1961年
1月6日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルと「公顕の日コンサート」。ウェーバー/「オベロン」序曲、ハイドン/チェロ協奏曲 Op.101(vc:フリッツ・キスカルト)、ブラームス/交響曲第3番
1月9日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
1月10日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
1月20日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
1月末 客演先のブリュッセルで胃潰瘍の手術を受ける。
たまたまクナッパーツブッシュがブリュッセルに客演する直前にクナッパーツブッシュのミュンヘンの自宅を、ウィーン・フィルのヴォービッシュとシュトラッサーが訪ねていた。ウィーンと疎遠になりつつあるクナッパーツブッシュをつなぎ止めておくためである。
カラヤンはウィーン国立歌劇場の労働争議に巻き込まつつあり、ウィーンでの雲行きが怪しくなっていた。労働争議が表面化するのはこの年の9月である。また、カラヤンはウィーン国立歌劇場の運営方法に批判的になっており、翌1962年2月5日、結局、ウィーン国立歌劇場を辞任することになる。カラヤンとベルリン・フィルとの関係の密度が濃くなって行くこと、ザルツブルク音楽祭の旧態依然とした運営方針や保守的な聴衆もカラヤンに別な方向性を探らせていたようだ(オズボーン本、音友ムック「カラヤン」など)。
ヴォービッシュやシュトラッサーはウィーンをめぐるゴタゴタを予知し、ウィーンと疎遠になりつつあるクナッパーツブッシュをなんとかウィーンにつなぎ止め、危機を回避しようという腹があったものと思われる。
しかし、ヴォービッシュとシュトラッサーがクナッパーツブッシュを訪ねた時、クナッパーツブッシュはすでに体調の悪さを訴えていた。二日後ブリュッセルで指揮をするといったクナッパーツブッシュは、そのブリュッセルで胃潰瘍の手術を受けることになってしまった。
3月12日 クナッパーツブッシュは73歳になった。
4月12日 人類初の有人衛星、ソヴィエト連宇宙船ボストーク1号が、ガガーリン飛行士を乗せ地球一周に成功。
5月23日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
胃潰瘍の手術後、クナッパーツブッシュはミュンヘンで復帰する。ただ、クナッパーツブッシュの体力は著しく損なわれていた。
5月28日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
6月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
7月5日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
7月25日から8月19日 バイロイト祝祭音楽祭。クナッパーツブッシュは「パルジファル」のみ、担当した。
- 7月25日 ワーグナー/「パルジファル」
- 8月5日 ワーグナー/「パルジファル」
- 8月14日 ワーグナー/「パルジファル」
- 8月19日 ワーグナー/「パルジファル」
この年の「パルジファル」は日程は特定できないながら、録音が残っている。
クナッパーツブッシュは「パルジファル」のみ4回指揮、「ニーベルングの指環」をルドルフ・ケンペ、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をバイロイト初登場のユダヤ人ヨーゼフ・クリップス、「タンホイザー」と「さまよえるオランダ人」をサヴァリッシュが担当した。
8月13日 バイロイト祝祭音楽祭の期間中、東ドイツが東西ベルリンの境界を封鎖。後に境界線上に要塞化した壁を建設する(「ベルリンの壁」)。
東ベルリンから西ベルリンへの逃亡者の数の多さに頭を悩ました東ドイツ政府は、「壁」を作って人口流出を防ごうとした。壁を乗り越えるものは容赦なく射殺された。以後、西ドイツと東ドイツの往来は厳しく制限される。
「ベルリンの壁」は1989年11月9日まで存続した。
10月9日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、モーツァルト/「魔笛」
10月13日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
10月21日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、国民劇場再建支援公演。ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
10月28日、29日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブルックナー/交響曲第8番
胃潰瘍の手術を受ける前、クナッパーツブッシュはウィーン・フィルのヴォービッシュとシュトラッサーに約束していた通り、ウィーンに登場する。
ウィーン・フィルのオットー・シュトラッサーはやせ細ったクナッパーツブッシュにショックを受ける。
「十月に彼は私たちの所にやってきて、そのシーズンに定期シリーズの2回のコンサートを指揮してくれ、ウィーンの芸術週間(1962年、1963年)にも1回指揮してくれたが、しかしもう衰弱した人間だった。服は彼の身体の周りにだぶつき、2メートル近くある背の高い人だったが、もはや60キロくらいの体重しかなかった。しかしそれでも彼は当時なお、彼の最上の時代のような指揮ぶりを示したのである。しかし各コンサートごとに何か一種の別れの気配が漂い、それはコンサートを確かに美化はしたが、私たちを全く悲しい気持ちにさせた」(「栄光のウィーン・フィル」)。
11月6日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、モーツァルト/「魔笛」
11月29日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、モーツァルト/「魔笛」
12月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
12月20日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
12月25日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ローエングリン」
12月 Westminsterにバイエルン州立歌劇場管弦楽団とスタジオ録音。 ベートーヴェン/「フィデリオ」
クナッパーツブッシュはDECCAとの契約を終了し、この「フィデリオ」以降、Westminsterに録音を開始する。Westminsterは安価にウィーンの演奏者を起用して録音するレーベルで、メジャーではなかった。
ユニヴァーサル=日本ビクター盤「フィデリオ」のジャケットを見ると、ちゃんとミキサー室でプレイバックを聞くクナッパーツブッシュの姿が写真に写っており、DECCAのカルショーに「録音嫌い」でレコーディングに理解のない指揮者のレッテルを貼られてしまったクナッパーツブッシュだったが、「録音嫌い」でレコーディングに理解がなかったわけではないことが分かる。
この時期、カラヤンとDECCAのカルショーは密接な関係にあったため、カラヤンのクナッパーツブッシュ排除、より録音しやすい指揮者で録音を次々と行っていたカルショーの利害がうまく重なったようだ。