1917/01/01 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 エルバーフェルト新演出 クナッパーツブッシュは新年の休暇が取れたのか? Günther Lesnig’s DATA
ベルリンはおろか、ミュンヘンでも大きな失望感を味わったヒトラーは原隊への復帰を願い出て許可される。ミュンヘンの補充部隊では厭戦気分を漂わせた新兵が多く、古参兵になっていたヒトラーには馴染めなかった。戦場での原隊が、ヒトラーにとって我が家のようなものだった。オーストリア人ヒトラーが故郷としたドイツは、ヒトラーの理想からはほど遠い国に変貌してしまっていた。
1917年3月1日、原隊に復帰したヒトラーを、フクルスは半ば狂ったように出迎え、戦友達も暖かく迎えた。ヒトラーの当時の階級は伍長である(上級上等兵としている資料も多い)。もう少し昇進していても良かったはずだが、「指導力のなさ」を言われ、伍長以上に昇進していない。また、昇進できなかった、あるいはしなかった理由として、ヒトラーが伝令兵という危険な任務を好んだこと(本来は伍長でも伝令兵のままでいることはできなかったが)、ヒトラーに伝令兵をやめられると、連隊は最優秀な伝令兵を失うことになるため、そのままの階級にしておいたということもあったようだ。当のヒトラーは伍長のまま、好きで危険な任務をこなすことに何の不満も持っていなかったようだ。トーランド本によると、ヒトラーは無類の風呂好きで、風呂に入らない戦友を「歩く糞堆」とあざけりながら、自分は軍靴を磨くことが嫌いで、上官を上官とも思わない態度を取り、その恰好はだらしなかったという。風呂好きな最前線の古参兵という趣だった。
ヒトラーが戦線に復帰した当時のミュンヘンは状況がひじょうに悪かった。特に食糧事情が極めて悪く、1917年にワルターが新しく雇った家政婦は配給を厳しく守って食事を出したため、ワルターの二人いる下の娘は栄養失調に罹ってしまった。ドイツ国内の食糧事情の悪さは相当なもので、犬や猫(「屋根の上の兎」)を食い、おがくずとジャガイモの皮でパンが作られた(トーランド本)。それでもワルターはミュンヘン宮廷歌劇場の水準を維持すべく、奮闘する。ワルターはウィーンにもたびたび呼ばれて客演したが、ウィーンの食糧事情もまたドイツ以上に悪かった。ドイツの同盟国であるオーストリア政府は、ドイツ政府に穀物援助を要請している。
ワルターはミュンヘンからウィーンへの旅には鉄道を利用した。
「壊れた窓を板で覆った暖房もない夜行列車に乗って、凍えるような目にあったこともある」(「主題と変奏」)と、当時の旅行事情について書いている。
ヒトラーが戦場に復帰し、ワルターが宮廷歌劇場でがんばっている間、クナッパーツブッシュは何をしていたのだろう?3月3日と10月15日にロッテルダムでワーグナーの楽劇を振ったことになっているが、詳細は分からない。軍隊生活の続くクナッパーツブッシュは、軍楽隊の指揮、ブランデンブルク門から王宮への行進を送る毎日だったのだろうか。
René Trémineのデータに記載があった。エルバーフェルト劇場の支配人、アーサー・フォン・ゲルラッハによる戦時下の企画であったようだ。
1917/03/08 ワーグナー/「ジークフリート」 アルンヘムのオーケストラ ロッテルダム アーサー・フォン・ゲルラッハの企画した舞台だった。
1917/10/15 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ユトレヒトのオーケストラ ロッテルダム アーサー・フォン・ゲルラッハによる「グランド・オペラの夜」と題された企画だった(”NEDERLANDSE OPERA – Annalen van de Operagezelschappen in Nederland 1886-1995″による。Trémine’s DATAでは17日になっている)。(René Trémine’s DATA)
ヒトラーの部隊は1917年の初夏、3度目になるイープル争奪戦に投入されたが、両軍とも多大な犠牲を強いられつつ、戦線は膠着状態だった。8月、ヒトラーの部隊は他の部隊と交替し、休養することになった。その時、フクルスはその芸当に惚れ込んだ鉄道員に盗まれ、絵の道具は他の部隊に所属する補充兵に盗まれた。「前線兵士は戦友のものを盗んだりしない」(トーランド本)。それ以来、ヒトラーは絵を描くことをやめた。
そして、その間にロシアで「ロシア革命」が起こる。飢饉による食糧事情の悪化、戦争による窮乏状態を強いられてきた市民や兵士に厭戦気分が高まり、ロマノフ王朝打倒ののろしが上げられた。3月に起こった革命だが、当時ロシアで用いられていたユリウス暦の2月だったため、2月革命と呼ばれる。革命は鎮圧されたが、ニコライ二世は退位、ロマノフ王朝は終焉を迎える。ロシアでは暫定政府が樹立されたが、いよいよレーニンがモスクワに入り、ボリシェヴィキによる10月革命(11月革命)が起こる。
ロシアの地は広大で、対ドイツ戦線に次から次へと兵士は送り込まれた。ドイツは勇敢に戦ってはいるものの、無尽蔵のロシア兵に、いずれドイツ軍兵士の数は対抗できなくなり、敗北する運命にあったとヒトラーは「我が闘争」に書いている。西部戦線で戦っているヒトラーだったが、ロシアの真綿で首を絞めるかのような恐怖、その体重でいずれはドイツを圧死させるかも知れない恐怖を、一兵士であるヒトラーも感じ取っていたようだ。そのロシアそのものへの恐怖がユダヤ人=ボリシェビキに対する根元的な恐怖に繋がり、後年のユダヤ人絶滅、ソヴィエトへの電撃作戦へと繋がっていったと言っても過言ではないのかも知れない。その恐怖を、より具体的に煽ったのがアルフレート・ローゼンベルクだが、ヒトラーとロ-ゼンベルクが知り合うのはまだ後年のことだ。
ドイツは新生ソヴィエトと和平工作を行うが失敗する。そのためドイツ・オーストリアの食糧事情は悪化の一途をたどり、ウィーンとブダペスト(オーストリア=ハンガリー帝国だった)でストライキが勃発、そのストライキがドイツにも影響し、1918年1月のドイツ革命騒ぎに波及していった。