
Photo by Ludwig
ハンス・クナッパーツブッシュ その苦悩と偉大
クナを聞く
(旧)日本ハンス・クナッパーツブッシュ研究会 資料
- Hans Knappertsbusch Concerts Register
- Hans Knappertsbusch Vinyl Disocography
- ハンス・クナッパーツブッシュ 〜生誕百年に寄せて〜 ガブリエレ・E・マイヤー 石橋 邦俊 訳
- クナッパーツブッシュ ヴァルター・パノフスキー著 石橋 邦俊 訳

それまでの小生は、フリッツ・ライナーやジョージ・セル、ピエール・ブーレーズなどの、どちらかというとアメリカで活躍していた指揮者による明晰な音楽が正しいと思っていて、クナッパーツブッシュはほとんど視野に入っていなかった。
ところが一時期、「エロイカ」という音楽そのものに深く感動した小生は、「エロイカ」のCDを漁りまくった時期があった。きっかけは、カラヤン盤とワルター盤の落差に驚いたということがある。それなら、さまざまな指揮者による「エロイカ」を聞いてみようと、リリースされている「エロイカ」を片っ端から買い集めた。
その中に、クナッパーツブッシュの「エロイカ」があり、その音楽の深く慟哭する音楽に、「こういう表現もありなのか」と心底驚いた。今でも、さまざまな指揮者による「エロイカ」を聞くが、クナッパーツブッシュの音楽のもたらしてくれた深く巨大な感動に結びついた演奏録音は残念ながらない。
クナッパーツブッシュの虜になった小生は、それからさまざまなクナッパーツブッシュの録音を集めた。
クナッパーツブッシュは、1888年に生まれ、ふたつの世界大戦をくぐり抜けている。特に第2次大戦はドイツに大きな戦禍をもたらしたが、クナッパーツブッシュもナチ台頭のころから、ドイツで仕事の場を奪われたり、一人娘を病気で亡くしたりと、さまざまな苦難をくぐり抜けねばならなかった。
それでも、クナッパーツブッシュはおやじ的なユーモアを忘れず、死ぬまでどこか素っとぼけたところがあった。身長は1メートル93センチ、バイエルン州立歌劇場音楽監督時代、ドイツ楽壇を追放される前は金髪碧眼でゲルマン民族の典型ともてはやされたこともある。
リヒャルト・ワーグナーのスペシャリストとして出発、そのスタンスは生涯変わることがなかった。第2次大戦後のバイロイト祝祭音楽祭では、クナッパーツブッシュのワーグナーは大きな目玉のひとつだった。
ただ、クナッパーツブッシュのレパートリーはひじょうに狭いと信じられてきたが、それは晩年になってからのことで、実際にはさまざまな音楽を指揮している。 クナッパーツブッシュの音楽は、同時代のどの指揮者の音楽とも似ていない。その音楽は機能的と言うより情動的で、縦の線を合わせるよりメロディのより大きな振幅の呼吸感に特徴がある。また、リハーサルを重ねて失敗のない演奏よりも、オーケストラのメンバーの自発性を尊重し、即興的な音楽作りを好んだ。そのようなクナッパーツブッシュの音楽が、ドイツ人指揮者に特有な低弦域を強調したピラミッド・バランスのなかで実現すると、まるで音楽が魔法にかかったように呼吸し、生きているように聞き手に迫ってゆく。
クナッパーツブッシュは、それほど多くのスタジオ録音を残さなかったが、近年、数多くのライヴ録音が発掘されるようになった。さらに世界で初めてではないかと思われるクナッパーツブッシュの生涯に関する著作も、奥波一秀著「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」(みすず書房刊)で読めるようになった。それまでは、深い霧に閉ざされたように、断片的にしかクナッパーツブッシュのことは分からなかったのだ。
クナッパーツブッシュは、ある人にとっては過去の遺物に過ぎないのかも知れない。 しかし、その音楽に触れる時、人懐っこいメロディ・ライン、地の底からわき上がるような低域、独特のフレーズの繋ぎ方、オーケストラ・バランスに、かけがえのない音楽を聞かせてもらっているような神々しささえ感じる。
小生は、生涯クナッパーツブッシュ・ファンであることをやめないだろうし、それが大きな生きてゆく上での糧ともなっている。