1911-1912年 学生時代、ミュールハイム歌劇場で指揮者になる

 夏はバイロイトのクナッパーツブッシュだが、ケルン音楽院は1910年に修了、ボン大学での聴講記録は1910年冬学期まで残っている。大学生であったクナッパーツブッシュは忙しく、1909年から12年まで、ミュールハイムやボーフムの歌劇場で指揮者助手をしていたと伝えられている(奥波本)。
 ミュールハイムの歌劇場に関しては、兄ワルター・グスタフの「ミュールハイム(ルール)の劇場でプロイセン王立第一五九歩兵連隊楽団とロッシーニの『セビリアの理髪師』を上演し、母親を驚かせた」(奥波本)という記録と、「(ギムナジウム卒業の)一年後にルールとボーフム近郊のミュールハイムの劇場と契約することに成功し、楽長としての第一歩を歩みはじめる。この二流クラスの劇場は、薄氷を踏むような危機的な状況にあった。彼はそんな状況からなんとか脱出させなければならぬという課題を背負わされることになった。こうして彼は劇付随音楽や娯楽音楽の編曲から、オペレッタやジングシュピールの指揮まで、なんでもこなさなければならなくなる」(ルーペルト・シェトレ著喜多尾道冬訳「指揮台の神々」音楽之友社)という記述がある。ミュールハイムの劇場はあまり経営状態が良くなかったようだ。
 1912年には、HUNTのConcert Registerによると、ミュールハイムでロッシーニ/「セビリアの理髪師」を振ったという記録が残っているが、フランスの歴史的録音の復刻レーベルTAHRAの故ルネ・トルミヌの調査によると、ミュールハイムの劇場で指揮をしていたのは1911年で、以下の記録が残っている。
1911/01/24 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュールハイム
1911/02/02 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュールハイム
1911/02/09 レオンカヴァレッロ/「道化師」 ミュールハイム
1911/02/14 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュールハイム
1911/02/16 ロルツィング/「ウンディーネ」 ミュールハイム
1911/02/22 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュールハイム
1911/02/24 ビゼー/「カルメン」 ミュールハイム
1911/03/14 ロルツィング/「密猟者」 ミュールハイム
1911/03/16 ヴェルディ/「イル・トロヴァトーレ」 ミュールハイム
1911/03/21 アダン/「ロンジュモーの郵便屋」 ミュールハイム
1911/04/04 フロトー/「マルタ」 ミュールハイム
1911/04/07 ヘィルヴィ/「ユダヤ人の女」 ミュールハイム
(René Trémine’s DATA)
 経営状態の悪いミュールハイムの劇場がつぶれたため、ボーフム市立劇場に移るも、ここもつぶれてしまう。ボーフムでの記録はいまだに見いだせていない。ほかにケルンの劇場(市立歌劇場か)に籍があったという記録が残っているそうだが、学生時代のクナッパーツブッシュが何をやっていたのか、不明な点も多い(以上、奥波本参考)。
 クナッパーツブッシュはミュンヘンに移り、学業に専念した。奥波本によると、ミュンヘンでフランケンシュタインの知己を得て、1913年から生まれ故郷であるエルバーフェルト劇場に職を得たとある。
 クレメンス・フォン・フランケンシュタイン(Clemens Erwein Heinrich Karl Bonaventura Freiherr von und zu Franckenstein)(1875/6/14-1942/8/22)は男爵家に生まれた作曲家である。アメリカでの指揮活動のあと、1902年からイギリスで活動を行い、1908年からウィースバーデン、1908年からベルリン州立歌劇場で仕事をした後、1912年からバイエルン州立歌劇の支配人に就任し、後にワルターとひとつの黄金時代を作り出すことになる。フランケンシュタインとエルバーフェルト劇場の関係はよく分からないが、エルバーフェルトで無給の第二指揮者が不足しており、その情報をフランケンシュタインが得ていたのかも知れない。
 クナッパーツブッシュは、1913年に(エルバーフェルトに帰る前だと思われる)、ミュンヘン大学に学位請求論文を提出するが、学位は取得できなかった。学位論文の題名は「ワーグナーの『パルジファル』におけるクンドリーの本質について」だった。エルバーフェルトから指揮者としての声がかかったため口頭諮問が受けられなかった、あるいは担当教授(音楽学正教授アドルフ・ザントベルガー)の評価が芳しくなかったとも伝えられている(奥波本)。
 指揮活動を続けながら、勉強も継続していたらしい。当時からのクナッパーツブッシュのワーグナーへの傾倒ぶりがうかがえる。その学位請求論文は残念ながら失われてしまったため、現在では読むことはできない。

 一方、クナッパーツブッシュよりも一歳年下のヒトラーは、1909年、20歳で没落を味わう。
 ウィーン芸術アカデミーへの入学はできず、手持ち資金の乏しくなったヒトラーは下宿を引き払い、ウィーンの困窮者向け共同宿泊施設や、篤慈家の運営する独身寮を転々とした。そこでヒトラーは絵を描き、共同宿泊施設や独身寮で知り合った友人がヒトラーの絵を売って生活をした。1910年に入った独身寮での生活が最も長く、そこで絵を描き続けるとともに、ヒトラーのもうひとつの可能性の萌芽である政治議論を盛んに行った。ウィーンで発行される、反ユダヤ主義、反共産主義の新聞やパンフレットを熱心に読んでいたが、独身寮でヒトラーと最も仲の良かった友人ふたりはユダヤ人であったそうだ(トーランド本)。
 政治議論が始まると異常に興奮するヒトラーだったが、普段の生活では物静かで仲間への思いやりが深く、尊敬を集めていたようだ。同年、ヒトラーはさらにもう一度芸術アカデミーへの入学を試み、アカデミーの絵画修復科の教授を訪ねて入学の後押しを依頼するが断られている。ヒトラーの落胆は大きかったようだ。
 ヒトラーが経済的に息をつけたのは叔母の死だった。叔母は潤沢な遺産をヒトラーに残してくれ、ヒトラーはその金を持って独身寮での生活を続ける。ヒトラーの独身寮での生活は1913年5月24日まで続いた。ウィーンに絶望したヒトラーは、ミュンヘンに行くことを決意して実行するからである。オーストリア軍の徴兵を嫌っていた可能性もある。多民族国家オーストリア(とりわけウィーン)ではなく、ヒトラーは大ドイツへの憧憬が強かったからだが、単純にヒトラーが軍隊での束縛を嫌ったということも考えられる。
 1908年10月6日、ヨーロッパではオーストリア・ハンガリー帝国はボスニアとヘルツェゴヴィナを併合、第一次世界大戦への火種となった。

 1909年7月6日、日本は韓国併合を閣議決定、10月26日、日本の韓国併合に反発した韓国人民族主義者安重根によって、韓国統監伊藤博文が中国東北部の都市ハルピンの駅で暗殺される。伊藤博文はむしろ韓国併合には反対であったそうだが、初代韓国統監という立場を恨まれたようだ。日本の韓国併合は1910年8月に行われた。
 1910年5月25日、天皇暗殺計画が発覚したとされ、大逆事件(無政府主義者幸徳秋水にちなんで「幸徳事件」とも呼ばれる)が起こる。1910年から翌1911年にかけて、日本の社会主義者、無政府主義者の多くが逮捕、処刑される。天皇暗殺計画そのものは実際にあったが、逮捕者の多くは警察の仕組んだ冤罪だったとも言われ、現在でも議論は続いている。
 また中国では、義和団の乱の敗北で力を弱めていた清帝国だったが、1911年10月10日、武昌起義を発端とした辛亥革命が起こる。1912年1月1日、孫文(孫中山)が中華民国の成立を宣言し、臨時大統領になったことを宣言する。清はそれに対抗するように、西太后の跡を継いで清帝国皇帝なっていた愛新覚羅溥儀(宣統帝)が2月12日に退位して清帝国は消滅、辛亥革命を飲む込むような形で中華民国第二代臨時大統領に袁世凱が就任した(袁世凱の大統領への正式就任は、第二次革命を鎮圧したあと、1913年10月10日だった)。
 そして1912年7月29日、日本では明治天皇が崩御、翌30日に日本の元号は明治から大正へと変わった。日本は新たな方向へ舵を切ろうとしていた。

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