第1次世界大戦で記録の見えないクナッパーツブッシュだが、René Trémineのデータに、1916年5月3日の記録がある。
1916/05/03 ワーグナー/「ワルキューレ」 アルンヘムのオーケストラでの指揮だった。この記録が正しければ、おそらくエルバーフェルト劇場の支配人、アーサー・フォン・ゲルラッハの企画によるものと思われる。翌年にも、同様の公演が行われ、軍務についているはずのクナッパーツブッシュを指揮者に担ぎ出すことに成功しているからだ。 (René Trémine’s data)
戦場でヒトラーは犬を飼っていた。1915年の年始め、膠着状態の戦線でイギリス兵が飼っていた犬が、野ネズミか何かを追っかけて、ドイツ軍陣地に紛れ込んだらしい。
ヒトラーはその犬をつかまえ、仕込んでいった。犬は最初抵抗したらしいし、英語しか分からないようだったが、ヒトラーの粘り強い教育で、徐々にヒトラーの飼い犬になっていった。犬は「フクルス」と名前を付けられ、昼も夜もヒトラーのそばを離れなかった。フクルスはヒトラーにとっては、戦場での慰み以上の存在であったようだ。
1916年初夏、ヒトラーの部隊はベルギーとフランスの国境にある海岸地帯のイープルから、南方のフロメルに転戦する。むろん、フクルスも一緒だった。ソンムの戦いと呼ばれ、ここもまた激戦地だった。イギリス軍による秘密兵器であった戦車が戦場に初めて投入された機甲戦最初の戦場でもあった。戦闘は泥沼の中で行われ、イギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、勝敗は決しなかった。
何度も死地をくぐり抜けてきたヒトラーだったが、10月7日の夜、ついにこの地で負傷する。伝令兵たちが休むトンネルの入り口付近で砲弾が炸裂し、伝令兵たちをなぎ倒した。ヒトラーは大腿部をやられる。この負傷によって、後部陣地の野戦病院、次にドイツに移送され、ベルリン南西部にある病院に収容された。フクルスは残念ながらヒトラーには同行できず、戦線でヒトラーの戦友たちの手に委ねられた。そして、ドイツ国内への移送によって、ヒトラーに新たな目覚めが起こる。戦場での現実と、ドイツ国内の現実の大きなギャップに失望を感じ、怒りを持ったからである。
恐らく、その時の失望感が後々のヒトラーの考えや行動に現れてくる。それほど、第1次世界大戦の体験は生々しかったのだ。ある意味、ヒトラーの思想は、この戦争によって培われたといっても過言ではない。
まず後部陣地の野戦病院で衝撃を受けたのは、ドイツ人看護婦のドイツ語だった。ヒトラーは2年ぶりにドイツ人女性の声を聞き、失神するに値するほどの衝撃を受けた。さらに、他の負傷兵と一緒に列車に乗ってドイツ国内に帰ったときの感激はひとしおだった。「高い破風と美しい鎧戸、それはまぎれもない祖国だった」(「我が闘争」、トーランド本)。
ヒトラーはドイツ国内の病院で、真っ白なシーツが敷かれたベッドに寝ていいものかどうかさえ逡巡したという。ヒトラーがドイツに帰国して期待したのは、ドイツ国内での市民達の、同じ戦争を戦っているという一体感だった。
ところが、その期待は物の見事に裏切られる。まず、同じ病院に入院している負傷兵たちのすべてが、自分と同じように戦場で傷ついたのではないということの現実だった。
戦線から離脱するために、わざと自分を傷つけた兵士、それを誇らしげに吹聴する姿を見て、その兵士が何の罰も受けなかったことに対する憤懣、そしてドイツ国内に蔓延する厭戦気分に「最前線の兵士は、なにを後ろ盾に戦っているのだろう?」という疑問がヒトラーの胸中に湧き起こる。
退院を許可されたヒトラーは、ベルリンから補充大隊に合流するため、ミュンヘンに行く。そこで、愛国心に燃え、ドイツの勝利を信じて疑わないヒトラーは、さらにひどい現実を知ることになる。
戦争を起こした北部ドイツ、いわゆるプロイセンに対するバイエルン人の反感である。ミュンヘンでは、いわゆるバイエルン分離主義が声高に言われ、大ドイツのために戦争が行われているという理想からは、その意見はずいぶんとかけ離れていた。
ヒトラーは元々バイエルン分離主義には反対だったが、負傷してミュンヘンに行くことによって、そのバイエルン分離主義にたいする確固とした反対意見がますます強固になった。
そして、「我が闘争」によると、その厭戦気分やバイエルン分離主義を煽っているのはユダヤ人だと言うことになる。ただ、この当時のヒトラーの反ユダヤ主義は、「我が闘争」が口述筆記された後年の思想に、第1次世界大戦の記憶を対応した帰納的な部分もある。当時の上官や戦友たちは、戦線でヒトラーのそのような反ユダヤ主義の意見を聞いたことがないという。