1936年 クナッパーツブッシュミュンヘン追放、ウィーンへ

 1936年、クナッパーツブッシュはミュンヘンの楽壇から追放され、ドイツ国内で活動の場を失う。年が明けた早々、クナッパーツブッシュは1月10日(1月9日というデータもある)にバイエルン大管区指導者・内務大臣アドルフ・ワーグナーから、指揮活動禁止の通告を受けた。
「報道によると、貴方はバイエルン州立歌劇場での活動を休止しているにもかかわらず、指揮者として公に活動しようと意図されておられる。そもそも貴方自身の振る舞いに原因があるのですが、公安上の観点からして好ましくありません。コンサートホールであれ街頭であれ、貴方が発言できる場所は存在しません。いかなる場合も公の場に出られぬよう。さらに今後どのような面においても極力自粛されますよう、要求いたします。この私の指示に反する行為があった場合、個人的には遺憾ですが、ほかの手段をもって対処せざるをえなくなるでしょう」(奥波本)
 この通告を見ると、バイエルンだけではなく、クナッパーツブッシュの行動をドイツ全土に及んで制限しようとするものだったことが読みとれる。バイエルンで指揮活動ができなくなるということは、他の地方でも指揮ができないことを意味する。クナッパーツブッシュを受け入れる場所はドイツにはなくなってしまった。
 奥波氏のアドルフ・ワーグナーの通告の訳文は優しいが、アドルフ・ワーグナーはそんな生やさしい人間ではなかった。
アドルフ・ワーグナーは、1890年10月1日、ロレーヌ地方のアルクリンゲンで生まれた。第一次世界大戦では将校で従軍し、戦後は鉱山会社で監督になった。ナチにはミュンヘンで1923年に入党、古参格の党員である。1929年に上バイエルン管区長に任命され、1933年にバイエルン州政府副首相兼内務大臣に任命された。クナッパーツブッシュの舌禍事件の時、クナッパーツブッシュをかばおうとしたベップレとは、古参党員同士でミュンヘンの党内でライヴァル関係にあった。ワーグナーはクナッパーツブッシュへの通告を行った頃は、ミュンヘン党本部でヒトラー付きのスタッフになっている。
 「ナチス時代ドイツ人名事典」(東洋書林)によると、顔には決闘で付けた大きな傷があり、片足は木製の義足でそれを引きずって歩いたとある。さらに「大酒飲みのうえ、女色に溺れ、下品で横暴なバイエルン人だったが、芸術と文化について講演をするのが趣味であった」と書かれている。「長いナイフの夜」に手を貸したともある。
 ヒトラーがプロイセンで演説を禁止されている頃(その後もたびたび)、ワーグナーが演説の代行を行った。しゃべり方、イントネーション、仕草までヒトラーそっくりだったという。ニュルンベルクの全国党大会でも、ワーグナーがヒトラーに代わって演説を行ったこともある(トーランド本)。
 アドルフ・ワーグナーがクナッパーツブッシュに言いたかったのは、「ひとの前に出ていらんことを喋るな!もし出たら、ぶん殴って強制収容所に入れてしまうぞ!」ということだった。クナッパーツブッシュは指揮活動を休んでいる間も、あちこちでナチの悪口を言っていたらしい。クナッパーツブッシュはその言動を監視されていたわけである。
 ゲッベルスのクナッパーツブッシュ追放の指示が最も大きかったにせよ、元々はヒトラーの意向であり、アドルフ・ワーグナーの存在もひじょうに大きかったのではないかと想像できる。アドルフ・ワーグナーはヒトラーとも近かったし、1938年以降、クナッパーツブッシュがドイツ国内で演奏活動をなし崩し的に許可されるようになってからも、アドルフ・ワーグナーはクナッパーツブッシュにバイエルン内での演奏を禁止し続けた形跡があるからだ。ワーグナーの影響力が強かったことが窺われる。これはオットー・シュトラッサー「栄光のウィーン・フィル」に、1938年、ウィーン・フィルのドイツ巡業中、バイエルンでは指揮ができなかったクナッパーツブッシュについての言及がある(1938年の項で後述)。
 ソプラノ歌手ヒルデガルデ・ランツァーク(ランチャク)がクナッパーツブッシュ解任を阻止すべくヒトラーに直訴し、逆に「軍楽隊長は去らねばならぬ!」と一蹴された話も伝わっているが、奥波本によると真偽は不明だそうである。
2月中旬、クナッパーツブッシュはミュンヘンでの指揮活動ができなくなるため、バルセロナへの客演許可を情報宣伝省に求める。これはクレメンス・クラウスの代演であったようだ。

 そして2月25日、クナッパーツブッシュはついにミュンヘンのあらゆる役職から退職させられる。

「ミュンヘン市民には、短い新聞報告で十分だった。『帝国バイエルン総督は、バイエルン州立歌劇場音楽総監督、ハンス・クナッパーツブッシュ教授を、帝国に対する氏の忠実な貢献に謝辞を述べるとともに、休職とする』」(「ハンス・クナッパーツブッシュ ~生誕百年に寄せて~」新聞報告は26日だった。「臨時号外」にはフォン・エップ将軍の名前で2月28日「クナッパーツブッシュ引退」の報が出た)。

 クナッパーツブッシュはミュンヘンの活動の場を奪われ、追放された。パスポートも取りあげられた。ケイター本によると、クナッパーツブッシュに保証された恩給はわざと低く抑えられたとある。クナッパーツブッシュはまだ誕生日前で、47歳での強制引退だった。
 海外への客演も認められない形となったが、2月28日にクナッパーツブッシュは再度、情報宣伝省に客演の許可を依頼する。バルセロナだけではなく、イギリスのコヴェント・ガーデン、ウィーンへの客演も含まれていた。ベップレもクナッパーツブッシュの依頼を後押ししたらしい(奥波本)。
 ところが2月29日に情報宣伝省から「ニンカセズ」の電報が届く(奥波本)。
 3月2日 クナッパーツブッシュは情報宣伝省に対し、屈辱的な手紙を書いて泣きつく。手紙の内容は奥波本に訳出されている。内容をまとめると、
「突然、退職となったため、経済的に困窮している。ベルリンに行ってお願いしたいが旅費にも困っている。ゲッベルスに謁見を申し入れたが、返事がない。二人の家族を養わなければならず(マリオンとアニータ)、これまで以上に働かなければならない」
「外国での契約が2つ残っているが、ユダヤのごろつき連中の前にさらされると思うとゾッとする(ウィーンのことを指している)」
「総統の信頼を回復しなければならない。そのため大臣閣下(ゲッベルス)に口添えして欲しい」
 という手紙だった。大嫌いな「ハイル・ヒトラーの挨拶をしつつ」という言葉も忘れなかった。
 ある程度ナチに迎合しないと、指揮活動はまったくできなくなってしまう。クナッパーツブッシュは海外への亡命ははなから念頭になかっただろうし、「暴力で不条理を通す相手を素手で懐柔するには、相手の不条理に合わせた『演技』が不可欠である」(「第三帝国のR.シュトラウス」)。
 3月10日 ゲッベルス秘書官(奥波本による)ヴァルター・フンクは、関係書類の欄外に「クナッパーツブッシュを飢え死にさせるわけにはいかない」と赤鉛筆で書き記す。
 1936年当時、フンクは宣伝省次官でゲッベルスに次ぐ宣伝省ナンバー2だった。1938年2月には経済相、1939年1月にはライヒスバンク総裁と、出世階段を昇るナチ高官だった。音楽愛好家で、自身も若い頃は音楽家になりたがっていた。リヒャルト・シュトラウスやフルトヴェングラーを自宅に招いたとの本人の話もある(レオン・ゴールデンソーン著「ニュルンベルク・インタビュー」小林等、高橋早苗、浅岡政子訳 河出書房新社 2005/11/1)。戦後、ニュルンベルク裁判で終身禁固刑を言い渡されるが、1957年健康上の理由で釈放、1960年に死去した。

 なんとか3月13日にはバルセロナへの演奏許可が降り、以後もストックホルム、ウィーンなどへの客演許可が降りた。クナッパーツブッシュは、ドイツ国内では指揮ができないながら、ようやく指揮活動のめどが付いたわけである。その過程で、ケーニヒスベルクへの赴任(左遷だが)も不可能になったものと思われる。
 クナッパーツブッシュのいう「ユダヤ人のごろつき連中」の大元はワルターだろう。ワルターはその頃ウィーンにいた。1929年の第九騒動のウラで糸を引っ張っていたのはワルターだったとまではクナッパーツブッシュは考えていなかっただろうが、ミュンヘンでアインシュタインを始めとするユダヤ人評論家に非難され続けていたクナッパーツブッシュの、ある意味で正直な気持ちだったのかも知れない。後年から見ると問題のある不名誉な文面であったとしても、ナチのご機嫌も取っておかなければならない。バイエルン分離主義を唱え、ナチに反抗してダッハウの政治犯強制収容所に送られてはかなわないし、ユダヤ人を擁護して正義の闘士を気取っても命の危険にもさらされ、何より仕事には結びつかない。

 そのようなナチの横暴が吹き荒れる中、フルトヴェングラーは、なぜ国外に出なかったのかを当時も後年も非難されたが、ドイツ人指揮者にとっては、ドイツ人とドイツ音楽を共有する上で、ドイツという国は不可分である。それに、フルトヴェングラーは自分の意志で外国に出ることはもはや許されていなかったという事情もある。
 自身がユダヤ人であったり、その妻がユダヤ人である場合は、迫害の危機にさらされるため亡命はやむを得ない面はあるが、ドイツ人指揮者の多くは、ドイツから離れることは念頭になかった。「ヒンデミット事件」の時フルトヴェングラーに肩入れしてベルリン州立歌劇場を辞任し、アルゼンチンに亡命したエーリッヒ・クライバーは妻がユダヤ人だったからだし、フリッツ・ブッシュは弟の妻がユダヤ人だったという事情がある。
 たとえ、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュが国外に亡命したとしても、ナチ支配が終わり、ドイツに帰国したときのクライバーやブッシュに対するドイツ人の反感や不人気がかなりのものだったことを考えると、「その時代とその場所」を共有しないドイツ人は、やはり好ましく思われなかっただろう。外野からはいくらでも言いたいことが言えるからだ。トーマス・マンに対するドイツ人の反感も根強い。亡命時にはドイツ人に同情されても、アメリカからドイツとドイツ人を批判し続けたことがマンに対する反感の根になった。
 もっとも、フルトヴェングラーは帝国音楽院副総裁を拝命し、ベルリン州立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密院顧問官になったときに、それらの地位がナチ協力者として剥がせないレッテルとなり、国外での活動がしにくくなっていたことも事実である。トスカニーニは引退後のニューヨーク・フィルの常任指揮者にフルトヴェングラーを指名したが、称号や地位が邪魔をしてゲーリングの奸計にはまり、ニューヨークのフルトヴェングラー招致はうまく行かなかった。
 クナッパーツブッシュは……だれも呼んでくれなかったのではないかと思える。行けば何とかなったかも知れないが、クナッパーツブッシュはミュンヘンをほとんど離れなかったので、外国でコスモポリタンな指揮者としての評価は得られていなかった。ワーグナーの聖地を離れるくらいなら、「ドイツで土木作業員になった方がまし」と考えていたのかも知れない。事実そのような発言もあったようである。アメリカにいたムックはすでにドイツに帰国していたし、クナッパーツブッシュはトスカニーニとも縁がなかった。海外で華々しく活躍するワルターはどれほど交流があったのかは分からない存在だったし、ブッシュはアルゼンチン経由でイギリスに行ったばっかりで仕事を斡旋してくれるかどうかは分からなかった。クナッパーツブッシュを評価していたクライバーとクナッパーツブッシュは面識があったのかどうか...。クナッパーツブッシュはワーグナーの得意なドイツ人指揮者として、例えばワルターのようにベルリンでの地位やアメリカに色目を使うことはなかったし、せいぜいドイツと隣のオーストリア、あるいはオランダくらいにしか主な活動の場を見いだせなかったのである。

1936/03/25 バルセロナに客演。オーケストラ・コンサートを指揮する。ウェーバー/「オベロン」序曲、リヒャルト・シュトラウス/「「ドン・ファン」、モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(「セレナータ・ノットゥルナ」というデータあり)、ワーグナー/「タンホイザー」序曲、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、ワーグナー/「パルジファル」第一幕への前奏曲、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲というプラグラムだった(Hunt)。
1936/04/08 コンツェルト・ハウスでウィーン交響楽団とバッハ/「マタイ受難曲」(Hunt)。この年の復活祭の日は4月12日である。Wiener Symphoniker Archives

 4月14日以降、クナッパーツブッシュは初めてウィーン国立歌劇場に客演した。14日から26日までの間、「ニーベルンクの指環」チクルスを指揮、間の22日には「ばらの騎士」を指揮した。

1936/04/14 ワーグナー/「ラインの黄金」 (part of a complete RING) (Kalenberg, Graarud, Kipnis, Anny Konetzni) ウィーン, ウィーン国立歌劇場. NFP dated 16.04 page 8
1936/04/16 ワーグナー/「ワルキューレ」 (Kalenberg, Jerger, Lotte Lehmann, Anny Konetzni, Kerstin Thorborg) ウィーン, ウィーン国立歌劇場 . Radio Wien broadcasted it live starting at 18:25
1936/04/18 ワーグナー/「ジークフリート」 (Kalenberg, Anny Konetzni, Hermann Wiedemann, Enid Szantho) ウィーン, ウィーン国立歌劇場.
1936/04/22 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 (Lotte Lehmann, Berthold Sterneck, Eva Habradova, Elisabeth Schumann, Koloman von Pataky) ウィーン, ウィーン国立歌劇場. Wiener Zeitung dated 24.04 page 11, Günther Lesnig’s DATA
1936/04/26 ワーグナー /「神々の黄昏」 (Kalenberg, A. Konetzni, Wanda Achsel, Rosette Anday) ウィーン, ウィーン国立歌劇場
(Rene Trémine DATA)

 ウィーンの聴衆はクナッパーツブッシュのオペラを歓迎し、ウィーンへの客演は大成功だった。
この時の録音が断片ながら残っており、聞くことができる。

 客演の終わった4月29日、ウィーンで大成功を収めたクナッパーツブッシュに対し才気煥発でやる気満々のウィーン国立歌劇場監督エルヴィン・ケルバー(1891-1943)から破格の条件で首席常任指揮者就任への依頼があり、クナッパーツブッシュはさっそく帝国劇場院にウィーンでの活動許可を申請する。
 クナッパーツブッシュがウィーン国立歌劇場で成功したことには理由があった。
 その頃のウィーン国立歌劇場はフェリックス・ワインガルトナーとドイツを逃れてオーストリアに活動の場を求めたブルーノ・ワルターが指揮をしていたが、両者ともワーグナーがあまり得意とは言えず、また、ワインガルトナーはリヒャルト・シュトラウスのオペラは「現代音楽」だとして嫌い、ウィーン国立歌劇場の自分のレパートリーからはずしてしまっていた。ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスも聴衆には受けがよい。ウィーンの評論家や聴衆に対し、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが得意なクナッパーツブッシュは、大きな歓迎を受けることになったわけだ。
 ウィーンでの活動が許可されれば、クナッパーツブッシュは一息つける。ところが5月15日、クナッパーツブッシュの認可申請に対し、帝国劇場院はストックホルムでの客演許可は下したものの、ウィーンでの指揮活動の申請は却下してしまう。
 クナッパーツブッシュに助け船を出したのは、前年のオーストリア危機の時、ヒトラーの特命大使としてウィーンに着任していたパーペンだった。パーペンはそのままドイツ公使としてウィーンに残っていた。5月29日、ドイツ公使パーペンは、「クナッパーツブッシュのストックホルム客演は認めながら、ウィーンは認めないのはおかしい。オーストリア首相シュシュニク(ウィーン国立歌劇場と密接な関係があった)は不快感を示しており、外交交渉に差し障る」(奥波本)とゲッベルスに報告する。
 ところが6月6日、ヒトラーから直々に「クナッパーツブッシュは絶対にウィーンで指揮してはならない」と指示が出る。ヒトラーがクナッパーツブッシュを嫌っていたということもあるが、実は外交上の理由も絡んでいた。
 ムッソリーニの斡旋で、「ドイツ=オーストリア友好協定」が結ばれる寸前だったからである。パーペンの「外交交渉に差し障りがある」という言葉はその時のドイツ・オーストリアの微妙な関係を物語っており、ヒトラーはパーペンのオーストリアでの活動とは別に、オーストリアに揺さぶりをかけようとしていたひとつの現れが「クナッパーツブッシュは絶対にウィーンで指揮をしてはならない」ということばだったと考えられる。
 7月11日、「ドイツ=オーストリア友好協定」は無事、結ばれた。
 7月27日、ゲッベルスから「(クナッパーツブッシュの)ウィーンその他での契約はもはや支障なし」と許可が出る。クナッパーツブッシュはようやくオーストリアを含め、ドイツ国外での活動ができるようになった。
 オーストリアでは依然、シュシュニク政権によってナチは禁止されており、オーストリアを支援するフランスやイタリアとの外交問題もあった。ヒトラーとしては、「ドイツ=オーストリア友好協定」が結ばれ、対イタリアとの関係、今後のオーストリア併合という秘密の大きな計画に向けて、あまりクナッパーツブッシュ問題を引きずりたくはなかったのだろう。ナチ・ドイツはまだ再軍備の真っ最中であり、外国と事を構えるには機が熟していなかった。
 この夏の間、ウィーン国立歌劇場ではトラブルがあった。
 ウィーン国立歌劇場音楽総監督であったフェリックス・ワインガルトナーが8月に離任してしまったのだ。
 ワインガルトナー離任の後、正式な音楽総監督ではなかったが、ワルターがほぼその任を引き継ぎ、ウィーンでの活動を許可されたクナッパーツブッシュがワルターを補佐してゆく形になった。次の正式な総監督は1943年、カール・ベームの就任までなかった。
 ワインガルトナーは、国立歌劇場管弦楽団の選りすぐりで組織されているウィーン・フィルでも、さまざまな問題を起こした。
 ワインガルトナーは高齢にも関わらず、融通の利かない頑固さでオーケストラを統率しようとしたため、オーケストラが反発していたことがそもそもの発端である。ウィーン・フィルのツアー中、フランスでワインガルトナー自身が練習をすっ飛ばしておきながら、ある町で聴衆に向かい「今日は練習不足で」と演説したことが、オーケストラの怒りをさらに大きくする結果になった。
 しかし、ワインガルトナーとウィーンはこれで完全に関係が切れてしまったわけではなく、ワインガルトナーは客演指揮者として残ることになった。

【ワルターの動き】
 ワルターは1922年にバイエルン州立歌劇を辞任したあと、ベルリン市立歌劇場音楽監督(シャルロッテンブルク)に就任する。1924年、ベルリンのふたつのオペラハウスが合併、州立歌劇場と対抗するようにベルリン市立歌劇場がオープンする。ワルターはその市立歌劇場の音楽監督として迎えられた。1925/26年が最初のシーズンである。当初は華々しくスタートした市立歌劇場だったが、年を追う毎にワルターと支配人兼指揮者ハインツ・ティーティエンとの確執が深まってゆく。
 ティーティエンはバイロイトやベルリン州立歌劇場とも契約しているドイツ・オペラ界の「影の実力者」である。州立歌劇場には別メニューとしてクレンペラーが率いるクロル・オペラがオープンしたため、ベルリンではオペラがますます乱立気味だった。その人事の政治的な駆け引きなどで、次のシーズンから波乱含みになっている。ワルターは徐々に市立オペラの運営方法に嫌気がさし、1929年に辞任する。クナッパーツブッシュの第九の演奏に対するパンダーの批評が元になった「批評家裁判」の頃と時期的に符合する。
ワルターは1925年から1929年にかけて、ドイツと念願のアメリカを往復して仕事をした。アムステルダム、モスクワ、ローマ、レニングラード、ミラノ、ワルシャワへも客演し、ロンドンにもたびたび出演、オペラ指揮者、コンサート指揮者として世界的な地位を確立してゆく。
 ベルリン市立歌劇場を辞任したワルターは、1929年、フルトヴェングラーが「ベルリン・フィルとふたつのオーケストラを受け持つのは無理」と放り出したライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に迎えられた。ワルターはそれまでもライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とたびたび共演している。
 ワルターの主舞台は、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ロンドンのコヴェント・ガーデン、そしてザルツブルク音楽祭とウィーンだった。ベルリン・フィルとも「ブルーノ・ワルター・コンサート」は継続している。
 しかし、ドイツではナチが1930年に総選挙で第一党となり、ワルターらユダヤ人を取り巻く環境は悪化してゆく。ワルターは1933年、ヒトラー内閣の成立、国会議事堂放火事件を評して「地獄の門はすでに開かれていたのである」と「主題と変奏」に書いている。
 あげくに、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートとベルリン・フィルの「ブルーノ・ワルター・コンサート」がナチによって妨害され、脅迫されて開催できなくなってしまった。ワルターは活動の場をウィーンに移す。ワルターは亡命せざるをえなかったのだ。クナッパーツブッシュが1936年にドイツの楽壇を追放され、ウィーンに活動の場を移さざるを得なかったとき、ワルターもまたウィーンにいた。

 クナッパーツブッシュは9月にウィーン国立歌劇場に再登場する。9月13日、「タンホイザー」からその指揮を始めた。以後、クナッパーツブッシュのウィーンでの活動が本格化する。

? 1936/08.10 ワーグナー / 「ローエングリン」(Torsten Ralf, Luise Helletsgruber, Ludwig Hofmann, Anny Konetzni) ウィーン (Festive performance on the occasion of the 7th International Bruckner-Fest) Neues Wiener Journal dated 09.10 page 10
1936/09/13 ワーグナー / 「タンホイザー」 (Max Lorenz, A. Sved, Anny Konetzni, Lotte Lehmann) ウィーン, ウィーン国立歌劇場. Wiener Zeitung dated 15.09 page 7
1936/09/14 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」 (Anny Konetzni, Ella Flesch, Elisabeth Schumann, Berthold Sterneck )ウィーン, ウィーン国立歌劇場 Günther Lesnig’s DATA
1936/09/30 R.シュトラウス/「エレクトラ」Elektra (Rosette Anday, Rose Pauly, Hilde Konetzni, Graarud) ウィーン, ウィーン国立歌劇場. Broadcasted by RAVAG. Wiener Zeitung dated 02.10 page 9, Neues Wiener Journal dated 01.10 page 13 (《 Elektra unter Knappertsbusch 》) 新演出 Günther Lesnig’s DATA
1936/10/02 ウィーン演奏協会 ウェーバー/「オベロン」序曲, シューベルト/交響曲第6番, ベートーヴェン/交響曲第4番 [RAVAG. 20:35. Source : Vienna Symphony Orchestra website] Wiener Symphoniker Archives
1936/10/05 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」 . ウィーン Günther Lesnig’s DATA
1936/10/08 ワーグナー/「ローエングリン」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1936/10/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives, Günther Lesnig’s DATA
1936/10/19 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1936/10/21 R.シュトラウス「エレクトラ」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 Günther Lesnig’s DATA
1936/10/28 グルック/「ドン・ファン」(バレエ音楽)& R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 新演出
1936/10/13 ワーグナー : 「ワルキューレ」 ウィーン
1936/10/15 R.シュトラウス : 「ばらの騎士」 ウィーン
1936/10/19 ワーグナー : 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 (Vera Mansinger, Josef Kalenberg, Kerstin Thorborg, Herbert Alsen ) ウィーン Neues Wiener Journal dated 20.10 page 11
1936/10/21 R.シュトラウス : 「エレクトラ」 ウィーン
1936/10/28 グルック/「ドン・ファン」(バレエとパントマイム), R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」 ウィーン. Wiener Zeitung dated 30.10 page 9  Günther Lesnig’s DATA
1936/10/29 ワーグナー : 「タンホイザー」 (Horst Wolf) ウィーン
1936/11/06 グルック/「ドン・ファン」(バレエとパントマイム), R.シュトラウス : 「ヨゼフの伝説」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA
1936/11/07 R.シュトラウス : 「ばらの騎士」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA
1936/11/09 グラーツに客演 ヘンデル/コンチェルト・グロッソ op.3, R.シュトラウス/「ドン・ファン」,ベートーヴェン/交響曲第3番, グラーツ市立歌劇場管弦楽団, Partially broadcasted from 21:00 to 22:10. Radio Wien dated 06,11 page 6 (3 photos). NFP dated 17.11 page 9
1936/11/12 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」、プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA Wiener Staatsoper Archives
1936/11/14 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 (Alfred Jerger, Richard Tauber, Hilde Konetzni, Alexander Kipnis). ウィーン Neues Wiener Journal dated 15.11 page 26
1936/11/16 グルック=R.シュトラウス バレエ音楽の夕べ. グルック/「ドン・ファン」(バレエとパントマイム), R.シュトラウス : 「ヨゼフの伝説」 ウィーン Günther Lesnig’s DATAウィーン [obviously same works as on 28.10]
1936/11/29 ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス/交響曲第3番,シュターミッツ/ヴィオラ協奏曲 (Gösta Björk), ベートーヴェン/交響曲第4番
1936/12/02 ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」,シューマン/ピアノ協奏曲 (Myra Hess), R.シュトラウス/アルプス交響曲
1936/12/19 ワーグナー : 「ローエングリン」 ウィーン
1936/12/21 グルック/「ドン・ファン」(バレエとパントマイム), R.シュトラウス : 「ヨゼフの伝説」ウィーン Günther Lesnig’s DATA
1936/12/25 Mozart : 「ドン・ジョヴァンニ」 ウィーン
1936/12/26 R.シュトラウス : 「ばらの騎士」 ウィーンGünther Lesnig’s DATA
1936/12/29 R.シュトラウス「エレクトラ」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955,Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

その時の演奏録音がやはり断片ながら残っている。

 クナッパーツブッシュは活動の場をミュンヘンからウィーンに移さざるを得なかったが、自宅はミュンヘンに置いたまま、ウィーンのホテル・ザッハーを常宿とした。

 2月6日~16日 リヒャルト・シュトラウスの居館があるガルミッシュ=パルテンキルヒェンで、オリンピック第4回冬季大会が開催される。
 3月7日、ドイツ軍は非武装地帯ラインラントに進軍、ライン河を渡る。フランス軍の反撃があれば、すぐに撤退する手筈だった。ヒトラーはフランス軍の反撃を胃を痛めるほど恐れたが、反撃はなかった。ドイツの再軍備は、まだ充分ではなかったからである。ヒトラーはドイツ国会を解散し、ドイツ国民にラインラント進駐とヒトラーの対外政策の信を問うという信任投票を行った。3月29日の投票の結果、有権者の99%が投票し、98%がヒトラーを支持した。
 フランスはドイツ軍のラインラント進駐に対し抗議するも、ロカルノ条約加盟国(1925年スイスのロカルノで、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7か国が締結した一連の欧州相互安全保障条約)のドイツ以外の国の足並みは揃わなかった。どの国も戦争状態に入ることを極度に怖れていたからである。フランスでは左翼が力を強め、対外政策よりも、国民の目は国内に向いていた。6月4日には、人民戦線内閣が成立している。
 7月11日、ムッソリーニの斡旋により「ドイツ=オーストリア友好協定」が結ばれる。オーストリア・ナチに対するシュシュニク政権の譲歩も、友好協定の秘密条項に盛り込まれた。ムッソリーニのこの斡旋により、緊張関係の続いていたドイツとイタリアは急接近を始め、10月にはムッソリーニの娘婿で外務大臣のチアノが、この夏ベルヒテスガーデンに完成したヒトラーの別荘「ベルクホーフ」を訪れ、ドイツとイタリアに密接な関係が結ばれて行く。
 7月17日~18日、スペインでは2月16日の総選挙で勝利を収めた左翼人民政権に対し、フランシスコ・フランコの反乱軍による内乱が勃発する。フランコから要請があり、バイロイト祝祭音楽祭出席の後、ヒトラーはフランコへの支援を決定する。ただ、表向きはスペイン内乱不介入の立場を取った。
 8月1日~16日、オリンピック第11回ベルリン大会開催。冬夏のオリンピックが同一国で開催されるのは希な出来事だった。また、現在のオリンピックの聖火リレー、派手な開会式や閉会式、大会の映画製作などは、この第11回ベルリン大会を範としている。レニ・リーフェンシュタールは「意志の勝利」に続いて、オリンピックを映画化した「民族の祭典」でも監督を務め、大会の内容は別にして画期的で映画史上に残る傑作を創った。
 また、ナチ・ドイツは海外の目を逸らすため、オリンピックの期間中、ユダヤ人への弾圧を一時的に緩める。ドイツ国内のユダヤ人にとって、ほんのひとときの平和な時期だった。
 10月25日、ドイツ・イタリアの「枢軸協定」が成立する。11月1日には、ムッソリーニはイタリア国内に向けてドイツ・イタリアの友好関係を協調する演説を行った。
 また、スペイン内乱に対し、ドイツ空軍は「コンドル軍団」を派遣、再建されたドイツ空軍の実戦を体験させる目的があった。ヒトラーとムッソリーニは11月18日にフランコ政権の承認声明を発表する。スペイン内乱はスペイン全土を巻き込み、泥沼の様相を呈して行く。
 11月25日、「日独防共協定(反コミンテルン協定)」調印。翌年、イタリアも参加する。対外的に孤立を深めて行く日本やドイツの宣伝政策だった。

 1936年、昭和11年の日本では、二・ニ六事件が起こる。皇道派の青年将校たちによる軍事クーデターだった。青年将校たちは自分たちの軍の兵士たちを集めて、大規模な軍事行動を行った。
 青年将校達の軍は、陸軍内で力を持ちつつある統制派と政府に対して攻撃を開始する。岡田啓介首相襲撃(間違って義弟の秘書官松尾伝蔵歩兵大佐が殺害される。岡田首相は逃れて無事だった)、斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監は殺害され、鈴木貫太郎侍従長、牧野伸顕前内大臣は襲撃され重傷、もしくは負傷した。クーデター軍は朝日新聞社も襲撃する。
 ところがこのクーデターに対し陸軍中央部の対応は内輪の起こした事件のため優柔不断で、天皇は激怒してしまう(「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、何の恕すべきものありや」)。
2月27日午前2時に戒厳令が布告された。皇道派の青年将校たちの軍は反乱軍と規定され、排除されることになった。
2月29日、ビラやラジオ放送で反乱軍排除の天皇の勅命が降りたことを、一般市民、反乱軍兵士に知らせた。反乱軍の兵士に対しては原隊への帰順を求めた。討伐部隊と対峙せざるを得なくり進退の窮まった反乱軍は兵士たちを原隊に返し、反乱を首謀した青年将校たちは逮捕され、二・二六事件は一応の終結を見た。前年、同じ皇道派で相沢事件を引き起こした相沢中佐、反乱を主導した青年将校たち、反乱を支援した思想家北一輝、西田税たちは7月から8月にかけて次々と処刑されていった。
 この事件で広田広毅内閣が成立、7大国策14項目が発表され、日本の進路が決定された。
 4月18日、「日本国」、「大日本帝国」と呼称が統一されてこなかった日本は海外に向けて正式に「大日本帝国」となり、天皇は「大日本帝国天皇」と呼称することが公表された。
 この年の出来事として、有名な阿部定事件が起こっている。
 中国では反日戦線が築かれつつあった。関東軍に殺された張作霖の息子、張学良は蒋介石に掃共戦続行を指示されていたが、この年の12月12日にその指示のため西安に来ていた蒋介石を逆に拘束、中国共産党の周恩来を交えて蒋介石を懐柔し、第二次国共合作は日本に対抗するための足がかりとなった。

タイトルとURLをコピーしました