1889年 ヒトラーの生まれた年

 クナッパーツブッシュが生まれた1888年の翌年、1889年の4月20日、ドイツ国境近くのオーストリアの町、ブラウナウでアドルフ・ヒトラーが生まれた。ブラウナウはリンツ、ザルツブルクに近く、またミュンヘンとも近かった。ヒトラーの父アロイス(1837-1903)は税官吏である。比較的裕福な家庭であったようだ。
 ヒトラーには、父アロイスの前妻との間に生まれた兄妹が二人、アロイスとヒトラーの生母クララ(1860-1907)の間に生まれた兄妹がヒトラーを除いて5人いたが、ヒトラーと末の妹のパウラ(1896-1960)だけが成長でき、他の4人は産まれてすぐ、あるいは子供の頃に病死している。もっとも、アロイスはクララの前妻の前にも結婚して子供を作っており、後にヒトラーの家政を担うアンゲラ・ラウバルという異母姉がいた。

 後にヒトラーと敵対するバイエルン分離主義の元となるバイエルン王国はナポレオン戦争の産物である。ナポレオンは神聖ローマ帝国の崩壊後、プロイセンを取り囲むように、フランス、バイエルン、オーストリアの巨大な版図を持つ勢力を築くため、バイエルンを王国に昇格させた。ヴィルヘルム一世とビスマルクの大ドイツ帝国統一の時も、バイエルンはドイツの一領邦として独立を保った。バイエルン分離主義とは、単に大ドイツからバイエルンを独立させるということではなく、バイエルン王国の版図を持って昔日のフランス、オーストリアと一体になる考え、運動のことである。バイエルン人は同じドイツでも、ベルリンを中心としたプロイセンをあまり好んではいなかった。

 クナッパーツブッシュとヒトラーは関係がないように見えて、後年、同じミュンヘンを舞台に活動するため、その人生は幾度も交錯する。さらに第二次世界大戦中、変な巡り合わせから、1940、1943、1944年にベルリンでヒトラー生誕記念の指揮をしたのも、クナッパーツブッシュだった。
 クナッパーツブッシュの30代後半から50代まで、ヒトラーの影はクナッパーツブッシュにも大きな影響を及ぼし、時に激しくクナッパーツブッシュを翻弄した。「クナッパーツブッシュは政治とは無関係だから、ヒトラーとも無関係」とは、とても言えないのである。奥波一秀氏がその著作の題名を「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」にしたのも、やはり第二次世界大戦前、大戦中の政治的な問題が絡んでいたからだろう。

ヒトラーの祖父の血筋に関してはいまだに議論があり、後年のナチの人種法によれば四分の一ユダヤ人ではないか、と疑われた。
 ヒトラーの父アロイスは私生児で(当時のオーストリアでは私生児は珍しくなかった、というよりごくありふれていた)、そのアロイスの父が誰であるのか不詳だったからだ。
 ヒトラーの出生に関する調査は、ヒトラー生存中にも行われた。1930年にナチ党法務局長ハンス・フランク(後のポーランド総督)による調査が行われ、さらに1942年には、親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーの指示で調査が行われている。
 アロイスの母、すなわちヒトラーの祖母は裕福なユダヤ人の家庭に小間使いとして働いていたことがあり、そのユダヤ人の手がついてアロイスを生んだとも言われているが、真相は現在も分からない。
 ユダヤ人差別主義者の大先輩であるリヒャルト・ワーグナーも、その出生については自分がユダヤ人の血を引いているのではないかと大きく悩んだ。自分の出生を遡ることに不安を感じていたワーグナー、ヒトラーとも過激な反ユダヤ主義者になっていったことは非常に興味深い。

 1889年、日本は明治22年で、2月11日、大日本帝国憲法が公布された。皇室典範、衆議院選挙法も併せて公布されている。2月11日は神武天皇が即位した日とされ、紀元節と呼ばれた。現在は建国記念の日である。いまだに日本書紀の記述が生きているわけだ。万歳三唱も明治22年2月11日から始められた。万歳三唱は古くからあるようで、一般化したのはこの時からだ。
 世相は荒れ気味で、森有礼文相が国粋主義者に刺殺されたり、10月18日には大隈重信外相が同じく国粋主義者に爆殺されかかり、片足を失っている。  また、この年は鉄道が日本のあちこちで拡充し始めた年で、東海道の新橋-神戸間が開通したほか、甲武鉄道の新宿-立川、讃岐鉄道の丸亀-琴平間、横須賀線の大船-横須賀間、九州鉄道の博多-千歳川間が開通している。日本は草深い風土を残しながらも、近代化への道をまっしぐらに突っ走っていた頃だ。

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