1919年 ライプツィヒ時代とデッサウ時代

 クナッパーツブッシュの、ライプツィヒ時代やデッサウ時代のことはほとんどわからなかったが、René Trémine’s DATAのおかげで、かなり知ることができるようになった。

1919/01/03 ダルベール/「低地」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/12 ゴルトマルク/「シバの女王」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/13 ビゼー/「カルメン」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/19 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/21 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/25 ワーグナー/「タンホイザー」 新劇場, ライプツィヒ
1919/01/31 ワーグナー/「ジークフリート」 新劇場, ライプツィヒ
1919/02/11 ワーグナー/「タンホイザー」 新劇場, ライプツィヒ
1919/02/18 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 新劇場, ライプツィヒ
1919/02/22 ダルベール/「低地」 新劇場, ライプツィヒ
1919/02/24 ワーグナー/「ローエングリン」 新劇場, ライプツィヒ
1919/03/12 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 新劇場, ライプツィヒ
(René Trémine’s DATA)

 1919年になり、クナッパーツブッシュはローゼの元を離れる決心をした。周りもすでにクナッパーツブッシュがライプツィヒを離れる可能性があるということに言及していたようだ。奥波本に詳しいが、かいつまんでみる。
 まず、クナッパーツブッシュの代用指揮者スツェンドライの処遇があった。クナッパーツブッシュが復帰したからといってすぐに解雇するわけにも行かず、ましてやローゼはスツェンドライを可愛がっていたようだ。そのまま、指揮者としてライプツィヒに置いておきたい意向があった。そうなると、公演回数や人件費の問題が絡み、ライプツィヒ市長はクナッパーツブッシュがそのままライプツィヒで満足していることができず、去ってしまうのではないかと危惧している。もともと、クナッパーツブッシュはローゼの教え子であり、軍役を離れて面倒を見てもらったため、ローゼには決定的に反抗できなかったかも知れない。
 しかし、「個室をくれ、もっとリハーサルをさせてくれ、キャスティングにも参加させてくれ」という要求を恩師に言えるほどだから、ローゼとは疎遠ではなかったようだ。クナッパーツブッシュはライプツィヒで人気を博し始め、ローゼは自分の立場をどのように保つのか、思い悩み始めていたのかも知れない。「この生意気な若者をどうしよう?」というところである。クナッパーツブッシュは人気があったから、追いだしたのでは自分の名声に傷が付く。
 たまたま、ライプツィヒからそう離れていないデッサウのアンハルト宮廷劇場で、音楽総監督のフランツ・ミコライ(1873/6/3-1947/5/11)がその独裁的なオーケストラの運営の方法のため楽団員から反発を食らい、退任するという出来事が持ち上がっていた。
 ローゼはクナッパーツブッシュに、「デッサウに空きができた」ことを伝え、オーディションを受けてみることを勧める。そこで実力を試し、うまく行けば「この生意気な若者」を追い払えるということだったのかも知れない。ローゼもデッサウにクナッパーツブッシュを推薦した。
 デッサウのオーディションにはかなりの応募者があり、その中には作曲家で「パレストリーナ」を成功させた元シュトラスブルク市立歌劇場音楽監督ハンス・プフィッツナーの名前もあった。シュトラスブルクは第一次世界大戦のドイツの敗北でフランス領になってしまい、読み方もシュトラスブルクからフランス風のストラスブールに変わっていた。プフィッツナーはシュトラスブルクを離れ、親友パウル・ニコラウス・コスマンの庇護を受けミュンヘンに戻っていた。プフィッツナーもまた、新たな職を探していた。
 ただ、プフィッツナーの気位は高く、デッサウでの年俸や処遇とは折り合わなかったのかも知れない。
 オーディションの申し込みから、実際に宮廷劇場や劇場の管弦楽団を指揮して実技試験を受けることができたのは、クナッパーツブッシュとリューベック劇場の音楽監督だったヘルマン・ヴェッツラーのふたりだった。
 まず、ヴェッツラーの方から試験が開始されたが、芳しい評価は得られなかった。
 クナッパーツブッシュは3月17日、アンハルト宮廷劇場の最初のオーディションを受ける。宮廷楽団を指揮し、曲目はワーグナー「リエンツィ序曲」、スメタナ「モルダウ」、チャイコフスキー交響曲第六番「悲愴」だった。次にオペラで、3月19日、演目はワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だった。恐らく、「ニュンベルクのマイスタージンガー」の後には、ほぼクナッパーツブッシュに決まっていたと推測できる。
 クナッパーツブッシュはデッサウのオーディションに臨みながら、ライプツィヒでの公演もこなしていた。大忙しだった。


【アルフレート・スツェンドライ Alfred Szendrei】(1984/2/29-1976/3/3)
 スツェンドライはハンガリーに生まれ、ヨーロッパ各地、アメリカ各地でコレペティートルを経験した後、クナッパーツブッシュが病気の時にライプツィヒに雇われたようだ。指揮者としては優秀で、クナッパーツブッシュの代演を見事に果たした。クナッパーツブッシュ離任後、1924年に正式にライプツィヒ市立歌劇場の指揮者に就任している。
 ただ、スツェンドライはユダヤ人だったため、ナチ政権掌握後はドイツを離れ、一時フランスで活動、フランスが占領されそうになるとアメリカに逃れている。アメリカではアルフレッド・センドレイと名乗り、国務省で翻訳の仕事をしたり、大学で教鞭を取ったり、オルガニストとして活動した。アメリカに渡ってからはユダヤ人としてのアイデンティティを大切にし、シナゴーグの音楽監督やロサンゼルス大学でユダヤ音楽の研究と教育を行った。ロサンゼルスにて没。

1919/03/17 ワーグナー「リエンツィ序曲」、スメタナ「モルダウ」、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」 デッサウ(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)
1919/03/19 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)
1919/03/21 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 新劇場, ライプツィヒ
1919/03/24 ビゼー/「カルメン」 新劇場, ライプツィヒ
1919/03/29 ベートーヴェン/「フィデリオ」 新劇場, ライプツィヒ
1919/04/01 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
(René Trémine’s DATA)

 デッサウでのオーディションの最後は少し日をおき、3月31日、宮廷楽団のコンサートで、オール・ベートーヴェン・プログラムを指揮する。「エグモント序曲」、ヴァイオリン協奏曲(Julian Gumbert)、交響曲第5番「運命」だった。ピアノの伴奏でのオーディションもあったらしいが、詳細は伝わっていない(奥波本)。
 クナッパーツブッシュへの評価はひじょうに高かった。「生まれながらの指揮者」、「作品をみごとに掌握している」、「真の芸術家気質」と、新人指揮者にはもったいない評が並べられている(奥波本)。
 また「軽快なテンポ」で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮、オーケストラも「大いなる理解と共感をもって、クナッパーツブッシュの意図のすべてに応じることができた」とある(奥波本)。
 クナッパーツブッシュはデッサウでのオーディションを受けながら、ライプツィヒでも指揮をこなした。「リハーサルの時間をもっとくれ」と言ったからか、予定していた「ニーベルングの指環」の指揮をはずされてしまったが、3月19日のオーディションの後、3月21日ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」、3月24日ビゼー/「カルメン」、3月29日ベートーヴェン「フィデリオ」をライプツィヒで指揮している。ライプツィヒの聴衆には秘密裏にデッサウでのオーディションに望んだらしい。
 クナッパーツブッシュの実力、ローゼの推薦が物を言い、クナッパーツブッシュはデッサウ・アンハルト宮廷劇場の音楽総監督の座を射止めることができた。デッサウに就任すると収入も増える。ライプツィヒで6000マルクであった年俸が、デッサウでは年俸15000マルク+コンサート報酬2400マルクになる。ちょうどエレン夫人は懐妊中で、経済的にもクナッパーツブッシュは潤うことになった。
4月3日には、ライプツィヒ市立歌劇場から離任の申し出が受理され、離任までの間、クナッパーツブッシュはライプツィヒとデッサウ両方の歌劇場で指揮をした。4月15日からクナッパーツブッシュは次期音楽総監督としてデッサウで「ニーベルングの指環」チクルスを指揮している。

1919/04/10 シューベルト/「軍隊行進曲」,R.シュトラウス/「ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら」, J.シュトラウス/「こうもり」序曲. デッサウ
1919/04/15,20,22.&30 ニーベルングの指環 デッサウ
1919/05/17 ベートーヴェン/「フィデリオ」 新劇場 ライプツィヒ
1919/05/22 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 新劇場, ライプツィヒ
1919/05/25 ベートーヴェン/「フィデリオ」(一般労働者のための14時からの公演だった) 新劇場, ライプツィヒ
1919/05/29 ワーグナー/「ローエングリン」 新劇場, ライプツィヒ
1919/06/15 ワーグナー/「ジークフリート」 新劇場, ライプツィヒ
1919/06/24 ワーグナー/「ローエングリン」 新劇場, ライプツィヒ
1919/06/29 フンパーディンク/「王様の子供たち」 新劇場, ライプツィヒ
(René Trémine’s DATA)

 クナッパーツブッシュが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮していた5月22日に、エレン夫人はクナッパーツブッシュの一人娘となるアニータを出産した。
 デッサウに去ることが決まっても、クナッパーツブッシュはライプツィヒでの数多くの公演をこなしていた。6月29日にライプツィヒ市立歌劇場で「王様の子供たち」を指揮したのが、ライプツィヒでの最後の公演となった。翌30日に、クナッパーツブッシュはライプツィヒを正式に離れている。
 クナッパーツブッシュは7月1日、デッサウで1922年6月30日までの契約を交わす。クナッパーツブッシュのデッサウでの音楽監督(まだ立場的には音楽総監督「見習い」だった)としてのデビューは10月1日、「タンホイザー」からである。クナッパーツブッシュ着任の頃、アンハルト宮廷劇場はドイツ革命で帝政から共和制に変わったため、フリードリヒ劇場に名前を変えていた。デッサウは街の規模こそライプツィヒには遠く及ばないものの、1885年に完成した立派な歌劇場があり、北のバイロイトとも呼ばれた。ちなみにライプツィヒ市立劇場のキャパシティは1,900名であったのに対し、フリードリヒ劇場のキャパシティは1,245名だった。

1919/10/01 ワーグナー/「タンホイザー」 デッサウ
クナッパーツブッシュは、シーズン中7回のシンフォニーコンサートを指揮した。
1919/10/10 ワーグナー/「タンホイザー」 デッサウ
1919/10/12 マスカーニ/「カヴァレリア・ルスティカーナ」, レオン・カヴァレッロ/「道化師」 デッサウ [Trémine DATAにはレオンカヴァレッロの名前は記載されていない]
1919/10/18 マスカーニ/「カヴァレリア・ルスティカーナ」, レオン・カヴァレッロ/「道化師 デッサウ [Trémine DATAにあるのは「道化師」だけである]
1919/10/26 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 デッサウ
1919/10/30 I. シンフォニック・コンサート バウスネルン/「若者の交響曲」, R.シュトラウス/「谷」 (Oskar Lassner), プフィッツナー/座敷童子 (Lassner)、- デュカ/「魔法使いの弟子」 デッサウ
1919/11/02 プッチーニ/「ラ・ボエーム」 デッサウ
1919/11/07 プッチーニ/「ラ・ボエーム」 デッサウ
1919/11/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 デッサウ
1919/11/19 II. シンフォニック・コンサート: ベートーヴェン/交響曲第7番, ブラームス/ピアノ協奏曲第1番 (Walter Kauffmann), R.シュトラウス/「死と変容」 デッサウ
1919/11/21 ワーグナー/「ワルキューレ」 デッサウ
1919/12/01 ベートーヴェン/交響曲第5番, フィデリオよりアリア(Bertha Schelper), レオノーレ序曲第3番 & コリオラン序曲 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1919/12/03 ベートーヴェン/「フィデリオ」 デッサウ
1919/12/07 ヴェルディ/「仮面舞踏会」 デッサウ
1919/12/11 ポピュラーコンサート: チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」, ホリー&トーマス/ハープのための2つの小品 (Otto Weise) – ワーグナー/「さまよえるオランダ人序曲 デッサウ
1919/12/16 チャイコフスキー/交響曲第6「悲愴」 – アウゴスト・エナ/「クレオパトラ」序曲, R.シュトラウス/「死と変容」 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1919/12/18 ヴェルディ/「仮面舞踏会」 デッサウ
1919/12/25 フンパーディンク/「王様の子供たち」 デッサウ
1919/12/27 ユリウス・ビットナー/「地獄の金」 デッサウ
1919/12/28 プッチーニ/「ラ・ボエーム」 デッサウ
1919/12/30 III. シンフォニック・コンサート: ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」, トール・アウリン/ヴァイオリン協奏曲 (Fritz Frier) – ウェーバー/オベロン序曲. デッサウ [アウリンのヴァイオリン協奏曲は第2番か第3番であったはずで、第1番ではない]
(René Trémine’s DATA)

 ベルリンではローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトによるスパルタクス団の主唱するゼネラル・ストライキが1月6日に起こり、革命騒ぎへと拡大していった。社会民主党のエーベルトは分散していた義勇軍(フライコール)の組織を統轄して政府が認可し、左翼革命を鎮圧する。国防大臣には自ら「警察犬」と称していたグスタフ・ノスケが任命された。1月15日には、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは義勇軍に捕まり、惨殺される。2月6日エーベルト政権は混乱するベルリンから、ドイツ国民議会をヴァイマル(ワイマール)へと移す。以後、ドイツはヴァイマル共和国(ワイマール共和国)と呼ばれる。
 一方、ミュンヘンでは2月21日、バイエルン共和国首相になっていた独立社会民主党のクルト・アイスナーが、アントン・アルコ=ヴァレー伯爵によって暗殺される。アイスナーはボリシェビキではなく、急進的民主主義者といえる思想の持ち主だったようだが、左右両派から利用されただけで、すでに早くも支持基盤を失いしつつあった。ヴァレー伯爵は騎兵隊将校で国粋主義者だったが、母親がユダヤ人で同じ国粋主義者の反ユダヤ主義者から疎外されていた。ヴァレー伯爵はこの後に名前が出てくることになる国粋主義で人種主義者の思想団体「トゥーレ協会」に属していたが、ユダヤ人の血が混じっているということで除名されていた。アイスナーが首相退任の辞任声明を持って議会に向かう途中、ヴァレー伯爵に暗殺された(トーランド本)。ヴァレー伯爵のアイスナー暗殺の動機は「連合国と秘密裏に通じていた」というものだが、それほど考え抜かれたものではなく、自分の充たされない境遇が重なり、発作的なものだったのかも知れない。ただ、アイスナー暗殺は国粋主義者による暗殺ということが問題になり、ミュンヘンはますます左傾化し、混乱していった。バイエルン第二次革命と呼ばれる。ワルターは「主題と変奏」でその混乱ぶりを回想している。
「クルト・アイスナーがアルコ伯爵の凶弾に倒れたとき、私は息を呑んだ--厄災が起こり始めたのである。それは雷雨のように襲ってきた。広場や町角や橋のたもとに機関銃が据えられ、徒党が組まれ、指令を書いた掲示が建物のわきに立てられ、それが他の指令を書いた他の掲示によって無効にされ、政府(バイエルン政府)が改造され、家宅捜索が行われた--」。
 新しい政府は富裕層への略奪を開始し、右派を逮捕したり処刑する混乱状態が続いた。左翼と右翼の市街戦が頻発している。ワルターはミュンヘンを逃れ、混乱が終わるまでミュンヘンには戻らなかった。
 しかし、この革命騒ぎは長くは続かなかった。4月7日に宣言された「労兵協議会(レーテ)共和国」は、ヴァイマル共和国の国防大臣グスタフ・ノスケの指揮する義勇軍により、一ヶ月も経たないうちに鎮圧される。以降、ミュンヘンは左翼急進主義への嫌悪感からか、街全体の雰囲気として右傾化を強めることになった。むろん、共産主義者はまだミュンヘンに抱えたままではあるが。

 このバイエルン第二次革命のさなか、ヒトラーはザルツブルク郊外の捕虜収容所が閉鎖されるため、ミュンヘンに戻り、革命騒ぎのひどい現状を目の当たりにした。ヒトラーのいた連隊は中立を守り、事態を静観していたようだ。
 やがて、6月28日、第一次世界大戦の敗戦国ドイツには苛酷で屈辱的なヴェルサイユ条約が調印された。軍隊の規模も厳しく制限され、ドイツ帝国軍はライヒスヴェーア(ヴァイマル国軍)となり、兵力も10万人と規定された。
 軍の中へのボリシェビズムの浸透を防ぐためにひとつの部局が新設され、ヒトラーはその部局の中のひとりに選出された。詳しくは、「ミュンヘン占領のために組織されたメール軍司令部から国防軍第4集団(のちの第7師団すなわちバイエルン国防軍)司令部か形成され、その第1部b(P)課(情報課)が政治工作を担当することとなった。課長はマイル大尉である」(村瀬興雄著「ナチズム」中公新書 1968/2/1)。
 いわゆるさまざまな団体の動静を探るスパイである。ヒトラーたちスパイは、まずミュンヘン大学で特別教育課程を受けた。この課程で、ヒトラーはそれまで漠然としていた反ユダヤ主義、反ボリシェビズムを確固とした考え方に結びつけていったものと思われる。当時、ボリシェビキ革命はユダヤ人による国際主義の現れだとドイツでは広く考えられていた。特別教育課程の講師陣のひとり、ゴットフリート・フェーダーの講義にヒトラーは大きく影響を受けている。ヒトラーにとって、フェーダーの「利子奴隷制」の講義は実に刺激的だったようだ。
「わたしはふたたび勉強し始めた。そしてそのとき初めて、ユダヤ人カール・マルクスのライフ・ワークの意図の内容を理解するようになった。国民経済に対する社会民主党の闘争が、真に国際的な金融および株式資本の支配のための地盤を準備するのみであることがわかったとまったく同様に、彼の『資本論』もいまやわたしに正しく理解されたのである」(「我が闘争」平野一郎、将積茂訳 角川文庫 1973/10/12)
 ヒトラーは弁舌の才を買われ、ミュンヘンの連隊の講師に選ばれ、その生涯の活動の主軸となる演説を磨き始めた。
 やがて、9月12日、ヒトラーは第4集団司令部のアール少佐から(直属の上司はマイル大尉である)、弱小の極右団体「ドイツ労働者党(DAP)」の集会に参加して情報収集をするよう指示され参加する(参加者は23名ほどだったようだ)。ドイツ労働者党には、フェーダーも関係していた。そのヒトラーが初めて参加した集会で、ヒトラーはバイエルン分離主義者と議論をし、「ドイツ労働者党」の代表アントン・ドレクスラーから注目され、ドイツ労働者党への入党を勧められる。
 9月16日には、ドイツ労働者党から早くも入党の許可がヒトラーの手元に届いていたが、ヒトラーにその気はなく、最初は「オレを馬鹿にしているのか」と思ったらしい。
 しかし、ドレクスラー本人の書いたパンフレットを読み、逡巡した末にヒトラーは10月19日にドイツ労働者党の会合に出席した。ドイツ労働者党はあまりにみすぼらしかったが、ヒトラーは入党を受諾、ドイツ労働者党員となる。背後に、軍の意向も働いていたらしい。
 ドイツ労働者党は、ドイツの極右団体「トゥーレ協会」の出先機関のひとつで、その影響下にあった。そのドイツ労働者党で、ヒトラーは詩人のディートリヒ・エッカートや、その頃ロアシ革命を嫌ってアルメニアからミュンヘンに住みつき、エッカートの仲間となっていたバルト系ドイツ人アルフレート・ローゼンベルクと知り合うことになる。ローゼンベルクもまた、ヒトラーと同じように建築家・画家を目指していたことがある。

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