1949年 戦争処理進む

1949年
バンベルク交響楽団とコンサート。前年12月からのシリーズと思われる。

  • 1月3日 フランクフルト シューマン/交響曲第4番、チャイコフスキー/交響曲第5番

 1月6日 アメリカで激しい反フルトヴェングラー・キャンペーンが起こる。
 前年の1948年8月10日、シカゴ交響楽団は次期音楽総監督にフルトヴェングラーの名前が挙がっていると連絡した。
 その当時のシカゴ交響楽団の音楽監督はコロコロと変わった。まず、現代音楽の紹介にも熱心だったデジレ・デフォーという指揮者が首席に就いていたが、シカゴ・トリビューン専属の名物女性音楽批評家クラウディア・キャシディの痛烈な批評もあり1947年に辞任、アルトゥール・ロジンスキーが首席指揮者に就いた。
 ところがロジンスキーは巨額の赤字を出し、首席指揮者の地位を降りることになる(Wikipedia)。シカゴ交響楽団は起死回生策として、ドイツで最も評価の高かったフルトヴェングラーを招聘しようとしたのだろうか?
 フルトヴェングラーはナチ協力者としてのアメリカでの自分の評判があまり良くないことを考え、一旦はシカゴ交響楽団の申し出を断ったが、シカゴ交響楽団側の方が半ば強引に話を進めた。フルトヴェングラーは音楽総監督の話を断り続けたが、シカゴ交響楽団への8週間の客演ということで話がつきそうになった。
 ところが12月14日に、フルトヴェングラーは「もしアメリカに来るのなら、健康の保証はできない」という内容の脅迫電報を受け取る。脅迫状はもう一通きた。さらに、著名な指揮者や演奏家がシカゴ交響楽団に対し、フルトヴェングラーが来るのなら客演の契約をキャンセルすると警告した(オーマンディ、ピアティゴルスキー、ハイフェッツの名前がヴォルフガング・シュトレーゼマン著「ベルリン・フィルハーモニー」香川檀・訳 音楽之友社に挙がっている)。フルトヴェングラーは「汚名を晴らすまで引き下がるわけには行かない」と返事をしたら、1949年1月6日、「ニューヨーク・タイムズ」がユダヤ人演奏家を中心に反フルトヴェングラー・キャンペーンを大々的に展開し始めた。トスカニーニとトスカニーニの娘婿ヴラディーミル・ホロヴィッツは激しくフルトヴェングラーを非難する。フルトヴェングラーはナチ協力者のレッテルを貼られた。
 フルトヴェングラー・ボイコット運動の中にブルーノ・ワルターやフリッツ・ブッシュの名前もあり、フルトヴェングラーは大きなショックを受けてしまう。フルトヴェングラーは、ワルターやブッシュに手紙で真意を確認したりしている。ワルターは反フルトヴェングラー派ではなかったが、「ワルターの手紙」、「フルトヴェングラーの手紙」を読むと、両者はお互いの意見で決裂している。結局、フルトヴェングラーのシカゴ招致はうまく行かなかった。
 このボイコット運動のあと、フルトヴェングラーの猜疑心が強くなり、元々強かった嫉妬心がさらに強まったとも言われている。アメリカにおけるドイツ人指揮者の評価を知る端的な出来事だったといえる。

 戦争犯罪人、いわゆる戦犯はニュルンベルク裁判だけではなく、B級、C級戦犯への裁判と処刑が少し遅れてこの時期に増えた。A「平和に対する罪」、B「通例の戦争犯罪」、C「人道に対する罪」で、A「平和に対する罪」はニュルンベルク裁判で審理され判決が下されたが、各国でユダヤ人強制収容所の関係者や、ナチ以外でもユダヤ人虐殺に加わった者の裁判が行われると同時に、おぞましい強制収容所の実態が明るみに出るようになった。クナッパーツブッシュを陰で応援したベップレが1950年に処刑されているように、次々と関係者は裁判にかけられ、処刑されてゆく。そのユダヤ人虐殺に対する嫌悪感がアメリカでもひとつのピークに達した感があった。
 ただ、元ナチの関係者の中には逃亡したり、証拠が隠滅されたためすぐには事件が明るみに出ず、遙か後年になって裁判が行われたケースもある。アイヒマンのケースがよい見本である。イタリアでは1994年にユダヤ人虐殺の事実が明るみに出て、裁判が行われるということもあった。ナチ政権下での裁判は、ヨーロッパやイスラエルなどの関係諸国では、ひじょうに長いスパンで物事を見なければならない。ユダヤ人に対する大虐殺があったため、日本の戦犯裁判とは大きく異なる点である。

 ここでひとつ問題なのは、そもそもユダヤ人のコロニーがヨーロッパでどのような社会を築いてきたかである。全ヨーロッパ諸国でユダヤ人差別が起こっているわけだから、ヨーロッパに同化しなかったユダヤ人社会と、差別し、挙げ句の果てホロコーストにまでいたったヨーロッパ社会の実情を考察した論考には残念ながらまだ出会えていない。
 また、アメリカがドイツで起こったユダヤ人大量虐殺に、どうしてこれほどまで神経質になり、許せなかったのを知る必要もある。現代に至るまで、生粋のドイツ人指揮者がアメリカの主要オーケストラの首席指揮者になった例はあるだろうか?また、ユダヤ人映画監督スティーヴン・スピルバーグの執拗とも言えるドイツ人に対する悪意の描写の根元も知っておく必要があるのだろう。
 ユダヤ教対ヨーロッパ・キリスト教の歴史の暗部、また、一般的な社会生活におけるユダヤ人の地位まで考えを落とし込んでゆかないと、理解できない事柄なのかも知れない。

 2月1日ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)ワーグナー/「ワルキューレ」
 2月2日、3日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第7番
 2月13日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)ベートーヴェン/「フィデリオ」
 3月5日、6日、7日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、シューベルト/交響曲第7番 D.759
 「未完成」のみ、録音が残っている。

 3月12日ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
 この日、クナッパーツブッシュは61歳になった。
 3月16日、17日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。ヴェルディ/レクイエム
 3月26日、27日、28日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィル予約演奏会。ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・キホーテ」
 4月4日 アメリカと西側ヨーロッパ諸国12カ国はワシントンで北大西洋条約調印。NATO(北大西洋条約機構)発足。ソヴィエトと東ヨーロッパ諸国(フランス、イタリアの共産党も参加していた)のコミンフォルム(ヨーロッパ共産党情報局)と、より対決姿勢を強める。
 4月6日、7日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。アルフレート・ウール/大管弦楽のための4つの狂詩曲(初演)、ブラームス/二重協奏曲(vn:ウォルフガング・シュナイダーハン) / (vc:エンリコ・マイナルディ)、チャイコフスキー/交響曲第5番
 4月9日、10日、11日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。シューマン/交響曲第4番、ブルックナー/交響曲第3番
 4月14日、15日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。J.S.バッハ/「マタイ受難曲」。
この年の復活祭の日は4月17日なので、それにちなんだコンサートだったと思われる。クナッパーツブッシュは第2次世界大戦前、1923年から1935年まで、復活祭の日に「マタイ受難曲」をほぼ毎年振った(12回。1回休んだ年がある)という記録が残っている。さらに1936年から1938年も、ウィーンで毎年「マタイ受難曲」を振った。クナッパーツブッシュは意外なことに、「マタイ受難曲」のスペシャリストでもあった。

 4月20日 コンツェルト・ハウスでウィーン交響楽団のコンサート。ワーグナー/「ジークフリート牧歌」、ドヴォルザーク/チェロ協奏曲(vc:エンリコ・マイナルディ)、ブラームス/交響曲第3番
 4月21日 ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 4月28日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団のコンサート。リヒャルト・シュトラウスの誕生日記念コンサートだった。ただ、リヒャルト・シュトラウス本人は病気のため、参加できなかったものと思われる。リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲、リヒャルト・シュトラウス/歌曲集(イルムガート・ゼーフリート)、リヒャルト・シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」

この年のウィーンで、クナッパーツブッシュはウィーン・フィルとウィーン交響楽団をほぼ互角に振っている。ウィーン交響楽団はフルトヴェングラーの嫉妬に遭い、ウィーン・フィルから離れざるをえなかったカラヤンを獲得、ウィーン・フィルと張り合うまでにその実力を伸ばそうとしていた。クナッパーツブッシュのウィーン交響楽団での数多くの指揮は、そのウィーン交響楽団の攻勢の一環だったのかも知れない。

 5月4日、5日、6日 ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの予約演奏会。ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲(vn:ウォルフガング・シュナイダーハン)、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲、チャイコフスキー/交響曲第5番

バンベルク交響楽団とドイツ北西部へのコンサートツアー。

  • 5月11日 バンベルク コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月12日 ハイデルベルク コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月13日 シュヴェルテ コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月14日 ケルン スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月15日 ボン コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月16日 ヴッパータール コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月17日 デュースブルク スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月18日 デュッセルドルフ コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲
  • 5月19日 ビールフェルト コムツァーク/「バーデン娘」、スメタナ/「モルダウ」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲

 5月12日 ソヴィエト、西ベルリン封鎖を解除。
 5月22日 ハンス・プフィッツナー死去。
 失明し、困窮しているプフィッツナーに救援の手を差し伸べたのはウィーン・フィルだった。ウィーン・フィルハーモニーの楽団長ルドルフ・ハンツルはプフィッツナーの困窮ぶりを見かねて奔走する。シュトラッサーによると、
「ハンツルはオーケストラの一部少数の強硬反対意見を押し切って、このほとんど80歳に達しようとしている老作曲家に私たちの手で生活保障をするのが義務であると説き伏せた」。
 プフィッツナーはウィーン・フィルから毎年支給されることになった「年金」の感謝として、「パレストリーナ」の自筆総譜をウィーンフィルに贈る。ウィーン・フィルに招かれ、1949年3月5日(「ドイツ音楽での一断面」では2月27日)に記念式典として上演された「パレストリーナ」の公演に立ち会うことができた。
 しかし、プフィッツナーはその頃視力を失っており、舞台を見ることができなかった。プフィッツナーは、古くから自分を理解してくれている都市フランクフルトへ80歳の誕生日を祝うために向かっている途中、病気のためザルツブルクに留まらざるを得なくなった。一度病気は癒え、プフィッツナーは退院できた。ウィーン・フィルからザルツブルクでの住居を提供され、5月5日にはプフィッツナーの誕生日を祝う式典がウィーンとザルツブルクで行われている。
 しかしプフィッツナーの体力は著しく損なわれていた。5月22日、プフィッツナーはザルツブルクで肺炎のため死去した(「栄光のウィーン・フィル」「ドイツ音楽の一断面」)。

 5月22日 バイロイト祝祭劇場でミュンヘン・フィルと祝祭演奏会。ワーグナーの誕生日だった。ベートーヴェン /「献堂式」序曲、ワーグナー/「神々の黄昏」よりジークフリートのラインへの旅と葬送行進曲、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕への前奏曲、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
バイロイトの再出発の日、クナッパーツブッシュのベートーヴェン/「献堂式」序曲によって祝祭劇場の再献堂式が行われた。クナッパーツブッシュとミュンヘン・フィルはこの催しに無報酬で参加している。
また、このときクナッパーツブッシュは、ワーグナーをコンサート用の終結部を持った編曲版ではなく、オペラ版のオリジナルを使用した(「ハンス・クナッパーツブッシュ~生誕百年に寄せて~」)。

 5月23日 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府成立。1949年5月8日に「ドイツ連邦共和国基本法」が承認されていたが、同年5月24日に発効。
 6月 チューリッヒ歌劇場に客演。ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。23日前後だったと思われる。
 6月23日 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とのDECCAスタジオ録音。

 当時の大歌手、マリア・ライニングのための録音であったと思われる。

 7月1日、「チューリッヒの新聞でバイロイト祝祭音楽祭のことが話題になり、クナッパーツブッシュもインタビューを受けた記事が載った。
「『ワーグナー指揮者』としてのレッテルについてどう思うか?」と聞かれたクナッパーツブッシュは端的に「わたしのコンサートにいらしたのですか?」と反問した。バイロイトの伝統を直に継承する最後の指揮者であるとの事実を、クナッパーツブッシュはいくぶん誇らしげに指摘した。クナッパーツブッシュはバイロイトの再生に強い関心を注いでいた。(「音楽と政治」)

8月30日 ザルツブルク音楽祭。この日の演奏記録は録音が残っている。

 クナッパーツブッシュのブルックナー/交響曲第7番を聞いていてまず感じることは、その表情、表現がひじょうに厳しいということである。実は、クナッパーツブッシュほど、同曲を厳しく解釈した例というのはあまりない。第1楽章、第2楽章の曲想もあるのか、どこかノスタルジックに演奏されるのが普通である。クナッパーツブッシュの演奏は、その演奏方法を「即興性」というオブラートで包んでいるような所はあっても、じつはかなり深くて重い解釈がなされている。後年の同曲の演奏録音(1963年)と比べても、ほとんど解釈に違いはないので、第8番のように試行錯誤を繰り返したのとは異なり、クナッパーツブッシュは第7番に対してはある程度の確信を持っていたものと思われる。

 9月8日、リヒャルト・シュトラウス死去。
 9月15日、ミュンヘンドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルの大演奏会。ブラームス/交響曲第4番、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
 9月15日、西ドイツ、首相選出選挙で、キリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟、自由民主党の連立政権が成立、コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアーが首相に選出される。初代大統領は自由民主党のテオドール・ホイス。

バンベルク交響楽団とバンベルク近郊コンサート

  • 9月20日 バンベルク ベートーヴェン/交響曲第7番、交響曲第8番
  • 9月21日 エルランゲン ベートーヴェン/交響曲第7番、交響曲第8番
  • 9月22日 バド・キッシンゲン ベートーヴェン/交響曲第7番、交響曲第8番
  • 9月23日 フュルト ベートーヴェン/交響曲第7番、交響曲第8番
  • 9月24日 コーブルク ベートーヴェン/交響曲第7番、交響曲第8番

 9月21日、西ドイツ、各国軍による軍事占領が終わり、連合国高等弁務官府による民政に移行。
 9月22日、バイロイト祝祭音楽祭復活に向けて、「バイロイト友好協会」が発足。
 この時点で、1951年に復活するバイロイト祝祭音楽祭(最初は1950年に開催の予定だったが通貨改革のあおりを受け、資金難だった)へのクナッパーツブッシュの参加がほぼ決まった(「ほぼ」というのは指揮者確定に至るまでまだ揺れ動く要素があり、最終的な確定は1950年3月20日だったからだ)。
 ヒトラーと繋がりの深かったヴィニフレート・ワーグナーは、非ナチ化裁判で軽度犯罪者に格付けされ(無罪を除く4段階の3番目だった。第3級有罪ということになる)、事業を禁止されたため、1949年1月21日に遺産の一切と祝祭音楽祭の運営権をヴィーラントとウォルフガングの二人の息子に譲る署名をしていた。ちなみにナチ党員であったヴィーラントは非ナチ化裁判でヴィニフレートよりさらに下位の「追随者」(第4級有罪)に格付けされた。なお、祝祭劇場の権利はヴィニフレートが所有しており、祝祭に関しては賃貸料をヴィニフレートに支払うという条件があった。(ハンス=ヨアヒム・バウアー著「ワーグナー王朝」吉田真・滝藤早苗訳 音楽之友社)
 10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。ソヴィエトの共産党一党独裁に倣い、社会主義統一党の一党独裁政治が行われる。ブルガリア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、中華人民共和国、アルバニア、朝鮮民主主義人民共和国の共産陣営の国々と国交を樹立、ソヴィエトの衛星国になるとともに、ヨーロッパにおける東側陣営の最前線に位置することになった。
 10月16日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
 10月23日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」

11月初旬から、クナッパーツブッシュはイタリアに客演した。
 11月3日 ベニス・フェニーチェ劇場 ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、ブルックナー/交響曲第7番
(Source : Archives of the theatre as mentioned in its website:form Mr.George Zepos 2011/5/26)
 11月8日 ミラノ・スカラ座。ミラノ・スカラ座管弦楽団。モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(vnアルド・フェッラレシ)、ブラームス/交響曲第3番(第15回秋のシンフォニー・コンサート)
 11月9日 ベルガモ・ドニゼッティ劇場。ミラノ・スカラ座管弦楽団。ミラノ・スカラ座。ミラノ・スカラ座管弦楽団。モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(vnアルド・フェッラレシ)、ブラームス/交響曲第3番
 11月12日 ミラノ・スカラ座。ミラノ・スカラ座管弦楽団。ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、ブルックナー/交響曲第7番(第16回秋のシンフォニー・コンサート)
1. Carlo Gatti Il Teatro alla Scala nella storia e nell’arte (1778 – 1963). Cronologia completa degli spettacoli e dei concerti a cura di Giampiero Tintori. Ricordi 1964
2. www.teatroallascala.org
from Mr.George Zepos(2011/06/4)

クナッパーツブッシュはミラノからローマに向かった。
 11月20日 サンタ・チェチーリア管弦楽団 ブラームス/交響曲第3番、チャイコフスキー/交響曲第5番
 11月23日 サンタ・チェチーリア管弦楽団ベートーヴェン/交響曲第3番、ハイドン/交響曲第88番、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
(www.santacecilia.itMr.Zepos 2011/07/04)

クナッパーツブッシュはさらにフィレンツェに向かう。ずっとイタリアに滞在していたのか、いったんミュンヘンに帰った後なのかは分からない。
 12月4日 テアトロ・コムナーレ。フィレンツェ五月祭管弦楽団。ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」
 12月8日 テアトロ・コムナーレ。フィレンツェ五月祭管弦楽団。ベートーヴェン/交響曲第7番、ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
 12月11日 テアトロ・コムナーレ。フィレンツェ五月祭管弦楽団。ウェーバー/「オベロン」序曲、シューマン/交響曲第4番、ベートーヴェン/交響曲第5番
(I found the following concerts in a book listing concerts and performances
given at the Teatro Comunale in Florence:from Mr.George Zepos 2011/5/23)

 12月19日 ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ブルックナー/交響曲第8番

バンベルク交響楽団とコンサート

  • 12月27日 バンベルク ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」、ゴーツ/ピアノ協奏曲(p:フライヘル・フォン・ゲッスラー)、モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、R.シュトラウス/「ドン・ファン」
  • 12月28日 アウグスブルク ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」、モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、R.シュトラウス/「ドン・ファン」
  • 12月29日 レーゲンスブルク ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」、モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、R.シュトラウス/「ドン・ファン」
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