラウス・ハープレヒト著「トーマス・マン物語」1.2.3(岡田浩平・訳 三元社 2005/3/1、2006/5/1、2008/12/1)。
 おそらくハープレヒトには抗議声明事件の真相を知ろうという気はなく、マンの友人として、あるいは熱烈なファンとして書かれた文章だろう。

 俯瞰してみれば、恐らくマンへのテロ、あるいは逮捕は1930年「理性に訴える」の講演時に、すでにナチには織り込み済みだったはずである。ましてやマンの妻はユダヤ人である。
 では誰が一番疑わしいのかというと、抗議声明に署名した音楽関係者の中で当時ナチに一番近かったのは、ハープレヒトも書いている通りプフィッツナーである。
 プフィッツナーは国粋主義者、人種主義者として「フェルキッシャー・ベオバハター」とも接点を持っている。
 前述の手紙の中で、プフィッツナーは、
「トーマス・マンの話についていえば、私の知るところ、署名した人たちすべてから公私にわたって説得をうけたのは私だけでした。抗議声明の、当初予定されていた結末部分をかなり和らげたのは、ほかでもない私でした」(奥波本)
 と、書いている。これは何を意味するのかというと、クナッパーツブッシュが抗議声明を書いたにしても、そのクナッパーツブッシュが文章を書いているすぐそばにプフィッツナーがいたということである。このことは奥波氏も「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」の註の中で触れている。
 おそらく、ナチのトーマス・マン弾劾の計画を聞き、クナッパーツブッシュにけしかけ、自分も協力することによって抗議声明を完成させたのは、音楽家の名簿を見る限りではプフィッツナーほど、その役割を果たせるひとは他にいない。クナッパーツブッシュは野卑な言葉や軍隊調の悪口雑言をもっと並べたかったのかも知れないが、プフィッツナーがそれを押さえたというのはあり得る。お歴々の署名が並んだ抗議声明に、いくらクナッパーツブッシュが悪口雑言の名手とはいえ「トーマス・マンのケツの穴野郎!」と書かせるわけには行かない。
 ワルターを中心として、マン、プフィッツナー、クナッパーツブッシュの関係はかなり複雑だった。
 プフィッツナーはワルターと親しかったが、マンもまたワルターと親しかった。プフィッツナーは「パレストリーナ」の初演時、マンから好意的に批評され親しくなったが、マンの1923年「ドイツ共和国について」の講演の頃から、社会民主党擁護に回ったマンの政治的方向を批判するようになり、関係は冷えてしまっていた。
 マンはクナッパーツブッシュとも同じロータリークラブに所属し、仲良くイベントに参加したこともあった(奥波本)。親しい付き合いはあったが、ワルターのように家族全体で付き合うほどには親しくはなく、すでに名声を確立し、コスモポリタンなその音楽性をも含めてマンがワルターの方が気に入っていたとしても不思議ではない。クナッパーツブッシュがマンの評価を得るためには、ワルターは乗り越えられない壁だったのかも知れない。マンはクナッパーツブッシュのワーグナーを、後々に至るまで高く評価していたが。
 しかし付き合いこそあれ、クナッパーツブッシュにはワルターを評価するマンは面白くなかっただろうし、煙たくはあったが自分と近くなってきているプフィッツナーとは仲良くせざるをえなかったことが窺える。

【事件の真相】
 結論をいってしまうと、マン弾劾の黒幕は、バイエルン政治警察を組織したヒムラー、その有能な配下ラインハルト・ハイドリヒである。このことに関しては、後に明らかになる。そしてたぶん、もうひとり、1929年のクナッパーツブッシュの第9問題の時にクナッパーツブッシュ支持を宣言した「フェルキッシャー・ベオバハター」の主監ローゼンベルクがいる。
 ローゼンベルクは、ワーグナーの娘婿でイギリス人の人種主義者ヒューストン・スチュワート・チェンバレンの著作「十九世紀の基礎」や、ドイツ・オカルティズムの先達たちに大きく影響を受けたナチの思想的教科書ともいえる「二十世紀の神話」を書き、1930年に出版された。チェンバレンはワーグナーその人の思想に大きく影響を受けている。「二十世紀の神話」の内容は、現代のわれわれが読むとあまりに難解で荒唐無稽だが、当時のドイツで100万部を売り、ヒトラーの「我が闘争」に次ぐベストセラーになった。マンもそれを読んでいた。1930年の講演「理性に訴える」はその全体が過激なナチ批判、社会民主党の擁護になっているが、講演の一部で、マンはその「二十世紀の神話」に痛烈な批判を加えている。
 マンはナチの精神的な面を強化する活動を批判し、
「そのひとつが大学の教授たちの間から生まれたある種の言語学者イデオロギー、すなわちゲルマン学者のロマン主義と北欧信仰ですが、これは人種的、民族的、結社的、英雄的などといった語彙をまじえながら、神秘めかした愚直さと常軌を逸した悪趣味に色どられた慣用句を操って1930年のドイツ人に説得を試み、教養を装った熱狂的野蛮という成分を例の政治運動に加えてやっています。しかしこれは、私たちを戦争に引き込んだ世間離れの政治的ロマン主義にもまして危険であり、世界からはいっそう遊離し、頭脳をより悪しき方向に押し流し、膠着させるものであります」(「理性に訴える」青木順三・訳「ドイツとドイツ人」 岩波文庫)
 と語っている。マンは「共和国について」の講演で社会民主党の支持を訴え、「二十世紀の神話」の中でローゼンベルクに激しく批判されており、その論戦の続きという意味合いがあったのかも知れない。「理性に訴える」の講演時、会場は騒然となりマンは逃げるように会場をあとにする。そのマンを自動車に乗せて助けたのはワルターだったと、ワルター自信は回想している(「主題と変奏」)。
 ローゼンベルクの人種主義思想の基本はオカルティズムである。ローゼンベルクはロシアで生まれ、革命のためドイツに流浪した。元々バルト系ドイツ人である。ナチの前身「ドイツ労働者党」には、神秘主義者の団体「トゥーレ協会」を媒介に、ディートリヒ・エッカートに紹介されて入党した。「ドイツ労働者党」自体、その初期は「トゥーレ協会」の出先機関のような役目も果たしていた。「トゥーレ教会」と袂を分かたせたのはヒトラーである。ナチは政権を握ると他の団体によるオカルティズムを禁止・弾圧したが、ナチの高官ではヒムラーとローゼンベルクがオカルティストである。ルドルフ・ヘスにもその傾向があった。オカルティズムの理論・思想は、嘘を嘘で塗り固めるため学問的な言辞が必要になる。さらにその表皮を科学で覆い、精緻を極めた。ローゼンベルクの「二十世紀の神話」が難解である所以である。
 それを、マンに言下に否定されたわけだから、ローゼンベルクもさぞマンを恨んでいたに違いない。ローゼンベルクを疑う理由はある。
 ローゼンベルクは「二十世紀の神話」でアトランティスの末裔たる北方民族(ゲルマン民族を含む)の優位性、劣等民族との交合による血の汚れを極度に嫌い、「ニュルンベルク人種法」や「人種衛生法」を施行する基礎を作った。マンの妻はユダヤ人である。ローゼンベルクに言わせると、マンは妻と交合するだけで、すでに汚れてしまっているわけだ。この辺りの性交渉への極端で病的な忌諱がローゼンベルクの著作に見られるようだが(横山茂雄著「聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム」 書肆風の薔薇 1990/10/1)、ユダヤ人とその交合にたいする恐怖の根はナチだけではなく、ヨーロッパ中でそうとうに根深い。が、ここでは場違いなため深くは触れない。
「二十世紀の神話」はナチの必読書になり、ユダヤ人絶滅の哲学的背景を与えたが、ヒトラーは「よくわからん」と白状し、ヒトラー・ユーゲントの指導者で、後にはウィーン大管区指導者になるバルドゥーア・フォン・シーラッハは「誰も読まない本をほかのどの作家よりもたくさん売った」と皮肉を言い、ゲーリングは「がらくた」のひとことで片付け、ゲッベルスは「哲学的ヘド」と酷評した(ロベルト・S.ヴィストリヒ著「ナチス時代ドイツ人名事典」滝川義人訳 東洋書林 2002/9/1)。
 しかし、「がらくた」で「哲学的ヘド」とナチ幹部に言われた「二十世紀の神話」だったが、ユダヤ人にとっては、ユダヤ人絶滅の思想的基盤を作った不幸な著作だった。

 では、クナッパーツブッシュがマンを疎ましく感じていたとすればただ一点、問題はワーグナーだけである。ヒトラー、マン、クナッパーツブッシュは、それぞれワーグナーの作品を熱烈に愛し、そのことをさまざまな形で表現した。3人の他にも熱烈なワグネリアンは多かったが、「お山の大将」的なワグネリアンということでは、この三人は群を抜いている。「ワーグナー・トライアングル」といえるかも知れない。それぞれが独占に近い形でワーグナーの作品への愛と忠誠を誓いたがった。クナッパーツブッシュはマンと「隣人の付き合い」だったが、ワーグナー作品に対する愛情はそれぞれ自分の方が上だと思っていたかも知れないし、もしかしたら、クナッパーツブッシュとマンとの間に、「どちらがワーグナー作品を愛しているか」で議論になったことがあったかも知れないと想像するのは楽しい。
 「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」で、マンはワーグナーが『ディレッタント』であるという言葉を何度も使った。長くなるが引用する。
「ヴァーグナーは個々の芸術を素材にして『総合芸術作品』を創り上げましたが、彼の、こうした芸術との関係は一考に値します。そこには何か独特のディレッタント的なところがあるのです。それは、ちょうどニーチェが、ヴァーグナーへの敬意に満ちた『反時代的考察』第四部の中で、ヴァーグナーの少年時代および青年時代について次のように書いているとおりです。『青年時代のヴァーグナーは多面的ディレッタントであり、まともなものにはなりそうもない。遺伝的にも家庭環境にも、このディレッタント振りを抑止するような厳しい芸術的訓練を課するものはなかった。学者として教育を受け、学者としての将来が予想されていたが、これと並んで絵画、詩作、演劇、音楽いずれにも彼は親しんでいた。表面的に見れば、彼はディレッタントに生まれついていたのだ、と思われることだろう』--いや、事実そうだったのです。表面的に見た場合のみならず、熱意と感嘆の念を持って眺めても、誤解を恐れずに言えば、次のように断ずることができるでしょう。すなわち、ヴァーグナーの芸術は、最高度の意志の力と知性とをもって、不滅の金字塔として打ち建てられ、天才的なものにまで高められたディレッタンティズムであった、ということです。あらゆる芸術の統合という理念そのものが幾分ディレッタント的なところがあり、もしヴァーグナーが最高度の力をもって、途方もなく巨大な彼の表現の才のもとにあらゆる芸術を組み伏せたという事実がなかったとしたら、この理念はディレッタント的なものから脱することはできなかったでしょう」(「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」青木順三訳 岩波文庫 1991/5/16)
 マンは何度「ディレッタント」と言う言葉を使ったか?というクイズにできるほど多くの「ディレッタント」と言う言葉を使ってワーグナーの創作の秘密に迫ろうとしている。マンはこの後、造形芸術に対して、深く理解を示せなかったワーグナーを紹介している。
 クナッパーツブッシュにとって、ワーグナーの偉大な作品が「ディレッタント」の作品であるはずがない。ましてやその作品はディレッタントなどに作れるようなものではない、と考えたとしても不思議ではない。「ディレッタント」という言葉は「芸術や学問を趣味として愛好する人。好事家」という意味で、「『ディレッタント』」と呼ばれる人々はおおむね、特権的な学芸知識と富を背景に芸術品を自由気儘に享受できる立場にあった。そのため啓蒙主義者や芸術家からの反発も受けやすく、しだいにこの呼称は専門家の学術的探求に対する素人の個人的な趣味道楽といった側面が強調され、蔑称的性格が強まっていった」と、現代のウェブでも解説されている。
 すなわち、当時も今も「ディレッタント」という言葉は、プロフェッショナルに対するマイナスのイメージが強い言葉なのである。
 ある意味でディレッタントでなければ書けない要素のある文学作品と、プロフェッショナルが作曲し、プロフェッショナルが演奏する音楽には決定的な違いがある。マンは文学者としてワーグナーの書いた台本に「ディレッタント」を感じたのかも知れないが、音楽家であるクナッパーツブッシュはそのようにはとらえられなかったのかも知れない。
 クナッパーツブッシュはこのマンの使った「ディレッタント」という言葉にだけ噛みついたと想像できる。さらに、抗議声明は「ディレッタント」という言葉への批判以外に、マンが社会民主党の支持者であることや、ワーグナー作品の解説にフロイトを引き合いに出したことを非難しているが、これらの部分はクナッパーツブッシュが考え出したものだけではないといえる。マンが社会民主党の擁護者であったことに噛みついていたのはプフィッツナーとローゼンベルクだし、「ユダヤ人フロイト」を引き合いに出したマンへの批判は、いかにもローゼンベルクらしい言辞である。
 マンがフロイトを引き合いに出した箇所は以下の通りである。
「春のごとく萌え出でて芽ぶく少年ジークフリートの恋心を、ヴァーグナーが言葉によって、またこれの暗示的なバックとなっている音楽によって生き生きと描いているのを見るときです。これは潜在意識の世界からほのかに微光を放つ、予感に満ちたコンプレックス、母との結びつきと性的な欲求と、そして不安ージークフリートが知りたがるあの童話の恐怖のことですがーーとのコンプレックス、つまり心理家ヴァーグナーと、もう一人の典型的な一九世紀の息子、すなわち精神分析家ジークムント・フロイドとの顕著な直感的一致を示すコンプレックスであります。菩提樹の下でのジークフリートの夢想では、母への思慕がエロティックなものと溶け合っています。また、ミーメが、養い育てた子ジークフリートに恐怖を教えようとする場面で、炎に囲まれて眠るブリュンヒルデのモティーフが、オーケストラで暗く変形して奏せられ鳴り響きます。--これはまさにフロイトです。これは精神分析です。それ以外のなにものでもありません。こうしたフロイト流のラディカルな心理研究と深層心理学はニーチェがすでに大いに先行していたものですが、そのフロイトにあっても、神話的なもの、人間的太古的なもの、文化以前のものへの関心は、心理学的な関心ときわめて密接な関連を持っていたことを、私たちはここで想起しておきましょう」(同上 岩波文庫)
 マンはフロイトの精神分析の妥当性をワーグナーに当てはめているが、この抗議声明の翌月、5月10日にゲッベルスが企てた焚書で、ユダヤ人フロイトの書物も燃えさかる薪の中に放り込まれた。
 ナチの支配が始まったドイツで、ワーグナーとフロイトを同一線上で評価するということは、既に許されていなかったのだ。
 クナッパーツブッシュがマンへの抗議声明文を書いたとすれば、「ディレッタント」という言葉をめぐる、恐らくその一点に集約されていると言っても過言ではないように思える。
「マンのケツの穴野郎!ワーグナーをディレッタントだなどと言いやがって!リヒャルト・ワーグナーとは何者か、トーマス・マンとは何者か。ワーグナーとトーマス・マンの偉大さの関係は、チンボラソ山とミュンヘンのノッカーベルクの関係になぞらえられる」 
 と繋げれば、クナッパーツブッシュの考えはすんなりと理解できる。もっとも、この部分はプフィッツナーによって削除されているが……。「ディレッタント」以外の文章は、たぶん他の人間の作文か入れ知恵である。
 もうひとつ肝心なことは、クナッパーツブッシュはマンの講演の文章をほとんど読んでいなかったのではないか、ということである。クナッパーツブッシュが講演記録の全文を読んでいたら、批判には繋がらなかったかも知れない。「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」は、ワーグナー礼讃の説得力のある言葉で埋め尽くされているからだ。クナッパーツブッシュは、「マンがワーグナーのことをディレッタントだと言った」という言葉だけを、誰かから聞きかじっていたもののようにも思える。あるいは講演録のそこだけを読んだかだ。
 フォス新聞は抗議声明に対するマンへの質問状を送り、1933年4月21日にマンからの回答を得ている。その中でマンは、
「抗議文のなかに名を連ねている、尊敬に値し、しかも傑出した面々のうち、誰一人として、『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ』という論文を読んだ者がいなかったのかも知れない」(トーマス・マン著「ワーグナーと現代」小塚敏夫訳 みすず書房 2000/10/1)
 と、首を傾げてでもいるような文章が見える。

 マンの次男、ゴーロ・マンは後に抗議声明の真相を知った。
「ヒューヒンガー教授の研究(『トーマス・マン--ボン大学と現代史』はきわめて教えられることの多い書物である)のおかげで、今ではわれわれは、当時夢にも思わなかったことをよく知っている。いわゆる『ヴァーグナーの町ミュンヘンの抗議』は、決して『自由意志による』文書ではなく、きわめて政治色の強い文書であった。バイエルン州の政変以来、『ミュンヘン最新報』紙は、ハインリヒ・ヒムラーが組織したバイエルン政治警察の支配下にあった。ヒムラーとヒムラーよりもはるかに有能な協力者ハイドリヒは、トーマス・マンを標的に定めた。しかし、トーマス・マンの財産を押収したり、ミュンヘンに戻ったときに本人の身柄を『保護拘束』するためには、理由が必要だった。それを正当化できる理由としては、『反国家的志操』があるだけだった。『だから』トーマス・マンのヴァーグナー論を問題にするだけではなく、トーマス・マンの国民的態度も問題にして、トーマス・マンは国民的志操を棄てて、民主主義的世界主義的態度に乗り換えたとする、あの声明が出されたのである。
 署名者たちはこうした狙いにまったく気づいていなかった。無邪気に、純粋にご都合主義から、ヒムラーの望みをかなえてしまったのである」(ゴーロ・マン著「ドイツの青春 2」林部圭一、岩切正介訳 みすず書房 1993/12/1)。
「ミュンヘン最新報」は、ヒムラーやその配下で極めて有能なハイドリヒの言われるがままだった。代表コスマンは捕まりかけ、「ミュンヘン最新報」の元編集長ゲルリヒは逮捕されていた。トーマス・マンを標的にしたのはハイドリヒである。ドイツ文学の第一人者で、しかもノーベル賞作家の逮捕は、反ナチの知識人に大きな衝撃を与えるだろう。ハイドリヒは、マンがミュンヘンに戻ったら「保護拘束」をして、ミュンヘン郊外ダッハウに作られた政治犯を収容する強制収容所に送るつもりだった。ダッハウの政治犯強制収容所は、ヒムラーの命令で3月22日に火薬工場を改装し、すでに完成している。ゲルリヒはすでにダッハウに送った。「トーマス・マン日記」を読むと、マンはその裏事情をさまざまな情報を元に薄々は知っていたようである。
 何はともあれ、「無邪気な」クナッパーツブッシュはナチの策謀に乗ってしまった。マン弾劾の行動で、音楽以外の業績で後世にひとつの汚点を残したことは間違いがない。遥か後年のジャーナリズムから見ると「下劣」で「恥知らず」な行為だった。もっとも、ナチに翻弄されているこの時代、後世のジャーナリズムから見て、恥知らずではないドイツ人を探す方が難しいが……。それは渦中にいないと、分からない事情なのである。

【その後】
 マンの日記では1934年2月2日に
「……それに、ヘルツはクナッペルツブッシュ(原文のママ)は私たちのミュンヒェンの家の件に介入すべきだ、彼はいまでは誰に対しても当時の仕打ちを後悔していると言っているのだからと主張している由」
 と書いている。前後関係が分かりにくいが、亡命を決めたマンはミュンヘンの家を処分したかったのだが、まだ果たせていなかった。それにクナッパーツブッシュが関与しなければならないとヘルツは言っているというのだ。
 ヘルツとはニュルンベルクの書店主イーダ・ヘルツのことで、古くからのマンのファンだった。ミュンヘンのマンの自宅の蔵書管理を依頼され、マンとはひじょうに懇意にし、自由にマンの自宅を出入りしていたものと考えられる。ヘルツはクナッパーツブッシュに会い、クナッパーツブッシュから抗議声明を出したことの後悔の言葉を聞かされていたのだろう。
 さらにマンは署名を集めるための指導的役割を果たしていたのは、ミュンヘン音楽アカデミー校長ジーグムント・フォン・ハウゼッガーだったことをリヒャルト・シュトラウスと話をした知人の言葉によって知る。マンは、すべての黒幕は、クナッパーツブッシュではなく、やはりプフィッツナーだと疑っていたようだ。ヒムラー、ハイドリヒ(あるいはもうひとりローゼンベルク)の意向を受けたハウゼッガーが音楽アカデミーの部下だったクナッパーツブッシュとプフィッツナーをたきつけて抗議文書と回文を書かせ、自分は陰で署名を集めて回っていたらしい。
 マンの日記には、1934年12月27日にさらに後日談がある。

「K(マンの妻カタリーナ)の母親、オペラのあとでのクナッペルツブッシュとの奇妙な口論とそのあとの熱っぽい握手のことを伝えてくる……こういう人たちの頭の中はさぞ奇妙で混乱しているに違いない」。
 クナッパーツブッシュは大いに後悔し、反省しているようだ。マンの日記から、クナッパーツブッシュのそのような変化を喜んでいることが行間から読み取れる。
 しかしそこから、クナッパーツブッシュの新たな苦悩と試練が待ち受けていた。

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