1890-1907年頃 クナッパーツブッシュの子供時代

 子供時代のクナッパーツブッシュは、兄と一緒にいたずらをする、ごく当たり前の子供だったようだ。奥波本には、保養地でネコを追いかけ回し、ガラス製の屋根を突き破ってお茶の時間を愉しんでいる人たちの所に落っこちたり、兄と筏で海に出たら帰れなくなって漁船に助けられたという話が紹介されている。今の日本は子供の安全第一だからそんな冒険をする子供はいないのかも知れないが、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンなどの小説を読むと、たいがい同じようないたずら盛りの子供の話が出てくる。登場する子供の感受性が鋭いか鈍いかが、主人公とその他の子供を分けることになる。
 子供の頃からクナッパーツブッシュは音楽やオペラが好きだったという話も奥波本に紹介されているから、父母はエルバーフェルトの劇場に子供達を連れて行っていたのだろうか。指揮真似や、オペラで指揮者が登場する場面を思い描いて遊んでいたらしい。
 まだラジオやテレビもなくオーディオもない時代、ドイツでは音楽は自然な形で家庭に入り込んでいた。多くのひとは自分で楽器を弾いたし、娯楽と言えばオペラだった。王侯貴族だけではなく、一般市民にも音楽は浸透していた。
 ギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓」には、第一次大戦後のダンツィヒ(グダニスク)で家でパーティーがあると、ピアノを伴奏に何人かが歌う場面が登場する。それほど裕福な家庭ではなくてもである。また、少し大きな町になると必ず劇場があり、そこで演劇だけではなくオペラが頻繁に上演された。後年のアメリカ人なら「週末には映画」だが、ほぼそれと同じ感覚で、伝統的にドイツでは「週末にはオペラ」だったのだろうか。
 ドイツではごく当たり前の町の風景としてオペラは定着していた。

 ジョン・トーランド著「アドルフ・ヒトラー」によると、ヒトラーも元気な少年だった。どちらかというとガキ大将で、近所の子供たちを集めてインディアンごっこに熱中していた。ヒトラーが熱読していた本は、ジェームズ・フェニモア・クーパーや、アメリカに行ったことのないカール・マイというドイツ人作家による子供向けのアメリカ西部劇物だったそうだ。さらには、南アフリカのボーア戦争もまたヒトラーの遊びの題材になった。
また、ヒトラーの子供の頃は声が美しく、その声の美しさを認められて、合唱団に入っていたこともあった。
 クナッパーツブッシュ、ヒトラーは年齢が近い。ドイツの中西部、オーストリアの北東部と環境は違うが、近代ドイツ文学に出てくる子供達の情景とあまり変わらない生活を送っていたことが伺える。
 クナッパーツブッシュは音楽やオペラが好き、ヒトラーは近所の子供を集めて戦争ごっこをするのが好きという、長じての光景を想像させるものはあるにはあるが、それはこじつけというものだろう。
 二人の子供時代はテレビもゲーム機もない時代である。極めて健康的なドイツ、オーストリアの子供達であったことが想像できる。

 クナッパーツブッシュとヒトラーが子供であった同時代の日本、1890年に第1回衆議院選挙が行われ、教育勅語が発布された。1894年には日本のヨーロッパ列強を真似た重商主義への参入を目指しての日清戦争が起こる。明治維新以降、没落士族の不満はくすぶり続け、海外に目を向けざるを得なかったこともある。さらにはロシアの南下への対抗、朝鮮の支配権を巡る中国と日本の争いだった。

 クナッパーツブッシュが5歳か6歳の頃、学校に通い出す。フォルクスシューレ(グランドシューレ)終了後、文科ギムナジウムに入学する。ギムナジウムとは日本の義務教育に当たるフォルクスシューレ終了後に進学、試験を受けて大学入学資格を得るための学校である。
 日本の学校制度とドイツの学校制度、また、大学のあり方はずいぶんと異なる。
 ドイツの子供たちは、まずフォルクスシューレを終え、ギムナジウムに進んでアビトゥーア(大学入学資格試験)に合格し、大学進学資格を得るか、実科学校、商科学校、あるいは普通中学校(レアルシューレ。実科中学校と紹介されている資料もある)に進学するのかの進路選択をしなければならない。10歳で進路を決めなければならないわけだ。
 クナパーツブッシュは途中まで文科ギムナジウムに通うが、成績がよかったの悪かったのかまでは分からない。
 クナッパーツブッシュは12歳で憧れの指揮を行う。むろん、大人のオーケストラではなく、児童オーケストラの指揮だが、この時、「将来は指揮者になりたい」と言っていたそうだから、自分の希望を固めたときだったのか。
 奥波本によると、クナッパーツブッシュは文科ギムナジウムから実科ギムナジウムに転科したと書いてある。実科ギムナジウムとは実科学校のことだろうか?もし、実科学校に転校、あるいは転科したのなら、クナッパーツブッシュは大学進学ではなく、別の進路を考えていたことになる。両親の希望は、クナッパーツブッシュは法律を学び、将来自立するというものだった。大学に行かなくても法律を学び、それを職業にすることはできる。あるいは、クナッパーツブッシュは勉強に実が入らず、音楽家になることばかり夢見ていたかだ。
 実際、両親に将来の進路について聞かれたとき、クナッパーツブッシュは音楽家になる希望を話した。母親は驚いて「バルコニーから飛び出さんばかりだった」というから、音楽家へのクナッパーツブッシュの希望など考慮の中に入っていなかったのだろう(奥波本)。両親はあくまで趣味の領域として、あるいは人生の楽しみのひとつとして音楽を考えていたようだが、当のクナッパーツブッシュは違った。すでに、クナッパーツブッシュの中で音楽は趣味の領域を大きく超えていた。
 後に(1922年)、ブルーノ・ワルターの後を継いでバイエルン州立歌劇の音楽総監督に就任するクナッパーツブッシュの部下に、カール・ベームがいた。ベームはオーストリア人で、クナッパーツブッシュと同じように音楽家を志したが、父親から法律を勉強しておくようにと、やはり条件を付けられている。
『自分が将来、音楽家になるということは物心ついて以来はっきりしていた。だが、のちのちわたしの音楽修行を能うかぎり支援してくれたやさしい父は、わたしにかならず前もって法律の学位をとっておくよう希望していた。父はグラーツ市立劇場の代理人および法律顧問を勤めていた関係で、歌手その他の芸術家たちと多くの交渉があり、中途半端な芸術の才能がどれほどみじめなものか、よく承知していたのだった』(カール・ベーム「回想のロンド」高辻知義訳 白水社)
 ベームはしっかりと法学で学位を取り、法学博士である。
 クナッパーツブッシュの父親は、クナッパーツブッシュが17歳の時に亡くなった。家業のアルコール蒸留販売会社は兄ワルター・グスタフが後を継ぐ。クナッパーツブッシュも、そろそろ自分の将来の進路を真剣に考えなくてはならないときにいたっても、まだ音楽家への夢は捨てきれずにいた。クナッパーツブッシュの父の遺志を受け継いだ母親は、クナッパーツブッシュをある老教授に預け、その希望を矯正しようとしたがうまく行かなかった(奥波本)。
 クナッパーツブッシュが実科学校に転科したとすれば、この年代辺りだったのかも知れない。最上級生の時、「学生楽団の指揮をつとめ、ミスのない演奏に仕上げた」「すらりとした若者が楽団の先頭立って通りを行進してゆく姿は町の評判になった」(奥波本)。
 音楽家になりたいというクナッパーツブッシュの頑固さに手を焼いた母親は、クナッパーツブッシュには内緒でケルン音楽院のフリッツ・シュタインバッハ教授(1855-1916)に相談をする。
 シュタインバッハは専門的指揮者の草分け、ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)が育てたマイニンゲン宮廷楽団をリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)から引き継ぎ、作曲家ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の権威となった。当のブラームスから、シュタインバッハの校訂したスコアを誉められている。
 シュタインバッハは1903年、さらにケルンに赴き、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の指揮者となり、ケルン音楽院の学院長に就任した(1914年まで)。クナッパーツブッシュの母親がシュタインバッハに相談したとき、シュタインバッハはケルン音楽院の学院長だったことになる。
 母親がシュタインバッハに相談をしたことを知らないクナッパーツブッシュは、ケルン音楽院の門を叩いた。実科学校からアビトゥーア(大学入学資格試験)を受験できるかどうか、その当時の制度がどうなっていたのかわからないが(アビトゥ-アはギムナジウムの卒業試験でもある)、シュタインバッハからクナッパーツブッシュは、「アビトゥーアに合格してから来なさい」と諭される。恐らく、大学進学率が低かったことから、一定の学力があり、試験に合格をするとアビトゥーアを受験できたのではないかと想像できる。
 ただ、クナッパーツブッシュはストレートにアビトゥーアに合格したわけではなく、一年か、あるいは数年アビトゥーアの準備のために浪人したようだ。クナッパーツブッシュがアビトゥーアに合格したのは、1908年である。すでに20歳になっていた。
 クナッパーツブッシュは同じヴェスト=ファーレン州にあるボン大学に入学、シュタインバッハとの約束通り、ケルン音楽院への入学も許可された。ボン大学はカール・マルクスや、なんとベートーヴェンも在籍していたことがある。
 いろいろな本やサイトを見ると、「ボン大学出身者」としてベートーヴェンの名前が挙げられているが、日本の大学の場合「出身=卒業」だが、ドイツの大学の場合、「卒業」という言葉は大きな意味を成さず、「出身」は単に在籍して講義を受けた程度の意味であるらしい。大学生は、その大学を卒業することではなく、さらに学位を目指すことになる。他の大学の講義も受けられたし、学位請求論文を提出することもできたようだから、「大学」はひとつの大学の意味ではなく、大きくドイツ全土の大学を内含するものだったのか。いわゆる「学問の府」としての大学の意味が通っていることになる。

 一方、オーストリアのフォルクスシューレに通ったヒトラーは成績は良かったが、成長するに従い、息子を自分と同じように官僚にしたい父親への反発と芸術家になりたいという気持ちが徐々に高じた。ヒトラーはフォルクスシューレを卒業し、父の希望でリンツのレアルシューレ(実科中学校)に進学した。ヒトラーは勉強ができないわけではなかったが、レアルシューレでのヒトラーの成績はムラがあったようだ。そして12歳の時、リンツの歌劇場で初めて「ローエングリン」を観劇、激しく感動したヒトラーはワーグナーに目覚めている。
 ヒトラーの父アロイスは、ヒトラーが14歳になる前に亡くなった。ヒトラー家は貧乏だったと信じている方もいるが(「我が闘争」にはその記載はない。貧困は父の死後、自分がその中に飛び込んだように書いてある)、これは成功者に付き物の捏造された伝説であったようで、ヒトラー家は決して貧乏ではなかった。ヒトラーは遺産や官僚であったアロイスの孤児年金なども得ていたようだ。父との軋轢がなくなり、ヒトラーがボヘミアン的な芸術家的な生き方に憧れ、レアルシューレの学業を途中で放り出し、徘徊の青春時代を送り出すのは、16歳になってからである(トーランド本)。  クナッパーツブッシュ17歳、ヒトラー16歳のほぼ同じような年頃、同じような年代に、片一方は音楽への道、もう片一歩は絵描きへの道を歩もうとしていた。

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