1943年、クナッパーツブッシュ55歳。
ベルリン州立歌劇場を舞台に華々しく活躍を続けているように見えたカラヤンだが、前年の1942年から、その前途に暗雲がたれ込め始めている。
まず、1942年2月29日のオルフ/「カルミナ・ブラーナ」のコンサート形式の公演を最後に、ベルリン州立歌劇場を降ろされてしまったことが挙げられる。その後も、州立歌劇場管弦楽団とのコンサートは5月のフィレンツェ・ツァー、10月11月のフィルハーモニーでのコンサートは続けられていたが、それは州立歌劇場公演とは別の企画であり、カラヤンは州立歌劇場に帰ることができなくなってしまった。フルトヴェングラーが州立歌劇場に復帰するためである。州立歌劇場音楽監督ティーティエンとカラヤンの話し合いによると、「高度に政治的な事情」が絡んでいた。
「理解しようとしなくてけっこう。これは高度に政治的な問題なのだから。フルトヴェングラーが家に戻ってきたら、きみは裏口から出てゆくしかない」(オズボーン本)。
ヒンデミット事件で州立歌劇場を辞任、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの首席指揮者になっていたフルトヴェングラーは、1942年12月7日、爆撃で破壊されたため使えなくなっていた州立歌劇場が再建された再開公演で、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮して復活した。以後、シンフォニー・コンサートではカラヤンは指揮台に立つことはできたが、第2次世界大戦の終結まで、州立歌劇場はフルトヴェングラーとロベルト・ヘーガーに率いられることになる。もっとも州立歌劇場は再爆撃で破壊され、公演回数自体はそれほど多くはなかったが。
カラヤンはイタリアに頻繁に客演していたが、これが当局の印象を悪くしたこと、また、カラヤンはアーヘン市立歌劇場時代に知り合ったソプラノ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚していたが離婚し、1942年10月22日、モデルをしていたアニータ・ギューターマンと恋愛の末、再婚したことが挙げられる。アニータとは既に1939年に知り合っていた。
ところが、アニータには4分の1ユダヤ人の血が流れていたことが問題だった。フルトヴェングラーの州立歌劇場帰還は「高度に政治的な事情」が絡んでいることは、ヒトラーの意向が最も大きく、ゲーリングやゲッベルスの思惑も働いていた。カラヤンはヒトラーの覚えが悪い。その上、4分の1ユダヤ人との結婚は、カラヤンが失脚してゆく上での充分な材料になりうる。後年のジャーナリストの想像とは異なり、カラヤン自身の証言の通り、ナチ政権下ではカラヤンの例外は認められなかったものと思われる。カラヤンは完全な聴聞会が行われ、そこで党からの脱退を宣言したとある(オズボーン本)。
フルトヴェングラーの州立歌劇場への帰還は、1942年の春前に決まっていた。1943年になるとその動きが本格化し、クナッパーツブッシュも1940年こそ3回も州立歌劇場に招聘されたが、翌年からベルリン州立歌劇場に呼ばれなくなってしまった。
ティーティエンから嫌われたのか、カラヤンの意向か、さてまた首都ベルリンの最も権威ある歌劇場に、ヒトラーから嫌われていたクナッパーツブッシュは相応しくなかったと考えられたのか。
東部戦線では大きな動きが起こった。
スターリングラード(現ボルゴグラード)での攻防戦である。モスクワやレニングラード(サンクトペテルスブルク)での攻防戦は地図で見てもなるほどと思えるが、スターリングラードを地図で確認すると「ドイツ軍はこんな所まで進出して戦争をしていたのか」と驚くほど当時のソヴィエトの奥深くでの戦いだった。平面図ではモスクワのはるか南南東、カザフスタンとも近い。ドイツ軍の目的はカフカス(コーカサス)地方の油田確保、ソヴィエト軍需産業の破壊だが、その上にヒトラーはスターリンの名前を冠した都市の占領にこだわった。
ただ、都市の連なる地域での電撃戦は極めて有効だが、広大でしかも地形の入り組んだボルガ川流域では、電撃戦の効果はそれほど大きくなかった。北部のレニングラードでも攻防戦が続いており、ドイツ軍はそちらにも戦力を割かなければならなかったし、ドイツの軍需産業は、強制労働力となっていたユダヤ人をチェコやポーランドの強制収容所に大量に移送したためや、相次ぐ連合軍の爆撃のため疲弊し始めていた。
1月10日、ソヴィエト軍、スターリングラードのドイツ軍に総攻撃を開始。
1月12日から13日、ソヴィエト軍は北部戦線で、ドイツ軍によるレニングラード包囲網を突破。
またスターリングラード北西部に位置するボロネジで、ドイツの友軍ハンガリー軍が全滅する。
1月18日、ポーランド、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人抵抗組織はドイツ軍に対して市街戦を挑む。ワルシャワ・ゲット-の抵抗は5月8日まで持ちこたえる。。
1月20日、クナッパーツブッシュはベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。オール・ベートーヴェンプログラムだった。「コリオラン」序曲、交響曲第8番、交響曲第2番。
1月22日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルと「ウキウキ気分のコンサート」。スメタナ/「売られた花嫁」序曲、リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲抜粋、ハイドン/交響曲第100番「軍隊」、ウェーバー/「舞踏への勧誘」、ヨハン・シュトラウス2世/「皇帝円舞曲」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/「トリッチ・トラッチ・ポルカ」
クナッパーツブッシュがベルリンで「うきうき気分のコンサート」を指揮したその日、1月22日、スターリングラードではソヴィエト軍の最終攻撃が開始された。零下35度という厳しい寒さの中で、ドイツ軍将兵は補給を断たれ、降伏をしないと餓死するか凍死するか自殺をするしか道がなくなってしまった。ヒトラーの命令は「最後の一兵まで戦え」というもので玉砕を指示、降伏を認めなかった。
1月27日、ドイツ国内で総動員令。16歳から65歳までの男性、17歳から45歳の女性は「強制労務令」により登録義務を課し強制動員する。
1月30日、ナチ政権獲得10周年のこの日、エリー・ナイやカール・ベームとともに戦時勲功十字賞を受賞する。クナッパーツブッシュはベルリン・フィルやウィーン・フィルとの占領地や友好国へのコンサートツアー、また、ドイツ国内での歓喜力行団や国策コンサートへの協力が叙勲の対象になった。
ただ、この受賞は今までの功績に対して与えられると同時に、国民に総力戦を意識させ、「もっとナチ政府と戦争のために協力せよ」という意味が大きかった。
1月31日、スターリングラードのパウルス元帥率いるドイツ軍主力部隊はソヴィエト軍に降伏。降伏直前にヒトラーは「元帥で降伏した者はいない」を理由にパウルスを昇格させている。
2月2日、スターリングラードのドイツ軍残存部隊降伏。ドイツ軍はスターリングラードで敗退する。ドイツ国内ではスターリングラード攻防戦に参加していた第6軍の玉砕を国民に知らせ、ゲッベルスは全ドイツで3日間喪に服すことを宣言、すべてのコンサートや娯楽を禁止した。
2月4日、「総動員令」で外国の強制労働者、捕虜は強制労働のためドイツに移送されることが決まる。
2月7日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。ただし、6日のゲネラル・プローベはキャンセルされた。ハイドン/交響曲第88番、プフィッツナー/「パレストリーナ」第1幕への前奏曲、ブルックナー交響曲第3番。
6日のゲネラル・プローベがキャンセルされた理由としては、スターリングラードでの敗北でゲッベルスがベルリンで3日間の服喪を発表したことにより、ウィーンでもその例に倣ったのかも知れない。服喪が3日からだとすると、6日は1日ずれるが、おそらく服喪の日程に入っていたのだろうか。
2月8日、ソヴィエト軍、クルスクを解放。
2月9日と10日、クナッパーツブッシュはウィーン交響楽団とウィーン楽友協会コンサート。プフィッツナー/カンタータ「ドイツ精神について」
2月18日、ルードウィヒ・マクシミリアン大学(ミュンヘン大学)の反ナチ組織「白ばら」通信のショル兄妹が逮捕される。スターリングラードでの敗北を暴いたビラを撒いた。22日、「白ばら」通信のショル兄妹は斧により斬首(ギロチンである可能性もあるが、ヒトラーは「ギロチンはフランスの処刑方法」だと禁止、斧による斬首の方がドイツ的だとした。ただ、斧による斬首は失敗や事故が多く、刑吏からはあまり好まれていなかった)。
ドイツ国内では他に目立った反ナチ運動がなかったためか(エーデルワイス海賊団やその他の不良集団のヒトラー・ユーゲントへの挑発はあったが)、とてつもなく勇気のある行動であるのは確かだ。
しかし、「白ばら」通信はかなり小規模で散発的な運動だった。ミュンヘンの大学の学生たちは、ショル兄妹の死刑は妥当だとしてデモを行うほど、「白ばら」の反ナチ運動は賛同を得られていなかった。もっともそのデモは官製デモだった可能性もある。7月13日にミュンヘン大学教授フーバー、医学生シュモレル、10月12日医学生ヴィリー・グラーフが処刑される。
2月19日、スターリングラードで敗退し、クルスクを解放されたドイツ軍は、ソヴィエト南部で反攻を開始する。指揮はヒトラーが直々当たった。
2月27日と28日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。モーツァルトセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ベルガー「オイゲン王子の伝説」、リスト/交響詩「前奏曲」、ベートーヴェン/交響曲第2番。
3月1日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルとSS(親衛隊)主宰のコンサート。曲目は2月27,28日の定期演奏会と同じだった。
3月2日夜、イギリス空軍、ベルリンを猛爆撃する。
3月5日、イギリス空軍、ルール工業地帯に大空襲。
3月9日と10日、ウィーン・フィルの定期演奏会の予定をキャンセル。6月26日に延期される。
これはクナッパーツブッシュの記録を追いかけていての想像だが、もしかするとクナッパーツブッシュは14日から開かれる「ニーベルングの指環」チクルスのリハーサルのためバルメン(あるいはその周辺)に滞在中、ルール地方の大空襲に遭いウィーンに帰れなくなったのかも知れない。
3月14-24日、バルメンでベルリン、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーンの選抜メンバーによるワーグナー/ 「ニーベルングの指環」チクルス。国家事業が定着したようだ。
- 3月14日 「ラインの黄金」
- 3月16日 「ワルキューレ」
- 3月21日 「ジークフリート」
- 3月24日 「神々の黄昏」(以上、Huntによる)
3月28日、イギリス空軍、ベルリンを空襲。
3月30日と31日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。リヒャルト・シュトラウス /「ドン・ファン」、モーツァルト/クラリネット協奏曲(cl:アルフレート・ビュルクナー)、ベルリン・フィルシューベルト交響曲第8番 D.944 この日の内、モーツァルト/クラリネット協奏曲が録音されたと記録にあるが、 MELODRAM盤LPには1950年代の録音となっている。詳細は不明。該当する演奏録音は正規未リリース録音に含まれているので、一応リンクは張っておく。
3月31日から4月1日にかけて、ベルリン・フィルとスタジオ録音
4月3日、連合軍によるエッセン大空襲。続いてドイツの各都市も爆撃する。
4月9日、「カチンの森」事件発覚。
1939年ドイツ軍のポーランド侵攻時、ドイツ=ソヴィエトの密約でソヴィエト軍はポーランド東部に侵入、ポーランド人将校約1万5千人を捕虜にした。そのうち4234人の遺体がカチンの森で発見され、ソヴィエトはドイツ軍の犯行と決めつけたが、ソヴィエト軍による犯行との疑いは晴れず、ソヴィエトとポーランド亡命政府との間に亀裂が生じる。1992年、ロシアのエリツィン大統領の時にスターリンの秘密公文書がポーランド政府に渡され、ソヴィエトの犯行が確定する。さらに2010年、当時の機密文書がポーランド政府に引き渡された。
ゲッベルスは1943年当時、反ソヴィエト・キャンペーンの宣伝材料に「カチンの森」事件を使った。
4月10日と11日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィル楽友協会外へ向けてのコンサート。合唱メンバーは楽友協会、ウィーン国立歌劇場合唱団だったので、祝祭的な意味合いがあったと思われる。ヴェルディ/レクイエム
4月18日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルと「ヒトラー生誕記念コンサート」。リヒャルト・シュトラウス/祝典前奏曲、ベートーヴェン/交響曲第9番。
フルトヴェングラーがヒトラー生誕記念コンサートに「脊椎炎」を患い指揮できないと断ったため、クナッパーツブッシュにお鉢が回ってきた。もっともクナッパーツブッシュは戦時勲功十字賞を受けていたのだから、立派にその権威は充たしている。この時のニュース映画の映像が残っている(クナッパーツブッシュの指揮姿を正面からとらえたリハーサルのものと思われる映像と、コンサート当日の客席からの映像が残されており、異なる編集のフィルムが残っている)。
1942年はフルトヴェングラーが断り切れずにヒトラー生誕記念コンサートに担ぎ出されたためクナッパーツブッシュは振っていないが、1940年(正式な誕生記念コンサートの後だったが。「ヒトラー生誕記念週間」だったのだろうか)に続いて2回目のヒトラー生誕記念で第九を振ったことになる。このあと、1944年もヒトラー生誕記念コンサートの指揮がクナッパーツブッシュに回ってくることになる。
クナッパーツブッシュはヒトラーを嫌い、ヒトラーはクナッパーツブッシュを嫌っているはずなのに、他に適当な大指揮者がいなかったからか、クナッパーツブッシュがヒトラーの誕生日を祝うコンサートの指揮をたびたび行わなければならなかったというのは歴史的皮肉というか、ほとんどブラックジョークの世界である。
また、ほとんどベルリンにいないヒトラーは(本営やベルヒテスガーデンにいることの方が多かった)、もちろん自分の生誕記念コンサートには出席していない。
4月、ハノーファー北方に「ベルゲン=ベルゼン強制収容所」を設置。
この収容所は、戦争末期に向けて大きな意味を持つようになる。「アンネの日記」のアンネ・フランクは1944年8月4日にゲシュタポに逮捕され、一度はアウシュヴィッツに移送されるもベルゲン=ベルゼン強制収容所へ再移送となり、この収容所で死亡した。死因はチフスと言われている。
5月10日より6月12日、ベルリン・フィルとフランス・イベリア半島へのコンサート・ツアー。
このツアーはおそらくフルトヴェングラーの代演である可能性が高い。
ベルリン・フィルのイベリア半島ツアーは毎年恒例で、1941年はカール・ベーム、1942年はクレメンス・クラウスが担当した。ところが、クレメンス・クラウスはスペイン、ポルトガルでの外貨を使った買い物が少し度を超しており、当局はもとより、ベルリン・フィルのメンバーからも批判された(ヘルベルト・ハフナー著「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」市原和子・訳 春秋社)。
フルトヴェングラーがクラウスの後を引き継ぐかのように見えたが、ことはそう単純ではなかった。
フルトヴェングラーは「脊椎炎」を理由にヒトラー生誕記念の第九を断ったが、フランス・イベリア半島ツアーはリース本によると「ところが彼は、これらの音楽会を、実を云えば、ただちに取り消すためにのみ引き受けたのである」(リース本によるとツアーの予定は3月と4月になっている)。すなわち、フルトヴェングラーはヒトラー生誕記念コンサートを指揮するのがいやで、自分の病気がどれほど重いかを示すために、さまざまなコンサートやツアーを予定に入れ、それを断っていたのである。リース本によると、フルトヴェングラーの病気は仮病だった。
スペイン、ポルトガルは占領国ではないが、スペインのフランコ政権は中立を宣言しながら、ドイツの数少ない友好国のひとつだった。連合国側に寝返られないためにも、ベルリン・フィルのコンサート・ツアーは大きな意味を持っていたようだ。ただ、フランコは風見鶏のようにドイツ劣勢と見るや、クナッパーツブッシュとベルリン・フィルのツアー中、5月25日には義勇軍として東部戦線に送り込んでいた軍隊の撤収を決定する。
- 5月10日、パリ、シャイヨー宮。シューベルト交響曲 第7番 D.759、ワーグナーとリストの作品、アンコールにウィンナ・ワルツ
- 5月12日、フランス、マルセイユ
- 5月14日、スペイン、バルセロナ。ベートーヴェン/「エグモント」序曲、バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番、ブラームス/交響曲第4番、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、ウォルフ/イタリア風セレナード、リスト/「前奏曲」
- 5月16日、スペイン、バルセロナ。ウェーバー/「オイリアンテ」序曲、スメタナ/「モルダウ」、ベートーヴェン/交響曲第2番、ブルックナー/交響曲第3番よりスケルツォ、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
- 5月17日、バルセロナ。ブラームス/交響曲第3番、モーツァルト/クラリネット協奏曲、ワーグナー/「リエンチ」序曲、ウェーバー/舞踏への勧誘」
- 5月18日、スペイン、バルセロナ
- 5月20日、スペイン、サン・セバスティアン
- 5月21日、スペイン、サン・セバスティアン
- 5月22日、スペイン、ビルバオ
- 5月23日、スペイン、ビルバオ
- 5月25日、スペイン、マドリード。ベートーヴェン/「エグモント」序曲、バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番、ウォルフ/イタリア風セレナード、リスト/「前奏曲」、ブラームス/交響曲第3番
- 5月26日、スペイン、マドリード
- 5月28日、スペイン、マドリード
- 5月30日、スペイン、マドリード。ワーグナー/「リエンチ」序曲、リスト/「前奏曲」、ベートーヴェン/交響曲第5 番
- 6月11日、ポルトガル、ポルト
- 6月12日、ポルトガル、ポルト
6月2,7,10日、リスボンでベルリン州立歌劇場の引っ越し公演があった。オーケストラはイベリア半島をツアー中のベルリン・フィルが担当、その引っ越し公演の指揮はクナッパーツブッシュではなく、ロベルト・ヘーガーが担当した。出し物は「トリスタンとイゾルデ」だった。(菅原透著「ベルリン三大歌劇場」アルファベータ)
クナッパーツブッシュがイベリア半島をツアー中、5月13日に北アフリカ、チュニジアのドイツ軍とイタリア軍は連合軍に降伏。北アフリカは全面的に連合軍が支配する。
5月25日、前述の通り、スペイン、フランコ政権は中立を守りながら義勇軍をドイツ軍の友軍として東部戦線に送り込んでいたが、この日、解散、撤退を決定する。
5月27日には、フランスで全国抵抗評議会(反ナチ・レジスタンス)が設立された。
6月22日、北アフリカを連合軍に支配されたため、連合軍のイタリア上陸の危機が大きくなった。そのためヒトラーはイタリアに増援軍を派遣する。
6月26日と27日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。ハイドン/交響曲第88番、プフィッツナー/「パレストリーナ」第1幕への前奏曲、ブルックナー/交響曲第3番。
6月30日、ウィーン国立歌劇場でワーグナー/「神々の黄昏」。断片的な録音が残っている。
この年のザルツブルク音楽祭は戦局がますます悪化する中で、「音楽と演劇のためのザルツブルクの夏」と改称された。一般市民は旅行などできず、ましてや音楽祭をのんびり楽しむという余裕はなくなっていた。1942年から、ザルツブルクの夏は軍需工場の労働者、戦傷者、休暇中の兵士たちのためのものになっていた。クレメンス・クラウスが引き続き音楽監督を勤めており、クナッパーツブッシュは参加していない(スティーヴン・ギャラップ著「音楽祭の社会史」城戸朋子、小木曾俊夫・訳 法政大学出版局)。
7月5日、ソヴィエト南部クルスクでドイツ軍対ソヴィエト軍の史上最大の大戦車戦が行われ、15日、ドイツ軍は大敗北を喫する。この戦いにより、東部戦線でのソヴィエト軍優位が確定する。第2次世界大戦中、東部戦線での分岐点と言われる。
7月10日、連合軍によるイタリア、シチリア上陸作戦開始。
7月24日より8月3日 イギリス、アメリカ空軍によるハンブルク殲滅作戦のための大空襲。ハンブルクは壊滅的な被害を受ける。
7月25日、イタリアでムッソリーニ失脚。イタリア新政府はファシストを一掃する。ムッソリーニは捕らえられた。
7月31日、ヒトラーはイタリア増援軍にイタリア占領を命令。イタリア北部からローマまでを占領する。
8月13日、アメリカ空軍はウィーンのノイシュタットを爆撃。防空責任者イェショネク空軍参謀長はヒトラーと空軍最高司令官ゲーリングに責め立てられ、8月19日にピストル自殺する。
8月28日より9月15日、クナッパーツブッシュはベルリン・フィルとベルギー、フランス、イベリア半島へのコンサート・ツアー。
- 8月28日 ブリュッセル。ヘンデル/コンチェルト・グロッソop.6-5、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、ブラームス/交響曲第1番
- 8月29日 ブリュッセル。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、ワーグナー /「ジークフリート牧歌」、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」
- 9月1日より9日 スペイン サン・セバスティアン
- 9月10日 フランス、ボルドー
- 9月11日 フランス、ボルドー
- 9月14日 パリ、パリ・オペラ座。ヘンデル/コンチェルト・グロッソop.6-5、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、ブラームス/交響曲第1番、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
- 9月15日 パリ、シャイヨー宮。ウェーバー「オベロン」序曲、シューマン/交響曲第4番、ワーグナー/「ジークフリート牧歌」、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、ワーグナー/「タンホイザー」序曲
- 9月17日 パリからの帰路、ヴッパータールに立ち寄り、コンサートを行ったという記録が残っている。
9月3日、イタリア軍は連合軍に無条件降伏。ただ、この降伏は8日まで秘密にされた。連合軍、イタリア本土に上陸。
9月12日、捕らえられアペニン山脈の最高峰グラン・サッソのホテルに軟禁されていたムッソリーニを、ドイツ軍パラシュート部隊が救出する。15日、救出されたムッソリーニは、東プロイセンにある本営「狼の巣」にヒトラーの客として滞在、ムッソリーニはドイツの傀儡政権イタリア社会共和国(サロ共和国。サロは北イタリアの町の名前)を半強制的に設立させられる。ムッソリーニは18日にはイタリアに戻り、イタリア社会共和国の設立を目指している。
10月9日 アメリカ空軍、北部ドイツの海岸地帯を爆撃する。
10月13日 イタリアの反ファシスト・バドリオ政権はドイツに宣戦を布告。
10月19日と20日、クナッパーツブッシュはベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。20日は歓喜力行団のコンサートだった。ヘンデルコンチェルト・グロッソop.6-5、ブラームス/ヴァイオリン協奏曲(vn:諏訪根自子)、シューマン交響曲第4番
11月6日 ソヴィエト軍、ウクライナの首都キエフを奪回。
11月18日から12月3日、イギリス空軍、ベルリンを連続空襲。1944年3月末まで空襲は継続される。
11月29日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ラインの黄金」。
12月1日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ワルキューレ」。断片的な録音が残っている。
12月4日、5日、6日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ベートーヴェン/「シュテファン王」序曲、モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲 K.218(vn:ウィリー・ボスコフスキー)、フランツ・シュミット交響曲第2番。
12月10日 ウィーン国立歌劇場、「ジークフリート」。
12月17日と18日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ウェーバー/「オイリアンテ」序曲、ハイドン/オーボエ協奏曲(ob:ウィリー・レンツ)、ブラームス/交響曲第2番。
11月から12月にかけて、クナッパーツブッシュの残されている記録や資料を見ると、「ニーベルングの指環」チクルスがあったもようである。「神々の黄昏」のみ、資料や記録に見えない。
12月24日 ソヴィエト軍、スターリンの命令によりキエフ西方のドイツ軍に対し、冬季攻撃を開始。
昭和18年の日本、1月2日ニューギニア島ブナで日本軍全滅、20日ギルワから撤退を開始する。この地方だけで7600人の将兵が死んだ。
2月1日、ガダルカナル島から日本軍は撤退を開始、「撤退」では人聞きが悪いと「転進」という言葉に置き換えられた。「全滅」も「玉砕」に言い換えられている。ガダルカナル島の死者20800人の内、戦闘で死んだ兵士は約6000名で、他は餓死とマラリアによる病死だった。
3月2日、朝鮮に徴兵制実施の公布。それまでも志願兵は多くいたが、徴兵制の実施により朝鮮人は日本軍に否応なく組み込まれることになる。8月1日に実施された。
このころ、決戦標語が「撃ちてし止まむ」に決まり、ポスターがあちこちに貼られた。また、金属製品の供出が義務づけられるようになり、梵鐘を供出した寺もあった。
さらに子ども達にも「雛鷲適性検査」として陸海軍航空隊員の養成が開始されたり、子どもは「小国民」として、戦争のさまざまな場面に駆り出され始めている。
4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六は、ソロモン群島上空で移動のため搭乗していた偵察機がアメリカ軍機に撃墜され、死亡する。
5月12日、北太平洋アリューシャン列島アッツ島にアメリカ軍が上陸、日本軍は全滅する。
6月30日、南太平洋ニューギニアで、アメリカ軍が大規模な反抗を開始。「車輪作戦(カートホイール)」と呼ばれる。
7月1日、東京都制発足。
7月29日、アリューシャン列島のキスカ島日本軍守備隊は孤立していたが、5600名の兵士が撤退に成功する。アメリカ軍は守備隊の不在を知らず、8月15日まで日本軍のいないキスカ島に空爆と艦砲射撃を続けた。
8月1日、ビルマに日本の傀儡政権が成立。
9月23日、朝鮮に続き台湾でも徴兵制が行われることが公布され、翌昭和19年9月1日に実施された。
10月18日、兵員の逼迫する日本では、東京で大人に代わり16歳から19歳までの男子を「少年警察官」として1000名の大量採用を行うことが決定された。
10月21日、兵役を免除されていた大学生の学徒出陣式。神宮外苑競技場での雨の中での壮行式はあまりにも有名である。
11月1日、連合軍はブーゲンヒル島上陸。
南太平洋の激戦は続き、消耗の大きなラバウル攻略をアメリカ軍は棚上げにして、中部太平洋に反抗の方針を変える。11月14日、ギルバート諸島タワラで激戦が行われ、日本軍は5400人の犠牲を出し全滅する(朝鮮人129人を含む146人が捕虜となった)。戦闘に勝利したはずのアメリカ軍だったが、戦傷者の数では日本軍の犠牲を上回った。
11月20日、日本の学徒出陣に続き、朝鮮でも学徒兵志願が行われる。
11月22日、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石の第1回カイロ会議。中国・太平洋における戦争の遂行と戦後処理が話し合われる。日本は当たり前の如く「一笑にふして然るべきである」と取り合わなかった。
11月28日、ルーズベルト・チャーチル・スターリンのテヘラン会議。ソヴィエトは対日開戦を促されたが、スターリンは「ドイツ敗北後、3ヶ月後に日本軍を攻撃する」と語る。