1935/01/01 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
1935年、年明けから、クナッパーツブッシュに対する圧力がますます強くなって行く。前年、クナッパーツブッシュのハーグでの舌禍事件から年が明けて早々、1月3日に年末に出されていたクナッパーツブッシュのウィーン国立歌劇場客演申請に対して、情報宣伝省からバイエルン当局に問い合わせがあった。
翌1月4日、バイエルンの参事官で文化相のエルンスト・ベップレは、全く問題がないと宣伝省に返事を出す。ベップレは圧力を強めるナチの中でも、クナッパーツブッシュの擁護に回った。奥波本に、バイエルン大管区指導者アドルフ・ワーグナーとの権力争いも絡んでいると紹介されている。
ベップレは1919年ドイツ労働者党(DAP)時代からの党員で、1923年のミュンヘン一揆にも参加しているナチの古参党員である。1934年からはSS(親衛隊)に参加、親衛隊上級将校になっていた。ファーバーのクナッパーツブッシュ告発の時には、親衛隊員でバイエルンの文化相を司っていたことになる。元々は出版業者だった。
バイエルンの文化省時代の後、アドルフ・ワーグナーとの権力争いに敗れたベップレは1941年9月1日にポーランド国務長官として赴任する。それまでバイエルン州立歌劇は、バイエルン文化省の管轄だったが、ワーグナーの意向か国務省の管轄に変更された。
ベップレは第二次世界大戦終了後、ポーランドのユダヤ人絶滅に大きな役割を果たしたSS上級大佐であったため、1949年12月14日にポーランド法廷で有罪を宣告され、翌1950年12月15日、絞首刑になった。
1935/01/05 ヴェルディ/「マクベス」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
以下、クナッパーツブッシュのバイエルンからの追放に関して、奥波本からその経緯をまとめてみた。
ベップレの返答にも関わらず、ナチのクナッパーツブッシュ追求は追求は執拗だった。1月10日、バイエルン当局はファーバーの勤めるオランダの公使館に詳細な経緯の報告を求めた。
1935/01/18 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 Vienna article in NFP dated 20.01 page 11
1935/01/24 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
1月25日、ファーバーはクナッパーツブッシュとの会話をまとめ(1934年参照)、クナッパーツブッシュを「新生ドイツにふさわしくない。外国で客演すべきではない」と改めて批判した。これが1934年のクナッパーツブッシュとファーバーの会話録である。
1935/01/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1935/01/30 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン [part of a complete Ring]
1935/02/04 ハイドン 交響曲 and Partita(?) ,テレマン/オーボエ協奏曲, R.シュトラウス/ディヴェルティメント (Suite according Couperin) ミュンヘン MAM
1935/02/05 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/02/09 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1935/02/11 ヴェルディ/「マクベス」 ミュンヘン
1935/02/13 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1935/02/15 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1935/02/16 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
2月16日、デン・ハーグでの舌禍に対して別の報告が寄せられ、クナッパーツブッシュはバイエルン当局から事実を問いただされた。クナッパーツブッシュは「全く身に覚えがない」と釈明する。
1935/02/18 シューベルト/ 交響曲第5番, モーツァルト/ 交響曲第29番, レーガー/詩篇第100番 ミュンヘン MAM
1935/02/19 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1935/02/21 ヴェルディ/「マクベス」 ミュンヘン
1935/02/23 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/02/24 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
3月3日 AP通信の記事にフルトヴェングラーとゲッベルスの「和解」と「名誉回復」、ベルリン州立歌劇場第一楽長への復帰を報じた後に、クレメンス・クラウスのバイエルン州立歌劇場就任と、クナッパーツブッシュのケーニヒスベルク(カリーニングラード)へのポスト就任予測を伝える記事が掲載された。(石橋邦俊「すばらしいアナクロニズム」九州工業大学大学院情報工学研究院紀要に、Peter Muck著「Einhundert Jahre Berliner Philharmonische Orchester」第二巻のAP通信の記事として紹介されている)。ケーニヒスベルクはポーランド回廊東プロイセンのダンツィヒ(グダニスク)の近く、バルト三国との境のロシア飛び地にある都市である。ドイツよりもドイツらしいと言われた。
また、クナッパーツブッシュ追放の動きは、フルトヴェングラーの「ヒンデミット事件」の余波であったとも書かれている。
クナッパーツブッシュを追放する口実として、ナチ・ドイツにふさわしくない指揮者というレッテルを貼りたい意向が感じられる。ケーニヒスベルクはドイツ以上にドイツ化されていたとはいえ、クナッパーツブッシュの国外追放を目論んだのはヒトラーだったし、バイエルン州立歌劇総支配人ヴァレックもその方向で動いていた。
しかしクナッパーツブッシュはそのような策謀によらずとも、自ら墓穴をせっせと掘っていた。どちらにしても、クナッパーツブッシュはドイツ国外に追いやられるのは間違いがなかった。
ただ、この後の経緯から、クナッパーツブッシュはケーニヒスベルクには赴任せず、ウィーンに向かうことになる。
1935/03/07 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1935/03/10 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1935/03/18 クレメンス・フォン・フランケンシュタイン/舞踏組曲, ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番, 交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1935/03/25 ハンブルクに客演 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番(Ferry Gebhardt), 交響曲第9番 (Ria Ginster, Hildegard Hennecke, Heinz Marten, Rudolf Bockelmann) 体調を崩したオイゲン・ヨッフムの代理だった (illness)
1935/03/30 [クナッパーツブッシュに関する”Escher Tagesblatt”の長い記事が新聞に掲載される]どういう記事であったのは分からない。
1935/04/01 ドヴォルザーク 交響曲第9番, チャイコフスキー 交響曲第6番 ミュンヘン MAM
1935/04/03 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/04/14 J.S.バッハ マタイ受難曲 ミュンヘン MAM
1935/04/20 ワーグナー/「パルジファル」(プリンツレゲント劇場)[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による]
1935/04/21 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1935/04/22 ワーグナー/「パルジファル」(プリンツレゲント劇場)[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による]
1935/04/27 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/04.05 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1935/05/12 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1935/05/15,19,26,30 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1935/05/28 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
この年の4月か5月、クナッパーツブッシュはケーニヒスベルクでコンサートを行ったという記録が出てきた。ハイドン/ハ長調交響曲、ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲(vn:Siegfried Borries) ÖNB-ANNO – Signale für die musikalische Welt
6月10日にバイエルン州立歌劇で、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」のミュンヘン初演60周年記念公演が行われるも、クナッパーツブッシュはその公演の指揮からはずされる。指揮をしたのは、前年「ヒンデミット事件」で進退の窮まったフルトヴェングラーだった。フルトヴェングラーは4月25日にナチ全閣僚が出席したベルリンでの慈善コンサートで復活、このミュンヘンの記念公演で決定的な復活を果たした。公演にはヒトラーを始め、バイエルン大管区指導者アドルフ・ワーグナーなどナチの大物が顔を揃えた(奥波本)。ヒトラーが臨席するため、ヒトラーに嫌われていたクナッパーツブッシュを、あらかじめはずしてしまっていたという見方もできる。後にクナッパーツブッシュはヴァレックの仕業だと、11月の上申書で不快感を示している。
1935/6/20 ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン国立歌劇場 Wiener Staatsoper Archives
クナッパーツブッシュは、初めてウィーン国立歌劇場で指揮を行ったという記録が、ウィーン国立歌劇場の公演記録から出てきた。クナッパーツブッシュのバイエルン追放前としては最初の記録である。
6月24日、リヒャルト・シュトラウスの「無口な女」がカール・ベームの指揮によってザクセン州立歌劇(ドレスデン)で初演されるが、この「無口な女」初演が帝国音楽院総裁リヒャルト・シュトラウス失脚の発端となった。
「アラベラ」の初演を巡ってリヒャルト・シュトラウスと「距離をおきたい」と手紙を送ったクナッパーツブッシュだったが、前年の「ヒンデミット事件」の時と同様、クナッパーツブッシュはリヒャルト・シュトラウス擁護に回り、ナチ当局と応酬を行っていた可能性がある(奥波本)。 カール・ベームは、クナッパーツブッシュが「政府と激しい応酬をやって」と「回想のロンド」で回想している。
ヴァレックは「みずからクナッパーツブッシュの追い落としを企んだことはない」と語ったそうだが(奥波本)、クナッパーツブッシュはナチ政権の元、自ら作った罠に落ちこんでしまう。
【リヒャルト・シュトラウス失脚】
リヒャルト・シュトラウスはすでに世界的な大作曲家だった。リヒャルト・シュトラウスはナチではなかったが、帝国音楽院総裁になることによって、自分の作品がドイツ国内でますます上演機会を増やすであろうことや、自作のオペラの台本作者であるフーゴー・フォン・ホフマンスタールやシュテファン・ツヴァイクがユダヤ人であったため、自分の権威と帝国音楽院総裁という立場を利用して、自作オペラを上演禁止にしないよう目論んだ。リヒャルト・シュトラウスはゲッベルスやナチが考える以上に老獪だった。
リヒャルト・シュトラウスはヒトラーをうまく丸め込んで、オペラ「無口な女」の初演まではこぎ着けた。台本はオーストリアのユダヤ人シュテファン・ツヴァイクである。
ツヴァイクはザルツブルクに住んでいたが、ドイツ国境に近く、ナチ・ドイツの騒がしさに危機感を持っていた。さらにナチに対抗して右傾化を強めるオーストリア政府に嫌気がさし、1934年2月、イギリスに出国している(亡命はもう少し後になる)。
当初「無口な女」は、ユダヤ人の台本によるオペラということで、ゲッベルスの妨害が入りそうになったり、ポスターにツヴァイクの名前が印刷されていなかったことからリヒャルト・シュトラウスが怒り出すことはあったが、1935年6月24日、ドレスデンのザクセン州立歌劇で、カール・ベームの指揮によって無事初演される。
ところが、2回目の上演の後(ツヴァイクの「昨日の世界」による。ベームの「回想のロンド」では4回公演の後と書かれている)、「無口な女」は上演中止になり、リヒャルト・シュトラウスは帝国音楽院総裁を辞任するという急激な変化が起こった。
リヒャルト・シュトラウスは、イギリスにいるツヴァイクと「無口な女」以降の作品の台本に関して、頻繁に文書のやりとりをしていたが、これが命取りになった。
ヒトラーやゲッベルスをうまく丸め込もうとあれこれ画策を立てるリヒャルト・シュトラウスに、ツヴァイクは難色を示す。最後のツヴァイクの手紙は現存していないそうだが、山田由美子著「第三帝国とR.シュトラウス」(世界思想社教学社 2004/4/1)によると、以下の内容だったと推測されている。
「ユダヤ人の同胞がナチスに迫害されていること、帝国音楽局総裁とともに『無口な女』を制作したことで、(ナチを禁止しているオーストリア政府やユダヤ人社会に)ナチス協力の嫌疑をかけられているということ、さらにシュトラウスがナチスに迎合して、ワルターとトスカニーニの指揮を引き受けたこと」。
それに対するリヒャルト・シュトラウスの手紙がゲシュタポ(秘密警察)の手に落ち、「無口な女」の上演禁止と、帝国音楽院総裁の辞任が決まってしまった。リヒャルト・シュトラウスはツヴァイクへの手紙に、ナチが許せないことを書いてしまったのだ。
「私にとって人間は二種類、つまり才能のある者とない者しか存在しません。私が集団としての人間(民族)を意識するのは、聴衆を相手にするときだけですが、それが中国人か、バイエルン人か、ニュージーランド人か、ベルリン市民かなどということはどうでもよいことです。肝心なのは、正価で切符を買ってくれることなのですから。[……]したがって、2本の一幕喜劇をただちに仕上げるよう緊急に依頼します。条件をご提示ください。制作は内密に進めていただき、作品の処理はお任せ下さるよう。誰ですか、私は政治力を行使したなどと注進に及んだのは?ブルーノ・ワルターの代わりに指揮棒を振ったからですか。オーケストラ団員を救うためです。トスカニーニの代わりを務めたからですか。それはバイロイトのためです。街頭新聞がこちらの行動をどう書きたてようと私の知ったことではないし、それに目くじらをたててもらっても困ります。私が帝国音楽局総裁の猿真似をしているからでしょうか。しかるべき目的を遂行し、より大きな不幸を防ぐためにほかなりません!どのような政権下であっても、この厄介な名誉職を引き受けていたことでしょう」(山田由美子著「第三帝国とR.シュトラウス」(世界思想社教学社 2004/4/1)。
ナチの人種政策を嘲笑し、帝国音楽院総裁の職を「厄介な名誉職」で自分はそれを「猿真似」しているだけだから、ツヴァイクは怒る必要はないといっているわけだが、その手紙がゲシュタポの手にあると知ったリヒャルト・シュトラウスの心境はどのようなものであったのだろうか?「第三帝国のR.シュトラウス」によると、二人の若いゲシュタポがリヒャルト・シュトラウスの自宅を訪れ、問題部分に線を引いた手紙を見せながら、「帝国音楽院総裁」の辞任を迫ったそうだ。
リヒャルト・シュトラウスは、すぐにヒトラーに詫び状を書くが、返事はなかった。このリヒャルト・シュトラウスの詫び状に関して、前掲書の著者山田氏は「暴力で不条理を通す相手を素手で懐柔するには、相手の不条理に合わせた『演技』が不可欠である」と、優れた洞察を書いておられる。この視点をなくすと、ドイツの誰の行動も正当化できなくなってしまう。誰もが自分の命を賭した正義の闘士になれるわけではないのだ。いわんや、第二次世界大戦の敗戦国日本でも事情はまったく同じである。
リヒャルト・シュトラウスの条件付き復権は、翌1936年のベルリン・オリンピックだった。リヒャルト・シュトラウスはオリンピック賛歌を作曲し、その効果が絶大だったことから、感激したヒトラーとゲッベルスはリヒャルト・シュトラウスの復権を部分的に認める。ただし、全面的な復権はなかった。
ツヴァイクは後にブラジルに渡り、自分の読者が失われてゆくことと、日本も参戦して連戦連勝だった第二次世界大戦の情況に絶望し、1942年2月23日、自殺してしまう。
「無口な女」初演にはもうひとつおまけがある。ヒトラーの友、エルンスト・ハンフシュテングルのナチからの逃亡の前兆である。ハンフシュティングルはピアノでワーグナーの楽曲を弾き、激昂しがちなヒトラーを慰めたり、友人として音楽談義に花を咲かせた。ヒトラーがミュンヘン一揆の失敗で逃亡中、かくまったのはハンフシュティングルの妻である。
ベームは「回想のロンド」でこの出来事を語っている。
「……それでもプレミエが終わったあとで、いつもどおりのお祝いの会がホテルのロビーで行われたが、政府を代表してただ一人ハンフシュテンゲル氏(訳文のまま)が出席していた。わたしたちは彼がコチコチのナチ党員だろうと思っていた(彼はミュンヒェンの有名な美術商の家に生まれていた)。その席でかれは演説を行ない、「無口な女」の--その台本をも含めて--長所を列挙したうえで、容赦なく政府のことも槍玉にあげたので、わたしはあとで妻に、『一週間もしたら彼は強制収容所に入れられているか、スイスに逃げているかのどちらかだ』と言ったものだった。事実その後しばらく彼はスイスに行っていた」(「回想のロンド」)。
ハンフシュテングルは肥大化したナチの幹部連中の倫理観のなさ、ユダヤ人への行きすぎた迫害、戦争を求めるヒトラーにやりきれなくなり、ヒトラーやナチのやり方に批判的になった。ヒトラーやゲーリングなどのナチ幹部に煙たがられたハンフシュテングルは、1936年、スペインに左遷されるところをスイスにゆき、アメリカに亡命する(ハンフシュティングルは元々アメリカにいたことがある)。
ヒトラーと音楽の趣味を同一にしていた友人が去り、ヒトラーの音楽趣味はますます独善的なものに傾いて行く。
1935/06/21 [ウィーンで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を演奏すると新聞に予告が出た。予定されていた日程などは不明]もしかしたら、公演があったという過去形の記事だったのかも知れない=Syuzo。
1935/06/22 R.シュトラウス/「影のない女」 ミュンヘン初演 Günther Lesnig’s DATA
1935/06/23 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1935/07/05 [フルトヴェングラーのことを”Furzquaengler”(Furzはおなら)と書いたクナッパーツブッシュの手紙が残っている。読んでみたいが文面は不明=Syuzo]
1935/07/04 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による]
1935/07/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン(これはナツィオナル・テアターでの公演記録だが、7月4日のプリンツレゲント劇場の記録と混乱していることも考えられる。ただ、日程が開いているため、可能性はある)
(René Trémine’s DATA)
ただ、いつもなら「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でクナッパーツブッシュの「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」が始まるところを、この年は記録上は変則的にモーツァルトで始まっている。おそらく、7月24日がプリンツレゲント劇場で「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」の初日であったものと思われる。
ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1935/07/25 モーツァルト/「フィガロの結婚」(レジデンツ劇場)
1935/07/27 モーツァルト/「魔笛」(レジデンツ劇場)
1935/07/28 ワーグナー/「パルジファル」
1935/07/29 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」(レジデンツ劇場)
1935/07/30 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
(René Trémine’s DATA)
ところが、「モーツァルト・ワーグナー祭」の期間中、8月2日にミュンヘンに新たな動きが起こる。ヒトラーがミュンヘン市に「ナチ運動の首都」の呼称を授けたためである。ミュンヘンはナチの聖地となり、反ナチ的な言動が問題になるクナッパーツブッシュは、もはやバイエルンの地にはいられなくなった。
1935/08/03 ワーグナー/「パルジファル」
1935/08/06 モーツァルト/「コシ・ファン・トゥッテ」 (レジデンツ劇場)
1935/08/07 ワーグナー/「ラインの黄金」
1935/08/08 ワーグナー/「ワルキューレ」
1935/08/10 ワーグナー/「ジークフリート」
1935/08/12 ワーグナー/「神々の黄昏」
1935/08/14 ワーグナー/「パルジファル」
1935/08/19 R.シュトラウス/「影のない女」 ミュンヘン(夏のモーツァルト・ワーグナー祭の演目であったのどうか不明) Günther Lesnig’s DATA
1935/08/23 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1935/08/24 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 Günther Lesnig’s DATA
1935/08/25 ワーグナー/「パルジファル」
1935/08/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1935/09/22 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1935/09/26 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1935/10/05 ワーグナー/「タンホイザー」新演出を指揮。[奥波氏の情報による。not mentioned by Trémine]
1935/10/06 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1935/10/07 R.シュトラウス/「影のない女」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/10/08 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1935/10/11 シュトゥットガルトに客演。シュトゥットガルト放送交響楽団を指揮する[Huntによる](ただし、Trémineはこのデーターに疑問符を付けている。同楽団は1945年の創設である)
1935/10/13 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1935/10/17 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1935/10/19 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/10/21 アドルフ・サンドベルガー 夜想曲第3番, ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番, ブラームス 交響曲第2番 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)
この日のことかどうかは不明だが、10月のコンサートの時、クナッパーツブッシュは
「最終的にどうなるかわかりません。とどまるにせよ去らねばならぬにせよ、わたしの心はミュンヘンにとどまりつづけるでしょう」と聴衆に向けて挨拶した(奥波本)
1935/10/23 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1935/10/25 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1935/10/26 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1935/10/31 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1935/11/01 モーツァルト/レクイエム ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)
11月初旬、クナッパーツブッシュは身の潔白とヴァレックとの確執をアピールすべく、上申書を提出する。ただ、クナッパーツブッシュの追放は既定事実であり、クナッパーツブッシュの上申書はあまり意味を成さなかった。「ナチ運動の首都」ミュンヘンには、クナッパーツブッシュはすでに相応しくなかったのである。
11月中頃 前バイエルン州立歌劇支配人フランケンシュタインと食事をしたクナッパーツブッシュは、「ミュンヘンでの命運は尽きた。後任を探すようゲッベルスから委託を受けたとヴァレックが言っていた」と愚痴をこぼした(奥波本 フランケンシュタインの証言)。
1935/11/08 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1935/11/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1935/11/16 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1935/11/18 モーツァルト/ディヴェルティメント第17番 K.334, 6つのドイツ舞曲より K 509, 交響曲第41番「ジュピター」 ミュンヘン MAM
1935/11/21 ワーグナー/「ラインの黄金」 (「ニーベルングの指環」チクルスとして始まったが、完結しなかった) ミュンヘン
1935/11/23 オデオン・ザールでバイエルン州立管弦楽団とコンサート。
(René Trémine’s DATA)
ワルツとマーチの特集だった。ナチの高官たちもコンサートに列席し、クナッパーツブッシュと一緒に写真を撮ったりした。すでにミュンヘンを去らなければならないクナッパーツブッシュの心情はどのようなものだったのだろう。ホールの外では、クナッパーツブッシュ・ファンによる支援デモが行われたらしい(奥波本)。
1935/11/24 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン この公演が、バイエルン州立歌劇における第二次世界大戦前のクナッパーツブッシュ最後の公演となった。
(René Trémine’s DATA)
ミュンヘンの楽壇から去らなければならなくなったクナッパーツブッシュだったが、ハノーヴァーでのコンサートの記録が見つかった。
1935/12/16 ベートーヴェン/交響曲第1番、チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(vn:Max Ladscheck)、交響曲第5番 ハノーヴァー歌劇場管弦楽団 ハノーヴァー ÖNB-ANNO – Signale für die musikalische Welt
11月27日、退任の圧力に屈したクナッパーツブッシュはバイエルン州立歌劇に対し、病欠の届けを出す(奥波本)。以後、記録を見ると、コンサート活動も行わなかったようだ。クナッパーツブッシュの正式な追放は、翌1936年だった。
1935年に入って、ヒトラーは新たな方向に舵を切り始める。再軍備の準備である。
3月1日 第一次世界大戦後、国際連盟の管理下に置かれていたザール地方は、1月17日の住民投票の結果を踏まえ、ドイツに復帰する。ヒトラーによる周辺国に対する飲み込みの第一歩だった。ザール地方は元々ドイツであり、後のラインラント進駐とともに、まず地歩固めのため、第一次世界大戦で失ったドイツの失地回復から手を付け始めた。
3月9日 ヒトラーはヴェルサイユ条約の一部を破棄、ドイツ空軍の再建を各国政府に発表する。
3月15日 ヒトラーは各国政府に対し、徴兵制の再導入決定を通告。翌16日にはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄、再軍備を宣言する。その裏で、周辺各国の懐柔も忘れなかった。再軍備をしながらも、自分たちはいかに戦争を望まないかという、欺瞞にみちた外交政策に、周辺各国は「ヒトラーは戦争を望んでいない」という印象を持った。後にドイツに蹂躙されることになるポーランドもその中に入っていた。イギリス、フランス、イタリアは一応ドイツの再軍備に抗議をしているが、ヒトラーは意に介さず、各国は戦争の回避ということだけを望んでいたようだ。3国は協調して「ストレーザ(イタリアの都市名。そこで対ドイツに対する会議が開かれた)戦線」を組み、ドイツを包囲して押さえ込むことができると考えていた。
5月21日、ヴァイマル国軍であったライヒスヴェーアを国防軍(ヴェーアマハト)に改称、ヒトラーはその最高指揮官の座に就く。ヒトラーはその席で演説し「ドイツは平和を必要とし、平和を欲する」、「リトアニアを除くすべての隣国と不可侵条約を結ぶ用意がある」と演説、その仮面にドイツ国内はもとより、海外でも騙されることになる。
6月26日にドイツでは面白い法律が布告された。環境問題をめぐる「ドイツ国自然保護法」である。現代の環境問題に関する法律と似ているが、ヨーロッパで自然保護の法律を作ったのはナチ・ドイツが最初である。
6月30日、ミュンヘンとオーストリアのザルツブルク間に新自動車道路(アウトバーン)が完成する。アウトバーンはヴァイマル共和国時代に既に計画が始まっていたが、敗戦によるドイツ経済の疲弊で頓挫していた。ヒトラーは政権を握ると、失業者対策、公共事業の一環としてアウトバーンの建設に力を入れていた。最初に完成した区間はフランクフルトからダルムシュタットまでで、同じ1935年5月19日に開通していた。これら公共事業のため、1933年には600万人いた失業者は、180万人へと劇的に減少していた。
ただ、続く徴兵制の施行で、ドイツ国内には労働力が不足する。ドイツ人に対してでも強制的労働奉仕が行われていたが、ユダヤ人の強制労働、後には占領した周辺諸国の人々の強制労働へと繋がってゆく。
9月15日、「ニュルンベルク法」が可決される。ユダヤ人排斥の「アリアン法」が含まれ、ユダヤ人絶滅の合法的な手がかりを作り出す。ユダヤ人はますます弾圧を受けている。オットー・クレンペラーの従兄、フランス語・フランス文学の権威で言語学者であったヴィクトール・クレンペラーはドイツ国外に脱出せず、ドレスデンに住んでいたが、ますます強まるナチの圧力と暴虐を日記に書いている。クレンペラーの日記と著作は2冊日本語に訳出されている(「私は証言する-ナチ時代の日記」小川-フンケ里美、宮崎登訳 大月書店 1999/5/1、「第三帝国の言語<LTI>」羽田洋訳 法政大学出版局 1974/1/1)。
また、「鉤十字旗」が国旗として制定された。
10月1日 国防法に基づき、徴兵制実施。11月7日には最初の徴兵がおこなわれた。
10月1日の同日から3日にかけて、イタリアは植民地獲得のため、エチオピアに侵略を開始する。エチオピア侵略のための示威活動はすでに7月から始まっていた。ファシスト党の敵はイギリス、エチオピア、そしてなぜか日本だった。ムッソリーニはエチオピア侵略に関し、ヒトラーに支持を要請する。ヒトラーはこの国際紛争を利用すべく、秘密裏にエチオピアにも武器を援助した(全記録)。このころはまだドイツとイタリアの間には外交上の距離があった。
11月8日 ヒトラー、ミュンヘンで毎年恒例のミュンヘン一揆で死亡した16名の追悼式を行う。この年から、16体の遺体は「ミュンヘン一揆慰霊碑記念堂」に移され、常時SSが歩哨に立つなど、死亡者の国家による英雄化、神格化が行われる。
11月21日 「血統保護法」を成立させ、ユダヤ人の定義を行う。多分にアルフレート・ローゼンベルクの「二十世紀の神話」の根本的な思想が取り入れられている。2分の1ユダヤ人、4分の1ユダヤ人などの表現は、この法律の制定で正式に定義された。
1935年の日本、右傾化がますます進んでおり、3月2日には北海道や福岡で学校における外国語の授業が全廃、あるいは減廃が決定されている。日本の文化水準が上がり、外国語によらなくても学習が可能になった、という変な見解の元での実施である。
4月7日に美濃部達吉博士が「天皇機関説」で不敬罪で告発され、8月10日には「国体明徴声明」が政府から発表される。国体とは天皇の身体そのもののことで、天皇の神格化が一層進むことになった。当時の天皇(昭和天皇)は、むしろ「天皇機関説」を当然と受けいれていたのだそうだ。 国家神道を貫くため、大本教や天理教などの、民衆宗教団体が次々と弾圧されていったのもこの頃である。
陸軍においては皇道派と統制派の対立がますます激化、8月12日には陸軍内の人事問題に端を発した軍務局長殺害事件が起こる。殺害した相沢中佐にちなんで相沢事件と呼ばれる。殺害された永田軍務局長は統制派で非常なやりての実力者、相沢中佐は皇道派だった。
また、この頃から、日本国内は軍需景気に湧いている。不安定さを増す中国での需要拡大や日本陸海軍の軍備の増強が日本の経済に一時的な繁栄をもたらした。その景気上昇に乗って、結婚ブームがあったのだそうだ。ちなみに「ふたりは若い」(「あなーた、なぁーんだい?」)という流行歌があるが、この年に流行している。