前回、カラヤンのマーラー:交響曲第5番だったので、その次の録音ということでカラヤン盤マーラー:「大地の歌」を聞いてみる。
LPもあるが、今回はCDで。
久しぶりなので、昔聞いた感想を忘れていた。
立派な演奏だということだけ記憶にはあったが。
ところが聞き始めてルネ・コロのテノールが出始めたあたりから、なんだかものすごい違和感が...。
ルネ・コロは大変な美声で、その歌声は確かに素晴らしいのだが、第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」からどこか違うのだ。
うますぎるのか?
次に第2楽章「秋に寂しき者」のクリスタ・ルートヴィヒ、これもまた歌声は非常に立派なのだが、どこか共感して歌っているようには聞こえない。
???
ということで、クレンペラー盤を引っ張り出した。
まったく聞こえ方が違った。
カラヤン盤テノールのルネ・コロとクレンペラー盤のフリッツ・ヴンダーリヒはそもそもテノールとしての性格は異なるが、クレンペラー盤のヴンダーリヒの歌唱から、第1楽章から非常に自然な感情の動きを聞き取ることができる。
第2楽章以降のクリスタ・ルートヴィヒも、非常に感情豊かな表現だ。
カラヤン盤で気になるルートヴィヒのビブラートも自然に聞こえ、あまり気にならない。
すなわち、クレンペラーは歌手の表現を尊重し、自発的な感情の発露を徹底的にサポートしているのに対し、カラヤンは、管弦楽だけではなく、歌手の感情表現をも自分のコントロール下に置こうとしているように聞こえる。
そのためか、ルネ・コロもクリスタ・ルートヴィヒも、歌声は立派なのだが、その表現にどこか生硬さを感じてしまうのだ。
ルネ・コロには「大地の歌」はショルティ盤もあるが、処分してしまっていたので聞けなかった。
そう言えば、小生はカラヤンによる声楽付きの楽曲では、あまり感心したことがなかったということを思い出した。
ほぼ同時代の指揮者たち、カラヤン、クレンペラー、クナッパーツブッシュ、そしてフルトヴェングラーは、修業時代はオペラから出発した指揮者たちだが、音楽の作り方や表現は異なるとはいえ、クレンペラーとクナッパーツブッシュは演奏者(ここでは歌手)の自発性を尊重し、カラヤンとフルトヴェングラーは、管弦楽だけではなく、歌手をも自分の指揮のコントロール下に置こうとしているように聞こえてしまうのだ。
そう言えば、小生はフルトヴェングラーの声楽付きの楽曲にも、それほど多くは共感したことが少ないことを思い出した。
「トリスタンとイゾルデ」の名盤を除いて。
ここらあたりが、自分がどういうタイプの指揮者の音楽に共感できるのか?の境目なのかも知れない。

