1908年-1910年頃  学生時代

 クナッパーツブッシュが1908年にボン大学とケルン音楽院に入学するまで、世界と日本に大きな動きがあった。日本はヨーロッパ列強やアメリカに見習うべく、重商主義を加速する。まず1894年に日清戦争が起こった。その後、1895年6月17日、日本による台湾統治の象徴、台湾総督府が開庁する。
 アメリカとスペインの間には、カリブ海の統治権を巡って、1898年に米西戦争が起こっている。
 さらに、日清戦争で敗れた中国に対し、ヨーロッパ列強の中国浸食が激しさを増している。ロシアは関東州の一部(東清鉄道の延長敷設、旅順、大連)を租借し、イギリスは九龍半島、威海衛を租借した。ドイツは山東省の一部(山東半島横断鉄道敷設、膠州湾)を租借し、そこをドイツ化し始めた。
 1900年、山東省におけるドイツの支配を巡り、中国では義和団の乱が起こる。山東省でドイツ人宣教師たちのキリスト教布教にからんで、中国人民が反発したことがそもそもの発端だった。義和団の乱は、山東省から北京へとまたたくまに拡大する。
 中国に利権を求めるヨーロッパ列強、アメリカ、日本など八カ国は中国に軍を派遣、乱を鎮圧しようとした。その乱に乗じて、清国政府は軍を派遣した国々に宣戦布告する。「乱」というより「戦争」である。戦闘意欲は充分であった義和団の乱だったが、近代兵器の扱いに慣れていず、結局は外国の軍隊に鎮圧され、清国軍も外国の部隊に敗北する。この戦争により、清帝国はますます弱体化、統一国家としての面目をなくしてしまう。
 1904年2月10日、「義和団の乱」によりロシアの中国に対する影響力が増大し、南下政策をとるロシアと、中国東北部、朝鮮に支配権を確立したい日本との間に日露戦争が勃発する。2月8日には、すでに日本軍の仁川沖海戦で旅順攻撃が始まっていた。
 ところが、1905年1月22日、ロシアでは日露戦争の早期終結と抑圧された農民の解放、民衆の解放を唱えたストライキが起こり、サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が発生する。同年に起こった第一次ロシア革命の端緒と言われる。第一次ロシア革命は鎮圧されたが、その後の帝政打倒、社会主義化への動きがくすぶり続け、1917年に起こるロシア革命の火種になった。
 日露戦争は結局日本がロシアに勝利、日本の中国、朝鮮への影響力は増大した。12月には韓国総督府が設置されている。
 日本の勝利は、ヨーロッパ知識人の間でも話題になったようで、1900年の「哀れなハインリヒ」初演以来、親友となった作曲家ハンス・プフィッツナーとブルーノ・ワルターの間でも議論になっている。人種主義者であったプフィッツナーは、日本人のことを「黄色い猿」と呼んだ。ユダヤ人であったワルターは日本人を擁護、激しい議論となり、プフィッツナーとワルターの関係は約一年の間ギクシャクした。話題は何のことはない、日本に鞭打ちの刑(笞刑)があるかどうかという問題だった。ワルターは「そんなものは日本にはない」と確言して、「ある」と主張したプフィッツナーを怒らせてしまったようだ(ロッテ・ワルター・リント編「ブルーノ・ワルターの手紙」土田修代訳 白水社 56 1905年12月の手紙)。プフィッツナーにとって、日本人は野蛮人の一種と映っていたようだ。

 この頃のクナッパーツブッシュの生涯に関しては、前の文章で触れたように父親の死、文科ギムナジウムから実科学校への転校、実科学校でオーケストラを指揮したこと、ケルン音楽院のシュタインバッハの説諭によるアビトゥーアの受験準備をしていた、くらいしか資料が手許にない。
 また、クナッパーツブッシュは1906年頃から、まず聴衆のひとりとして夏になるとバイロイト祝祭音楽祭に通い、ワーグナーへの想い、指揮者になることの想いを強めていったのではないか、という意見もあるが、実際はどうだったのか分からない。クナッパーツブッシュは大学生の身分になった1908年から、バイロイトで指揮者助手として使い走りのようなことを始めるので、あるいは1906年頃からジークフリート・ワーグナーやハンス・リヒターの知己を得ていたのかも知れない。

 ヒトラーの青春時代は興味深い。なぜこのような青春時代を送った青年が、後年に強大な権力を持った独裁者となり、ヨーロッパを悲惨な地獄図に変えてしまったのか想像もつかないほどだ。
 ヒトラーは、自分を抑圧していた父親が死ぬことによって自由を得た。1906年春、17歳で初めてウィーンに出ている。ヒトラーは芸術家としてウィーンでの成功を夢見ていたようで、1907年、母が病気を患ったにも関わらず、単身ウィーンに移り住んだ。その間、リンツで「リエンツィ」を観劇して大きく感動したヒトラーは、ある種、自分の中にある別の可能性に目覚めたようだ。ただ、その別の可能性が萌芽するまでには、あと13年を必要とした。
 ヒトラーはウィーンで芸術アカデミーの絵画科を受験するが、デッサンの試験で不合格となってしまう。建築科に入学することも考えたようだが、建築科に入学するためにはレアルシューレの卒業証書が必要で、レアルシューレの途中で学業を放棄してしまったヒトラーには受験資格がなかった。
 1907年の秋、癌を患っていたヒトラーの母親の容態が悪化、ヒトラーはリンツ郊外に引っ越していた実家に戻り、母親の看病をしている。資料や伝記によっては、ヒトラーは母の死後、実家に舞い戻ったとされているが、ジョン・トーランドは細かくヒトラーの当時の行動を追い、ヒトラーがかいがいしく母親を看病した様子を書いている。
 リンツ郊外の実家で、ヒトラーは近所の知人から、ウィーン国立歌劇場美術監督アルフレート・ロラー(1864-1935)への紹介状を得ている(トーランド本)。ロラーは音楽総監督グスタフ・マーラー(1860-1911)と組み、数々の優れた美術をウィーン国立歌劇場に提供していた。ヒトラーは1908年2月、勇躍ウィーンに再び出てロラーに会おうとするも、どうしても最後の段階でロラーに会う自信と勇気が持てなかったらしい。ヒトラーは逡巡しつつも、結局ロラーに会わなかった。
 ウィーン国立歌劇場では、マーラーが去ったあと、フェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)が音楽監督をしていた。マーラー、ロラー、ワインガルトナーはいずれもユダヤ人だったが、ここではヒトラーとユダヤ人の関係はまだそう悪くはない。母親の治療に当たった医師もユダヤ人だった。ロラーになかなか会いに行けないヒトラーだったが、ウィーン国立歌劇場の天井桟敷には頻繁に観劇に出かけていたようだ。ヒトラーはワインガルトナーの指揮によるワーグナーを聞いていたのだろうか。
 1908年9月、ヒトラーは再度芸術アカデミーを受験すべくスケッチを提出するが、受験を拒否される。意気消沈したヒトラーはロラーへの紹介状も破り捨て、次の段階へと入ってゆく。
 ヒトラーを「ヘッポコ絵描き」とか「素人」とジャーナリストや後の批評家は書きたがるが、我流ではあっても、その絵の実力は素人の域を少し超えていた。アカデミーが必要とするデッサン力はなかったが(人物を描くのが不得意だった)、風景画や建築物、あるいは犬に対してはなかなか優れた描写力を持っており、風景画家や絵葉書の画家にはなれただろう。ヒトラーはアバンギャルドではなく、伝統的な絵画を目指していた。ただ、ヒトラー自身も自分の基本的なデッサン力のなさ、また体系的な美術教育を受けていなかったことは自覚していたようで、「自分の絵はディレッタントに過ぎない」と言っていたという(トーランド本)。
 子供のころガキ大将であったヒトラーは、その頃には大人びた礼儀正しい芸術家を夢見る、多感な青年に成長していた。ボヘミアンであった。

 クナッパーツブッシュはボン大学で哲学を学び、ケルン音楽院で指揮法をシュタインバッハ、ピアノを女流でクララ・シューマンの弟子ラッツァーロ・ウツィエッリ、作曲をオットー・ローゼに学んだ。
 当時の音楽院や音楽教育の現場は、相変わらずベートーヴェン、ブラームスに連なる器楽音楽が中心で、歌劇場では人気が高く、熱烈なワーグナー信奉者も多かったものの、ワーグナーはその革新性を持った音楽とオペラとしてストーリーを持つためか、色物であったようだ。ブルーノ・ワルター(1876-1962)の「主題と変奏」を読むと、ワーグナーの音楽が音楽院から排除されていたことが分かる。ワルターはクナッパーツブッシュよりも11歳年長で、ベルリンのシュテルン音楽院で学んだ。クナッパーツブッシュの年代でもそうたいして事情は変わらなかったようだし、なによりクナッパーツブッシュの学んだケルン音楽院の学院長はブラームスの権威シュタインバッハだった。
 クナッパーツブッシュの指揮の師であるシュタインバッハについて、同時期にケルン音楽院で学んだフリッツ・ブッシュ(1890-1951)は「指揮者のおしえ」でシュタインバッハについて書いている。
「ケルンの音楽院には指揮者養成の科があって、その科の長、フリッツ・シュタインバッハの指導下にあった。シュタインバッハは優れた音楽家で大指揮者であり、同時にまた誠実な性格の、精力的な人物であって、多くの学生が彼から決定的な影響を受けたことを感謝しないわけには行かない。かれがギュルツェニヒ-コンサートにおける指揮者としての活動によってわれわれに示した、生きた手本は、その印象がもちろん強烈であった。これはオペラではそれほどではなかった。オペラでも彼の劇に対する熱情から多くの点で非凡なものに達していたのだが」(フリッツ・ブッシュ著「指揮のおしえ」福田達夫訳 春秋社 2008/12/10)。
 シュタインバッハは、オペラは情熱的であっても、あまり得意ではなかったらしい。ブラームスの権威であったのだから、交響曲などの器楽作品の指揮を得意としていたと思われる。
 ブッシュは続けて
「彼のクラスで行われる指揮のレッスンはかなり単純素朴なものであった」と書いている。
 フリッツ・ブッシュには別の回想が残っていて、奥波本にその指揮のレッスンの様子が紹介されている。「わたしたち指揮法の学生は十八人ほどだった。いつも、そのうちの二人が二台のピアノに座って、楽譜通りに演奏し、指揮者の卵である三人目の学生が指揮をした。作品のテンポ、フレージング、様式についての簡潔な注釈は別として指揮のテクニックに関して指示を受けたことはほとんどない。やがて明らかとなったように、ハンス・クナッパーツブッシュを例外として、指揮法クラスの同窓生のだれひとりとして平均以上の指揮者にはなれなかった。しかし、こうした不出来は才能不足によるもので、教師の責任ではない。
 指揮とは、最も習得しがたい技である。『生まれながらの指揮者』という言い方があるのも、もっともなことなのだ」
 シュタインバッハはクナッパーツブッシュ、ブッシュのことを「無能だ。音楽をやめるべきだ」と酷評していたらしいことも、奥波本に紹介されている。ワーグナーに入れあげているクナッパーツブッシュ、音楽一家でずば抜けた音楽的才能を持ち、さまざまな音楽に関心を示すブッシュを、ブラームスの権威シュタインバッハは冷ややかな目で見ていたのかも知れない。
 後年、クナッパーツブッシュはブラームスの演奏法について聞かれ、「シュタインバッハの真似をしているだけです。でも、これは内密にしておいてください」と冗談めかして答えたという話が伝わっている。
 クナッパーツブッシュはこの学生時代の最初の年から、バイロイトで指揮者助手として、おそらくは無給で使いっ走りをするようになった。ただ、無給の使いっ走りとは言っても、このバイロイトの指揮者助手時代はクナッパーツブッシュに決定的な影響を与えたようだ。クナッパーツブッシュがバイロイトの指揮者助手時代のことを回想した記事が残っている。
「バイロイトでは、ほとんどありとあらゆる偉大な芸術家と出会えましたし、ヴァーンフリート荘でも生涯忘れがたい印象を得ることができました。1912年の記念碑的な『マイスタージンガー』上演の後、ハンス・リヒターは去ることになったのですが、このときのことはとくに後々まで記憶に残りました。総じて、この天才的な人物や、ムックのような人が、芸術家としての私の成長に深い影響を与えたのです」(奥波本)
 クナッパーツブッシュがバイロイトで指揮者助手を始めた1908年、バイロイトではワーグナーの死後、歌劇場の運営、演出まで幅広く君臨していたコジマ・ワーグナー(1837-1930)が引退し、39歳になる息子のジークフリート・ワーグナー(1869-1930)に音楽祭を公式に禅譲した年でもあった(1906年にはすでにその旨の決定が下されていたようである)(ハンス・ヨアヒム・バウアー著「ワーグナー王朝」吉田真/滝藤早苗訳 音楽之友社 2009/4/28)。
 1907年は、バイロイト祝祭音楽祭は開催されていないが、1906年までコジマはワーグナーのすべての楽劇の演出を行っていた。1908年はすべての演出をジークフリートが行っている。ジークフリートは、それまでの舞台美術をさらに押し進め、照明や立体的な舞台を創り、数々の歓迎される改革を行った(前掲書)。また、ジークフリートは非常に人付き合いがよく、誰からも好かれるという面を持っていた。クナッパーツブッシュは、バイロイトの変革期に指揮者助手としてバイロイトに出入りすることができた。
 ちなみに、1908年の指揮者はジークフリート、カール・ムック、ミヒャエル・バリング(バルリンク)、ハンス・リヒターだった。「ニーベルングの指環」チクルスをハンス・リヒター、「パルジファル」をムックとバリング、「ローエングリン」をジークフリートが担当した。
 ハンス・リヒターはハンス・フォン・ビューローの後継としてワーグナーの指揮者助手になり、のちにワーグナーの楽劇の指揮者になった。リヒターはハンガリー出身の優秀な元ホルン奏者で、ワーグナーだけではなく、ブラームス、ブルックナーの信頼も厚かったが、1908年には既に65歳になっていた。その後、高血圧症に苦しみ、1912年にはバイロイトの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を最後に引退してしまうので、クナッパーツブッシュはリヒターの引退までの最後の数年間、その謦咳に接することができたことになる。リヒターはイギリスのハレ管弦楽団を率いていたため、その頃の活躍の主舞台はイギリスだった。リヒターが現役であった最後の数年間、ドイツではリヒターの指揮に接する機会は多くなかったかも知れない。クナッパーツブッシュは恐らく1912年まで、夏はバイロイトで指揮者助手をしていた。
 クナッパーツブッシュが指揮者助手をしていた1908年から1912年の演目と指揮者を調べると以下のようになる。指揮者の一部交替も行われたようで、クナッパーツブッシュはバイロイトが新たな一歩を踏み出すときに、指揮者助手をしていたことになる。
1908年 「パルジファル」カール・ムック、ミヒャエル・バリング、「ニーベルングの指環」ハンス・リヒター、「ローエングリン」ジークフリート・ワーグナー
1909年 「パルジファル」カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー、「ニーベルングの指環」ミヒャエル・バリング、「ローエングリン」カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー
1910年 公演なし
1911年 「パルジファル」カール・ムック、ミヒャエル・バリング、「ニーベルングの指環」ミヒャエル・バリング、ジークフリート・ワーグナー、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ハンス・リヒター
1912年 「パルジファル」カール・ムック、ミヒャエル・バリング、「ニーベルングの指環」ミヒャエル・バリング、ジークフリート・ワーグナー、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ハンス・リヒター

【ハンス・リヒター】(1843/4/4-1916/12/5)
 ハンス・リヒターは、1843年4月4日に生まれたハンガリー出身の優れたホルン奏者である。ハンガリー読みではリヒテル・ヤーノシュとなる。
 ワーグナー存命中にハンス・フォン・ビューローに代わって助手になり、さらにワーグナー演奏の第一指揮者になった。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演の合唱指揮を任され、「ニーベルングの指環」チクルスのバイロイト第一回祝祭音楽祭での初演の指揮を行った。ワーグナーはふたりめの妻コジマが男子を産んでくれたことに感謝して「ジークフリート牧歌」を作曲、ワーグナーの山荘(トリープシェン)で、クリスマスに演奏されたとき、15人の奏者のリーダー的存在だったのはハンス・リヒターである。ワーグナーから最も信頼された指揮者のひとりだった。
 ハンス・リヒターはバイロイトでの指揮を担当すると同時にウィーン国立歌劇場でも活躍し、さらにウィーン・フィルの首席指揮者を1875年から1882年まで勤めた。クナッパーツブッシュがバイロイトで指揮者助手をやっていた頃は、イギリスでハレ管弦楽団を率いていた(1899年から1911年まで)。イギリスの思想家でもあり評論家でもあるジョージ・バーナード・ショーとバイロイトで談笑する写真が残っている。クナッパーツブッシュは生涯、ハンス・リヒターを師として仰いだ。高血圧に苦しみ、1912年バイロイトでの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を最後に引退、1916年12月5日に没した。

【カール・ムック】(1859/10/22-1940/3/3)
 カール・ムックは1859年10月22日ドイツのダルムシュタットに生まれた。1901年から1930年までバイロイトが開催されている年は「パルジファル」を振った、「パルジファル」のスペシャリストと言うべき指揮者である(第一次世界大戦をはさんで1915年から1922年の期間は開催されなかったが)。「パルジファル」指揮者として、ムックはクナッパーツブッシュの大先輩に当たる。
 ムックは1906年からはアメリカのボストン交響楽団の指揮者に就任、一度その任をはずれているが、再度就任して第一次世界大戦まで、ムックの主要な活躍舞台はアメリカだった。ブルーノ・ワルターにアメリカでの収入の多さをうらやましがられている。ムックはアメリカとヨーロッパを往復しながら仕事をした。ただ、第一次世界大戦の時にはアメリカで敵性国家のスパイを疑われ、収容所で抑留生活を送っている(「ツィメルマン事件」が起き、アメリカはドイツに参戦するため、在アメリカドイツ人を収容所に隔離した)。それでもムックは、ワーグナーの権威としてバイロイトでも第一級の存在だったことは間違いがない。
 ちなみに、ムックは修業時代のクナッパーツブッシュの師のひとりであると同時に、ワーグナー演奏におけるカール・ベームの師でもある。第一次世界大戦後、アメリカでの抑留生活を終えドイツに帰国したムックは、オーストリアにあるグラーツのサナトリウムで静養していた。たまたまグラーツでベームの指揮する「ローエングリン」を聞いたムックはその欠点にすぐ気付き、スコアをもってサナトリウムに来るよう、ベームをうながしたのだった(「回想のロンド」)。
 ハンス・リヒターの演奏録音は残念ながら残っていないが、カール・ムックの演奏録音は残っている。ボストン交響楽団との一連の録音、1927年のバイロイトで録音された「パルジファル」抜粋、1928年に録音されたベルリン州立歌劇場管弦楽団との「パルジファル」第三幕とワーグナー管弦楽曲集である。当時のワーグナー演奏がどのようなものであったのか、あるいは、クナッパーツブッシュがムックからどのような影響を受けていたのかを知る上でも、ひじょうに貴重で、なおかつ優れた遺産である。1940年3月3日に没した。

【ミヒャエル・バリング】(Michael Balling 1866-1925)
 バリングは、ドイツのバイエルン、ハイディングスフェルトで生まれたヴィオラ奏者である。その活動の早い時期からバイロイトでヴィオラ奏者として活躍、フェリックス・モットルに認められ、ハンス・リヒターやフンパーディンクの知己も得ている。
バリングはニュージーランドに渡り、ネルソンに音楽大学を組織、初代音楽大学教授として活躍した。
 ヨーロッパに戻ってからは、主にイギリスを舞台にヴィオラ奏者して国際的な名声を得る。
 ワーグナーからも、その腕前をバイロイトのオーケストラで発揮するよう嘱望された。コジマ・ワーグナーの信頼も厚かったようだ。1911年から1914年までは引退したハンス・リヒターに代わって、イギリスのハレ管弦楽団の首席指揮者になるとともに、バイロイトでも活躍した。リヒターの信頼が厚かったのだろう。
 ただ、その録音は残念ながら残っていないのか聞けないため、どのようにワーグナーを指揮したのかまでは分からない。もしかしたら、ヴァーンフリート荘でクナッパーツブッシュに影響を与えたひとりだったのかも知れない。

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