1944年、クナッパーツブッシュは56歳になる。
東部戦線では、ドイツ軍はますます劣勢に回り始めていた。ドイツ中央軍が守備するウクライナでは1月1日撤退、1月8日にはソヴィエト軍は旧ポーランド国境に到達している。
劣勢になってしまったドイツだが、ヒトラーには秘策があり、新兵器の開発を待っていた。この新兵器が実用化されると、戦局は一挙に逆転する可能性があった。ヒトラーが強気の姿勢を崩さなかったのは、この新兵器の開発があったからだといえる その新兵器とは原子爆弾である…と思ったら、これは小生の勇み足で、ヒトラーは原子爆弾の研究開発には、「ユダヤ人」の技術だといってちっとも関心を示さなかったという。もし、その威力を知ったら、おそらく開発を急がせただろうと思われる。
ただ、原子爆弾の存在はすでに知られ、このことは1944年1月7日、ストックホルムからの来電で日本にも伝わっていた。ロンドンの新聞サンデー・エキスプレスは「スウェーデンの科学者ジークバーンの解説を載せ、ロンドン児の肝を冷やしている」(毎日新聞社「昭和史全記録」)。
「この兵器はまさに現在の戦争を一変させるであろう。いわゆるウラニューム爆弾の発明で、異常に強力な爆砕力を持つ原子の分裂によるものである。実用化にはまだ間があるがすでに存在している。僅かマッチ箱ウラニュームは優に軍艦一隻を一マイルも上空に吹き飛ばす力を持っている」。
1月8日、9日、10日の3日間、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。コーネリウス/「バグダッドの理髪師」序曲、ヴォルフ「イタリア風セレナード」、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
この時期、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのコンサートはそれまでの聴衆を入れたゲネラル・ブローベと本番の2日間だったが、3日間に延長されている。戦争に飽いた聴衆が多くコンサートに殺到したためである。この辺りの事情は日本などとは随分と異なる。
1月12日、ベルリン・フィルハーモニー・ザールが空襲で破壊される。
1月19日と20日、クナッパーツブッシュはベルリンでベルリン・フィルとコンサート。フィルハーモニー・ザールが破壊されたため、急遽コンサート会場を移してのコンサートだったものと思われる。再建されたベルリン州立歌劇場、ポツダム広場近くのホール、アドミラル・パラスト、あるいはこの後、クナッパーツブッシュとベルリン・フィルがたびたびコンサートを開くベルリン大聖堂のいずれかであったと思われる。20日はポツダムと記録にある。ベルテン/大オーケストラのための「イントラーダ」初演、シューマン/ピアノ協奏曲(p:ゲルハルト・プッヒェルト)、ベートーヴェン/交響曲第4番。
1月22日、連合軍、ローマの南、アンツィオとネットゥーノに上陸。
ドイツ軍は北イタリアからローマまでを占領していたが、連合軍はローマと指呼の位置にある地点に上陸、イタリア解放を狙った。
1月27日、東部戦線では900日間に及んだ攻防戦の末、ソヴィエト軍はレニングラードを解放する。レニングラード攻防戦の期間中、ソヴィエト側の発表では63万人の市民がドイツ軍の攻撃だけではなく、零下30度を超える厳寒の中で凍死、あるいは食糧・水不足で餓死した。
ソヴィエト軍は中央や南部でも積極的な戦闘を行い、ドイツ軍に占領されていた地域を次々に解放してゆく。
2月4日、クナッパーツブッシュはリンツに客演。帝国リンツ・ブルックナー管弦楽団を指揮する。ハイドン/交響曲第88番、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」。
帝国リンツ・ブルックナー管弦楽団は数多く作られたナチによる官製オーケストラのひとつである。リンツ、そしてリンツ郊外のザンクト・フローリアンはヒトラーの生地に近く、またドイツ精神を最もよく体現していると考えられていた作曲家アントン・ブルックナーの聖地にすることが目論まれ、オーケストラ創立はその計画の一環だった。リンツにはヒトラーの巨大墳墓や、ヨーロッパ最大の放送局を建設する予定もあった。
帝国リンツ・ブルックナー管弦楽団のトレーニングと首席指揮をオイゲン・ヨッフムの弟ゲオルク・ルードヴィヒ・ヨッフムが任命され、1943年4月20日に初コンサートを開き、9月5日に初めてのブルックナーの作品、ブルックナー/交響曲第5番を演奏している。
ナチが創立した他のオーケストラよりもかなり優遇され、カバスタ、シューリヒト、カイルベルト、クナッパーツブッシュ、カラヤン、フルトヴェングラー、ベーム、オイゲン・ヨッフムが客演した。
しかし、帝国リンツ・ブルックナー管弦楽団の活動期間は短く、1945年4月10日、迫りくるソヴィエト軍に対抗するため多くの楽団員が招集され、オーケストラは消滅する。
なお、現在活動中のリンツ・ブルックナー管弦楽団は元リンツ州立歌劇場管弦楽団で、1967年に「リンツ・ブルックナー管弦楽団」と改称された。帝国リンツ・ブルックナー管弦楽団とは全く別の団体である(Wikipedia)。
2月15日、ベルリン大聖堂でベルリン・フィルとコンサート。ヘンデルコンチェルト・グロッソ 6-5(vn:エーリッヒ・レーン、vn: ウルリヒ・グレーリンク、vc:アルテュール・トロエスター)、J.S.バッハ管弦楽組曲第3番、モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲 K.294a(vn:エーリッヒ・レーン)、モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」。
ヘンデル/コンチェルト・グロッソ6-5は今まで3月10日の録音とされてきたが、2月15日の録音であることがDRAの資料で判明した。
2月23日、ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲、ブラームス/「運命の歌」、ブラームス/交響曲第4番。
3月4日、アメリカ空軍はベルリンに白昼空襲を行う。
3月8日、ベルリン大聖堂でベルリン・フィルとコンサート。ブルックナー/交響曲第8番
3月10日 ベルリン大聖堂でベルリン・フィルとコンサート。ヘンデル/コンチェルト・グロッソ 6-5 、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」。この日の録音とされてきたヘンデル/コンチェルト・グロッソop.6-5は、2月15日の録音であることが判明した。
3月19日から21日、ドイツの友好国であったハンガリーをドイツ軍が軍事占領。22日、ハンガリーにドイツの傀儡政権が誕生する。
3月26日から4月 2日 ソヴィエト軍、ルーマニアに侵入。
3月26日、ベルリンでベルリン・フィルと放送用録音。録音が残っている。
3月30日から4月6日、ベルリン・フィルとスカンジナビア半島ツアー。
- 3月30日 ノルウェー、オスロ。ヘンデル/コンチェルト・グロッソ6-5、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、ブラームス/交響曲第3番
- 4月1日、2日 ノルウェー、ベルゲン。ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲、ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、ベートーヴェン/交響曲第5番
- 4月4日 ノルウェー、オスロ。ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲、ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、ベートーヴェン/交響曲第5番
- 4月6日 ノルウェー、オスロ。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、ベートーヴェン/交響曲第5番
クナッパーツブッシュがオスロに滞在中、ベルリン当局から電話が入り、ヒトラー生誕記念演奏会で、ベートーヴェン/交響曲第9番を指揮して欲しいと依頼される。クナッパーツブッシュは「リハーサルの時間が取れない」と断ろうとしたら、ツアーで演奏している「エロイカ」でも構わないということになり、ヒトラー生誕記念演奏会の指揮をせざるをえなくなる(奥波本)。ただ、スカンジナビア半島でのツアーでは「エロイカ」は演目に見えない。合唱団やソリストとのリハーサルを要しないということであったのかも知れない。
4月3日、4日、アメリカ空軍はブダペストとブカレストを空襲。
4月8日 ソヴィエト軍、旧チェコスロバキア国境に到達。
4月12日 クナッパーツブッシュをバイエルンの指揮台から追放した大管区指導者兼内務大臣アドルフ・ワーグナーは、健康を害して死去する。ワーグナーは1942年に既に健康を害しており、パウル・ギースラーに後を譲っていた。ギースラーはバイエルン州首相になっている。ちなみにワーグナー時代のバイエルン州首相はルートヴィヒ・ジーヴェルトである。ナチの古参党員ということで、ヒトラーもワーグナーの葬儀に参列した。
アドルフ・ワーグナーの後を引き継いだバイエルン大管区指導者兼バイエルン州首相パウル・ギースラーは、同年夏の音楽祭にアドルフ・ワーグナーによるバイエルンでのクナッパーツブッシュ禁止令を解き、クナッパーツブッシュをミュンヘンに招聘した。
ところが、クナッパーツブッシュと縁の深かったバイエルン州立歌劇と管弦楽団はクレメンス・クラウスの支配下にあり、「外部指揮者お断り」で、クナッパーツブッシュは立ち入り禁止になってしまっていた。ギースラーはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮でクナッパーツブッシュを呼び戻そうとしたが、クナッパーツブッシュは馴染みの歌劇場のオーケストラを指揮できないのならミュンヘンで指揮をする気はないと断ってしまう。ギースラーは、その頑ななクナッパーツブッシュの姿勢を崩すことはできなかった。
ギースラーのクナッパーツ呼び戻しは、オスヴァルト・カバスタの企画に基づくものだった。
「1944年春(ミュンヘン・フィルの本拠地、テュルケン・シュトラーセの「トーンハレ」は、まだ破壊されていなかった)、文化局と当時のミュンヘン・フィル音楽総監督オスヴァルト・カバスタは『「1944年ミュンヘンの夏音楽祭の一環として、著名な客演指揮者による大規模な交響曲連続演奏会』を企画した。ミュンヘンを離れ、ウィーンに暮しているハンス・クナッパーツブッシュが念頭に浮かんだ(クナッパーツブッシュは以前と変わらず、ドイツ国内にも登場していた。ベルリンのコンサートにも出演していたのだ。おそらく、悪化した情況を糊塗するための看板だったのだろう)ともかくも、急遽、差し支えなしという許可を得た後で、ウィーンへ招待状が送られた、『このツィクルスのうち、一つ、もしくは、二つのコンサートに客演していただきたい』選り抜きの丁寧な言葉で『クナ』は断った。第二の故郷ミュンヘンを長期にわたり不在とした後に再び指揮台に立つとして、その最初の演奏会がある別のオーケストラとであるならば、彼の昔なじみの州立管弦楽団を深く傷つけることとなろうというその理由は、間違いなく、単なる言い逃れの口実ではなかった。音楽アカデミーの演奏会活動の情況から見て、州立管弦楽団とのコンサートは、当面ほぼ不可能である旨、『帝国指導者閣下』みずから、取り急ぎ確言したのだったが、クナッパーツブッシュはまたも断った。今度は前回に輪をかけて丁重だった、いや、ほとんど皮肉であった。『毎年の習いであるスイスでの湯治と、ドイツ国外でのベルリン・フィルへの客演』のため、日程を変更できない、遺憾ではあるが、いずれかの後日を(!)期すこととする…」(「ハンス・クナッパーツブッシュ ~生誕百年に寄せて~」)
4月17日。アメリカ空軍、ベオグラードとソフィアを空襲。
4月19日 ベルリン州立歌劇場でベルリン・フィルとヒトラー生誕記念演奏会。ヘンデル/コンチェルト・グロッソ 6-5、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」。
この時の「エロイカ」の映像がほんの少し残っている。ただし、真正な映像は2階客席からクナッパーツブッシュの右側から撮影したもので、ほかはさまざまな映像の編集だと思われる。
4月23日から6月9日 ベルリン・フィルとイベリア半島、フランス・ツアー。イベリア半島をほぼ一周するという長期間にわたるツアーだった。地図で見ると、「こんな所まで行ったのか」と不思議な感動を覚えるほど、スペイン全土を回った。
クナッパーツブッシュの戦後の証言によると、ドイツ国内(ウィーンを含めて)は食糧事情が極めて悪く、また舌禍を起こしがちなクナッパーツブッシュには窮屈だったらしい。ツアーに出ていた方が温かいもてなしも受けられたし、気が楽だったと語っている(奥波本)。
- 4月23日 スペイン、バルセロナ。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、リスト /「前奏曲」、モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」
- 4月24日 スペイン、バルセロナ。シューベルト/交響曲第7(8)番「未完成」、シューマン/交響曲第4番、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、ウェーバー/「魔弾の射手」序曲
- 4月25日 スペイン、バルセロナ。ハイドン/交響曲第88番、ブラームス/交響曲第2番、ベートーヴェン/「コリオラン」序曲、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、「タンホイザー」序曲
- 4月27日 スペイン、マドリード
- 4月28日 スペイン、マドリード
- 5月1日 スペイン、セビリア
- 5月2日 スペイン、セビリア
- 5月4日 スペイン、マドリード
- 5月7日 ポルトガル、リスボン
- 5月8日 ポルトガル、リスボン
- 5月9日 ポルトガル、リスボン
- 5月10日 ポルトガル、リスボン
- 5月11日 ポルトガル、ポルト
- 5月12日 ポルトガル、ポルト
- 5月14日 スペイン、ビーゴ
- 5月16日 スペイン、ヒホン
- 5月17日 スペイン、オヴィエド
- 5月18日 スペイン、オヴィエド
- 5月22日 スペイン、グラナダ
- 5月23日 スペイン、グラナダ
- 5月26日 スペイン、マドリード
- 5月27日 スペイン、マドリード
- 5月30日 スペイン、サンタンデール
- 5月31日 スペイン、サンタンデール
- 6月1日 スペイン、ビルバオ
- 6月2日 スペイン、ビルバオ
- 6月3日 スペイン、サン・セバスティアン
- 6月4日 スペイン、パンプローナ
- 6月5日 スペイン、パンプローナ
- 6月6日 スペイン、サン・セバスティアン
- 6月9日 パリ、シャイヨー宮。ブラームス/交響曲第2番、ベートーヴェン/交響曲第5番、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
ハフナー著「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」では、このツアーの帰途、「線路が爆撃されて列車が引き返すはめになり、パリ経由で帰国した」とある。
1941年にゲッベルスによって企画され、1944年に完成したベルリン・フィルの宣伝映画「フィルハーモニカー」に、クナッパーツブッシュがベートーヴェン交響曲第5番第2楽章を演奏している様子が、いろいろな場所を背景にコラージュされている。その時のクナッパーツブッシュの映像は、クナッパーツブッシュとベルリン・フィルとのコンサート・ツアーを収録、映画に使用されたものが多い。工場(造船所か?)、ストックホルム、グラナダ、アテネ、パリ、の演奏会風景が続き、最後はベルリン・オリンピックで演説するヒトラーの映像にたどり着く。
映画自体は大したことはない。ベルリン・フィルのメンバーふたりと美しい女性をめぐる三角関係を描いたメロドラマである。そこにさまざまな指揮者の映像や、演奏風景が出てきたりする。クナッパーツブッシュはその中でも第一の扱いで印象的だが、ヨッフムの神々しいばかりのブルックナー交響曲第7番第2楽章のリハーサル風景も印象的だった。リヒャルト・シュトラウスが最後に出てくる。ベルリン・フィルを扱った映画だが、フルトヴェングラーは出演を拒否、映画には出てこない。ゲッベルスの管轄していたベルリン・フィルの宣伝映画のシナリオが、なぜメロドラマなのかは分からない。
また、「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の著者リチャード・オズボーンはフルトヴェングラーやカラヤンが出演していないことで映画の価値を下げたというようなことを書いているが、カラヤンはまだそれほどベルリン・フィルと関係が蜜であったわけではない。ベルリン・フィルはフルトヴェングラーが掌握していたからなおさらである。
また、映画にはアテネでの映像と、クナッパーツブッシュの戦後の非ナチ化裁判で「アテネでも指揮した」という言葉が残っているが、記録ではアテネに出かけたのがいつなのか分からなかった。
クナッパーツブッシュがイベリア半島を一周している間にも、戦争は続き、東部戦線、西部戦線とも大きな局面を迎えつつあった。
5月5日、ソヴィエト軍、クリミアのセヴァストーポリ要塞に猛攻撃を開始、ドイツ軍将兵7万5千人が戦死する。ヒトラーはついにソヴィエト南部での敗北を認め、8日海路でのドイツ軍撤退を決定する。
5月12日、連合軍、イタリアで大攻撃を開始。
5月15日、ハンガリー系ユダヤ人のアウシュヴィッツへの移送が始まる。
ハンガリーはドイツに軍事占領されるまでユダヤ人問題には消極的だったが、ハンガリーの傀儡政権はアイヒマンの指示で次々とユダヤ人を送り出してゆく。2ヶ月間の間に約33万人が虐殺され、約10万人が地下大飛行機製造工場建設の強制労働に従事した。アウシュヴィッツ最後で最大の惨劇と言われる。
6月1日から5日、イギリス、アメリカ空軍はヨーロッパ本土反攻作戦のため、フランス、ベルギーへの空襲を強化する。連合軍はカレーに上陸するという偽情報を流し、ヒトラーはそれを信じた。
6月4日、連合軍、ローマに入る。
6月6日、連合軍、フランスのノルマンディーに大規模な上陸作戦を行う。「Dデイ」(オーバーロード作戦)と呼ばれる。ノルマンディに上陸されても、ヒトラーは依然、連合軍の主力部隊はカレーに上陸すると考えており、機動部隊のノルマンディへの移動を許可しなかった。
6月10日 ドイツ軍、フランスのオラドゥール村を壊滅。オラドゥール村にはレジスタンスの組織マキの司令部があり、村民のほぼ全員がマキに関わっている、という理由からだった。
6月、クナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場でワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルスを指揮する。「神々の黄昏」のみ公演日が分かっているが、その他は不明。
6月15日、ドイツ軍、V1ロケットによるロンドン攻撃を開始。
6月24日、ウィーン・フィルと帝国放送のマグネトフォン・レコーディング。
6月26日 連合軍、シェルブールを解放。
6月26日 クナッパーツブッシュはスイスへの温泉湯治を申し出る。長年の指揮でクナッパーツブッシュの「『神々の黄昏』の腕」は痛み、1926年以降、毎年のようにスイス、チューリヒの温泉保養地で静養するのが常だった。バイエルン州立歌劇で、カール・ベームがクナッパーツブッシュは腕の病気で棒が振れず、「ばらの騎士」の指揮を任されて以来だろうか。また、ライプチヒ時代に重いジフテリアに罹った後遺症であったのかも知れない。
1942年、1943年は静養の許可が降りたが、この年、6週間の休暇を申し出て却下される。ヒトラーの「ドイツの芸術家はドイツ国内で静養すべし」という通達が出ていたためである。フルトヴェングラーのスイス滞在は許可されていたので、担当者は7月4日に上層部に問い合わせる。7月24日、マルティン・ボルマンを通してヒトラーの「例外ヲ認メズ」という意思が確認された(奥波本)。
6月27日、ソヴィエト軍は夏季大攻勢を開始する。ドイツ中央軍はソヴィエト軍に包囲され、崩壊する(バグラチオン作戦)。
6月30日、クナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場でワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス最終日を指揮。むろん「神々の黄昏」だった。この公演は第2次世界大戦中ウィーン国立歌劇場最後の公演になった。
「ウィーンへの爆撃は始まっていた。6月にはすでに市の外周部に爆弾が落ちていたから、楽員はみな、この『神々の黄昏』が古い建物での最後の公演になるだろうと気がついていた。演目が『神々の黄昏』だというのは意味深長だった。それは一つの時代の終わりだった。そう、わかっていたんだ。私はそれに立ち会っているのだと。そして、誰もが同じように感じていた。クナッパーツブッシュが指揮していたが、それは彼の生涯で最も偉大な演奏の一つだったと私は思う……」(ジョン・カルショー著「リング・リザウンディング」山崎浩太郎・訳 学習研究社 オットー・シュトラッサーの言葉として紹介されている)。
7月1日、クナッパーツブッシュはウィーン・フィルと帝国放送のマグネトフォン・レコーディング。6月24日の録音の続きであったものと思われる。
7月8日 ハンガリー政府、国際的な圧力に屈してユダヤ人移送を中止する。ドイツ側も譲歩せざるをえなくなる。
7月20日 東プロイセンの大本営「狼の巣」で爆殺によるヒトラー暗殺未遂事件が発生。
シュタウフェンベルク大佐はたびたびヒトラー暗殺を試みたがうまく行かず、この日の実行になる(ミュンヘンでの一民間人による暗殺計画だけではなく、ヒトラー暗殺計画は幾度となく立てられた)。シュタウフェンベルク大佐の暗殺計画はクーデターを狙ったものであり、背後にはクーデター後の政権確立など立案者、協力者が多かった。「ワルキューレ作戦」と呼ばれる。
しかし、ヒトラーは軽傷を負っただけで助かってしまう。
この暗殺には数多くのドイツ陸軍将官や政治家、元貴族も数多く参加していた。ベック上級大将やロンメル元帥もその中に名前があり、後に処刑されたり自殺を強要された。
ヒトラーの復讐は峻烈を極め、事件に連座して4980名(5684名との説あり)の優秀な人材が処刑される。
8月7日から8日に民族裁判所で開廷された裁判の様子がフィルムに残されているが、被告はベルトをはずされた平服で裁判長の前に立たされ(裁判の前に軍隊を除名され、軍籍を剥奪されていた)、ズボンがずり落ちないように手で押さえながらローラント・フライスラー裁判長の「豚め!国家の敵!地獄に堕ちろ!」という大声の罵声を浴びせられた。
8月8日、暗殺未遂事件に連座した上級将官や元貴族を含む8名の絞首刑が行われたが(実行犯シュタウフェンベルク大佐は銃殺)、ピアノ線で首を吊るという緩慢な死を迎える残酷な手法が用いられ、その様子はヒトラーの指示でフィルムに収められた。ところが、ヒトラーの元にもそのフィルムが届けられたが、ヒトラーはそのフィルムを見ることを拒否する。ドイツの軍人にこのフィルムを見せ、「総統への反抗は絶対に許さない」というプロパガンダに使用するつもりだったのかも知れない。
この事件により、陸軍総司令部の人事は一新されてしまい、ドイツ国防軍は全く力を失ってしまう。
7月25日、ヒトラーは第2次総力戦を宣言、ゲッベルスを「戦時国家総動員総監」に任命する。軍需産業への強制労働のための動員、国民突撃隊を組織するためだった。
この夏、ザルツブルク音楽祭は例年通り開催される予定だった。すでにクレメンス・クラウスはリヒャルト・シュトラウス/「ダナエの愛」のリハーサルに入っていた。
しかし、ヒトラー暗殺未遂事件の後、総力戦が宣言され、ザルツブルク音楽祭は中止になってしまった。かろうじてフルトヴェングラー指揮によるウィーン・フィルのコンサート1回とシュナイダーハン弦楽四重奏団によるコンサート1回は許可され、「ダナエの愛」のゲネラル・プローベは実施できた。
7月30日、連合軍、アヴランシュのドイツ軍要塞を突破、フランス解放への道を確保する。
8月1日、ポーランドの地下組織を中心とした国内軍、ワルシャワ蜂起。
ソヴィエトに頼らず(ロンドン亡命政権をソヴィエトに認めさせるため)、自力でポーランドを解放する目論見があったが、ドイツ軍の戦力を凌駕することができず、ヒトラーの「ワルシャワ壊滅指令」が出て、10月2日に鎮圧される。ワルシャワは完全に破壊され、20万人が死亡、80万人が市内から追放された。
ソヴィエト軍はポーランド国内軍の援助要請を無視、ワルシャワが破壊されるのを傍観した。
8月2日、ドイツ軍、フィンランドから撤兵。
8月4日、連合軍、フランスのレンヌ、イタリアのフィレンツェを解放する。
8月15日、連合軍、ドイツ国境に近い南フランスのプロヴァンスに上陸。ドイツ軍の抵抗はなかった。
8月19日、パリでレジスタンスが一斉蜂起。
8月23日 ドイツ軍、パリを放棄。ヒトラーはパリ破壊を指令していたが、パリは破壊されなかった。
8月24日、ルーマニアで反ドイツの武装蜂起。ドイツ軍は数日で殲滅される。
8月25日、連合軍、パリ入城。
8月26日、ルーマニア、対ドイツ宣戦布告。
9月1日、ゲッベルスは即日施行でドイツ全土のすべての芸術活動を禁止、総力戦の徹底をはかる。放送用録音や兵士向けの小規模なコンサートが細々と続けられることになる。
それでも、ベルリン陥落二週間前までベルリン・フィルは多くは兵士向けのコンサートを続けた。ウィーン・フィルも爆撃が続き、ソヴィエト軍の侵攻が近い1945年4月2日まで、兵士向けのコンサートを行っている。
ただ、主要オーケストラを除いて、他のオーケストラは解散させられていた。
9月3日、連合軍、ベルギーの首都ブリュッセルを解放。
9月8日から9日、ブルガリアで反ドイツ一斉蜂起。ブルガリアはその前にソヴィエトから宣戦を布告され、休戦を申し入れていた。ソフィアにソヴィエト軍が入り、一斉蜂起が行われた。9日、ブルガリア新政府は対ドイツ宣戦布告。
9月8日 V1ロケットを改良したV2ロケットによるロンドン攻撃が開始される。
V2ロケットによるロンドン攻撃が開始された同日と翌9日、バーデン・バーデンでベルリン・フィルと放送用録音。
バーデン・バーデンはドイツ南西部にある温泉保養地であり、戦傷者が数多く過ごしていた。そのためか、連合軍の空襲にもほとんど遭わなかった。これらの放送用録音は、クナッパーツブッシュのドイツ国内での静養とベルリン・フィルの疎開先を合わせたものかも知れない。ベルリン・フィルは8月1日からバーデン・バーデンに疎開していた(ハフナー著「ベルリン・フィル」)。ただ、ハフナーは「9月8日、再びベルリンに戻ってくる」と書いているが、それではクナッパーツブッシュとの録音の日程が合わなくなってしまう。
ただ、ハフナーの記載は当てにならず、ベルリン・フィルは10日のコンサート(指揮はルドルフ・クラッセルト。場所はバーデン=バーデンか?)の後、ベルリンに戻り、ヘルマン・アーベントロートとの放送録音のゲネラル・プローベに臨んだと、ペーター・ムック著「ベルリン・フィルの100年」にはあるそうである(Thanks吉田さん、石橋さん、吉岡さん)。
なお、ブラームス/交響曲第3番第1楽章209小節から212小節まで、断続的に何かを打ち付けているような音が聞こえる。その音の間隔、エコーの関係から高射砲の音ではないかと思える。実際の所は分からない。人によってはドアとか何かを叩いているのではないか、という意見もある。高射砲の音に聞こえるということが真実味を持つような時期に、この録音は行われたということだ。連合軍はすぐ近くまで迫っていた。
ただし、ベルリン・フィルの当時の記録と突き合わせると、バーデン=バーデンへの疎開前にベルリンで録音された...という説もある。
9月17日、オランダのアルンヘムで連合軍はオランダ経由のドイツ国内侵攻作戦を実行するが失敗する。「マーケット=ガーデン作戦」と呼ばれる。
9月22日、フランスに対ドイツ協力者人民裁判所が設置され、6763名が死刑判決を受ける。対ドイツ協力者に対する処遇は残酷で、女性は頭を刈られ、裸にされてシャンゼリゼ通りを見せしめのために引き回されたりした。
9月25日、ヒトラー、民間から招集した16歳から60歳までの全男子による「国民突撃隊」の組織を指令。これは軍とは異なる組織だった。
10月1日、フランス、カレー要塞のドイツ軍降伏。ドイツ軍、ギリシャのアテネより撤退を開始。バルカン半島から随時撤退を開始する。
10月6日、ソヴィエト軍、ルーマニアからハンガリーに侵入。
10月11日、ソヴィエト軍、東プロイセン国境を突破。
10月15日、ヒトラーのさまざまな要求に対して柳の枝のように対応し危難を切り抜けてきたハンガリーの摂政ホルティ・ミクローシュは対ソヴィエト休戦、ドイツへの裏切りを宣言するが、ドイツ軍の軍事クーデターでハンガリー政権は崩壊(元々傀儡政権の性格が強かったが)、以後、ドイツのさらなる傀儡政権による支配が続く。
10月20日、ソヴィエト軍とチトー率いるユーゴスラヴィア人民解放軍は共同でベオグラードを解放する。
10月21日、オランダ、ベルギーの国境に近いドイツの都市アーヘンは連合軍に占領される。
11月1日、ヒムラー、ガスによるユダヤ人絶滅の中止命令を出す。11月28日、アウシュヴィッツで最後のガス虐殺。
11月8日、ハンガリーでユダヤ人政策を担っていたアドルフ・アイヒマンは、子供や女性を含むユダヤ人数万人に対して、オーストリア国境までの「死の行進」を開始させる。
11月10日、クナッパーツブッシュは、ブダペストへの客演、ベルリン、ウィーンでのコンサートを立て続けにキャンセルする(奥波本)
バーデン・バーデンでの録音以降、第2次世界大戦でドイツが敗北した後の1945年8月17日まで、クナッパーツブッシュの演奏会記録は見えなくなる。ミュンヘンにいたのかウィーンにいたのかも定かではないが、恐らく自宅があったミュンヘンにいたものと思われる。
クナッパーツブッシュはミュンヘン郊外に住んでいたため、直接爆撃に遭うことはなかっただろうが、ミュンヘン中心部を襲う空爆の嵐は、それこそ「神々の黄昏」最終場面さながらではなかったかと想像できる。1944年の夏以降、地中海から飛来する連合軍の爆撃機はミュンヘンを破壊した。市内中心部の 80%以上が瓦礫と化している。
ドイツでは各都市では西側連合軍、東側ソヴィエト軍の侵攻に備えて、60歳までの男子を強制的に招集、国民突撃隊を組織した。あるいはクナッパーツブッシュもミュンヘン国民突撃隊に招集され、対戦車砲や銃器の扱いの訓練を受けていたのだろうか?それとも大指揮者であるため、国民突撃隊への招集は免除され、激しさを増す連合軍による空爆のため防空壕に逃れる毎日を送っていたのだろうか?
さらにナチ政権末期、大指揮者ではあってもナチに対して反抗的な態度があったり、それに類する事件が以前にあると、ゲシュタポはさまざまな口実を求めて容赦なく逮捕しようとした。フルトヴェングラーは逮捕されそうになり1945年1月24日の夜スイスに逃げ、カラヤンは妻(アニータ)が4分の1ユダヤ人であることと爆撃が続くドイツ国内にいることの危険を感じ、1945年2月18日イタリアに逃れている。カール・シューリヒトもユダヤ人を擁護したことで裁判で有罪になり、ドイツで仕事が激減した。そのため1944年にスイスの指揮者エルネスト・アンセルメの協力を得てスイスに亡命している。
クナッパーツブッシュは、フリッツ・ブッシュやエーリッヒ・クライバーほどではないにしても、指揮者としてはミュンヘン時代に追放の憂き目に遭うほどすねに傷があった。
ナチに協力的であったプフィッツナーでさえ、1933年のコスマン擁護の一件を1939年にヒトラーに持ち出され、プフィッツナーに関する公的な行事を禁止されている。その執拗さが、ナチ政権末期にはさらにひどくなった。クナッパーツブッシュも、反ナチ言動を問題視される可能性が出てきたため、自ら逼塞しなければならなくなったということも考えられるし、徐々に明らかになるナチ・ドイツの残虐行為やドイツに迫る黙示録的終末に絶望感と嫌気がさして演奏活動を自ら断ったとも考えられる。
11月23日 連合軍、シュトラスブルク(ストラスブール)を解放。
12月16日 ベルギー、アルデンヌでドイツ軍は連合軍に対し、猛反撃を開始する。ヒトラーの発案らしいが、実行司令官にちなんで枢軸側では「ルントシュテット大攻勢」と呼び、連合軍側では「バルジの戦い」とも呼ばれる。
12月31日 ポーランドではソヴィエトの傀儡政権が成立、ロンドンの亡命政権と対立する。
なお、この年のクナッパーツブッシュの録音として、ウィーン・フィルとのレーガー/「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ」が残っているが、データなど詳細は不明。
昭和19年の日本、1月17日に軍需会社第1次指定がおこなわれ、現在もその多くが稼働する150社に指定令書が公布された。翌18日には学徒勤労動員が4ヶ月と期限を切って閣議決定したが、3月7日には後述の「決戦非常措置」に基づき、通年で行われることが決まる。ここでいう学徒とは大学生のことではなく、中学生以上の子どもたちのことである。
2月6日、クェゼリン島、ルオット島の日本軍全滅。約4500人の陸海軍の兵士と、約2000名の軍属が死んだ。
2月18日、連合艦隊の基地があったトラック島全面敗北。主力艦隊は日本本土やパラオに退避、約50000人の兵士が取り残された。
2月25日、「決戦非常処置」要綱が閣議で決定される。中学生以上の学徒勤労動員の強化、14歳から25歳までの未婚女性を「女子挺身隊」として軍需工場に動員することなどが盛り込まれ、国民生活は戦争のため食糧配給や隣人同士の監視体制なども強化された。
3月4日、宝塚少女歌劇はこの日限りで休演、その他のショーも著しく圧迫を受けた。翌3月5日には、「決戦非常措置」に基づき、国内19の劇場が休場する。一部は4月に再開するも、上演回数を制限される。
3月5日、インドのチャンドラ・ボーズの「インド独立運動」の要請を受け、大本営はインパール作戦を開始する。
4月中旬、インパール作戦は補給路がイギリス空軍に寸断され、また、降り続く雨ため兵士が疲れてしまい、攻撃や行軍ができなくなってしまった。インパール作戦は挫折する。しかし、軍部内での撤退の調整が進まず、戦闘は継続される。
6月11日から、アメリカ軍によるサイパン上陸作戦が開始される。
6月19日から20日にかけてマリアナ沖海戦。アメリカ軍はレーダーを使い、襲いかかる日本軍機を撃墜していった。また、残っていた日本の空母3隻が撃沈され、航空機395機を失う。この海戦で、残っていた日本海軍の大半は失われた。
7月4日、インパール作戦は大本営もその挫折を認め、中止される。30000名の死者、45000名の戦傷病者を出した挙げ句だった。撤退戦は峻烈を極め、全滅した部隊も多かった。
7月16日頃、サイパン島の日本軍全滅。守備隊30000名、島の住民10000名が戦病死、または自殺をした。バンザイ岬から海に飛び込む島に住んでいた住民の映像が残っている。
7月13日、サイパン島陥落を受けて東条内閣総辞職。20日、東条英機に代わって朝鮮総督小磯国昭陸軍大将、米内光政海軍大将に連立内閣の組閣が命じられる。
7月24日、アメリカ軍はテニアン島に上陸。
8月4日、都市部の児童の学童疎開が始まる。同日、一般市民の竹槍訓練が始まっている。
8月10日、サイパン島に続き、グァム島の日本軍守備隊18000名が全滅する。
8月11日、最高戦争指導者会議で、この年の年末には軍事物資の製産が立ちゆかなくなると藤原銀治郎軍需相は報告している。すでに日本の敗北は決していたと言ってもよい。ただ、天皇の処遇を巡り(連合国側は天皇の戦争責任について日本に対しメッセージを送っていた)、戦争は継続される。
サイパン、グァム島の飛行場からB29、B24の大型爆撃機が日本本土に大挙来襲し、本格的な空襲が始まる。最初は中国地方西部、九州北部だった。
9月27日までにテニアン島の日本軍守備隊は全滅する。
10月12日から13日、台湾沖海戦で大本営は日本軍の大勝利を発表したが、アメリカ軍の損害はそれほど大きくなかった。大本営の虚偽の発表に第一線で戦闘する部隊も混乱した。この頃から大本営発表は嘘が多くなり、その信頼性を疑われ始めている。
10月18日、アメリカ軍はフィリピン、レイテ島に上陸を開始、レイテ沖海戦が始まる。レイテ沖海戦では戦艦「武蔵」を含む多くの艦船を失い、連合艦隊は壊滅する。
10月25日、サイパンやグァム島だけではなく、連携をとったアメリカと中国は中国本土にもB29を配備(桂林飛行場)、九州への日本本土空襲を開始する。
同日、海軍神風特別攻撃隊が出撃を開始、当初は華々しい戦果を挙げる。爆弾を抱いたまま敵艦に突入するという自殺戦法でアメリカ軍の度肝を抜いた。27日には陸軍も特別攻撃隊を出撃させる。特攻に志願する(あるいはさせられる)のは20歳前後のまだ戦闘機の操縦能力が充分とはいえない若者だった。むろん、自殺することに対して恐くないわけはなく、軍は特攻隊員に「ヒロポン」という覚醒剤を投与、特攻隊員は興奮状態で敵艦に突っ込んでいった。ヒロポンは日本軍では常態的にその投与が行われていたようで、戦後、ヒロポン中毒が社会問題化した。
最初こそ、華々しい戦果を挙げ、発案者の大西中将は軍令部次長にまで出世したが、アメリカ軍は死にものぐるいで特攻機に対抗、その戦果は徐々に落ち、アメリカ軍の発表では戦争が終わるまで、特攻機全体の命中率は18.6%だった。
11月24日、マリアナ基地から飛び立ったアメリカ軍B29は東京を初空襲。29日には夜間空襲を行った。