1913年 エルバーフェルト劇場の指揮者になる

 クナッパーツブッシュはケルン音楽院時代、いくつかの作曲も試みている。恐らく、作曲家教授オットー・ロ-ゼの課題か、学生発表会の時のものだろう。いくつかの歌曲とピアノ曲「タランテラ」が残っていて、「タランテラ」は日本で録音された(「大指揮者のピアノ曲」白石光隆(p)KING/Tamayura/KKCC-3003))。「タランテラ」は作品番号7となっているので、その他にもいくつか作品があるのかも知れない。
 クナッパーツブッシュの歌曲に関しては、ミュンヘンでスコアの蔵出し初演が行われたはずだが、残念ながらどういう音楽であったのか、まだその成果は聞こえてこない。
 「タランテラ」は短い楽曲で(演奏時間は2分24秒)、シューマンのようにもショパンのようにもブラームスのようにもリストのようにも聞こえるという、かなり折衷的な作品である。テンポは遅く、中間部はショパンの夜想曲を聴いているようで、メランコリックな雰囲気である。最後だけタランテラの早いテンポで、中途半端に冗談のようにして終わる。習作の域を出ない作品だろう。クナッパーツブッシュの目的はワーグナーの楽劇の指揮であり、作曲家を目指す気持ちはさらさらなかったようである。
 白石光隆氏のアルバムには、ジョージ・セルやムラヴィンスキーの楽曲も収録されているが、それらの作品は若書きとはいえ、なかなか見事であることと引き比べると、クナッパーツブッシュの作品は少々頼りなげである。
 ミュンヘンでの遊学を終え、1913年の夏頃、クナッパーツブッシュは故郷エルバーフェルトの劇場に、無給とはいえ練習指揮者として帰郷する。ちょうど、ヒトラーがウィーンからミュンヘンにやってきた頃で、玉突きのようにクナッパーツブッシュはミュンヘンを出ている。
 指揮者としてのデビューは、ルイ・エメ・マイヤール(Maillart, Louis Aimé(1817/3/24-1871/5/26) /「隠者の小鐘」(「ヴィラール(村)の竜騎兵」)だった。マイヤールはフランスで生まれ、フランスで活躍した作曲家で、他に「カタルーニャの漁師」、「ララ」などのコミック・オペラを主に作曲した。1841年には、フランスの作曲家が狙うローマ大賞で第1等になっている。「隠者の小鐘」はドイツでもポピュラーになった。あまり肩の凝らない作品で、ヨーロッパの歌劇場ではレパートリーとして定着していたようだ。
 クナッパーツブッシュのデビュー公演の当時の新聞批評が奥波本に紹介されている。抜粋する。
「たんなる地元贔屓とは関係なく、われわれは若い指揮者の能力とその確実で音楽的感受性のある指揮ぶりについて、この上ない好印象を得ることができた。しかし、過剰な動き、手と腕の[労働]が気になった。最も控えめにいっても最大級のオペラの解釈が問題になっているのだ、とでもいわんばかりに暴れていた」
 別の新聞。
「賢明な理解力とほとばしる激情を見せつけた」
 クナッパーツブッシュの若い頃は指揮台で大暴れをしていたことが分かる。客席から、クナッパーツブッシュの大暴れしている指揮姿が見えたのだろう。舞台よりもその指揮姿の方が目立っていたのかも知れない。クナッパーツブッシュは身長193cmと背が高かったからなおさらである。
 第2次世界大戦中ベートーヴェン/交響曲第5番第2楽章を指揮する映画の映像、同じく第2次世界大戦中ヒトラー生誕記念でベートーヴェン/交響曲第9番最終部と「エロイカ」の部分の映像、1959年頃の「バイロイト」での短いリハーサルの映像、さらに晩年、1962年と1963年のウィーン芸術週間で指揮をするクナッパーツブッシュの姿を映像で見ることができるが、いずれも必要な箇所でのクナの動きはかなり大きい。クナッパーツブッシュは身体全体で指揮をしてゆく。晩年は椅子に座っての指揮だが、ここぞと言うときには椅子から立ち上がり、全身でオーケストラに指示を出す。
 確かに、後年になればなるほど指揮棒をあまり振り回してはいないが、これは指揮者の持病である腕の痛みのために、動きを小さくせざるを得なかったということが言えるのかも知れない(この腕の痛みは、ワルターもフルトヴェングラーも経験している)、特に晩年には胃潰瘍を患った後でもあり、それほど体を動かせなかったのだろう。
 さらには、曲想によって指揮の仕方を変えることもあるだろうし、経験が豊かになると、オーケストラに必要な指示を出す箇所では体を大きく動かし、その他は合理的にテンポを刻み、オーケストラが自立的に演奏することを助けたとも考えられる。若い頃は分からないが、後年のクナッパーツブッシュはオーケストラの自発性を大切にする指揮者で、それほど細かくは指示を出さなかった。ただ、若い頃は「ほとばしる激情」を感じさせるほど、大暴れをしていたらしいということだ。

 以下余談。
 カルロス・クライバーがアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したベートーヴェン/交響曲第4番と第7番の映像が残っているが(1983/10/19,20)、クライバーもそれほどキチキチに指示を与えず、多くの時間をただテンポを取りながら(時にはテンポも取らず)、オーケストラにニターっと笑うだけだった。それでも、生命感のあふれる音楽がオーケストラからほとばしり出てくる。
 カルロス・クライバーの父エーリッヒは、残っている映像を見たり、オットー・シュトラッサー著「栄光のウィーン・フィル」(芹澤ユリア訳 音楽之友社)の第2次大戦後にエーリッヒのウィーン・フィルへの凱旋公演を見たフルトヴェングラーが「あんなに細かく指示を出す必要はない」と憤ったという記載があるのを読むと、かなり細かく指示を出す指揮者だったといえる。カルロスは父のスコアを研究、その音楽はよく似ているのだが、音楽の成立のさせ方は全く違ったというこということだろうか。

 恐らく、晩年の映像から、若いときのクナッパーツブッシュの指揮姿を想像するのは無理があるのだろう。
 「隠者の小鐘」でデビューを成功させたクナッパーツブッシュは、その後、フロトー( Flotow,Friedrich von 1812/4/27-1883/1/24)「マルタ」、ツェルナー(Zöllner, Heinrich 1854/7/4-1941/5/4)「狙撃手(襲撃)」などのコミック・オペラを指揮する。フロトーもツェルナーもドイツの作曲家だが、フランスのオペラ・コミックを出発点として作品を発展させた。どちらかというと、軽めの演目だったといえる。
1913/09/15 マイヤール/「隠者の小鐘」
1913/09/30 フロトー/「マルタ」(Joachim Dorfmueller, Wuppertaler Musikgeschichte, Born, Wuppertal 1995.による)
1913/12/14 ツェルナー/「狙撃手」(初演) (René Trémine’s data)

 クナッパーツブッシュのエルバーフェルトへの凱旋は、私生活面でも変化を与えた。クナッパーツブッシュは、デビュー公演であった「隠者の小鐘」でヒロイン、ローズ・フリケを演じたケーテ・イェーニケと恋愛し、婚約している。クナッパーツブッシュはケーテのことを「シュナッキー(子羊ちゃん)」と呼び、ケーテはクナッパーツブッシュのことを「クナッピー」と呼んだ。
 ところが、結婚後はケーテに、「家庭に入って欲しい」と願うクナッパーツブッシュの希望と、「歌手生活を続けたい」と願うケーテの希望が合わなかった。クナッパーツブッシュは、ケーテに贈った婚約指輪と金の腕輪を突き返され、婚約は破棄されてしまう(以上、奥波本より)。
 クナッパーツブッシュは、後にケーテと結婚したエドムント・ニックと第2次世界大戦後に会い、非ナチ化裁判の取材を受けた。ニックは元ケーテの伴奏ピアノストである。ニックは作曲もしたが、第2次大戦後は1945年に創刊されたミュンヘンの新聞、「ノイエ・ツァイトゥング」紙の文化欄を担当していた。ニックからケーテの夫であるとの話を切り出されて、クナッパーツブッシュは大層驚いたらしい。「婚約を解消したのはケーテの方で、私ではなかったのです!婚約指環と金の腕輪を突き返され、それは悲しい思いをしたものです」と、昔話に花が咲いたという。クナッパーツブッシュはケーテから「クナッピー」と呼ばれていたということまで、奥波氏は掘り出しておられる。
 ケーテがユダヤ人の血が混じっていたことから、ニックもナチ政権奪取後かなり苦労をしたらしい。戦後、エドムント・ニックはのちのちまでミュンヘンで評論家として活躍した。尾埜善司氏の「指揮者ケンペ」(芸術現代社)に、ニックは1963年から70年まで「南ドイツ新聞」で音楽批評を寄稿、1971年には「ミュンヘンの音楽報告」でケンペの演奏批評が寄せられたとある。
 この年、クナッパーツブッシュの母親が亡くなっている。いつのことだったのか?また死因は?などは残念ながら手許に資料がない。
 
 ヒトラーがミュンヘンに到着したのは、1913年5月25日である。すぐに下宿を探し、ミュンヘンでの定住を始めている。ヒトラーはミュンヘンで絵と建築を学ぼうと考えた。ミュンヘンの美術アカデミーへの入学を考えたが、結局入学できなかった。
 ただ、ミュンヘンは当時、バルカン半島からの亡命芸術家たちが活動をしており、ドイツの新しい芸術のメッカとも呼べる雰囲気があった。それらの芸術活動にヒトラーは興味を示さなかったが、その運動が醸し出す雰囲気はヒトラーにとって居心地が良かったようだ。さらには、トーマス・マンやシュペングラー、リヒャルト・シュトラウスもミュンヘンで活動しており、それらの活動が一体となって「魔術的な雰囲気」を形作っていたらしい。
 さらにトーランド本を読んでいて驚いたのは、ヒトラーの下宿の近所に、ウラジーミル・イリイチ・ウリアノフが当時住んでいたということだ。ウラジーミル・イリイチ・ウリアノフとは誰あろうロシア革命の父レーニンのことである。この頃、レーニンは逃亡生活を続けており、マイヤーという偽名を使ってミュンヘンに潜伏していた。ヒトラーとレーニンの接点は全くないが、あるいは道の行き帰りにすれ違ったことはあったのかも知れない…などと想像するのは楽しい。
 ミュンヘンでヒトラーは芸術家になる夢を捨てず、自由に生きた。生活は苦しかったが、ミュンヘンの魔術的な雰囲気が希望を持ち続けさせていたのである。ヒトラー自身も後年、「最も幸福な、最も満ち足りた日々」だったと回想している。ヒトラーはミュンヘンで絵を描き、勉強した。ただ、ヒトラーの満ち足りた生活はそう長くは続かなかった。 

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