クナを聞く 第165回
マーラー編:「なき子をしのぶ歌」


1956/4/8-9 Berliner Philharmoniker

CDGI 710.1
KICC-2026
LS 4035180
Lucretia West(ms)

Arkadia/CDGI 710.1(Italy)
King Seven Seas/KICC-2026(Japan)
Living Stage/LS 4035180(Italy)2CDs
 クナがマーラーを振った記録というのは非常に少ない。Hans Knappertsbusch Concert Registerで調べてみると、以下のようになる。
 1924年4月4日マーラー:交響曲第4番と、1926年2月18日「さすらう若人の歌」の歌手は今のところ不明である。
 クナは一時期よくアメリカ出身の黒人歌手ルクレティア・ウェストと共演した。Decca録音の「アルト・ラプソディ」でも共演している。
 クナはウェストと共に、1956年1月15日にウィーン、4月8日と9日のベルリンでのコンサートで「なき子をしのぶ歌」を演奏した。1956年1月15日はSonderkonzert(特別演奏会)となっていて、ウェーバー:オベロン序曲、マーラー:なき子をしのぶ歌、シューベルト:交響曲第9番「ザ・グレート」D.944を振っている(Concsrt Registerでは新ナンバリングで第8番となっている)。4月8日と9日の演目はマックス・トラップ:Konzaert für Orchester Nr.3、マーラー:なき子をしのぶ歌、ベートーヴェン:交響曲第5番だった。マックス・トラップとは珍しい。ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」のゲオルグ・リッター・フォン・トラップ大佐とは別人である。「リッター」とは騎士のことなのだそうだ。トラップ大佐は戦功により叙勲され、自動的にリッター(騎士)になった。関係ない話だが…(^^;。「サウンド・オブ・ミュージック」が好きなもんで…。数年前、朝日新聞で「サウンド・オブ・ミュージック」はオーストリアではまったく受けない、という記事を読んで驚いたっけ……更に関係ない話。クナによるマックス・トラップはCD化されていないが、ベートーヴェン:交響曲第5番はCD化されている。クナを聞く 第14回で取りあげた。

 マーラーはリュッケルトによる連詩の中から5編を選び、全てが繋がるように演奏する意図で作曲した。リュッケルト自身の子供の死をきっかけに詩は書かれた。マーラー自身も「なき子をしのぶ歌」作曲の4年後に娘を猩紅熱で失っているが、マーラーは自分の娘の死を予感して作曲したわけではない。マーラーは娘の死に際し、自分がその死の前に「なき子をしのぶ歌」を作曲したことにショックを受けている。
 「なき子をしのぶ歌」はメゾ・ソプラノ、あるいはバリトンで歌われる。元来は幼い娘を亡くした父親の心情が歌われれるので、男声の方が合っているのかと思ったら違った。バリトンでは、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ジョージ・ロンドン、トーマス・ハンプソンの歌唱をそれぞれ聞いたが、やはりメゾ・ソプラノで歌われた方が惻々とした哀しみは伝わってくるようである。女声の方が、父親そのものがストレートに娘の死を悼むと言うより、その情景を描写する優しい眼差しを感じ取れるからかも知れない。
 小生、マーラー聞きであるのに、自分の子供が生まれて「なき子をしのぶ歌」を聞けない時期が長く続いた。実は今でもあまり積極的に聞きたいとは思わない。いくつかの「なき子をしのぶ歌」のCDは棚にあるが、その中で無理矢理フェヴァリッツを選ぶと、ジャネット・べーカー、ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のEMI盤である。キャスリーン・フェリアの名高いワルターとの名盤もあるが、小生どうしてもフェリアの歌唱に馴染めず、さらに名盤の誉れ高い「大地の歌」もご免なさい…なのである。レナード・バーンスタインの「なき子をしのぶ歌」CBSへの旧盤はジェニー・トゥーレルで(DGへの新盤はトーマス・ハンプソン)、その雰囲気には大いに惹かれるところはあるものの、感情の表出が多少大袈裟でついて行けないところがある。ジャネット・べーカー盤はその点、ノーブルな歌いっぷりで好感が持てる。管弦楽伴奏はバーンスタインが新旧とも各フレーズに粘着してゆくようでさすがに凄いが、バリビローリも素晴らしい。バーンスタインのように粘着するような伴奏ではないものの美しい管弦楽が聞ける。

 クナ盤は同一録音が3種出ているが(Hunt盤を入れると4種)、Arkadia盤が棚から見つからない。ほぼ家捜し状態で探したが見つからなかった。クナを聞く 第127回でブルックナー:交響曲第9番を聞いているので、どこかにある筈だが、どこにも見あたらない(;_;)。
 仕方がないので、King Seven Seas盤、Living Stage盤での比較から始める。Arkadia盤が見つかったら、またその音のついては追加する。
 クナは離婚したエレンとの間にアニータという女子をひとりもうけた。エレンと離婚しマリオンと再婚するが、再婚後も一人娘を可愛がったらしい。
 ところが、1938年6月2日、脳腫瘍の手術中にアニータは19歳で死んでしまう。アニータを葬った墓の鍵をクナはペンダントにして首からぶら下げていたという。ナチ・ドイツのオーストリア併合でクナの立場は微妙な時期だった。アニータの亡くなる前日、6月1日のコンサート記録を見ると、ドイツ精神発揚のコンサートだったようで、ウィーン・フィルと「ホルスト・ヴェッセルの歌」を演奏している。
 アニータの死後、7月15日には、クナはウィーン・フィルとドイツ国内でのコンサート活動に駆り出されている。哀しみに負けないために、その方が良かったのかも知れない。後にバイロイトでクナと共に活躍することになるアストリッド・ヴァルナイは、アニータと一歳違いということで、クナから随分可愛がられたらしい。
 奥波一秀著「クナッパーブッシュ」(みすず書房刊)に、クナはモーツァルト:「魔笛」第1幕第6場での「私の運命は苦しみばかり、娘がいなくなったから。あの子とともに私の幸せはすべて失われた」の箇所で早めのテンポを取りたがった、という話が伝わっていると紹介されているが、恐らく「なき子をしのぶ歌」を振る際にも、深い感慨があったであろうことは予想できる。その心情が、マーラーをあまり振らなかったクナの1956年「なき子をしのぶ歌」に反映しているように聞こえる。1956年「なき子をしのぶ歌」はたっぷりと、その哀しみを塗り込めるような演奏をクナは行っている。

いま太陽は輝き昇る
 夜中に起こった不幸は私だけのもので、陽は昇り周囲を祝福する。祝福されている周囲への日常的な歓びの中に、子供の死を体験した親の心情が哀しく歌われる。
 クナはストレートに哀しみをオーケストラで歌ってゆく。少しホルンが不調だが、木管楽器の扱いは素晴らしい。ウェストの歌は細かなヴィヴラートが少し気になるものの、堂々と素直にマーラーの佳曲を歌ってゆく。
 「永遠の光の中に沈めよう」から、この世のものとも思えない美しく妖しいヴァイオリン群の音が聞け、まるで鎮魂するような響きだが、クナはゆったりとした情感で管弦楽を操る。さまざまに聞いた「なき子をしのぶ歌」で暗く沈んだ湿った情感が特徴的だ。

なぜ、そのように暗いまなざしで
 元気だった子供の眼差しに、その夜死の影が宿していることに気が付かなかった父親の悔やまれるような心情が歌われる。
 最初のえぐるような弦楽器に凄みがある。「ああ、あの眼!まるでその眼差しに」からの管弦楽は、詩と一緒に泣いているようで、クナの「なき子をしのぶ歌」に寄せる息が詰まりそうな想いが伝わってくる。ウェストの歌唱は多少音程が怪しい部分はあるものの、尻上がりによくなり、哀しい音楽なのにクナとの共演が幸福な音楽を聞く瞬間を経験させてくれる。「いま輝いているのは、私たちの眼」は涙なくして聞けないほどの昇華された哀しみが聞ける。

おまえのお母さんがはいってくる時
 妻が部屋に入っていると、まとわりつくように一緒に一緒に部屋に入ってきた娘が偲ばれる。その懐かしさ、娘がいないことへの哀しみが歌われる。
 何と哀しいオーボエの音色!フルートの音色もまた白っぽくて哀しい。クナのテンポは落ち着いており、自然だ。母親にまとわりつくような娘の影を探す父親の心情が、寂しげな管弦楽の音色を伴って、情景として浮かんできそうだ。童謡のような優しいメロディが、「おお、お父さんの心の憩い、ああ、あまりにもすみやかに消えたよろこびの光よ、おまえ」と歌われた後の尾を引くような管弦楽が更に哀しい。

こどもたちはちょっと出かけているだけだ
 子供の死に、「ちょっと出かけているだけだ。道草を食って家に早く帰りたくないだけなのだ」と思いこみたい父親の哀しい想いが歌われる。
 最初は少し明るい色調のオーケストレーションだが、ウェストの歌によって、それははかない希望でしか過ぎないことがすぐに分かる。明るい陽の中での父親の幻想のように、明るい管弦楽やヴァイオリンの音色が、より深く哀しい情景を描いてゆく。「陽の当たるあの丘で、天気もいいし」の弦楽器の美しいこと!

こんな嵐に
 「嵐の日に、こんなひどい嵐の日には子供を外に出したりはしなかった。病気になったり、嵐に巻き込まれて死にはしないかと、父親であるわたしは子供に気を遣っていた。しかし、子供は運び出され、心配をする必要はなくなってしまった。子供は嵐に脅かされることもなく、神様に御手に守られている」と、子供の死を正当化し、自分を慰めるしかない父親の心情が歌われる。
 力無く荒れ狂うような父親の心情が管弦楽とウェストによって奏でられてゆく。マーラー指揮者のように尖ったアクセントをクナは取らないが、音楽の流れは自然で、その響きは緩やかにマッスとして聞こえてくるが、透明さも獲得している。歌詞は5部に別れ、最後の「こんなひどい嵐の日にも」からの祈りのような音楽をクナは情感たっぷりに演奏させる。神の御手にゆだねられ、安息を祈る心情が湿った情感で演奏され、余韻を残す。