1947年 クナッパーツブッシュの本格復帰

1947年
 1月22日と23日 バンベルクでバンベルク交響楽団を指揮、クナッパーツブッシュは非ナチ化裁判からの復活を果たす。

  • 1月22日 バンベルク シューベルト/「ロザムンデ」序曲、交響曲第5番、第9番「ザ・グレート」
  • 1月23日 バンベルク シューベルト/「ロザムンデ」序曲、交響曲第5番、第9番「ザ・グレート」

 前年の1946年12月7日頃には、クナッパーツブッシュはまずシュトゥットガルトで復活する予定だったらしいとあるが(奥波本、注)、その予定は変更された。
 バンベルク交響楽団は、ドイツ・プラハ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーを中心に、ドイツに逃げ帰ったメンバーで結成された。第1回のコンサートは1946年3月16日、「バンベルク・トーンキュンストラー管弦楽団」の名前で開催され、同年6月1日に「バンベルク交響楽団」と改称した(Wikipediaによる)。結成当時の首席指揮者はヘルベルト・アルベルトという1903年12月26日生まれの指揮者である。クナッパーツブッシュは結成間もない早い時期にバンベルク交響楽団を指揮したことになる。バンベルク交響楽団はクナッパーツブッシュが復帰初コンサートで指揮をしたことにより、一躍注目された(音友ムック「世界のオーケストラ123」歌崎和彦氏の文章による)。
 2月2日、ベルリンでベルリン州立歌劇場管弦楽団を指揮。やはりシューベルト生誕150周年記念コンサート。「ロザムンデ」序曲、交響曲第5番 D.485、交響曲第8番 D.944「未完成」。
 クナッパーツブッシュのベルリン復帰は、ベルリン・フィルではなかった。また、フルトヴェングラーが非ナチ化裁判を終え、ベルリン・フィルの指揮台に復帰するのは、この年(1947年)の5月25日になってからである。フルトヴェングラーの非ナチ化裁判は1946年 12月17日にいったん終わっていたが、アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」が反フルトヴェングラー・キャンペーンを展開、ドイツ駐留のアメリカ軍当局はフルトヴェングラー復帰の態度を保留した。最終的に無罪を勝ち取ったのは1947年4月27日になってからだった。(リチャード・オズボーン著「ヘルベルト・フォン・カラヤン」木村博江訳白水社) 戦争が終わり、州立歌劇場には1947年当時は首席指揮者がまだいなかった。翌1948年にヨーゼフ・カイルベルトが州立歌劇場音楽監督と歌劇場管弦楽団の首席指揮者を兼ねて就任したようだ。むろん、州立歌劇場は2度に渡る空襲で破壊され、フィルハーモニー・ザールも破壊されていたことから、アドミラル・パラストでコンサートが開かれた。
 ベルリン・フィルはティタニア・パラストという巨大な映画館をコンサート会場に使用していた(戦争終結前はビュルクナー劇場をコンサート会場に使用していた)。
 ベルリン州立歌劇場はソヴィエト軍の支配地域にあったが、まだこの頃は西側連合軍の支配地域との行き来は自由だった。

 1947年3月10日から4月24日 モスクワでアメリカ、イギリス、フランス、ソヴィエトによる4カ国外相会談。ドイツの戦後処理に関して会談は決裂する。東西冷戦の始まり。
 3月12日 アメリカ大統領トルーマンは一般教書演説で「共産主義封じ込め」を宣言。「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる。

 3月12日、クナッパーツブッシュは59歳の誕生日を迎える。
 4月6日、7日、8日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルの祝祭演奏会。ブラームス没後50年コンサートだった。ブラームス/交響曲第3番、交響曲第2番
 クナッパーツブッシュはいよいよミュンヘンでミュンヘン・フィルを指揮、活動を再開する。摂政劇場はバイエルン州立歌劇が復活して使用していたため(国民劇場=ナツィオナル・テアターは空襲で破壊されたままだった)、コンサートはコングレス・ザールやミュンヘン大学講堂などの別のホールを使用していた。この時のバイエルン州立歌劇の音楽監督はフェルディナント・ライトナーとゲオルグ・ショルティである。「ショルティ自伝」によると、ライトナーとショルティは相性が悪かったようだ。ミュンヘン・フィルは戦争が終わった後、現代音楽の泰斗とも呼べるハンス・ロスバウトが首席指揮者を勤めていた。
このクナッパーツブッシュのミュンヘンでの復活劇には3つの証言が残っていて興味深い。それぞれ印象が異なる。

1.クナッパーツブッシュのミュンヘン復活の顛末は、アメリカ軍バイエルン軍事政府にあてた1947年年4月10日付のジョン・エヴァーツによる週間報告書と、クナッパーツブッシュに関する自身の感想をショルティは自伝に載せている。まず、ジョン・エヴァーツの週間報告書から。
「復活祭の日曜、月曜、火曜に、ハンス・クナッパーツブッシュがミュンヘン・フィルハーモニーを指揮した。コンサートには音楽愛好家と、クナッパーツブッシュの崇拝者がつめかけた。画期的な催しで、この指揮者が(ナチの協力者とみなされ)追放になって以来、ミュンヘンで公衆の前に姿を現すのはこれが初めてだった。指揮者が交響曲(ブラームスの第二番、第三番)をあまりにも恣意的に扱ったため、音楽愛好家は少なからず失望したようだが、クナッパーツブッシュの崇拝者は、目でも耳でも完全に堪能し、猛烈な熱狂ぶりだった。明らかに組織したと見える一団が、最後に声を揃えて『歌劇場にクナッパーツブッシュを帰せ!』と繰り返し叫んだ。クナッパーツブッシュがドイツ人にとっていかなる存在か知らないアメリカ人たちは、なぜそんな叫び声があがるのか理解できず、『あれがそんなにいいと思われてるのか』とけげんな顔つきだった」。
 アメリカ人にはそのクナッパーツブッシュの音楽とともに、ミュンヘンの聴衆の反応が異常に映ったようだ。

2.ショルティは、クナッパーツブッシュの復帰にノックアウトされてしまう。
「……だが、クナッパーツブッシュが指揮台に立つたびに客席から湧いたヒステリックな叫び声はとうてい忘れられない。彼と並び立つことは私にはじつに苦痛だった。彼にたいする人々の熱狂ぶりを、私へのあてつけと取るべきではなかったかもしれない。なんといっても、彼は私より四半世紀近くも年長の大ベテランであり、私は無名にひとしい新人だったのだ。私自身、彼に魅了された。言ってみれば彼は、サー・トーマス・ビーチャムのドイツ版といった感じだった。強烈な個性でなにごとも押し切るのだ。オーケストラを極限までコントロールし、たとえば彼のクレッシェンドは会場も吹き飛ばしかねないほど強烈だった」(「ショルティ自伝」)。
 ショルティはクナッパーツブッシュに圧倒された。

3.「南ドイツ新聞」の記事がマイヤーの「ハンス・クナッパーツブッシュ~生誕百年に寄せて~」に紹介されている。
「音楽総監督ロスバウトの招きを受け、ハンス・クナッパーツブッシュは復活祭の3日にわたり、ヨハネス・ブラームス没後50年記念演奏会を指揮した。この催しはセンセーショナルな性格を帯びていた。ナチ台頭以前、久しきにわたってミュンヘン州立歌劇場の命運を導き、長い不在の後に多くの賛美者の前に姿を現したこの人は、この地で忘れられてはいない、そして、常にいつまでも、歓迎される客人であるだろう。指揮台に登場した時の嵐のような喝采、そして、ブラームスの交響曲の彼の演奏に感謝する、これも劣らず激しい喝采がその証拠である。クナッパーツブッシュが大変な指揮者であることに議論の余地はない。きわめて節約された身振りで、拍子を打っているだけのようでありながら、あるかなきかの暗示的な指示で、彼が心にかけているものを宙に描き出す(現存する指揮者すべての中で、彼ほどアルトゥール・ニキシュの指揮法を想起させる人物はいない)。そして、すべてがオーケストラから、全く彼が望んだそのままに生み出される。言うまでもなく全くなじみのないこのような棒に順応する術を心得たフィルハーモニーも、みごとに訓練されたオーケストラである。ブラームスのヘ長調とニ長調の交響曲の演奏に際し、クナッパーツブッシュは第一に響きから組み上げていった(因みにこの点もニキシュに似ている)。すばらしい音楽である、温かな音の美しさに溢れ、微かな吐息のようなピアニッシモ、細やかに上昇するクレシェンド、そして品位ある朗々たるフォルテと、デュナーミクのニュアンスは無限に豊かであった。このブラームスがブラームスではなく、時にほとんどワーグナーを思わせたのは、こうした響きの饗宴に、また、悠然と広がる全体のテンポとルバートの多用に依るのだろう。ともかく、この北ドイツの巨匠の男性的な渋さ、感情の抑制は、この交響曲の作曲者に完全にふさわしいかたちではないにせよ、様々に表わされていたと言ってよいだろう」(H・プリングスハイム、1947年4月9日「南ドイツ新聞」)」(「ハンス・クナッパーツブッシュ~生誕百年に寄せて~」)。

 4月18日 記録ではウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)に復帰。リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」を指揮。
 ミュンヘンでの復活を果たしたクナッパーツブッシュは、次にウィーンで復活した。ドイツの大指揮者の中では、クナッパーツブッシュが一番最初にウィーンで復活した。その時の模様を、いろいろな記録を当たってみたが、残念ながら見あたらない。オットー・シュトラッサーの「栄光のウィーン・フィル」では、4月に行われた2回の定期演奏会(予約演奏会とブラームス没後50年コンサート)には触れているが、「サロメ」には触れていない。
 また、国立歌劇場が空襲で破壊されたままだったので、空襲を免れたアン・デア・ウィーン劇場やフォルクス・オーパーがオペラ公演に使われた。ムジークフェラインとコンツェルト・ハウスのふたつのコンサート・ホールは空襲を免れ、使用することができた。
 4月19日と20日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブラームス/交響曲第3番、ブラームス/交響曲第1番。ブラームス没後50年の一環だった。
 4月20日夜、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「ワルキューレ」
 4月25日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ベートーヴェン/「フィデリオ」
 4月26日と27日、ムジークフェライン・ザールでウィーンフィルとブラームス没後50年コンサート。ブラームス/ 「ハイドンの主題による変奏曲」、ヴァイオリン協奏曲(vn:ジネット・ヌヴー)、交響曲第2番
 5月2日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 5月3日と4日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブルックナー/交響曲第8番
 5月7日、シェーンブルン宮殿劇場でウィーン・フィルとコンサート。ワーグナー/「ジークフリート牧歌」、ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲(vn:ウィリー・ボスコフスキー)、ハイドン/交響曲第94番
 5月18日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「タンホイザー」
 5月24日、ウィーンのクラム=ガラス宮殿でウィーン・フィルとアメリカ赤十字のためのコンサート。
 5月26日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」

 6月5日、アメリカ国務長官マーシャルは「ヨーロッパ復興計画」を発表。「マーシャル・プラン」と呼ばれる。

 6月5日チューリッヒでワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 (チューリッヒ歌劇場。管弦楽はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団)。マックス・ローレンツやキルステン・フラグスタートと共演した。その時の記録は一部残っている。

 クナッパーツブッシュはDECCAの代表、モーリツ・ローゼンガルテンにスイスに招かれた。そこでDECCAとレコーディングの専属契約を結んだようである。EMIの大物プロデューサー、ウォルター・レッグに対抗して演奏家をDECCAに引きつける狙いがあったためだ。レッグはフルトヴェングラーやカラヤン、ウィーン・フィルを使ってすでに録音を開始していた。
 ここで誤解してはならないのは、「レコード」に関しては当時アメリカが先進国で、クラシックにしろポップスにしろアメリカのマーケットが巨大なのに対して、ヨーロッパのマーケットはそれほど巨大ではなかったということだ。EMIのクラシック部門にしろDECCAにしろ、アメリカのレコード会社に比べると、レコード会社自体が小振りだった。
 今からすると信じられないことだが、ベルリン・フィルはまだしも、ウィーン・フィルの当時のアメリカでの認識は、ヨーロッパのローカル・オーケストラのひとつに過ぎなかったということだ。指揮者も同様で、アメリカのメジャー・オーケストラの指揮者でなければ、フルトヴェングラーにしてもクナッパーツブッシュにしてもカラヤンにしても、それほど有名なわけではなかった。

 6月18日、 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とレコーディング。

6月30日と7月1日 スイス・ロマンド管弦楽団とレコーディング。

 Huntに6月、「神々の黄昏」の記録があるが詳細は不明。歌手はフラグスタートとロレンツだった。
 8月30日、ザルツブルク音楽祭に復帰。シューベルト/交響曲第5番 D.485、ベートーヴェン/交響曲第7番
 ザルツブルク音楽祭は、1947年から非ナチ化裁判で無罪を勝ち取った指揮者や、アメリカから帰った指揮者、新人指揮者が集まり、ひじょうに賑やかになった。この年のザルツブルク音楽祭では、カール・ベームが復活、大戦後のウィーンの音楽会を救った観のあるヨーゼフ・クリップスとともにオペラを振り、その他フルトヴェングラーを筆頭に、クナッパーツブッシュ、オットー・クレンペラー、シャルル・ミュンシュ、エルネスト・アンセルメ、ジョン・バルビローリ、エドウィン・フィッシャー(むろん大ピアニストだが、指揮者でもあった)、新人のフェレンツ・フリッチャイが顔を揃えた。
 フリッチャイはクレンペラーに代わってゴットフリート・フォン・アイネムのオペラ「ダントンの死」を指揮、大成功を収める。
 クレンペラーは「ダントンの死」をリハーサルの途中まで指揮をしていたが、突然「この曲を指揮するつもりはない」と言い出してキャンセルしてしまう。フリッチャイは「ダントンの死」のリハーサル指揮者で、7回の公演のうち1回だけを本番で指揮させてもらう予定だったが、クレンペラーのキャンセルによって、全てフリッチャイにお鉢が回ってきた。躁鬱気味のクレンペラーの精神状態は医者に診てもらったりしたがあまり良くなかったらしい。
 クナッパーツブッシュは、第2次世界大戦後のザルツブルク音楽祭では、オペラを指揮しなかった。

バンベルク交響楽団とバンベルク近郊コンサート

  • 9月12日 アウグスブルク ベートーヴェン/交響曲第2番、ブラームス/l交響曲第2番
  • 9月20日 バンベルク ベートーヴェン/交響曲第2番、ブラームス/l交響曲第2番
  • 9月21日 エルトマン ベートーヴェン/交響曲第2番、ブラームス/l交響曲第2番

 10月1日、ウィーン国立歌劇場(フォルクス・オーパー)。新演出のウェーバー/「魔弾の射手」
 10月10日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ベートーヴェン/「フィデリオ」
 10月18日と19日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。コーネリウス/「バグダッドの理髪師」序曲、モーツァルト/交響協奏曲(管楽器のための)、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
 10月30日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 11月17日、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「さまよえるオランダ人」

 11月25日から12月15日、ロンドンでアメリカ、イギリス、フランス、ソヴィエト4国外相会談、再び決裂。西側3国はソヴィエトとの交渉を放棄する。

 11月19日と20日、ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。ハイドン/交響曲第88番、ブルックナー/交響曲第7番
 11月23日、ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。リスト/「前奏曲」、モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第5番(vn:ウィリー・ボスコフスキー)、チャイコフスキー/交響曲第5番。(Huntによる)
 12月27日、 ハンス・プフィッツナーの非ナチ化裁判で証言を行う。
「プフィッツナーほど、ナチを激しく憎んでいた人を知りません。われわれ、ウィーンの周辺はすべて、ナチにたいする彼の怒りの声を支持していましたし、われわれはだれもがそれぞれ抵抗運動の士でした。捕まらなかったのは、奇蹟のようなものだったのです。(プフィッツナーが)帝国文化評議員に就任したことをとがめようとするのは、ひどくまちがったことです。私自身その『称号』を回避できたのは、ほんの偶然によってでした。そうでなければ、私とてけっして拒めなかったでしょう。その名前が宣伝に必要であると判断された者は、強制的にその種の称号をつけさせられたのです」(奥波本)。
 プフィッツナーの弟子クレンペラーもプフィッツナーから弁護のための証言を求められたが、「その時、ヨーロッパにいない」と冷たく断っている。
 プフィッツナーはゲーリング(ヒトラーだった可能性もある)に1937年に年金を取りあげられたことや、1939年にヒトラーにプフィッツナーの公式行事を禁止されたことがナチに迫害されたとみなされ、無罪になった。1947年当時、プフィッツナーはミュンヘンの自宅やウィーンの転居先を空襲で焼け出され、ガルミッシュに避難するも、経済的にも困窮していたため再婚した妻とともにミュンヘンの養老院に入っていた。プフィッツナーの視力は失われつつあった。

【第2次世界大戦中のプフィッツナー】
 1939年、半ユダヤ人だと誤解し、プフィッツナーを嫌っていたヒトラーは、プフィッツナーに関するあらゆる公式行事を禁止する。1933年にコスマンを助けようとしたことが大きな理由としてあげられた。それでもプフィッツナーは国民的作曲家であり、同年フランクフルト市はゲーテ賞をプフィッツナーに送った。
 1939年5月、プフィッツナーの娘が母親の墓の前で青酸カリを飲んで自殺。狷介な父親を嫌っての自殺だったらしい。
 その年の12月、孤独なプフィッツナーは秘書のマリー・ゾーフェルと再婚する。プフィッツナー、70歳の再婚だった。
 1940年、バーレとの論争が再燃し、激化する。その中でプフィッツナーのユダヤ主義批判がさらに先鋭化した。反ユダヤ主義という点ではナチと変わらないが、プフィッツナーはユダヤ人への攻撃というよりユダヤ主義を嫌っていた。
 1943年、ミュンヘンの自宅が連合軍(イギリス軍だったそうだ)の空爆によって破壊される。ウィーンに移り住むも、そこも空爆で破壊される。
 1944年、次男が西部戦線で戦死。これで、三人いたプフィッツナーの子供は皆死んでしまった。
 1945年2月、戦争が終わる前にプフィッツナー夫妻はリヒャルト・シュトラウスの居館があったガルミッシュ=パルテンキルヒェンに移り住んだが、1946年、貧困のためミュンヘンの養老院に入らざるを得なくなる。困窮はしていてもプフィッツナーの創作意欲は衰えることはなく、作曲や文筆活動は積極的に行っている。ただプフィッツナーの視力は失われつつあった。
 プフィッツナーもまたナチ協力者の非ナチ化裁判を受けなければならなかったが、ゲーリングに1937年に年金を取りあげられたことや、1939年にヒトラーにプフィッツナーの公式行事を禁止されたことがナチに迫害されたとみなされ、無罪になった。
 しかしミュンヘンの自宅が爆撃に遭い、ウィーンでも焼け出されたプフィッツナーの困窮は続いている。ドイツはまだまだ戦禍の傷はまったく癒えていず、老作曲家に救援の手を差し伸べることなどできなかった。オーストリアも「非オーストリア人」のプフィッツナーには救援の手を差し伸べることなど念頭になかっただろう。 フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュは、おそらくプフィッツナーのことを気にかけていただろうが、自分のことで精一杯で、なかなかプフィッツナー支援にまで手が回らなかったのかもしれない。
 フルトヴェングラーがプフィッツナーの安否を気遣うヘルムート・グローエへの1948年8月30日の手紙が残っている。プフィッツナーは本は書いていたようで1947年に出版された「わが生涯の印象と影像」という回想録をフルトヴェングラーはグローエから送ってもらい、それを返却するときに付けた手紙である。
フルトヴェングラーは、プフィッツナーの文章が見事なことを誉め、「パレストリーナ」の三つの前奏曲のうち、第2幕、第3幕への前奏曲にコンサート用の編曲がなく、コンサートで取りあげるためには苦労したことを書いている。その後、「プフィッツナーがまたなにか作曲にとりかかっているというのは、ほんとうでしょうか?それはそれとして、彼はどうしているんでしょうか?」と書いている。フルトヴェングラーは、プフィッツナーが養老院で困窮していることを知らなかったようだ(フランク・ティース編「フルトヴェングラーの手紙」仙北谷晃一・訳 白水社)。
 ワルターとプフィッツナーは親しく交流をしたはずなのだが、どういうわけか、ワルターはプフィッツナーの作品を録音に残さなかった(「パレストリーナ」のほんの一部だけ、ウィーン国立歌劇場での古いライヴ録音が残っている)。クレンペラーと同じ理由だったとしたら不幸なことだ。
 実は、ワルターがプフィッツナーを許せない亀裂が生じた理由は、再々登場するミュンヘン最新報のコスマンをめぐる安否確認だった。
 ワルターは第2次世界大戦が終わり、1946年6月1日にニューヨークから出したプフィッツナーへの手紙の中で、、コスマンの安否を尋ねている。その手紙に対して、プフィッツナーはテレージエンシュタットでコスマンは天寿を全うしたと書いて送った。ワルターは9月16日の手紙で、テレージエンシュタットはユダヤ人強制収容所ではないかとなじり、「きみは疲れているのだと思う」と皮肉を込めて相手の健康を気遣っている。
 ワルターとプフィッツナーとの間に、最終的な埋められない溝が生じたのは、プフィッツナーの出した10月5日付けの手紙である。プフィッツナーはワルターに自分の境遇を嘆き、ワルターに対し、絶縁状を送ったのだ。ワルターはその手紙に困惑し、ただあきれてしまう(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。
 プフィッツナーがワルターに送った手紙の内容を、道下京子氏が「ドイツ音楽の一断面」で紹介している。
「ヴィルヘルムのドイツ、つまり次に来る社会体制でのドイツでも、またナチス・ドイツでも、彼らは私を評価せず、私がする仕事や、やらせてもらうべき仕事も私のところ所に回してこなかった。今や、人生の黄昏時に、私はナチスに監視されず、あらゆることも禁止されず、捜索されず、抑圧されない状態で福祉の家にいる。私とは対照的に、あなたはドイツから離れて意気揚々とヨーロッパを駆け巡っている。私は心の底で恨みを抱きはしない。しかし、私はどんなことがあってもこの国に忠実です。ここは『ロ短調ミサ』や『ファウストを生んだルターの国であり』、『魔弾の射手』やアイヒェンドルフ、『田園』、『マイスタージンガー』を生みだした国であり、『純粋理性批判』や『意志と表象の世界』が書かれた国です。私は、生涯、この国に忠誠を誓います」(「ドイツ音楽の一断面」)。
 プフィッツナーは愛するドイツで困窮している自分を嘆き、コスモポリタンとして世界を駆け巡るワルターへの不満を手紙に書いた。プフィッツナーはドイツでどのような境遇に会おうともドイツに忠実で、恵まれた環境で活躍を続けるワルターとは違うと書いているのだ。「パレストリーナ」以降の作品を舞台に乗せないワルターへの不満もくすぶっていたものと思われる。

 12月31日から翌年1月3日 クナッパーツブッシュはロンドンに向かっている。
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とDECCAスタジオ録音。

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