1955年
1月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1月9日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルの特別演奏会。スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
1月10日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ラインの黄金」
1月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
1月13日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ジークフリート」
1月16日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「神々の黄昏」
1月24日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
1月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ウェーバー/「魔弾の射手」
2月5日、6日 パリ、エリゼ宮劇場でパリ音楽院管弦楽団のコンサート。ブラームス/悲劇的序曲、モーツァルト/ピアノ協奏曲 第20番K.466(p:ピエール・サンカン)、リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲
2月12日、13日パリ、エリゼ宮劇場でパリ音楽院管弦楽団のコンサート。ウェーバー/「魔弾の射手」序曲、リヒャルト・シュトラウス/ブルレスケ(p:ジャニーヌ・ダコスタ)、チャイコフスキー/交響曲第5番
2月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
3月4日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
3月6日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
3月10日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」(ミュンヘン初演)
ここでのシャルパンティエは、フランス・バロックのマルカントワーヌ・シャルパンティエではなく、1860年に生まれたギュスターヴ・シャルパンティエである。「このオペラは、パリの労働階級の日常を写実的に描き出しているので、フランスにおける最初のヴェリズモ・オペラと見なされることがある」(Wikipedia)。「ルイーズ」は1900年に完成された。クナッパーツブッシュは「ルイーズ」が気に入ったのか、この後もたびたび指揮をしている。
3月12日 クナッパーツブッシュは67歳になった。
3月15日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
3月20日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでバイエルン州立管弦楽団のコンサート。国民劇場再建に向けての支援コンサートだった。
このコンサートはすべての楽曲で録音が残っている。コングレス・ザールでのコンサートだったが、どういうわけか摂政劇場のお土産として記念LPが売られていた。ピクチャーレコードのLPでなかなか美しい。CDも発売されたが、現在は在庫切れでLPもCDも販売されていないようだ。一部はOrfeoから復刻されている。
- ウェーバー/「舞踏への勧誘」
- ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語
- ヨハン・シュトラウス2世/「千一夜物語」間奏曲
- ランナー/「シェーンブルの人々」
- シューベルト/「軍隊行進曲」
- ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/ピツィカート・ポルカ
- ヨハン・シュトラウス2世/「エジプト行進曲」
- ヨハン・シュトラウス2世/アンネン・ポルカ
- ヨハン・シュトラウス2世/「南国のバラ」
- コムツァーク2世/「バーデン娘」
3月21日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
3月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
3月29日から4月1日 ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。
4月10日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
4月13日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
4月17日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
4月23日、24日 ベルリン音楽大学コンサート・ホールでベルリン・フィルのコンサート。コーネリウス/「バグダッドの理髪師」序曲、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番「皇帝(p:クリフォード・カーゾン)、シューマン/交響曲第4番
4月26日より29日 ベルリン・フィルとスイス・ツアー。
- 4月26日 ローザンヌ
- 4月27日 チューリッヒ
- 4月28日 ベルン
- 4月29日 チューリッヒ
演奏曲目は、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第2番(p:エドゥアルド・エルデマン)シューマン/交響曲第4番だったものと思われる。
5月5日 西ドイツ、主権の完全回復を宣言。
5月7日より27日 パリオペラ座に客演。「ニーベルングの指環」チクルスを2回振った。
- 5月7日 パリオペラ座、ワーグナー/「ラインの黄金」
- 5月11日 パリオペラ座、ワーグナー/「ワルキューレ」
- 5月13日 パリオペラ座、ワーグナー/「ジークフリート」
- 5月16日 パリオペラ座、ワーグナー/「神々の黄昏」
- 5月21日 パリオペラ座、ワーグナー/「ラインの黄金」
- 5月22日 パリオペラ座、ワーグナー/「ワルキューレ」
- 5月24日 パリオペラ座、ワーグナー/「ジークフリート」
- 5月27日 パリオペラ座、ワーグナー/「神々の黄昏」
この間、5月14日にNATO北大西洋条約機構に対抗して、ソヴィエトを中心とした東ヨーロッパはワルシャワ条約機構を結成、冷戦がさらに激化する。
6月3日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
6月10日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
7月22日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
この年のバイロイトは、「さまよえるオランダ人」をクナッパーツブッシュとカイルベルトが分け合い、「ニーベルングの指環」はカイルベルト、「タンホイザー」をカイルベルトとバイロイト初登場になるアンドレ・クリュタンスが分け合った。
クラシックジャーナル026(アルファベータ)の吉田真著「肝心なのは芸術」録音でたどるバイロイト祝祭の黄金時代 第7章「クナッパーツブッシュvsカイルベルト」に、どのようにしてクナッパーツブッシュが「さまよえるオランダ人」をカイルベルトと分け合うようになったのかが書かれていて面白い。クナッパーツブッシュがバイロイトに復活した1954年に、その決定がなされた。
「この新演出《さまよえるオランダ人》のためにヴォルフガング・ワーグナーは新しい指揮者を迎えるつもりだった。ところが、彼がまだ具体的な候補者を選ぶ前の1954年、祝祭期間中のある日のこと、ハンス・クナッパーツブッシュがヨーゼフ・カイルベルトを伴って突然ヴォルガングの執務室を訪れた。クナッパーツブッシュは、いつもの調子で単刀直入に切り出した。『来年の《さまよえるオランダ人》の指揮者が決まっていないそうだが、われわれがやることにしよう。わたしは最初の3回の公演とゲネプロを振る。残りの3回とすべての練習はカイルベルトだ。では、よろしく!』。彼はこれだけ言うと、そのまま出て行ってしまった。その間、大柄なクナッパーツブッシュの背後に隠れるように立っていた短躯のカイルベルトは一言も発しなかったという」(吉田真 前掲書 以下同じ)
吉田氏によると、続いて「(さまよえるオランダ人)全6回の公演では多すぎたのと、おそらくは練習をひとりで引き受けたくなかったためにカイルベルトに声を掛け、勝手に分担まで決めてしまった」とある。さらに「クナッパーツブッシュは親しみを込めたつもりで(カイルベルトのことを)「カイルヴェルク(くさびを打つ機械のことか?)と呼び、あっさりと自分の子分のようにあしらってしまった」。
内心、カイルベルトには面白いわけはなく、「カイルベルトはその晩、バイロイトのアーティスト御用達の酒場『オイレ』でひとり酔いつぶれていた。ヴォルフガングはこれをカイルベルトの「クナッパーツブッシュ痙攣」と呼び、その後も何度かそうした場面に遭遇しては、その都度カイルベルトを慰めなければならなかった」。
7月26日 クナッパーツブッシュはバイロイトから、ザルツブルクに向かう。ザルツブルク祝祭音楽祭への参加のためである。
この年がクナッパーツブッシュのザルツブルク音楽祭最後の年になった。翌1956年はバイロイトでクナッパーツブッシュによる「ニーベルングの指環」チクルスが予定され、クナッパーツブッシュに余裕がなくなってしまうことと、同じく翌年のザルツブルクではモーツァルト生誕200年祭が企画され、オール・モーツァルト・プログラムが組まれたことが挙げられる。ベームの表現によると「モーツァルトとはプラトニックな関係」しか築けなかったため、クナッパーツブッシュは呼ばれなかったからかも知れない。1956年のザルツブルク音楽祭モーツァルト二百年祭に登場した指揮者は、ベーム、セル、ショルティ、ディミトリ・ミトロプーロスである。クナッパーツブッシュが参加しなかったのはなるほどと思えるメンバーである。
さらにその次の年、1957年からは、カラヤンがザルツブルク音楽祭の音楽監督に就任する。クナッパーツブッシュがカラヤンのことを「イタ公」と呼んでカラヤンから嫌われたか、クナッパーツブッシュ自身がカラヤンを嫌ったかだが、おそらく両方とも理由としては当たっていると思われる。クナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭からは遠い存在になってしまう。
なお、7月26日の「悲劇的序曲」は、前年に亡くなったフルトヴェングラーに捧げられた。
7月29日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
7月30日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
8月3日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
クナッパーツブッシュによる「さまよえるオランダ人」の公演が終わり、カイルベルトの「さまよえるオランダ人」が始まる。
前掲のクラシックジャーナル026(アルファベータ)の吉田真著「肝心なのは芸術」録音でたどるバイロイト祝祭の黄金時代 第7章「クナッパーツブッシュvsカイルベルト」に、面白いエピソードが紹介されている。
「ヘルマン・ウーデが伝えているというエピソードだが、《さまよえるオランダ人》の練習中に、指揮をしていたカイルベルトが突然笑い出して音楽が止まってしまった。彼が言うことには、「すまん、すまん。実はスコアにこんなことが書き込んであったんだ。『ここであのケツの穴野郎がクソをたれる』」。指揮者用のスコアだから、歌手がミスをするクセに関して同僚のカイルベルトへの『クナー』らしい注意の促しだったのだろう(ということは、クナッパーツブッシュは完全にすべての練習をカイルベルトに任せていたのではなかったようだ)」。
1955年カイルベルトの「さまよえるオランダ人」はTeldecが正規に録音を行い、クナッパーツブッシュの「さまよえるオランダ人」は放送用録音がOrfeoをはじめ、さまざまなレーベルからリリースされている。聞き比べてみるのも、また面白い。
8月4日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
8月12日 トーマス・マン死去。
8月16日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
8月20日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
クナッパーツブッシュがバイロイトで「パルジファル」を指揮した各年の録音は、1回ずつほぼすべて残っているが、まだテープが発見されていないのか、録音がそもそもないのか、この1955年の「パルジファル」のみ、まだ聞くことができない。クナッパーツブッシュの「パルジファル」は、1951、52,54,56,57,58,59,60,61,62,63,64年の録音を聞くことができる。
8月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ラインの黄金」
8月28日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ワルキューレ」
8月30日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ジークフリート」
9月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「神々の黄昏」
この日の録音が残っていて、Orfeoからリリースされている。前掲のクラシックジャーナル026(アルファベータ)の吉田真著「肝心なのは芸術」録音でたどるバイロイト祝祭の黄金時代 第7章「クナッパーツブッシュvsカイルベルト」に、ブリュンヒルデを歌ったビルギット・ニルソンについて記載がある。
ニルソンは激しくバイロイトのディーヴァ、アストリッド・ヴァルナイにライバル心を燃やしていた。ニルソンは「さまよえるオランダ人」のゼンタ役で選ばれていたが、前年の1954年、ヴァルナイとダブルキャストで組まれた「さまよえるオランダ人」の初日を歌うことを希望し、却下されてしまう。意地になったニルソンはバイロイトとの訣別を辞さず、1955年「さまよえるオランダ人」への出演を拒否してしまった。そのため、1955年と1956年、ニルソンはバイロイトから干されてしまった。
「こうした経緯でニルソンの55年夏のスケジュールが空いたのを見逃さなかったのはクナッパーツブッシュである。かれはこの年、ミュンヘンのオペラ祭で《ニーベルングの指環》を指揮することになっていたので、彼女にすべてのブリュンヒルデを歌うよう求めてきたのだった。ニルソンは当時まだブリュンヒルデ役はスウェーデン語でしか歌ったことがなく、これが初めて原語による全ブリュンヒルデ・デビューだった。彼女はドイツ語の歌詞を修得する準備が間に合わず、《神々の黄昏》の歌詞はストックホルムからミュンヘンに向かう飛行機の中で覚えたという」(前掲書)
クナッパーツブッシュは1950年にスウェーデンに客演した頃から、ニルソンの実力を見抜き、その力量を高く買っていた。
9月4日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ローエングリン」
9月7日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
9月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
10月12日、13日 ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでミュンヘン・フィルの予約演奏会。ベートーヴェン/交響曲第8番、ブラームス/交響曲第2番
10月19日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
10月26日 オーストリアはイギリス、アメリカ、フランス、ソヴィエトの軍事占領を脱し、永世中立国を宣言し、独立国家となる。
オーストリアの独立が遅れたのは、ナチ・ドイツの支配期間が長く、戦争が終わったあともウィーンはソヴィエトの支配下にあり、なかなか国家としての官僚機構が整わなかった。また、冷戦下のため、東側と西側の駆け引きが続き、複雑に利害がからみ合ったため、どちらの陣営に帰属するのかも問題になった。
10月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
10月30日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
11月2日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
11月5日 ウィーン国立歌劇場再建記念式典。クナッパーツブッシュはミュンヘンでオペラを振っており、記念式典には出席していない。
11月5日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
11月16日 ウィーン国立歌劇場再建記念公演。新演出リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
11月24日 ウィーン国立歌劇場、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
ウィーン国立歌劇場の再建記念公演は、新音楽監督(再任だが)のベームが「フィデリオ」、「ドン・ジョバンニ」、ベルク「ヴォツェック」、「影のない女」を指揮、ラファエル・クーベリックが「アイーダ」、フリッツ・ライナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、クナッパーツブッシュが「ばらの騎士」をそれぞれ担当し、ワルターが記念に新しい国立歌劇場でベートーヴェン第九を振った。クナッパーツブッシュの出演は11月16日と24日だった。16日の録音が残っている。
「クナッパーツブッシュの指揮した『ばらの騎士』はクライマックスを形成した。アン・デア・ウィーン劇場は国立歌劇場と共にリハーサル会場に当てられ、『ばらの騎士』のリハーサルのための特別の構築物が設けられていた。しかるにクナッパーツブッシュはやって来て、経費のかかったこれらの装置を見て、その挙げ句に、何時ものように言った。『あなた方はこの曲をご存知です。私もまた知っています。それじゃ何のために練習しますか?』ーーそして帰ってしまった。こんなことは彼だけに、すなわち偉大な即興家であり練達の指揮者たる彼のみに可能であるのは勿論である」(「栄光のウィーン・フィル)。
一見華々しく始まった新ウィーン国立歌劇場だったが、たちまち暗雲がたれ込める。祝典に参加した歌手は、ふたたびそれぞれの歌劇場に散ってゆき、アン・デア・ウィーン劇場で使われていた大道具は舞台のサイズの違いから、新歌劇場ではほとんど使えなかった。ベームは残ってさまざまな処理をすべき筈だったが、このときウィーン国立歌劇場のこけら落としシリーズが終わってあまり日を置かずアメリカへ4週間の客演に飛び立っていった。その間、国立歌劇場の水準はかなり落ち、評論家だけではなく聴衆にも大きな不満が渦を巻き始める。
アメリカからウィーンに帰って空港で記者団に取り囲まれ、大事な時期にウィーンにいないのは何故かと非難するような質問を受けたベームは、おもわず「わたしはウィーン国立歌劇場のために、世界に打って出るチャンスをふいにする気はない」と口を滑らせてしまった。
このベームのことばに、ウィーンの聴衆の不満が爆発する。ベームが次に国立歌劇場で「フィデリオ」を振ったとき、激しいブーイングを喰らい、呼び子まで鳴らされた。ベームはオペラが終わった後、答礼もカーテンコールも拒否して、ウィーン国立歌劇場音楽監督の座を降りることになる。ベームの正式な離任は 1956年3月5日だった。
さらに、クナッパーツブッシュのウィーン国立歌劇場への客演も、この年の「ばらの騎士」が最後になる。ベームの辞任に伴い、カラヤンがウィーン国立歌劇場と関係を深め、音楽総監督に就任するからだ。
11月26日、27日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブルックナー/交響曲第8番
12月5日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでバイエルン州立管弦楽団の希望コンサート。「国民劇場再建チャリティコンサート」だった。ブルックナー/交響曲第8番
12月16日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」
12月21日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、シャルパンティエ/「ルイーズ」
12月25日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
12月26日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」