1964年
1月6日 ミュンヘン、ドイツ博物館コングレス・ザールでミュンヘン・フィルと「公顕の日コンサート」。ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番(p:アンドール・フォルデス)、シューマン/交響曲第4番
1月15日、16日 ミュンヘン、ヘラクレス・ザールでミュンヘン・フィルの予約演奏会。リヒャルト・シュトラウス/「死と変容」 、ブルックナー/交響曲第3番 。録音が残っている。このコンサートが、ミュンヘン・フィルとの最後のコンサートになった。
1月22日 バイエルン州立歌劇(国民劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
ミュンヘン国民劇場再建後、クナッパーツブッシュは初めて国民劇場でオペラを振る。
2月末 西ドイツ司法省、オデッサ・ファイルを匿名の告発者から送られ、ナチ戦犯の追及に活用開始。
戦後19年が経過しようとしていたが、まだ第2次世界大戦の精算は終わっていなかった。
3月2日 バイエルン州立歌劇(国民劇場) ベートーヴェン/「フィデリオ」
(実はこの日、クナはBPOに客演する予定でした。結局この客演はキャンセルされ、彼の代わりにはルーマニア出身のジョルジェスクが、もともと予定されていた曲目を指揮しています(この件に関しては、ウォルフガング・シュトレーゼマン「ベルリン・フィルハーモニー」に記載あり、クナッパーツブッシュは病気を理由に断ったとある--Syuzo註)。
同日にミュンヘン公演が組まれているのを見ると、スケジュール決定後の比較的早い時期にキャンセルしたと思われます。通常、オペラは歌手の手配などの関係から、かなり前からでないと公演を組めません。ましてやキャンセルした公演のその日にミュンヘンで指揮しているのであれば、BPOキャンセルの理由が病気ではないことは自明です。
ちなみにこの「フィデリオ」、前年のミュンヘン国立劇場再開記念に新演出されたものでこの時の指揮はカラヤンです。彼はミュンヘンへの客演は極めて少なく、ベルリンやウィーン、ザルツブルクといった大音楽都市を勢力下に収めた「音楽の帝王」の彼ですらクナやベームら巨頭が君臨する保守派の牙城ミュンヘンでは完全に勢力圏外であったことが分かります。)(Thanks 野村さん)
3月12日 クナッパーツブッシュは76歳になった。
4月11日、12日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲、ブルックナー/交響曲第4番。ブルックナー/交響曲第4番は録音が残っている。このコンサートが、ウィーン・フィルとの最後のコンサートになった。
6月19日 バイエルン州立歌劇(国民劇場)、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」
Westminsterの「フィデリオ」国内盤LPに、解説を書かれた福原信夫氏によると、6月23日、国民劇場でクナッパーツブッシュの「フィデリオ」を鑑賞したという記載がある(記録にはこの日の公演は見えない)。福原氏は、演出監督ルドルフ・ハルトマンの席で「フィデリオ」を鑑賞した。
「クナッパーツブッシュはオーケストラの係りの人に抱きかかえられるようにして指揮台にのぼり、客席に拍手に見向きもせず、指揮棒を目の前あたりにかまえた。それは決して大きなアインザッツではなく、まるで中気で手が震えているとでも形容してよいほどの小さな指揮ぶりだったが、その音のいかに強大で緊張度のあふれるホ長調、アレグロの冒頭であったことか。たしかに晩年の彼の指揮は、椅子に腰かけたままで決して大きな指揮棒の動きはなかったけれども、密度の極めて濃い充実したひびきと、ゆったりとして充分にテヌートのきいた音の構成は実に圧巻であった」
さらに福原氏は「フィデリオ」終演後、クナッパーツブッシュと話をした。
「『日本という国はいちど行ってみたい国だ。だがもう健康が許さないだろう』という彼の頭の中には、日本がまるで『おとぎの国』のように映っていたようだ」(ビクター音楽産業「フィデリオ」VIC-5205-7ライナーノートから)
7月6日 バイエルン州立歌劇(国民劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
この公演が、バイエルン州立歌劇での最後の公演となった。
7月21日から8月13日 バイロイト祝祭音楽祭。
- 7月21日 ワーグナー/「パルジファル」
- 7月29日 ワーグナー/「パルジファル」
- 8月7日 ワーグナー/「パルジファル」
- 8月13日 ワーグナー/「パルジファル」
クナッパーツブッシュ、最後のバイロイトであり、生涯で最後の公演となった。「ニーベルングの指環」を初登場のベリスラフ・クロブチャール、「トリスタンとイゾルデ」をベーム、「タンホイザー」を初登場のオトゥマール・スウィトナー、「ニュルンベルクのマイスタージンガーン」を第2次世界大戦前のバイエルン州立歌劇音楽総監督時代の部下だったロベルト・ヘーガーとベームが分け合った。
7月21日か8月13日とされる録音が残っている。Arkadia、Golden Melodram、Orfeoからリリースされていて、Golden melodram盤はラジオでライヴが放送された7月21日、Orfeo盤が8月13日の録音ではないかと期待を持たせたが、オーディエンス・ノイズや会場ノイズをチェックしてゆくと、残念ながら同じ録音であることが分かる。クナパーツブッシュ、生涯最後の録音が「パルジファル」であったということは、クナッパーツブッシュ本人にしてもファンにしても、どこか象徴的である。
9月29日か30日 クナッパーツブッシュはその長身の身体を支えきれず、自宅で転倒、大腿骨を骨折する。
9月30日 手術を受ける。
12月初旬 退院はするものの、快癒とは行かず、自宅で療養を続ける。(「音楽と政治」)
1965年
3月12日 療養中のクナッパーツブッシュは77歳になった。
4月28日 クナッパーツブッシュは医師の忠告に従い、この年のバイロイト祝祭音楽祭への参加を断念したことが新聞に公表された。
さらにバイエルン州立歌劇で、歌手ハンス・ホッターが演出し、出演する「さまよえるオランダ人」をクナッパーツブッシュが振る予定だった(ホッターの回想録では、美術監督はホッターの友人であったグンター・シュナイダー-ジームセンで、クナッパーツブッシュはヴィーラント・ワーグナーやハリー・バックウィッツの演出を嫌い、「そうでないことを願うよ」と語っていたという)。
10月25日 77歳で永眠。死因は急性の心臓および循環不全。(「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」)
カルショーはショルティ、ウィーン・フィルとブルックナー交響曲第7番の録音セッションを行っているときに、クナッパーツブッシュの訃報に接した。2回目のセッションの初めに、シュトラッサーがウィーン・フィルに訃報を告げ、起立と黙祷を呼びかける。ショルティはオーケストラに向かってクナッパーツブッシュへの思いを話した。
「つけ加えることができるのは、個人的な思い出だけです。戦争の後、私がミュンヘンで[音楽監督の]地位を得たことに対して憤慨すべき理由を持った人々の中でも、誰よりも多くの理由を持った人物が一人いました。ハンス・クナッパーツブッシュです。未熟だった頃の私を、本当に助けてくれた人物が一人いました。ハンス・クナッパーツブッシュです。彼は私にとっては父です……」(「ニーベルングの指環 リング・リザウンディング」)。
10月28日 埋葬式。
ミュンヘン、聖ゲオルグ協会に隣接するボーゲンハウゼン墓地に埋葬される。ごく近しいひとのみ、20名程度が埋葬式に参列した。
10月31日 バイエルン州立歌劇で、クナッパーツブッシュ追悼式。
マインハルト・フォン・ツァリンガー指揮でブラームス交響曲第3番第3楽章、ロベルト・ヘーガーの指揮で「パルジファル」より(おそらく)第1幕への前奏曲か聖金曜日の音楽、ヨーゼフ・カイルベルトの指揮で「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」が演奏された。
11月11日 ウィーン・フィルはクナッパーツブッシュ追悼コンサートを行う。
ウィーン楽友協会ホールで行われ、ショルティが指揮を受け持ち、「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」とブルックナー交響曲第7番第2楽章「アダージョ」を演奏した。
1945年にヒトラーが死んだ後、北ドイツ放送は「ジークフリートの葬送行進曲」とブルックナー/交響曲第7番第2楽章を流してヒトラーの死を発表した。クナッパーツブッシュも同じ楽曲でウィーン・フィルから追悼された。何とも皮肉な選曲だが、生涯にわたり、なにかとクナッパーツブッシュとヒトラーは関わりがあった。
11月17日 ミュンヘン市議会は旧市庁舎でクナッパーツブッシュ追悼式典を行う。
ロベルト・ヘーガーが指揮を受け持ち、ミュンヘン・フィルとモーツァルト「セレナーデ」第10番から「アダージョ」、リヒャルト・シュトラウス「メタモルフォーゼン」を演奏した(「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」)。
ベルリンでそのような催しがあったのかどうかは分からない。
翌年1月、マリオン未亡人は故人の遺志ということで、クナッパーツブッシュの使っていたスコア(総譜、ピアノスコア)など200点あまりをミュンヘン市の音楽図書館に寄贈する。また、クナッパーツブッシュの日記の類(書いていたかどうかは分からない)、書簡などは故人の遺志ということで廃却されたらしい。
マリオン未亡人は、1984年1月29日に亡くなった。クナッパーツブッシュに関する取材やインタビューは一切受け付けなかったそうだ。ただ、1度だけバイエルン放送局のテレビの撮影には応じ、犬を散歩に連れて歩くマリオン未亡人の姿がカメラに収められた。
ミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地にある質素な錬鉄製の墓には、ふたつ並んだ円盤が取り付けられている。1965年12月に、記念墓碑を制作したいとミュンヘン市から申し出があったが、マリオン未亡人は故人の意志に反するということで、その申し出を断ったそうである。クナッパーツブッシュの死後、その一つには、しばらくクナッパーツブッシュの名前だけがあったが、その隣の円盤にもマリオン夫人の名前が刻み込まれた。(以上、「音楽と政治」)