1950年 バイロイトへの出演が確定する

1950年
 1月6日、「公顕の日」公演。バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 1月29日、30日 ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。放送用録音とライヴ録音の2種類が残っている。29日と30日が本番だが、前日の28日に放送用録音の収録がおこなわれた。クナッパーツブッシュのベルリン・フィル復帰は、ベルリン市民にとってフルトヴェングラー復活公演に次ぐ出来事であり、30日のライヴ録音はオーケストラが熱気に包まれ、暴走している様子が窺える。
ソヴィエトによるベルリン封鎖はすでに終わっていたが、28日のブルックナー/交響曲第9番の放送用録音は昼間録られたようで、まだまだ緊張が続くベルリン上空を飛ぶ輸送機の爆音がかなり鮮明に収録されている。

 2月 東ドイツで国家保安省(シュタージ)設立。その一部を担う秘密警察は反体制的な意見の持ち主を抑圧した。

 2月1 OR 2日、ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。RIAS録音をリリースするAuditeのデータでは1日のライヴ録音となっている。吉田光司、Huntでは2日。
 また、Audite盤には収録されないが、ハイドン/交響曲第94番「驚愕」には放送用録音も残されている。明らかに同時期の別の演奏録音である。演奏は両方ともクナッパーツブッシュのもので間違いがない。

 クナッパーツブッシュは、アメリカ、イギリス、フランスの統治する西ベルリンに続いて、ソヴィエトが統治していた東ベルリンにも登場、ベルリン州立歌劇場管弦楽団を指揮している。5日の「ばらの騎士」は、オペラそのものの公演であったのか、抜粋のガラ・コンサートであったのかは資料不十分で分からなかった。
 ティタニア・パラストで活動しているベルリン・フィルに対し、ベルリン州立歌劇場管弦楽団はアドミラル・パラストで活動していた。ベルリン・フィルハーモニー・ザール、州立歌劇場とも、空襲で破壊され、まだ再建されていなかった(再建は1955年)。この頃はヨーゼフ・カイルベルトが首席指揮者を務めていた(1950年辞任)。
 ソヴィエトと内側との通行は、西ベルリン封鎖はあったものの、まだこの当時は行き来は比較的容易だったようだ。
 2月5日、ベルリン州立歌劇場(アドミラル・パラスト)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 2月10日、ベルリン州立歌劇場管弦楽団のコンサート(アドミラル・パラスト)。ブラームス/交響曲第3番、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」

 2月13日、バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー没後67年ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 3月12日 クナッパーツブッシュは62歳になった。
 3月17日より21日 ベルリン・フィルとドイツ国内ツアー。

  • 3月17日 ビーレフェルト
  • 3月18日 ゲルゼンキルヒェン
  • 3月19日 レックリングハウゼン
  • 3月20日 デュッセルドルフ
  • 3月21日 メンヒェングラドバッハ

 このツアー中、3月20日、翌年再開されるバイロイト祝祭音楽祭に、クナッパーツブッシュはカラヤンとともに正式に楽劇の指揮者として決定する。ヴィーラント・ワーグナーは最後までフルトヴェングラー招致を狙ったが、カラヤンの名前が既に挙がっていたからか、またフルトヴェングラーはワーグナーのオペラの指揮に対しそれほど執着していなかったのか、第2次世界大戦中の悪い記憶が蘇るのか、オペラの指揮は承諾しなかった。開幕前夜(いわばバイロイト復活初日)、ベートーヴェン/交響曲第9番を指揮するということで折り合いが付く。
 フルトヴェングラーがバイロイトでオペラを振ることになると、クナッパーツブッシュははずされたかもしれないという記事を目にしたことがあるが、真偽のほどは分からない。フルトヴェングラーとカラヤンの確執からすると、フルトヴェングラーがもしオペラで復活するなら、降ろされるのはカラヤンであっただろうということの方が納得できる。

 4月15日、16日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。コーネリウス/「バグダッドの理髪師」序曲、ザルムホーファー/交響曲ハ長調、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
 ザルムホーファーはウィーン国立歌劇場の当時の劇場監督である。

 4月23日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)、ワーグナー/「タンホイザー」
 4月26日、27日 コンツェルト・ハウスでウィーン交響楽団のコンサート。ブルックナー/交響曲第8番
 5月3日、4日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。ベートーヴェン/交響曲第9番
 5月6日、7日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ベルガー/「バラード」、ドヴォルザーク/交響的変奏曲、フランツ・シュミット/交響曲第2番
 5月22日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 5月28日、カラヤンとウィーン交響楽団はバイロイトの資金調達のため、バイロイトに招かれてコンサートを開く。演奏曲目は「ローエングリン」第1幕への前奏曲、「ローエングリン」聖杯の歌(ハンス・ホップ)、ブルックナー/交響曲第8番だった。(「ヘルベルト・フォン・カラヤン」)
カラヤンとウィーン交響楽団のバイロイト客演はたちまち評判になり、「ノイエ・プレッセ」紙はウィーン交響楽団をウィーン・フィルと同格と書き、カラヤンに並びうるのはクナッパーツブッシュひとりだと書きたてた。
 しかし、クナッパーツブッシュはジャーナリストの仕掛けには乗らなかった。「カラヤンをクナッパーツブッシュに対抗させることは、たちまちバイエルン地方の名物になったが、これはカラヤンにはなんの得にもならなかった。フルトヴェングラーとちがい、クナッパーツブッシュは身をまもるすべを心得ていた。とくに不愉快な地元の批評家に鉄槌を下すべきだとあおられたとき、彼は『カテドラーレフントピサー(大聖堂にかけられた犬の小便)!』という名セリフでそれを一蹴し、バイエルンの三文文士が仕掛けた論争を簡単にひねりつぶした」(リチャード・オズボーン「ヘルベルト・フォン・カラヤン」木村博江・訳 白水社 ジョン・ヴィッカーズの話として紹介されている)。

 5月30日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 6月9日 ついにフルトヴェングラーとカラヤンの確執が爆発する。ことの発端はウィーン楽友協会の「マタイ受難曲」の指揮を誰がするのかだった。
 この年はバッハ・イヤーで、「マタイ受難曲は」楽友協会合唱団の大きなイベントのひとつだった。楽友協会は名誉会員のフルトヴェングラーにまずその指揮を依頼した。フルトヴェングラーがその指揮を謝絶したので、楽友協会はウィーン交響楽団を率いて驚異的な成功を収めつつあるカラヤンに指揮を依頼、カラヤンは承諾して熱心に楽友協会のレッスンに付き合う。レッスンは40回から50回に及んだという。ある程度仕上げという段階にいたって、どういうわけか、フルトヴェングラーがその「マタイ受難曲」を指揮すると言い出した。シュトラッサーの「栄光のウィーン・フィル」では、藪から棒にフルトヴェングラーの申し出があったとされているが、フルトヴェングラー側にも事情があり、内実は少し異なっているらしい。
 ただ、楽友協会はカラヤンにすでに依頼し、練習も進んでいる現状では約束を翻すことはできない。予定通り、カラヤンが指揮することで楽友協会は押し通した。
 これにフルトヴェングラーは激怒した。また経緯は不明ながら、クナッパーツブッシュもこのときはフルトヴェングラー側に立ち、楽友協会を非難、ふたりの大指揮者は以降の楽友協会の催し物をすべてボイコットしてしまう(「栄光のウィーン・フィル」)。クナッパーツブッシュはその時ちょうどオペラの指揮でウィーンに居合わせていた。
 フルトヴェングラーの怒りのあおりを食ったのはウィーン・フィルだった。カラヤンのマタイ受難曲のオーケストラはウィーン交響楽団で、ウィーン・フィルはこの一件には直接関係していない。
 しかし、ウィーン・フィルはカラヤンを次代の指揮者として期待していたのに、フルトヴェングラーとの結びつきが強かったため、フルトヴェングラーとカラヤンを同じシーズンの指揮者に迎えることはできず、カラヤンのコンサートを開催できなくなってしまっていた。ウィーン・フィルはフルトヴェングラーとカラヤン、両方の指揮者を欲しがっていたのだ。この一件のあと、カラヤンがウィーン・フィルのコンサートの指揮台に復帰するのは実に7年後のことである。

 6月11日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」
 6月14日、15日 ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。
 翌年、バイロイトに登場することになったクナッパーツブッシュのワーグナー録音が盛んに行われる。バイロイト復活を睨んだDECCAの販売戦略だろう。

6月23日、24日 ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。

 Preiser90699の復刻盤では9月11日の録音となっており、その可能性もある。

 6月25日 朝鮮戦争勃発

 7月8日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)ミュンヘン・オペラ祭。リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 7月16日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 7月23日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」。録音が残っている。

 7月30日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 8月27日 ザルツブルク音楽祭。ベルガー/「ロンディーノ・ジョコーソ」、リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲、ブルックナー/交響曲第3番
 9月2日から9日 ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。

 9月10日 ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。プフィッツナー/管弦楽のためのスケルツォ、ドヴォルザーク/交響的変奏曲、ベートーヴェン/交響曲第7番

 この年の秋 クナッパーツブッシュはスウェーデンのストックホルム王立歌劇場に客演として招かれた。「ニーベルングの指環」チクルスと、「ばらの騎士」を指揮している。 まだ若く、国際的な地位を築くのはこれからだったビルギット・ニルソンはそのクナッパーツブッシュをストックホルムで目撃している。クナッパーツブッシュはオーケストラや独唱者と練習をせず、お気に入りのカクテルを飲んでばかりいた。
 またクナッパーツブッシュは、スウェーデン語では「小さな(ポケット)・カレンダー」を意味するfickakarender」と麗々しく印刷されている手帳を友人に送ろうと二ダースもお土産に買ったという。「ficka」はドイツ語で「性交」を意味した。この手の下ネタが好きなクナッパーツブッシュらしい話だ。
 練習をしなかったクナッパーツブッシュだったが、その指揮は見事で、「団員はこのうえなく幸せな気分になれた」。クナッパーツブッシュのお陰で、ストックホルムの聴衆のワーグナー熱が上がるほどだった、とニルソンは書いている。
 ニルソンはクナッパーツブッシュに認められ、翌年、再開されるバイロイト祝祭音楽祭で「ワルキューレ」のジークリンデを歌うよう誘われたが、ニルソンはまだ自信を持つことができず、そのクナッパーツブッシュの誘いを断っている(以上、「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」市原和子・訳 春秋社)

 10月21日、22日 ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」
 11月5日、6日 ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。オール・ブラームス・プログラム。ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第3番、ピアノ協奏曲第1番(p:クリフォード・カーゾン)
コンサートの恐らく前に、ベートーヴェン/「コリオラン」序曲 と、ブラームス/交響曲第3番 の放送用録音の収録が行われた。録音が残っている。

 11月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 11月12日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 11月18日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 11月21日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 12月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」

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