1946年 戦争が終わって。非ナチ化裁判

 ヨーロッパ中を巻き込み、ドイツの多くの都市を瓦礫に変えてしまった第2次世界大戦が終結した。
 そんな中で、ドイツ・オーストリアのさまざまな都市で音楽が復活している。ソヴィエト軍に占領されたウィーンでは、ヒトラーが自殺をするほんの数日前、まだ戦争が終わっていないにも関わらず、4月27日早くもクレメンス・クラウスの指揮でコンサートが復活している。シューベルト/交響曲第7番「未完成」、ソヴィエトに配慮してチャイコフスキー/交響曲第5番が演奏された。以降、ウィーン・フィルは大忙しでコンサートを続ける。
  さらにザルツブルクでは8月12日、規模は小さいながらもアメリカ軍の協力を得て、音楽祭が復活していた。
 ミュンヘンでの最初のコンサートがどのような状況下、どのオーケストラによって開かれたのか分からない。7月8日の「政治的信条のため、国家社会主義に迫害された人々を顕彰する」コンサートが最初であったかも知れない。
 とにかく、第2次世界大戦後、クナッパーツブッシュの復活は8月17日からだった。
 8月17日、18日、19日、クナッパーツブッシュはバイエルン州立管弦楽団(歌劇場管弦楽団)とミュンヘンのプリンツ・レゲンテン劇場の舞台に立った。州立歌劇場の建物は爆撃によって破壊され、使えなかった。ミュンヘンの市街地は破壊され、食糧は極端に乏しく、また生活用品なども全く足りない頃である。人々は飢えていた。それでも、ミュンヘンの人々は音楽にも飢えていた。
 クナッパーツブッシュが復活したのはそういう時である。「反ナチの英雄」クナッパーツブッシュの音楽を、誰もが聞きたがった。演目はメンデルスゾーン/「静かな海と穏やかな航海」序曲、シューマン/交響曲第4番、ブラームス/交響曲第4番だった。
コンサートが始まる前、バイエルン州文部大臣ヒップ、バイエルン州立歌劇総支配人バウクナー、そしてクナッパーツブッシュが壇上に上がり挨拶を行った。
「千年が過ぎ、私は再びここにいます。私はミュンヘンに、クラウスはウィーンに戻り、1933年当時の状態になったわけです。総統のもとでなされてきた十年あまりの猿芝居の幕は閉じられたのです」(奥波本)。
 という言葉とともにクナッパーツブッシュは復帰する。「千年」とは、ナチが第三帝国を「千年帝国(千年は不滅)」と呼んだ千年のことである。クナッパーツブッシュの言葉は、ナチのもとでドイツは永遠に繁栄すると言う言葉の意味への哀しい皮肉と嘲笑である。
 当初、クナッパーツブッシュはミュンヘン・フィルの指揮を依頼されたが、クナッパーツブッシュはなじみ深いバイエルン州立歌劇場のオーケストラを優先し、ミュンヘン・フィルは8月21日、「政治的信条のため、国家社会主義に迫害された人々を顕彰する」コンサートの第2回目を指揮した。ミュンヘン・フィルの戦後第1回目のコンサートは7月8日で、ミュンヘン出身のオイゲン・ヨッフムが指揮を担当した。ヨッフムの演目は、メンデルスゾーン/「真夏の夜の夢」序曲、モーツァルト/交響曲第40番、チャイコフスキー/交響曲第4番だった。
 ただ、非ナチ化裁判への経歴調査が7月7日に始まるという布告が出て、ヨッフムはコンサート後、歌劇場音楽監督を務めていたハンブルクに急いで戻っている。ミュンヘンを占領しているアメリカ軍はかなり強硬にナチとナチ協力者に対処し始めていたが、ハンブルクを占領しているイギリス軍はまだその対応が穏やかだった。アメリカ軍とイギリス軍とでは、ドイツ人に対する処遇がかなり違っていたようだ。(奥波本、リチャード・オウヴァリー著永井清彦監訳、秀岡尚子訳「地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国」河出書房新社)
 クナッパーツブッシュによる8月21日の演奏曲目は分からず、スメタナ、チャイコフスキー、ワーグナー、ベートーヴェン、ブラームス、ハイドンのどれかの曲が演奏されたらしい。また、クナッパーツブッシュひとりがすべてのコンサートを指揮したわけではなく、3人の指揮者が登壇した。
 8月31日から9月2日、摂政劇場でバイエルン州立管弦楽団とコンサート。ワーグナー、スメタナ、チャイコフスキーの楽曲を演奏する。
 9月14日から16日、摂政劇場でバイエルン州立管弦楽団とコンサート。ウェーバー、ブラームス、ベートーヴェン。 16日はブラームスに変えてハイドンのいずれかの交響曲が演奏された。
 10月初旬、アメリカ軍情報統制本部はナチ協力者の名簿を作成、ブラック・リストの中にナチ党員の指揮者カール・エルメンドルフ、帝国音楽院総裁ペーター・ラーベとともに、クナッパーツブッシュの名前も挙がった(むろん、フルトヴェングラーやカラヤンの名前も挙がっている)。クナッパーツブッシュはナチ党員、ナチ協力者のブラックリストに入れられた。クナッパーツブッシュは演奏活動を禁止され、非ナチ化裁判を受けなければならなくなる。
 占領直後、元バイエルン州立歌劇総支配人フランケンシュタインの未亡人のところに数人のアメリカ人が尋ねてきて、「第三帝国下、州立歌劇から遠ざけられていた人物は誰か?」と聞かれた。フランケンシュタインは戦時中の1942年8月22日に亡くなっていた。 フランケンシュタイン未亡人は、「アルトゥール・バウクナー博士とハンス・クナッパーツブッシュ教授」の名前を挙げる。ただ、クナッパーツブッシュが非ナチ化裁判を逃れ得ていないところを見ると、フランケンシュタイン未亡人のクナッパーツブッシュ擁護はあまり大きな効果はなかったようだ。バウクナーは1945年戦争が終わった当時、バイエルン州立歌劇の総支配人を務めていた(奥波本)。
 10月16日、クナッパーツブッシュの非ナチ化裁判の審理はまだ始まっていなかったが、クナッパーツブッシュは知人の医学博士マウラーの潔白を証明する文書をアメリカ軍当局に提出した。内容は、「1933年3月、ユダヤ人シュタインハルター氏をナチ当局の逮捕から救おうと相談され、ミュンヘンのレギーナ・パラスと・ホテルに滞在中のシュタインハルター氏に逮捕の警告をして救った」というものだった。このような知人の潔白を証明すると同時に、自身の潔白をも証明する証言文書を「洗剤証明書(ペルジール・シャイン)」と呼ばれる。(奥波本)
 10月25日、ミュンヘン「新新聞」にクナッパーツブッシュがブラック・リストに載り、処分の対象になっていることへの「クナッパーツブッシュの説明」の取材記事が掲載される。
 この記事でクナッパーツブッシュは、「自分はナチではないこと」、「ミュンヘンを追放された経緯」、「占領地域への演奏旅行は、ナチのプロパガンダの意味があったこと知らず、むしろ牢獄のようなドイツ・オーストリア国内から出ることができてホッとしたこと」、「ユダヤ人指揮者レオ・ブレッヒの留任を働きかけるため、ヒトラーに直接会って談判したこと」(奥波本)などを話している。
 さらに
「ウィーン国立歌劇場監督の地位をひきうけるようにナチが繰り返し要請してきましたが、私は一度といわず、断り続けました。ナチから金の指揮棒をもらったことはないし、枢密顧問官の、脅迫まがいの任命からも、いわゆる文化部への加入からも、何とかすり抜けてきました」
 という発言がある(奥波本)。
 この記事を読んだ「金の指揮棒」をもらい、プロイセン枢密顧問官であったフルトヴェングラーは「どこかで会ったら、横っ面を張り飛ばしてやりたい気持ちでいっぱいだ」と怒っている(K・ラング著「チェリビダッケとフルトヴェングラー」音楽之友社刊)。
 クナッパーツブッシュよりもフルトヴェングラーの非ナチ化裁判の事情はさらに複雑だった。数々の地位とともに、ナチへの協力姿勢がより鮮明であったからだ。
 ちなみに、ミュンヘン「新新聞」の取材を行ったのは、自身作曲家でもあるエドムント・ニックである。ニックは、クナッパーツブッシュがエルバーフェルトで指揮者の修業をしていた時代、婚約までして振られたケーテ・イェーニケの夫だった。ニックはケーテのピアノ伴奏者を務めていた。クナッパーツブッシュはニックからそのことを切り出されてたいそう驚いた。ケーテはユダヤ人の血を引いており、ナチ時代には夫婦でかなり苦労をした(奥波本)
 エドムント・ニックはのちのちまでミュンヘンで評論家として活躍した。尾埜善司氏の「指揮者ケンペ」(芸術現代社)に、ニックは1963年から70年まで「南ドイツ新聞」で音楽批評を寄稿、1971年には「ミュンヘンの音楽報告」でケンペの演奏批評が寄せられたとある。
 裁判中のクナッパーツブッシュは、元の住居から引っ越さなければならなかっかようで、新しい住居は漆喰がさらさらと落ちてくるようなあばら屋だったという(奥波本)。非ナチ化裁判が終わるまで、クナッパーツブッシュが何をしていたのかは不明だが、おそらくは逼塞していなければならなかったようだ。パノフスキーによると、スコアの研究に没頭せざるを得なかったらしい。
「だがこの時、同年冬、占領軍当局の指揮活動禁止命令が、平手打ちさながらに彼にもたらされた。クナッパーツブッシュであれば、同業の誰よりもこの非難に抗弁できたのである、このいわれ無い濡れ衣に易々と反証を提示できたのである。だが、彼のプライドがそれを許さなかった。彼は自身の名誉回復に指一本動かさなかった。苦い思いを噛みしめながら、粗末な仮の宿りへ引きこもった。ベッドとピアノの上には、天上から落ちて来る漆喰を受ける布のシートが張られた。こうした情況でクナッパーツブッシュは、疾うに暗譜していたスコアに向き合った。年齢とともに交際嫌いの癖は表われていたのだが、それが病的なまでに強まったのは、この完全な無為の年であり、今日まで変わっていない」(パノフスキー「クナッパーツブッシュ」)。
「同年晩秋、早くもクナッパーツブッシュは、いわゆる反ユダヤ的発言のために『終身』指揮活動禁止処分を受けとった。今度はアメリカ人からである。『クナ』は抗わなかった。自らの名誉回復のための、何の手も打たなかった。人を避ける彼の生来の傾向が強まっていった。急場凌ぎの住まいで(何としてもミュンヘンで仕事がしたかったのだ、ウィーンではなく)、自分のスコアに没頭し、苦々しい幻滅を噛みしめながら『遺憾なる誤った処遇に対する謝罪』を待ちわびていた」(「ハンス・クナッパーツブッシュ~生誕百年に寄せて~」)。
 クナッパーツブッシュの非ナチ化裁判で一番問題になったのは、先ず第一にウィーン・フィル、ベルリン・フィルとのドイツ国内外への演奏旅行である。確かによく行っている。占領地域へ数多く演奏旅行をしたことが、ナチ・プロパガンタの伝播に協力したことなり、「ナチではないか?」と疑わせる大きな要因になった。それに対してクナッパーツブッシュは「牢獄のような国内」にいるよりも、国外に出ていた方が暖かいもてなしも受けられたし、気が楽だったというようなことを述べている。なにより、ドイツ国内にいるより食事には苦労しなかったのではないかと想像できる。戦争中、ドイツ国内では生活必需品は配給制が敷かれ、食糧品の割り当ても厳しく制限された。戦時中、ドイツ・オーストリアの食糧事情は極めて悪かったからだ。
 もうひとつは、クナッパーツブッシュの反ユダヤ主義的発言だった。1936年、ミュンヘンを追放されたクナッパーツブッシュは、国外での客演の許可を乞うため、反ユダヤ主義の言辞をもって当局を懐柔しようとしている。ただ、クナッパーツブッシュの反ユダヤ発言は当時のドイツで仕事を得ようとするためには仕方のない面もある。クナッパーツブッシュはワーグナーの音楽に傾倒しながらも、反ユダヤ「人」主義者ではなかった。
 ドイツ国内に留まったドイツ人指揮者、とりわけアメリカ軍占領地にいた指揮者はおしなべて非ナチ化裁判を受けなければならなかったとも言える。ハンブルクを中心に占領していたイギリス軍、ソヴィエト軍占領地域とアメリカ軍支配地域では、その対応が大きく異なっていた。丸1年の間、クナッパーツブッシュの逼塞生活は続く。

 年が変わり、1946年3月5日、「ナチズムと軍国主義からの解放のための法律」が成立。18歳以上のすべてのドイツ人にナチとの関係を問う質問票への解答が義務づけられる。非ナチ化遂行の権限は基本的にドイツ人の手に委ねられた。(「音楽と政治」、石田勇治著「20世紀ドイツ史」白水社)
 西側諸国対ソヴィエトの冷戦は1947年以降、激化し始める。ただ、戦争が終わった1945年からすでにその兆候は現れていた。
 イギリスのチャーチルはドイツとの戦争終結直後に、イギリス軍、アメリカ軍、そしてドイツ軍を再組織してソヴィエトを攻撃する計画を持っていたし(1998年10月まで極秘だった)、アメリカのパットンはソヴィエト軍の優秀さを警戒し、敵意をむき出しにした。
 ドイツはそのための橋頭堡だった。イギリスやアメリカ側には「真の敵はソヴィエト」という考えが根強く、そのために布石を打つ意味もあった。ただ、 1946年当時は、まだドイツ統治に関しては「非ナチ化」は最優先課題であったのは確かである。
「ナチズムと軍国主義からの解放のための法律」で、ある程度までナチの追求はドイツ人に委ねられたが、同朋を裁くことのやり切れなさもあっただろうし、ナチと無縁の人間はそれほど多く存在するわけではなかった。アメリカ側としては熱心にナチを追求するよりも、ドイツでの政治、行政面を含めて「使える人材」の確保のため、非ナチ化の手綱を緩めざるを得なかったという思惑も大きく絡んでいる。
 また、「黒色」「灰色」「白色」というポイント制によるナチ、ナチ協力者の区分自体、軍政府内部からも批判があり、あまりにも単純すぎてアメリカ軍側は考えを変えざるを得なかったという事情もある。鮮明なナチ協力者への対処以外、徐々に非ナチ化の熱は醒め始めてゆく。

 3月21日、ゲオルグ・ショルティが、スイスからミュンヘンに向かっている。
 連合軍の爆撃によるミュンヘンの惨状を、バイエルン州立歌劇場音楽監督に就任することになるまだ若かったゲオルグ・ショルティは戦後すぐに目にしている。ショルティはユダヤ人のため、故郷のハンガリーを離れ、スイスのチューリッヒにいた。
 バイエルン州立歌劇場は政治的に問題のない指揮者……すなわちナチとは関わりのない指揮者を求めていた。ショルティは指揮者としての経験はほとんどなかったが、指揮者になりたくてその場を得ることに飢えていた。ショルティはブタペストでピアノを一緒に学んでいたエドワルト・キレーニがアメリカ軍の仕事でミュンヘンにいることを知る。ドイツに手紙を出すことはできなかったが、ショルティの妻の友人がミュンヘンに行くというので、キレーニあての手紙を託す。
 すぐ、キレーニから返事が来た。「3月20日午後8時、クロイツリンゲン駅の検問所で待っていてくれたまえ。アメリカ軍のジープが君をミュンヘンまで連れてゆく。そして翌朝、ボクが君をバイエルン国立歌劇場へ案内する。歌劇場では指揮者がいなくて困っているからね」。ショルティはクロイツリンゲン駅からミュンヘンまでジープに乗せられて走る。
「寒さ以上にこたえたのが、夜明けとともに目に入ったミュンヘンの街の光景だった。中心部に近づくにつれ、爆撃のすさまじさをまざまざと見せつけられた。瓦礫の山また山。吹き飛ばされた窓、傾いた門柱、えぐられたように地面に開いた穴。街灯は一本もなかった。爆弾を浴びた家など皆無というスイスから来た身には、衝撃が大きすぎた。できることなら、すぐにでも逃げ帰りたかった」(「ショルティ自伝」木村博江・訳 草思社)。
 5月10日、非ナチ化裁判について、クナッパーツブッシュへの質問が行われた(この日付で質問票が残っているそうである)(奥波本)。

 1946年夏、ザルツブルク音楽祭は前年よりも規模を大きくして開催された。カラヤンが音楽祭に対して野心を燃やし、オペラのリハーサルを行ったが、まだカラヤンの非ナチ化がすんでおらず、結局フェスティバルで指揮をするとはできなかった。
 この年からウィーン・フィルはザルツブルク音楽祭に復活する。ソヴィエト支配のウィーンから、ザルツブルクを占領しているアメリカ軍に招かれるという恰好だった。まだオーストリア国内の食糧事情はひじょうに悪く、ウィーン・フィルは家族を大勢引き連れてザルツブルクに行く。オットー・シュトラッサーは、アメリカ軍から提供された缶詰の食事はいつも同じで味はひどかったが、とにかくみんな腹一杯食べることができたと「栄光のウィーン・フィル」に書いている。
 1946年のザルツブルク音楽祭は、オペラをヨーゼフ・クリップス、ハンス・スワロフスキー、フェリックス・プロハスカが指揮、コンサートをジョン・バルビローリ、エルネスト・アンセルメ、シャルル・ミュンシュ、カール・シューリヒトが指揮した。シューリヒトを除いて、ドイツの大指揮者たちはまだザルツブルクで指揮をすることができなかった。
 10月1日、ニュルンベルク国際軍事法廷、最終判決。
 10月16日、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた12名の内、10名の絞首刑が実施される。死刑判決を受けたマルティン・ボルマンは行方不明、ゲーリングは前日に秘密に差し入れられた青酸カリを飲み、自殺していた。
 10月22日、ミュンヘンの非ナチ化審査期間の公証人は、クナッパーツブッシュについて、法律に抵触せずという結論に達した。公判手続きの停止を通知。
 10月29日、アメリカ情報統制本部は正式にクナッパーツブッシュの公判を停止する。
 10月、ソヴィエト占領地区、西側占領地区で州議会選挙が実施される。
 12月2日、 アメリカ、イギリス共同占領地区(バイゾーン)発足。後にフランスの占領地域が加わり、トライゾーンと呼ばれる。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の基礎となった。
 12月4日、 クナッパーツブッシュの活動停止処分解除。
 クナッパーツブッシュの非ナチ化裁判が終わり、無罪を勝ち取って指揮活動の許可がアメリカ占領軍から最終的に出たのは、ようやく1946年12月4日になってからだった。演奏禁止の処分を食らってから、既に1年以上が経過していた。
 ただ、クナッパーツブッシュの非ナチ化裁判からの復活は、翌1947年になってからだった。

 以後の日本の記録は割愛する。

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