1948年、ドイツ・オーストリアの戦後はまだ続いている。
クナッパーツブッシュは、1947年暮れからロンドンにいた。コンサートやオペラ公演の指揮のためではなく、DECCAへの録音のためだ。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、「ローエングリン」第三幕への前奏曲、「リエンチ」序曲、「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽(パリ版)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第3幕前奏曲、徒弟たちの踊り、マイスターの入場、フィナーレが年末から年明け早々に録音されたが、現在聞けるのは「ローエングリン」第三幕への前奏曲、「リエンチ」序曲だけである。「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」からの楽曲はSPから復刻されたLP、CDはまだリリースされたことがない(「タンホイザー」のみLPS42という番号でLondonからリリースされたことになっているが)。SPも希少品のようで、ほとんど市場に出回っていないのではないかと思える。一度は聞いてみたい音源である。
残念ながら、いまだに聞けないままである。
ちなみにレコードの資料としては、
1948年1月1-3日
Matrix AR11945/48
78 :DECCA AK2209/10
3月12日、クナッパーツブッシュは60歳になった。
3月28日と29日、ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ハイドン/交響曲第88番、ブルックナー/交響曲第7番
4月7日、8日、9日、ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルの予約演奏会(定期)。ウェーバー/「オベロン」序曲、ベートーヴェン/交響曲第4番、シューベルト/交響曲第8番 D.944
4月11日 バイエルン州立歌劇場(摂政劇場)ワーグナー/「ワルキューレ」
いよいよ、クナッパーツブッシュはワーグナーの楽劇でバイエルン州立歌劇に復活する。ミュンヘン市民の反応はどのようなものであったのだろうか?残念ながら、まだその時の記録のようなものを見ることはできていない。
摂政劇場では1935年8月27日「ニュルンベルクのマイスタージンガー」以来(「モーツァルト=ワーグナー祭」)、バイエルン州立歌劇としては国民劇場での1935年11月24日「ワルキューレ」以来のクナッパーツブッシュによるワーグナーのオペラだった。第2次世界大戦後、クナッパーツブッシュのバイエルン州立歌劇での復活も「ワルキューレ」であったことは、どこか因縁めいている。
4月21日と22日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。ハイドン/交響曲第94番、フランツ・シュミット/ベートーヴェンの主題による変奏曲(p:フリードリヒ・ヴゥーラー)、ブラームス/交響曲第4番
4月24日と25日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会(定期)。ヘンデル/コンチェルト・グロッソ 6-5、シューベルト/交響曲第7番「未完成」D.759、ベートーヴェン/交響曲第4番
4月30日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。ワーグナー/「ローエングリン」(新演出)が記録に残っているが、クナッパーツブッシュはこの公演の指揮を2回目にはボイコットしてしまう。「ローエングリン」新演出がクナッパーツブッシュの気に入らず、ウィーン国立歌劇場で、クナッパーツブッシュは「クナッパーツブッシュらしいトラブル」を起こしてしまったのだ。
シュトラッサー「栄光のウィーン・フィル」には1949年あたりの記載に載っているが、演出家バインルや代役として引っ張り出されたプロハスカの記録などを付き合わせて見て行くと、この1948年のことである。その顛末が「栄光のウィーン・フィル」に載っている。
「ウィーンの演出家シュテファン・バインルが『ローエングリン』を演出した時のことである。彼は、おそらく主義上の問題でもあろうが、たしかに経済上の理由も手伝って、緞帳を一種の舞台装置として利用した。クナッパーツブッシュは例によって大の練習嫌いを発揮して、初日に初めてそのような舞台作りを見たのだが、演奏が終わって指揮台から降りざまに、はっきりと聞き取れるほどの大きな声で『いかん』”Nee”と言ってのけた。彼の批判を監督ザルムホーファーにまで繰り返して開陳したのかどうか私は知らない。少なくともこの劇場内の誰一人として、この『ローエングリン』の舞台装置に対する彼の否定的意見を知るに至らなかったことは、次回の公演で明らかになった。その当夜、私たちはオーケストラ・ボックスに座って弾く身構えをしていた。開演の時間は刻々と迫ってくる。普段は実に几帳面なクナッパーツブッシュが一向に姿を現さない。おまけに、劇場の関係者の一人がここに来る直前に、平服のまま市立公園のベンチに腰かけている彼を見かけたという。まことに彼は「いかん」という一言を実行に移したのである。そこで大急ぎで連れてこられたフェリックス・プロハスカが、同じく平服のまま、その夜の公演を指揮しなければならなかった」(「栄光のウィーン・フィル」)。
後年、クナッパーツブッシュはバイロイトでヴィーラント・ワーグナーの演出が元でトラブルを起こすが、その前哨戦とも言える出来事だった。
5月7日、ウィーン国立歌劇場。ウェーバー/「魔弾の射手」
8月30日、ザルツブルク音楽祭。シューベルト/交響曲第7番 D.759、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
カラヤンはこの年、ザルツブルク音楽祭に正式に初登場する。オペラでは「フィガロの結婚」とグルック「オルフェウス」を指揮、「オルフェウス」の舞台で、旧岸壁馬術場が初めて使用された。
EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグは自分が契約をしているフルトヴェングラーとカラヤンの仲を取り持つべく、フルトヴェングラー夫妻とカラヤン夫妻をザルツブルクのホテルの個室で食事に招き、「お互いの永遠の友情」を誓ったが、翌日には早くもフルトヴェングラーは音楽祭監督のエゴン・ヒルベルトを呼び出し、「自分が生きている限りカラヤンをザルツブルクから締め出すという条件なら、自分は毎年ザルツブルクで指揮をするから契約しろ」と強い口調で命令し、その通りヒルベルトは契約した。ただ、翌1949年の音楽祭では既にカラヤンは2回のコンサートの契約を済ませており、それを破棄することはできなかった(レッグ&シュヴァルツコップ回想録「レコードうら・おもて」河村錠一郎訳 音楽之友社刊、「音楽祭の社会史」)。フルトヴェングラー対カラヤンの確執は新局面を迎える。
カラヤンとウィーン・フィルはこの年のシーズン中、コンサートで16回共演したが、翌年のシーズンではフルトヴェングラーとカラヤンの確執がさらに激化、ウィーン・フィルはフルトヴェングラーに遠慮をして、カラヤンとは1回もウィーンでは共演できなくなってしまう。
バンベルク交響楽団とバンベルク近郊コンサート
- 9月5日 バド・キッシンゲン ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月6日 バンベルク ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月7日 バイロイト ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月8日 コーブルク ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
9月7日、バイロイト祝祭劇場でバンベルク交響楽団とコンサートツァーの一環として、チャリティ・コンサートを行う。
1947年はセルジュ・チェリビダッケがベルリン・フィルを率いてバイロイトに客演したそうだから(「音楽と政治」)、バイロイト音楽祭復活へのデモンストレーションの意味があったのだろうか。主な目的は、バイロイト祝祭音楽祭の再開に向けての資金集めと音楽家のデモンストレーション、そしてワーグナー家を救うためのチャリティの意味合いが強い。特にこの年に断行された西側占領軍地域でのドイツ通貨改革は、ワーグナー家に致命的といえる損害を与えた。
また、バイロイト祝祭劇場は第2次大戦後、アメリカ兵に娯楽を提供するためのミュージカルやダンス・レビュー劇場と化していた。ヴァーンフリート荘の敷地内にあるジークフリ-ト・ワーグナーの元居館も、1957年までアメリカ軍に接収され、アメリカ軍将校たちが使用した。ワーグナー家のひとたちは出入りできず、週末になるとアメリカ軍将校たちによるダンスパーティが開かれた。ワーグナー家の人々はその様子を横目で見ながら生活するしかなかった。
クナッパーツブッシュにとっては、復活する可能性があるバイロイト音楽祭が視野に入ってのデモンストレーションであったと思われる。さらに、祝祭管弦楽団はさまざまなオーケストラからメンバーが寄せ集められるため、オーケストラ団員にとってもバイロイトの夏はかっこうのアルバイトの場になる。バンベルク交響楽団にとってもよいデモンストレーションの場だった。なによりバンベルクはバイロイトに近い。
9月11日と12日、ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ベートーヴェン/「エグモント」序曲、ベートーヴェン/交響曲第1番、ベートーヴェン/交響曲第5番
第1番の記録が残っている。
バンベルク交響楽団とコンサートツアー再開。
- 9月14日 フュルト ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月15日 ウルム ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月16日 リンドウ ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月17日 フェルトキルヒ ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月18日 ケンプテン ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
- 9月18日 パッサウ ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
9月22日、23日、24日、ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの予約演奏会(定期)。ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲、ワーグナー/「ジークフリート牧歌」、ブルックナー/交響曲第3番
9月26日、バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
バンベルク交響楽団とコンサート
- 9月27日 アウグスブルク ベートーヴェン/交響曲第5番、ブラームス/交響曲第3番
10月、チューリッヒ歌劇場、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(新演出)
10月、チューリッヒ歌劇場、リヒャルト・シュトラウス/「エレクトラ」
リヒャルト・シュトラウスは非ナチ化裁判で第1級有罪を宣告された。高齢であったため強制労働などは免除されたが、財産などは没収された。リヒャルト・シュトラウスはガルミッシュの住み慣れた自宅を離れて、支援者の好意でチューリッヒ郊外のバーデンにある(ウィーン近郊にもバーデンがあるが、こちらはスイスのチューリッヒ近郊のバーデンである)ホテル・フェレンホーフに移り住んだ。ただし支援者がすべての経済援助を行ったわけではなく、書きためた楽譜を担保にホテルはリヒャルト・シュトラウスの滞在を認めていた。
1947年、ロンドンでサー・トーマス・ビーチャムの企画による「リヒャルト・シュトラウス・フェスティバル」が計画された。リヒャルト・シュトラウスは飛行機に乗り、初めてロンドンに渡った。リヒャルト・シュトラウスは10月4日から30日までロンドンに滞在している。フェスティバルは大成功で、経済的に困窮していたリヒャルト・シュトラウスは一息つくことができた。
1948年6月、ドイツはついにリヒャルト・シュトラウスのナチ協力者嫌疑を取り消し、名誉は回復される。スイスだけではなく、敵国家であったイギリスとフランス(フランスでも1949年にリヒャルト・シュトラウス・フェスティバルが企画された。リヒャルト・シュトラウスは重度の膀胱炎のため行けなかったが…)がリヒャルト・シュトラウスの音楽を求め、無視できなくなったからでもある。リヒャルト・シュトラウスがガルミッシュに戻るのは、1949年5月 10日である。1948年10月にクナッパーツブッシュがチューリッヒで「エレクトラ」を指揮した時には、リヒャルト・シュトラウスはまだスイスにいたことになる。リヒャルト・シュトラウスは仲違いをしたクナッパーツブッシュの指揮する「エレクトラ」を密かに見に行ったという(「クナッパーツブッシュの思い出」)。
その後、ガルミッシュに戻ったリヒャルトシュトラウスの85歳の記念行事があり、1949年6月10日ミュンヘンで「ばらの騎士」のゲネプロで第2幕と第3幕のフィナーレを指揮し、13日には「カプリッチョ」から「月光の曲」の放送録音をしたのが、リヒャルト・シュトラウスの活動の最後だった。病状が悪化し、リヒャルト・シュトラウスは9月8日に永眠する(「第三帝国のR・シュトラウス」に記述の多くを負った)。
バンベルク交響楽団とコンサートツアー
- 12月9日 フュルト シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月10日 コーブルク シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月11日 バンベルク シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月12日 オーベルストドルフ シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月13日 メミンゲン シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月14日 チュービンゲン シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
- 12月15日 カールスルーエ シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番
「バンベルク交響楽団がクナーと演奏旅行の準備をしていたときのこと。シューマンの第4交響曲の練習。その第3楽章であるトリオ付きのメヌエットでは、大小のリピートがたくさんあるが、それを行うかどうかの判断は指揮者に委ねられている。
しかし、クナーは指揮しながら、全部のリピートの箇所で「先へ」と言っては省略したので、楽団長が手を挙げて言った。「先生、それではまずいのではないでしょうか。今夜、リピートはどこでするべきか誰もわかっていません。」
そこで、しぶしぶクナーは、個々のリピートの箇所について、正確な指示を与えた。
演奏旅行はシュトゥットガルトでの演奏会から始まった。その晩は、実際2、3人の楽員がリピートすべき箇所を取り違え、演奏はほんの一瞬混乱したが、聴衆にはほとんど気付かれず、すぐにもと通りになった。しかし、この事件にカンカンになったクナーは、指揮台から退場し楽団長の脇を通り過ぎるとき、彼にどなった。「あのクソったれ練習のおかげだな!」
すぐ後、ケルンでもシューマンの第4を演奏したが、この時はクナー自身があるリピートの箇所でわからなくなってしまった。演奏は前のシュトゥットガルトの時と同じく大成功であったのだが、この時もクナーが楽団長にどなった。「あんないまいましいクソったれホールで、もう2度と演奏するもんか!」」(アイトラー、野口剛夫訳編フランツ・ブラウン著「クナッパーツブッシュの思い出」に収録 芸術現代社)
ただし、残念ながら都市名と演目が合っていない。
戦後まもなくのクナッパーツブッシュの逸話として、アイトラーはもうひとつの話を紹介している。
「第2次大戦後、ドイツ全土で食料品がひじょうに不足していた頃のことである。北イタリアの中規模の歌劇場では、方々からかき集めた音楽家で演奏可能な小規模のオペラを上演しており、そこには我が国の市立劇場の楽長も折にふれて客演した。その際、音楽家はたびたびギャラの大部分を食糧品の形で得たが、当時の状況ではそれの方が有り難かったのだ。
そのことを耳にした時クナーは言った。「もし、そこでわが楽員が何か食べられるというのなら、<トリスタン>を5つのツィターと3つのギターでやりますぞ!」」(前掲書)
12月18日と19日、ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ブルックナー/交響曲第8番
12月25日と26日、ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルとイエス・キリスト降誕祭(クリスマス)。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ザックスのモノローグ(ハンス・ヘルマン・ニッセン)、ベートーヴェン/交響曲第7番。この時のベートーヴェン/交響曲第7番の録音さとされるものが残っている。
12月29日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
敗戦国ドイツをめぐる動きも急を告げ始めていた。西側諸国とソヴィエトの確執が深まっていったのである。
4月1日 ソヴィエト、西部ドイツと西ベルリンとの陸上交通規制を強化。西ベルリン封鎖の前兆だった。
4月2日、敗戦国に対する「対外援助法案(マーシャル・プラン)」はアメリカ上下院で賛成採決されていたが、この日、対外援助法調整案が可決され、正式に成立する。この動きに対して、ソヴィエトは東ヨーロッパの支配地域の国々との関係を強化する。
6月20日、ソヴィエトは5月に6月24日ドイツ東部と東ベルリンの占領地域で通貨改革を実施すると発表していたが、アメリカ、イギリス、フランス占領地域でもそれに対抗するように、先駆けてこの日西側ドイツ通貨改革を実施。ライヒスマルクに替えてドイツ・マルクを導入する。
6月24日、ソヴィエト、西部ドイツと西ベルリンとの陸上交通を全面遮断。西ベルリンは完全に封鎖される。
アメリカ、イギリスは西ベルリン封鎖に対抗、大空輸作戦で日用生活品や食糧を大型輸送機で運ぶ。「ベルリンへの架橋」と呼ばれる。この大空輸作戦により、ソヴィエトの西ベルリン封鎖は失敗、翌年5月12日に解除される。