1914年 初めて「パルジファル」を振る

 ワーグナー最後の楽劇となった「パルジファル」は、舞台神聖祭典劇と名付けられ、ワーグナーのオペラでは独特の位置を示した。アーリア人救世主を求めるワーグナーの思想の産物だが、そこに示された人間存在への洞察をめぐる深遠な思想は普遍性も備えており、単にアーリア人の救世主の登場だけではなく、そのオペラを見聞する聴衆の心の中にも「共苦」「救済」が浸透してくる。
 ニーチェは「パルジファル」に嫌悪を示したが、ワーグナーにとって、「パルジファル」はある意味で自己の宗教的真情の告白だったのだろうか。
 ただし、「パルジファル」には極端とも言える禁欲主義がその底流にあるが、ワーグナーその人は「パルジファル」作曲中も禁欲的だったわけではないらしい。宗教的真情の告白とその劇化というところに意味があったのだろう。
 ワーグナーは「パルジファル」をバイロイト祝祭劇場だけでの公演を望んだ。その他の劇場で、単に愉しむためだけに観劇して欲しくないという理由からだろう。
 ワーグナーの死後、未亡人となったコジマは夫の意志に従い、門外不出のオペラにしようとしたが、大作曲家ワーグナーの作品であるだけに、それは認められなかった。
 1886年、著作権保護のため、ヨーロッパ諸国を中心にベルヌ条約が創設された。その後もベルヌ条約の規約の見直しが行われ、現代に至るまで改正が行われている。現在はパリ改正条約が最新の条約となっている。世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organization、略称WIPO)が事務手続きを行っている。詳しくは独立行政法人 メディア教育開発センターに記載がある。
 そのベルヌ条約により、当時の著作権保護の年数で1913年まで「パルジファル」はバイロイトでの独占条約は認められたが、1914年以降、「パルジファル」は世界のどの歌劇場でも公演が可能になった。
 クナッパーツブッシュがエルバーフェルト歌劇場の第2指揮者となった1913年の翌1914年1月1日から、「パルジファル」は解禁された。
 エルバーフェルト劇場の首席指揮者はエルンスト・クノッホで、クノッホが「パルジファル」全公演の指揮を受け持つことになっていた。エルバーフェルト劇場での「パルジファル」は、1月11日初演、13日、15日、18日、20日、23日、28日、31日、2月1日の9回の公演が予定され、全公演をクノッホが指揮をする予定になっていた。クノッホはワーグナー指揮における第一人者で、ワーグナー存命中も、ワーグナーやコジマの信頼が厚かったフェリックス・モットルのいわば弟子である。奥波本によると、1906年と1908年にバイロイトで音楽助手をしていたこともあり、それらの年、夏はバイロイトに入り浸っていたクナッパーツブッシュとも面識があったのかも知れない。
 ところが、クノッホは1月28日の公演を最後に、健康悪化を理由に「パルジファル」の指揮を降りてしまう。エルバーフェルトの新聞に、クノッホの「最近の出来事によって健康がいちじるしくそこなわれた結果、私としては長期の休暇もやむなしと思った次第です」という記事が掲載された。奥波氏は、エルバーフェルト劇場内部で確執があったらしいとされているが、真相は不明なのだそうである。
 クノッホの降板により、残りの1月31日と2月1日の公演を、急遽クナッパーツブッシュが「パルジファル」を指揮することになった。伝説では、クノッホが「パルジファル」第1幕終幕間近に倒れ、支配人アーサー・フォン・ゲルラッハがクナッパーツブッシュに、最後まで指揮してみる気があるかどうか」尋ねたということなっているが、実際に「パルジファル」を指揮する気があるかどうか尋ねたのは、クノッホの降板が決まった後だったのかも知れない。
 夏はバイロイトに入れあげ、学位請求論文も「パルジファル」であったクナッパーツブッシュに否応はなかった。何日間のリハーサルが可能であったのか分からないが、クナッパーツブッシュは、ほぼぶっつけ本番で31日の「パルジファル」を指揮、成功に導く。
 ちなみに、1930年にエルバーフェルトと合併してヴッパータール市を形成することになる隣町バルメンでは、オットー・クレンペラーが1月4日に「パルジファル」を指揮、成功させていた。クナッパーツブッシュはまだ26歳になる前、クレンペラーはその時28歳だった(クレンペラーの誕生日は1885年5月14日)。
 クノッホの降板は、そのままクノッホの退任に繋がった。クナッパーツブッシュはエルバーフェルト劇場の第1指揮者の地位を手に入れ、無給の第2指揮者ではなくなる。

【エルンスト・クノッホ】
 クノッホは、ワーグナー演奏の草分けのひとり[[フェリックス・モットルの薫陶を受けた優れたワーグナー指揮者である。エルバーフェルトを辞任した後アメリカに渡った。古いワーグナーの録音の中で、ハンス・ヘルマン・ニッセン、マックス・ローレンツの伴奏指揮や、当時のアメリカを代表するワーグナー歌手、ソプラノのヘレン・トロウベル(トラウベル)などの古い録音を集めたアルバムの中で伴奏を行う指揮者の名前にクノッホが見えたりする。没年は1959年だそうである。

 「パルジファル」の後、2月3日には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮、「不安定なところやリズムの合っていないところもあったが、申し分なく立派に自己主張していたことは、高く評価されなければならない」、「(マイスタージンガーの評)バイロイトの指揮者ハンス・リヒターゆずりの鮮やかな引き締まったテンポでクナッパーツブッシュは前奏曲と第1幕を演奏したが、それは渾然一体と彫琢されていた…」という、地元の新聞であるベルギッシュ=メルトゥッシュ・ツァイトゥング紙の2月4日付けの評になった(奥波本)。
 若い頃のクナッパーツブッシュは、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」においては、そのテンポは速かったようである。ただ「パルジファル」に関しては、1943年に録音された「パルジファル」を聞く限り、若い当時からテンポはかなり遅かったのではないかと想像している。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、その2年も経たない前、ハンス・リヒターの最後の公演をクナッパーツブッシュは間近で接することができた。その影響が強く残っていたのだろう。フェリックス・モットルにはワーグナーの楽曲を収録したピアノロールの録音が残っているが、どれもテンポが遅い。「パルジファル」も極めて遅い。クノッホがモットルの弟子であったこと、また、クナッパーツブッシュがバイロイトでカール・ムックの「パルジファル」に接していたとすると、それほど速いテンポの「パルジファル」を指揮していたとは想像しにくい。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ではキビキビしたテンポで、「パルジファル」はゆったりとしたテンポで指揮をしていたのではなかっただろうか。遅いテンポは老成した指揮者の専売特許ではなく、若い頃にこそ可能だという側面も持っている。

 エルバーフェルト劇場の第1指揮者に就任できたクナッパーツブッシュは、エルバーフェルト劇場のメンバーを率いて2月11日、ベルギー、ロッテルダムで「ローエングリン」を指揮、3月11日同じく ロッテルダムでエルバーフェルト劇場の公演で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮している(Hunt)。
 さらに5月4日と6日、ロッテルダムでアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と「パルジファル」。6月と7月にはアムステルダムのワーグナー記念公演で「ジークフリート」、「トリスタンとイゾルデ」を指揮した(Hunt)。
1914/01/11 ワーグナー/「パルジファル」 エルバーフェルト(伝説では、エルバーフェルト「パルジファル」初演初日にクノッホが倒れ、第2幕からクナッパーツブッシュが指揮をしたことになっている)
1914/01/31 ワーグナー/「パルジファル」(Joachim Dorfmueller, Wuppertaler Musikgeschichte, Born, Wuppertal 1995による)
1914/02/01 ワーグナー/「パルジファル」(Joachim Dorfmueller, Wuppertaler Musikgeschichte, Born, Wuppertal 1995による)
1914/02/03 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(Joachim Dorfmueller, Wuppertaler Musikgeschichte, Born, Wuppertal 1995による)
1914/02/11 ワーグナー/「ローエングリン」 ロッテルダム
1914/03/11 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ロッテルダム
1914/05/04 ワーグナー/「パルジファル」 アムステルダム
1914/05/06 ワーグナー/「パルジファル」 アムステルダム
1914/6月-07/14 ワーグナー/「ジークフリート」、「トリスタンとイゾルデ」 アムステルダム、ワーグナー祭
1914/08/29 エルバーフェルトでコンサートデビュー
(René Trémine’s data)

 エルバーフェルトで順調に実績を積み重ねているクナッパーツブッシュだったが、世界情勢は大きく動いてしまった。
 6月28日、サラエヴォ事件が発生、第1次世界大戦の引き金となる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝、国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であったサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、8月2日、オーストリアと同盟を結んでいたドイツは、セルビアの後ろ盾となっていたロシアの総動員令の中止を申し入れたが回答を得られず、ロシアに宣戦布告する。
 さらに3日、ドイツはロシアと同盟関係にあった仇敵フランスに宣戦布告、8月4日、フランスと同盟関係にあったイギリスは、ドイツに宣戦布告する。ヨーロッパ中を巻き込んで、またたくまに戦争は拡大していった。
 ドイツ国民はこの戦争で大きな高揚感を得る。トーマス・マンはこの頃はドイツ愛国主義者で、ウィルヘルム2世を支持、第1次世界大戦でのドイツの立場を擁護するエッセイや講演を行っている(「フリードリヒ大王と大同盟」、「非政治的人間の省察」など)。愛国主義者だけではなく、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の檄には、ドイツ国内の共産主義者や社会主義者も反応、国を挙げて戦争状態に突入していった。
 その熱っぽい雰囲気の中で、8月29日、クナッパーツブッシュはエルバーフェルトの市立ホールでコンサート・デビューを果たす。カール・ゲミュンドという指揮者とともに、失業者のための慈善コンサートだった。クナッパーツブッシュは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、「レオノーレ」序曲第3番を指揮する(奥波本、 Hunt)。
 クナッパーツブッシュが徴兵されるのは、翌1915年だった。

 ミュンヘンで自由気ままで、貧しくとも実り多い生活を送っていたヒトラーに、1914年1月18日、大きな出来事が起こった。ヒトラーの逮捕である。トーランド本によるとウィーンで食い詰めたヒトラーは、ウィーンでの独身寮時代、オーストリア軍に志願したことがあるようなのだが、その時は、当局から何の連絡もなかったということになっている。住所不定になっていたのかも知れない。おそらくはウィーンではいつまで経ってもうだつが上がらないときに徴兵となったため、ヒトラーはオーストリアでの徴兵を嫌い、ミュンヘンに逃げ出したと考える方が自然である。
 ところが、この日、ヒトラーは徴兵拒否のためオーストリア政府から手を回され、ミュンヘン刑事警察がヒトラーを逮捕した。ヒトラーはこの事態に衝撃を受け、狼狽する。兵役を逃れる目的でミュンヘンに移住したことがばれれば、重い罰金刑と1年未満の禁固刑に処されるかも知れなかった(トーランド本)。
 ミュンヘンの警察やオーストリア総領事館は、痩せてみすぼらしい恰好をしたヒトラーに同情的だったのだそうだ。それでも、出頭命令は撤回されず、最初、リンツへの出頭を命じられていたが、リンツは遠いため、その途中のザルツブルクに出頭ということで折り合いが付いた。
 ヒトラーは2月5日、ザルツブルクで兵役検査を受けるも、虚弱な体質のため「兵役不適格」だった。ヒトラーはミュンヘンの貧しいが気ままな生活に戻ることができた。
  ヒトラーの「我が闘争」をひもとくと、第5章まで当時のオーストリア批判に費やされている。よほどウィーンでの認められない生活、この逮捕事件に対して恨みを持っていたのだろうか。
 ヒトラーがミュンヘンに戻った4ヶ月後、サラエヴォ事件が起こった。8月2日、ドイツ開戦のニュースはミュンヘンの将軍廟に集まっていた群衆を熱狂させ、その群衆の中にヒトラーも混じっていた。ニュース写真の中に、群衆の中で大声を上げるヒトラーが写っている。
 ヒトラーはオーストリアを嫌っていたが、大ドイツの開戦の報に大感激し、3日にはさっそく軍隊に志願している。オーストリア人であったヒトラーは時のバイエルン王国国王ルードウィヒ3世にドイツ軍に志願したい旨請願書を提出(バイエルンはドイツの領邦だが、王国として独立の面目は保っていた)、4日、ヒトラーの希望は受け入れられた。
 第1志望のバイエルン国王直轄連隊は定員いっぱいで入れなかったが、第2志望の第1バイエルン歩兵連隊に入ることができた。その後、第2バイエルン歩兵連隊に移され、兵士としての基礎訓練を受ける。訓練の後、第16バイエルン歩兵連隊(リスト連隊)に配属され、10月8日、ヒトラーはいよいよ戦線に赴くことになる。
 ヒトラーは芸術家の卵としての生活とは180度異なる「軍隊」という生活の中に入ったが、むしろ、軍隊での方が居心地が良かったようだ。ミュンヘンでの下宿の大家であるポップ夫妻との別離や細やかな手紙のやりとりなど、軍隊におけるヒトラーは模範的なドイツの若者だったことが読みとれる。
 軍の再編成やヒトラーが味わった生涯で最も辛い訓練の後、10月20日、不十分な装備ではあったが、ヒトラーの所属する第16バイエルン歩兵連隊は、西部戦線を目指して貨車に詰め込まれ、出発する。ヒトラーを含め、若い補充兵たちの意気は極めて軒昂だったようだ。
 10月28日頃、ヒトラーの連隊は前線に到着、ヒトラーの所属する中隊はイープル争奪戦の戦闘に投入され、ヒトラーは初めて実戦を経験する。この初めての戦闘は3日間続き、極めて過酷だったようで、第16連隊は大きな被害を被った。補充兵の5人にひとりしか生き残れなかった。
 ヒトラー自身、ミュンヘンに住む知人、エルンスト・ヘップ判事に手紙を書き送っている。迫真的な文章である。後年、ヒトラーの上官や戦友たちの証言によると、ヒトラーの戦争での記述や言葉にはウソはないそうである。
「われわれは森のはずれまで匍匐前進します。頭上では砲弾が唸りを発し、引き裂かれた枝や幹が周りを囲んでいます。やがて再び砲弾が森のはずれで炸裂し、石と土と砂をもうもうと空中に吹き上げ、いちばん太い立木を根こそぎ倒して、黄緑色のひどく刺激的な湯気の中にすべてを包み込んでしまいます。われわれはいつまでもここに伏せているわけにはいかず、戦闘のさなかに死ぬとしたら森から出ていって死ぬ方がましです」、「われわれは4度前進し、そのたびに後退を余儀なくされます。わたしのグループではわたしのほかに生き残っているものはたった一人だけ、やがてその男もついに戦死です。一発の銃弾が私の右袖を切り取ってゆくが、奇跡的に私は無事で生きています」(ヘップ判事への手紙、トーランド本)。
 そしてヒトラーは負傷した上官を仮包帯所まで引きずっていったり、最前線で集中攻撃を浴びた連隊長を救ったりしている(その連隊長はまもなく敵の砲弾で戦死しているが)。
 この前線に着いて間もない戦闘の体験が、ヒトラーを大きく変えていったようだ。
 やがてヒトラーは伝令兵として進んで危険の中に身を置く、孤独癖の強い「変わったやつ」になっていった。ヒトラーはこの戦闘で2級鉄十字章を得ている。
 結局、激戦の末、ドイツ軍はイープル奪取を断念、連隊の戦闘は1914年末から1915年初頭にかけて、塹壕戦へと変わっていった。

タイトルとURLをコピーしました