1959年 バイエルン州立歌劇に復帰

1959年
1月1日 キューバ革命。

 年初早々、クナッパーツブッシュは約束通り、1年ぶりにバイエルン州立歌劇出演拒否の禁を解く。

 1月4日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
 1月6日 ミュンヘンドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルと「公顕の日コンサート」。録音が残っている。

 1月17日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 1月18日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 1月27日 ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでミュンヘン・フィルの特別演奏会。ブラームス/二重協奏曲、シューベルト/交響曲第8番 D.944
 2月12日から3月1日まで ミラノ・スカラ座に客演。ビルギット・ニルソンがゼンダを歌った。

  • 2月12日 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
  • 2月16日 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
  • 2月21日 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
  • 2月24日 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
  • 3月1日 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」

 ハンス・ホッター、アルノルト・ファン・ミル、ビルギット・ニルソンたちが共演した。
 3月1日は予約なしの昼間公演だった。

 3月12日 クナッパーツブッシュは71歳になった。

 3月18日、19日 ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでミュンヘン・フィルの予約演奏会。録音が残っている。

 3月24日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 4月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
 4月7日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」

 4月17日から5月2日 パリ・オペラ座に客演。

  • 4月17日 ワーグナー/「ローエングリン」
  • 5月2日ワーグナー/「タンホイザー」

 5月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
 5月17日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 6月2日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ラインの黄金」
 6月3日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
 6月5日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ジークフリート」
 6月7日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「神々の黄昏」

 7月21日 フランスから、前年までのパリ・オペラ座における客演に対し、レジョン・ドヌール勲章が贈られる。特にクナッパーツブッシュのワーグナーは高く評価された。
 クナッパーツブッシュはリハーサルのため、バイロイトに滞在中だった。そのため、バイロイトで授与式が行われた。クナッパーツブッシュは特徴的なガラガラ声のフランス語でお礼の言葉を言った。
「この勲章は、自分が今までもらった如何なるものよりも、自分にとっての名誉であり本当に嬉しい。フランス政府とフランスの友人に対し心から感謝する」(「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」)。

 7月25日から8月23日 バイロイト祝祭音楽祭。8月7日の録音が残っている。

  • 7月25日バイロイト祝祭劇場ワーグナー/「パルジファル」
  • 7月31日バイロイト祝祭劇場ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月7日バイロイト祝祭劇場ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月13日バイロイト祝祭劇場ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月23日バイロイト祝祭劇場ワーグナー/「パルジファル」

 この年のクナッパーツブッシュは「パルジファル」のみ担当した。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をバイロイト初登場のエーリッヒ・ラインスドルフ、「トリスタンとイゾルデ」、「さまよえるオランダ人」を3年目になるサヴァリッシュ、「ローエングリン」をバイロイトに一時君臨していたハインツ・ティーティエンが久々に登場(1941年以来である)、初登場のロヴロ・フォン・マタチッチと指揮を分け合った。この年は「ニーベルングの指環」は上演されなかった。
 クナッパーツブッシュとマタチッチはこの時言葉を交わしている。
「ロヴロ・フォン・マタチッチは、シャルクの立派な弟子であったが、一九五九年バイロイトで『ローエングリン』の上演を何度か指揮した。
 マタチッチはクナッパーツブッシュをたいそう尊敬していたので、クナーが指揮する『パルジファル』では、有名な奈落にあるオーケストラ・ピットで彼を見ていた。上演が終わると、出口で待ち構えていたマタチッチは、クナーに歩み寄ると興奮して話しかけた。『先生(マイスター)、あなたを尊敬します。』
 しかしクナーはしわがれ声で下を向いたままマタチッチにこう答えたのだ。『もう一度でもおれに「先生(マイスター)」と言ってみろ。手前のケツをぶっとばすぞ!」』(「クナッパーツブッシュの思い出」、「巨匠たちの音。巨匠たちの姿」)。

 8月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
 9月 バイエルン州立歌劇の音楽監督が、フェレンツ・フリッチャイからヨーゼフ・カイルベルトに交替する。
 1956年、バイエルン州立歌劇場音楽総監督に就任したフェレンツ・フリッチャイだったが、「ワーグナー都市ミュンヘン」、「リヒャルト・シュトラウスの故郷ミュンヘン」という環境の中で、実力者クナッパーツブッシュと客演指揮者ベームの重圧に苦しむ。音楽総監督の立場であるのなら、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのオペラを指揮しなければならないが、そのレパートリーのほとんどすべてをクナッパーツブッシュとベームに委ね、自身はミュンヘンで初演されるオペラや新作ばかりを振った。そのため批評家や聴衆の不満が鬱積し始め、徐々にミュンヘンにいずらくなっている。前年のクナッパーツブッシュのバイエルン州立歌劇不参加もこたえていたかも知れない。
 さらにフリッチャイは、1958年秋頃から白血病の症状がひどくなり、胃腸の状態が悪化して(1957年頃からすでに症状は出ていたようだ)指揮活動に支障を来すようになった。そのためフリッチャイは音楽総監督の地位を辞任、1959年のシーズンから、バイエルン州立歌劇場音楽総監督にヨーゼフ・カイルベルトが就任した。フリッチャイはミュンヘン離任後、10ヶ月に渡って生死の境を彷徨っている。フリッチャイは奇跡的に復活、ベルリンで活躍するも、 1962年に48歳の若さで亡くなる。

 9月2日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ミュンヘン・オペラ祭。リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 9月22日から25日 ビルギッド・ニルソン、ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。
「トリスタンとイゾルデ」抜粋を収録した。クナッパーツブッシュの指揮で録音することはニルソンの希望だった。

11月14日から11月22日 ベルリン州立歌劇場に客演。

 この1959年ベルリン州立歌劇場での「ニーベルングの指環」チクルスが、クナッパーツブッシュの生涯で最後の「ニーベルングの指環」チクルスとなった。

 11月28日 ドレスデンに客演。シュターツカペレ・ドレスデンとコンサート。すべて録音が残っている。

 前日、27日にブラームス/交響曲第2番 のみゲネプロか放送用録音でも演奏したらしい。聴衆なしの録音が残っている。

 12月2日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
 12月5日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、モーツァルト/「魔笛」
 12月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「タンホイザー」
 12月14日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでバイエルン州立管弦楽団とコンサート。すべて録音が残っている。

 12月26日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 12月31日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」

 この年、クナッパーツブッシュは一度もウィーンに登場していない。

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