1939/01/02 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1939/02/04 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1939/02/08 ヴェルディ/「アイーダ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/02/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 新演出
1939/2/25,26 ウィーン・ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。ベートーヴェン/ 交響曲第4番、シューベルト/イタリア風序曲、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
1939/2/25 夜 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1939/2/28 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」、プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA,Wiener Staatsoper Archives
1939/03/01 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1939/03/05 ワーグナー/「ジークフリート」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/03/08 マイヤール/「隠者の古鐘(ヴィラールの竜騎兵)」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 新演出
1939/03/10 ウィーン・フィルと放送用録音。モーツァルト、グリンカ、リヒャルト・シュトラウス、チャイコフスキー
1939/03/10 夜 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン ウィーン Wiener Staatsoper Archives
3月15日、ズデーテン地方に軍を進駐させたヒトラーは、スロヴァキアのチェコからの完全独立をそそのかし、さらにチェコ大統領ハーハを恫喝することによってドイツ=チェコ合併協定に調印させる。そのことにより、ドイツ軍はチェコに侵入し、プラハを無血開城した。もともとプラハはズデーテン地方に囲まれており、占領は時間の問題だった。ヒトラーは占領したチェコを「ボヘミア=モラヴィア保護領」と名付け、チェコスロヴァキアは解体した。
一方、3月24日にポーランドでは多くのドイツ人が住む自由都市ダンツィヒ(グダニスク)周辺にポーランド軍が終結し、ドイツに対抗しようとした。このダンツィヒでの出来事がヒトラーにポーランド侵攻の決断をさせた(全記録)。
当時のポーランドも民主的国家とはとても言えなかったが、ドイツとソヴィエトに挟まれ、どちらにつくか、あるいはどちらにもつかないという風見鶏のような政策が災いした。ヒトラーは元々ポーランドを同盟国としてその傘下に入れ、合同して対ソヴィエト戦に臨む方針だったが、ポーランドはそれを拒否した。
では、対ドイツとして他のヨーロッパ諸国やソヴィエトと同盟を結ぶのかといえば、イギリス、フランス、ソヴィエトとの相互条約も拒否している。
ポーランドは自国の国際的立場と軍事力を過大評価していた。そのことが墓穴を掘る大きな要因となる。
さらにポーランド国内ではドイツ人に対する圧迫も加えていた。ポーランド在住ドイツ人はポーランド人による暴状の除去をポーランド大統領に要請したり、ワルシャワでは「ドイツ人排斥示威運動」が開始されていた。
3月28日、スペインのフランコ反乱軍はマドリードに入城、翌29日、フランコは内戦終結を全ヨーロッパに宣言する。これによりフランコはスペインの政権を掌握した。
4月3日、ヒトラーは9月1日以降にポーランドに侵攻する「白色作戦」を極秘発令する。戦争はポーランド国内だけで行われる予定だった。
1939/4/03 クナッパーツブッシュはベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。プフィッツナー/管弦楽のためのスケルツォ、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番(p:ルブカ・コレッサ)、ブラームス/交響曲第3番
4月6日、「イギリス=ポーランドの相互援助協定」調印。ドイツに対する弱腰外交と非難されたイギリスのチェンバレン首相は、対ドイツ強硬政策へと方針を転換していた。ヒトラーとその側近たちはこのイギリスの変節を読めなかった。
ヨーロッパの情勢は緊迫度を増していたが、表面上は長閑である。
1939/04/06 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives この録音の断片が残っている。
1939/04/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1939/04/10 ヴェルディ/「アイーダ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
4月17日、ヒトラー、オストマルク(オーストリア)の軍事演習を視察。この時にドイツ公使だったパーペンをトルコ大使に任命する。いわば左遷である。
5月7日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルと予約演奏会。モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ベートーヴェン/交響曲第7番。
5月21日、ベートーヴェン:交響曲第9番(エルナ・ベルガー、マルガレーテ・クローゼ、ヘルゲ・ロスヴェンゲ、ルートヴィヒ・ヴェーバー、デュッセルドルフ市音楽協会合唱団、ライト市音楽協会合唱団、デュッセルドルフ教員合唱協会合唱団、ライト市男声合唱協会合唱団、ベルリン・フィル)デュッセルドルフ・トーンハレ、カイザー・ザールにて。1939年帝国音楽週間の最終日を飾る公演。
ペーター・ムックの「ベルリン・フィルの100年第3巻」ベルリン・フィルは、1939年5月、フルトヴェングラーの指揮により、ドイツとイタリアへ楽旅、5月15日にミュンヘンで公演、5月17&18日にはフィレンツェで公演、その後、1939年5月21日、デュッセルドルフでコンサートを持ったと書かれているそうです(292ページ)。この楽旅での曲目については記載がないものの、ルネ・トレミンのコンサート・リスティングによれば(50ページ)、フィレンツェでは「マタイ受難曲」を演奏した由。
5月21日のデュッセルドルフ公演は、従来、一般には、フルトヴェングラーが指揮したと見なされてきたようです。(石橋邦俊さんより 2010/05/28)
5月22日、「ドイツ・イタリア鉄鋼条約」調印。いわゆる枢軸同盟の完成である。お互いの国が戦争を協力して行うという条約だった。
8月3日から クナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭で指揮。この年、フルトヴェングラーは登場せず、クナッパーツブッシュの他、クレメンス・クラウスが音楽祭に復帰、カール・ベーム、トゥリオ・セラフィンというメンバーだった。
1938にザルツブルク音楽祭はまだ盛大だったが、1939年にはその性格を大きく変え始めている。ヒトラーとナチの関心の中心はバイロイト祝祭音楽祭であり、ザルツブルク音楽祭はドイツの一地方、オストマルクでのフェスティバルに過ぎなくなっていった。「ドイツの報道機関はザルツブルクをミュンヘンやデュッセルドルフ、フランクフルト、ハイデルベルクなどのフェスティバルと同等の比重で扱うよう指令されていた」(音楽祭の社会史)。
クナッパーツブッシュのこの年の担当はウェーバー/魔弾の射手」、モーツァルト/「フィガロの結婚」だった。ザルツブルク音楽祭は8月31日までで、クナッパーツブッシュは最後までザルツブルクで指揮をした。8月3日ウェーバー/「魔弾の射手」、8月13日モーツァルト/ 「フィガロの結婚」の録音の断片が残っている。8月6日にはシンフォニー・コンサートでベートーヴェン/交響曲第9番を指揮した。
1939/08/03 ザルツブルク音楽祭 ウェーバー/「魔弾の射手」
1939/08/06 シンフォニー・コンサートでベートーヴェン/交響曲第9番
1939/08/13 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「フィガロの結婚」
夏の期間中、オーバーザルツベルクで執務を行う習慣のヒトラーは、8月9日、ザルツブルク音楽祭に登場して、観客の歓呼に迎えられる。ヒトラーは9日「ドン・ジョヴァンニ」、14日「後宮からの誘拐」を鑑賞している。両日とも指揮は前年ザルツブルクに初登場、大成功を収めたカール・ベームだった。
ヒトラーはオーバーザルツベルクの私邸ベルクホーフで、外国の外交官を招きながらのザルツブルク臨席であったようだ。「独ソ不可侵条約」の締結、ポーランドへの侵攻作戦と、この後すぐに続く大きな出来事への重大な局面を向かえていた。ヒトラーはオペラやコンサートを聞くことは「唯一の愉しみ」と語っていた。息抜きであったのか。
ザルツブルク音楽祭に臨席したヒトラーだったが、むろんクナッパーツブッシュの「魔弾の射手」と「フィガロの結婚」は無視したようである。
8月23日、「独ソ不可侵条約」調印。あまりに唐突な条約の締結に、世界の首脳に衝撃が走る。この条約締結はスターリンの単独行動で、ソヴィエト国内でも極秘裏で進められた。世界的にはドイツに対抗するためのイギリス、フランス、ソヴィエトの同盟が結ばれるものと思われていたからだ。
ドイツはポーランドへの戦争計画を既にイタリアに表明しており、ムッソリーニは軍備不足からポーランド侵攻に難色を示していた。イタリア外相チアノは粘り強く戦争開始の延期をヒトラーやリッベントロップに申し入れているが、ことごとく拒否されている。「独ソ不可侵条約」はソヴィエトの脅威がなくなったドイツのポーランド侵攻を助長するものであり、戦争は避けられなくなってしまった。そのためイタリアは震撼する。ドイツが戦端を開いても、イタリアはなかなか戦争に参加しようとはしなかった。
イギリスはポーランドがドイツに攻撃された場合、フランス、ソヴィエトと協力体制でドイツに対抗しようといろいろ画策をしていたが、これも無駄に終わった。
日本では「日独伊防共協定」の一角が崩れたことに対して、どのように本国に報告すべきか、外交官たちは困惑した。実際に、日本ではドイツに対し「日独伊防共協定」違反だと抗議し、日独伊三国同盟交渉打ち切りが閣議決定されたほどだった。時の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明し、総辞職してしまう。
ヒトラーにとっての関心事はポーランド侵攻後の戦線の確保だけであり、ソヴィエトとの条約締結は、ソヴィエト軍によるポーランド援助を失わせてしまった。これにより、ポーランド軍とソヴィエト軍合同の反撃はなくなる。むしろ、ヒトラーは秘密条項でソヴィエトに対してポーランドの分割統治を持ちかけ、スターリンはこれを歓迎をした。
ちょうど、極東ではソヴィエトと日本が戦争状態に入っており(ノモンハン事件)、ソヴィエトは多くの戦力を外蒙古自治国に注いでいた。二方面作戦を避けたいソヴィエトにとって、ドイツの申し入れは渡りに船だったといえる。
8月27日、ドイツ国内で、主要食糧品、石鹸、家庭用石炭、紡織商品、靴などの戦時体制の配給制が始まる。農産物も公的管理下に置かれる。
1939/8/31 ザルツブルク音楽祭の最終日モーツァルト:「フィガロの結婚」
【第二次世界大戦の勃発】
クナッパーツブッシュがザルツブルク音楽祭の最終日に(8月31日)「フィガロの結婚」を指揮した翌日、9月1日午前4時45分、ドイツ軍はポーランドへの攻撃を開始する。第二次世界大戦の火蓋が切られた。
シュトラッサーはザルツブルク音楽祭の後、まだザルツブルクに残っていてその報に接した。
「9月1日の早朝、私の宿所の奥さんが驚愕の叫び声で私を起こした。『もう撃ち合いが始まっています!』第二次大戦が始まっていた。
私はウィーンに戻った。最初の食糧切符が配布されており、市中は来るかもしれない空襲に備えて暗くされており、そして私たちはちょうど同じように暗い前途を予見したのである」(「栄光のウィーン・フィル」)。
歌劇場のシーズンが9月に始まることを考えると、9月1日の戦争勃発というのは、なんだか悪い冗談のようにも感じる。ヒトラーとナチにとって新たなシーズンの開幕という意味があったのだろうか?
ワルターは音楽祭のためルツェルンにいた。ルツェルン音楽祭が終わり、ワルターはスイスの自宅に戻る。まだアメリカに亡命する前で、自宅はスイスのルガーノに構えていた。その時の暗澹たる気持ちをワルターは「主題と変奏」に書いている。
「1939年9月1日にドイツ軍はポーランドに侵入した。その頃のことについていまも覚えているのは、ゾッとしてルガーノに着いたときから、ここ(ヨーロッパ・Syuzo註)を去ろう、としか感じていなかったことである。私はヨーロッパでの契約を解消しようとつとめ、どこでも理解を持って親切にこれを了承して貰えた」(「主題と変奏」)。
9月3日、イギリスは「イギリス=ポーランドの相互援助協定」のため、ドイツに宣戦を布告する。ヒトラーは、チェンバレンにすぐには戦争をする意志はないだろうとたかをくくっていたが、その思惑がはずれた。フランスもイギリスに続いて対ドイツ宣戦布告をする。翌9月4日にはイギリス軍のポーランド支援軍がフランスに上陸を開始した。
続いてイギリスやフランスと関係が深いニュージーランド、モロッコ、南アフリカ、カナダが対ドイツに宣戦を布告。ドイツ軍のポーランド侵攻はまたたくまに世界中に伝搬して行った。
ところが、ドイツと「鉄鋼条約」を結んだイタリアのムッソリーニは戦争不参加を決め、スペイン内乱に勝利したフランコもドイツと友好関係を保ちつつ中立を宣言、アメリカも中立を宣言した。
9月5日、ドイツ軍とフランス軍はライン河畔で戦闘を開始するが、西部戦線での戦闘は散発的で、大規模な両軍の衝突はまだなかった。
9月9日、ドイツ軍はワルシャワに対し総攻撃を開始する。
9月17日、ソヴィエト軍は「独ソ不可侵条約」の附属秘密協定に基づいて東方からポーランドに侵入、ポーランド国内に混乱が巻き起こった。ソヴィエト軍の侵攻の表向きの理由は同朋保護とポーランド支援だったが、実際にはポーランド西部をドイツ、東部をソヴィエトが占領するという計画だった。このときスターリンの指令により、ポーランド軍の将校たち約1万5千人を拘束した。そのうち4234人が虐殺される(虐殺が行われたのは1940年と推測されている)。「カチンの森」事件と呼ばれる。「カチンの森」事件は長い間その真相は謎に包まれたままだった。
9月20日、ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ、ダンツィヒ大管区指導者フォルスターが集まり、占領後のポーランド統治に関して打ち合わせが行われる。ポーランドをドイツ領とポーランド総督領に分割、ポーランド人の劣等民族の扱いや、ポーランド在住ユダヤ人の集中隔離計画がこの時に確定した。おそらく、その後のユダヤ人絶滅計画も、この時具体化の方向で話が進められたものと思われる。
9月27日、ワルシャワ陥落。ドイツ軍の攻撃方法を「電撃戦」という。航空機による爆撃、機甲部隊による戦線深くまでの侵攻がものの見事にポーランド軍を粉砕した。ポーランド軍の中心は騎兵部隊であり、近代戦に対する軍の拡充、装備の更新は遅々としていた。ポーランドはそのような自国の軍事力に対して過大評価をしていたのである。
10月2日、抵抗を続けていたヘラ軍港のポーランド軍が降伏。ポーランド戦は終結し、亡命政府はできていたものの、実質上ポーランドは消滅する。
1939/10/15 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガーフィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/10/18 ヴェルディ/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/10/19 ヴェルディ/「アイーダ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/10/24,25 クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。J.S.バッハ/管弦楽組曲第3番、J.S.バッハ/カンタータ第50番、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 (p:フレデリック・ウェーラー)、ベートーヴェン/交響曲第1番 Wiener Symphoniker Archives
1939/10/26 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1939/10/28 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
10月26日、ナチ党の元弁護士でナチ政府では法律顧問だったハンス・フランクがポーランド総督に就任する。総督府はクラクフに置いた。フランクのポーランド着任とともに、ポーランド市民、ポーランド在住のユダヤ人はますます圧迫されることになった。ヒムラー配下のハイドリヒがポーランドに着任、ユダヤ人ゲットー設置の発令、ダビデの星着用の義務など、ユダヤ人絶滅の計画は着々とその準備が進められる。
11月8日、民間人の単独犯行による最初のヒトラー暗殺未遂事件がミュンヘンで発生する。ヒトラーは「ミュンヘン一揆」の記念演説をし、急遽ベルリンに戻るため予定を30分繰り上げて演説会場を後にした。ヒトラーが演説会場を出た10分後に仕掛けられた爆弾が爆発、7名が死亡し、60数名が負傷した。犯人は軍人ではなくナチを憎む36歳のゲオルグ・エルザーという時計修理工だった。
1939/11/02 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1939/11/07 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1939/11/11,12 クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。シューベルト/交響曲第6番、イェルガー/コラールの主題による交響的変奏曲、ベートーヴェン/交響曲第5番
1939/11/11 夜 ウェーバー/「魔弾の射手」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
【ウィルヘルム・イェルガー(イェーガー)】
イェルガーは現在ではその作品はほとんど忘れ去られているが、ウィーン・フィルのコントラバス奏者で作曲もし、音楽学も研究したひじょうに能力のある音楽家だった。
しかし、イェルガーは反ユダヤ主義者でオーストリア・ナチのメンバーだった。SS中尉であったそうだ。
ナチによるオーストリア併合後、イェルガーはウィーン・フィルの楽団長に任命される。イェルガーがウィーン・フィルの楽団長であった期間に、ウィーン・フィルの26人のユダヤ人メンバーが強制収容所に送られるか降格させられるか追放された。現在でもその責任と事実を究明する研究がある。
ただ、ウィーン・フィルのオットー・シュトラッサーは、オーケストラ団員であるイェルガーが責任者でなければ、もっとひどい結果になっていたであろう、と「栄光のウィーン・フィル」に書いている。
イェルガーは第二次世界大戦でドイツが敗北するまで、ウィーン・フィルの楽団長を勤めた。
戦後、非ナチ化裁判にかけられたが無罪となり、音楽学(とりわけブルックナーの作品)の研究を行っている。1978年4月24日、リンツで没した。
1939/11/20 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1939/11/21 ヴェルディ/「オテロ」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 新演出 ドイツ語での公演だった。
1939/11/22 クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」、ブラームス/交響曲第4番 Wiener Symphoniker Archives
1939/11/24 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」、プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA,Wiener Staatsoper Archives
1939/11/27 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルと帝国音楽院の祝典。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲、リヒャルト・シュトラウス,「ばらの騎士」よりを指揮した。
1939/11/28 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ベートーヴェン/交響曲第2番、モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲K.219(vn:ウォルフガング・シュナイダーハン)、リヒャルト・シュトラウス/「家庭交響曲」
11月30日、ソヴィエトはフィンランドに軍事侵入。国際連盟はソヴィエトを除名する。
1939/12/10 ワーグナー/「タンホイザー」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1239/12/16,17 クナッパーツブッシュとウィーン・フィルはポーランドのクラクフで総督ハンス・フランクに招聘され、占領記念祝典に参加する。駅に着いたクナッパーツブッシュ、それを出迎えるナチ将校の写真が残っている。2日間のコンサートの1日目はドイツ精神発揚のためのコンサートで、2日目は慰安のためもあるのか、軽い曲目が選ばれた。ただこの催しにはポーランド人は参加できず、ドイツ人の官僚や軍人、その家族に対してのものだった。
1939/12/16 ベートーヴェン/交響曲第2番、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」、ドイツ国家の歌(Huntではブルックナー/交響曲第4番だけが記載されている)。
1939/12/17 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、シューベルト/「ロザムンデ」よりバレエ音楽、モーツァルト,3つのドイツ舞曲 K.605、ヨハン・シュトラウス2世/「こうもり」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「人生を歓べ」、ヨハン・シュトラウス2世 &ヨーゼフ・シュトラウス/ピツィカート・ポルカ、ヨハン・シュトラウス2世/「ドナウの精」。
ウィーン・フィルのオットー・シュトラッサーはこの演奏旅行に参加しなかったのか、「栄光のウィーン・フィル」にはその記載がない。Huntでは12月にウィーン国立歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」があったという記載がある。
昭和14年の日本、5月にソヴィエトと満州国境、外蒙自治国で紛争が勃発する。関東軍の予想をはるかに超える圧倒的な軍事力でソヴィエト軍は関東軍を攻撃した。8月20日には関東軍は壊滅的な被害を出し、戦闘を続行できなくなる。9月15日、休戦協定が成立する。「ノモンハン事件」と呼ばれる。ソヴィエト軍の方が関東軍より被害が大きかったという資料もあるが、戦闘の勝敗は被害の多寡で決まるものではない。
中国国内では戦線を拡大し続ける日本だったが、中国軍の抵抗は激しく、またあまりにもその土地は広大だった。日本国内では中国を支援するイギリスに怨嗟の声が挙がっている。
7月15日には「国民総動員法」第4条に基づき、「国民徴用令」が実施された。
12月26日、朝鮮人に対して「創氏改名」の強制法制化が行われる。朝鮮人は日本人の名を名乗らなければならなくなった。 また、日本国内は戦争遂行のために統制経済政策がとられており、必要な物、欲しい物がなかなか手に入りにくくなっていた。そのため、各地に闇市が数多くでき、当局の取り締まりとのいたちごっこが行われるようになっている。第二次世界大戦後の「闇市」が有名だが、すでに統制経済下のあだ花だったことが分かる。