1921年に入り、クナッパーツブッシュの指揮活動はますます盛んだった。
1921/01/01 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1921/01/07 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1921/01/09 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1921/01/11 チャイコフスキー/「交響曲第5番 – ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死, 「タンホイザー」序曲 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1921/01/14 ヴェルディ/「アイーダ」 デッサウ
1921/01/25 チェリウス/「マグダラのマリア」 デッサウ
1921/01/27 IV. シンフォニック・コンサート: シネガーリャ/ピエモンテ舞曲第1番, セシル・フォーサイス/ヴァイオリン協奏曲(Hans Meyer), モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」,「フィガロの結婚」よりスザンナのアリア≪ Endlich naht sich die Stunde ≫(Lola Artot de Padilla) デッサウ
1921/02/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1921/02/10 ポピュラーコンサート:ベートーヴェン/交響曲第9番(Bertha Schelper, Emmy Neiendorff, Hans Nietan, Emil Treskow) デッサウ(労働者や教育関係者向けのコンサートだったようだ)
1921/02/13 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 デッサウ
1921/02/20 プッチーニ/「トスカ」 デッサウ
1921/02/21 ポピュラーコンサート メンデルスゾーン、モーツァルト、ウェーバー、R.シュトラウスが演奏された(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)[Trémine DATAにはこの日の記載がない]
1921/02/24 V. シンフォニック・コンサート:ワーグナー/「パルジファル」「ワルキューレ」抜粋,「リエンツィ」序曲 (Werner Engel, Willi Zilken, Rudolf Sollfrank, Hans von Stenglin) デッサウ
1921/02/27 ヨハン・シュトラウス/「ジプシー男爵」 デッサウ
1921/03/01 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1921/03/06 ビゼー/「カルメン」 デッサウ
1921/03/13 ワーグナー/「ジークフリート」 デッサウ
(René Trémine’s DATA)
1921年、クナッパーツブッシュのデッサウ時代に、ひとつの事件が持ち上がる。
クナッパーツブッシュはデッサウで「ニーベルングの指環」チクルスを計画した。その計画のことを批判した記事が新聞に載り、クナッパーツブッシュは記事を書いた記者に噛みつく。
デッサウでのクナッパーツブッシュの評判は上々で、新聞でも好意的な批評が載ったが、ひとつだけ「アンハルト展望」には奥波氏も書いているように、少し棘を含んだ批評が載った。1919年10月1日のクナッパーツブッシュ就任のデビュー「タンホイザー」の記事は、一応はクナッパーツブッシュ礼讃記事にはなっているが、それだけではなかった。
「…それだけに昨日、すばらしいという他はない演奏が聞けて、喜ばしいかぎりである。もっとも、正確なハーモニーはまだみられず、細部が若干乱れていたため、多くの点でぎこちなさを覚えた。ちょうどシーズンの最初の上演では、ほとんど自然なことで、新旧の演者たちがまだお互いの歌唱の面でも馴染んでいないためである。批判的な尺度をあてはめるにしても、まだ控えめにしておかなければならない」、「[……]ハンス・クナッパーツブッシュは存分に、スコアの美しさを華麗なしかたで蘇らせていた。ただし、幾つかの箇所は、もっと軽やかに、情緒豊かにできたかも知れない」(奥波本)
「批判的な尺度をあてはめるにしても、まだ控えめにしておかなければならない」という言葉は挑戦的である。最初から、批判することを目的としているかのようだ。
その同じ記者が、1921年3月14日付の「アンハルト展望」に、
「聞くところによると、フリードリヒ劇場の支配人はついに数年ぶりに、《指環》の非公開上演を計画しているとのことである。しかしここのどの晩の上演であれ、全体を通してであれ、実際に作品に接してみれば、その内容の貧弱さゆえに、おそらくけっして喜ぶ気にはなれないだろう」(奥波本) という記事が載った。
ワーグナーの使徒を自認するクナッパーツブッシュにしてみれば、自分の指揮での演奏をけなされても、「そんなやつはカテドラルに小便を引っかける犬のようなものだ(実際にこの言葉は後年に使っている)」と取り合わなかったかも知れない。
しかし、ワーグナーの音楽の擁護については、クナッパーツブッシュは1933年のトーマス・マン抗議声明事件でも明らかになるが、尋常ではなかった。ましてや、デッサウは「北のバイロイト」と呼ばれる、いわばワーグナーの聖地である。
クナッパーツブッシュは「アンハルト展望」に「誰があの記事を書いたんだ?」と問い合わせるが、名前を教えてもらえなかった。クナッパーツブッシュは記事を書いた記者に「ロバ野郎!と伝えてくれ」と電話を切る。
ところがそれ以降、クナッパーツブッシュとフリードリヒ劇場を誹謗する記事が「アンハルト展望」にたびたび載るようになった。劇場支配人(クナッパーツブッシュ自身)が取りあげようとする演目に、先回りをしてケチを付けるのだ。このままでは劇場に足を運ぶひとが減ってしまう(事実減ったのかも知れない)と危惧したクナッパーツブッシュはさらに頭に来た。「プッチーニには音楽的な輪郭が欠けている」という記事や、外国ものだけではなくドイツのオペラにも見境がなく、批判の俎上に載った。
1921/03/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 デッサウ
1921/03/16 マーラー/交響曲第4番(Bertha Schelper) – ワーグナー/歌曲集(ヴェーゼンドンク歌曲集より3曲と思われるが不明)(Bertha Schelper), 「リエンツィ」序曲 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1921/03/20 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 デッサウ
1921/03/22 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 デッサウ
1921/03/23 プッチーニ/「トスカ」 デッサウ
1921/03/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1921/03/31 VI. シンフォニック・コンサート: ハイドン/交響曲交響曲第6番, ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番(Telemaque Lambrino) デッサウ [プログラム不明]
1921/04/06 ダルベール/「オリヴェーラの牡牛」 デッサウ
1921/04/10 マックス・フォン・シリングス/「モナ・リザ」 デッサウ
1921/04/12 ベートーヴェン/「フィデリオ」 デッサウ
1921/04/13 ポピュラーコンサート /ベートーヴェン/交響曲第9番(Bertha Schelper, Emmy Neiendorff, Hans Nietan, Emil Treskow) デッサウ(一般公開のコンサートであったようだ)
(René Trémine’s DATA)
4月19日、クナッパーツブッシュはようやく記事を書いているのが、シルトハウアーという人物だと知る。クナッパーツブッシュは、シルトハウアーに直接話をつけに行ったらしい。
しかし、シルトハウアーからは謝罪や釈明の言葉は聞かれず、クナッパーツブッシュの直談判は不調に終わったようだ。
4月21日、クナッパーツブッシュはフリードリヒ劇場とのコンサートの前に、シルトハウアーを告発する演説をぶった。演説の内容はワーグナー擁護ではなく、シルトハウアーの告発だった。
クナッパーツブッシュはまずオーケストラの団員たちに釘を刺した。
「諸君!私は聴衆に説明しなければならないことがあるので、その間、賛成反対どのような立場からであれ、口を挟まないようにお願いしたい」
それから、聴衆の方を向いて演説を始めた。
「『アンハルト展望』の批評家、シルトハウアー氏には、劇場から出てゆかれるようにお願いする」
と言ったら、聴衆のひとりから「シルトハウアー氏はいません」と声がかかった。
それから、クナッパーツブッシュはかなり長時間、シルトハウアーの言行や批評家としての公正な立場を欠いた行為を非難する。クナッパーツブッシュは、直接会って直談判をしたときに、「ロバ野郎」と言われたことに腹を立てて記事を書いたというシルトハウアーの言質を取っていた。
クナッパーツブッシュはことの経緯を説明し、シルトハウアーを告発する。
「シルトハウアーは、批評家にとって第一の最重要の義務、つまり客観性・無私性を明らかに踏みにじったのです。個人的な復讐というけちくさい感情に流され、公の意見を代表するという職務を不名誉なしかたで濫用したのです。これは公の問題です。公衆に対しては詐欺、芸術家に対してはひどく有害な所業なのです」
「私がライプツィヒからデッサウにまいりましたのは、個人的なことを堂々と受け流すこともできないようなねちっこい軟弱野郎から無礼な扱いを受けるためではありません」
演奏もまだされていないうちから批判するのは卑怯だというのである。聴衆は自分の裁量で演奏を聞く権利があり、それを最初から「下らない作品」だと言われたら、みんな劇場に行かなくなってしまう(以上、奥波本より)。
ワーグナー批判といえば、考えられるのは反ワーグナーのユダヤ人(ユダヤ人の中にもワーグナ賛美者は大勢いたが)、ボルシェビキ、ニーチェの賛美者である。シルトハウアーがユダヤ人であるのかどうか、奥波氏は調べられたが分からなかったそうだ。
当時、デッサウの近くザクセンでは、赤色革命派が優勢だった。カップ一揆の後、ザクセンでも一時は革命派が権力を握りそうになった。3月22日から28日にかけて、ハンブルク、ライプツィヒ、ドレスデン、ルール地方で統一共産党が蜂起したものの、大弾圧を受けたのはこの頃である。
当時の空気として、ワーグナーを批判する輩がいたとしても不思議ではない。第一次世界大戦に敗北したドイツで、カール・マルクスのワーグナー評を気取っていたのかも知れない。奥波氏は「アンハルト展望」にシルトハウアー支持を表明した知人に向かって出されたワーグナーの礼讃者でもあるデッサウの管弦楽団員グスタフ・ハーンの手紙を紹介しているが、その手紙の中に
「『新聞雑誌を通してみるリヒャルト・ワーグナー』を彼(クナッパーツブッシュ?)に薦めるのはどういう了見ですか。ご存じないのですか、その本は当時の批評家連中がこぞって書き散らした汚らわしい醜聞のシミにすぎないということを」
という文章が見える。ワーグナー批判は、批評家に流行した時期があったあったようだ。『新聞雑誌を通してみるリヒャルト・ワーグナー』は、そのような記事を集めた本らしい。
マルクスとワーグナーは同時代人である。マルクスはエンゲルスへの手紙で、バイロイト祝祭音楽祭を「国家楽士ワーグナーの馬鹿祭」と評した(吉田真著「ワーグナー」音楽之友社 2004/12/1)。マルクスにとってのワーグナーは、ドレスデン楽長時代に革命家だった面影は既になく、王侯貴族にへつらう好ましからざる作曲家だった。
あるいは、マルクスではなく、ワーグナーの俗物的な側面と「パルジファル」の通俗的聖人神話に幻滅し、「人間的な、あまりにも人間的な」でワーグナーとの決別と批判を鮮明にし、「ヴァーグナーの場合」で「デカダンスの芸術」とワーグナーの作品を定義づけたフリードリヒ・ニーチェの影響を受けていたのかも知れない。
クナッパーツブッシュの行った「アンハルト展望」への弾劾演説は、デッサウの「アンハルト展望」以外の新聞にも波及し、総反発を食らった。デッサウの新聞各社は、フリードリヒ劇場で行われる一切の音楽の催し物の記事をボイコットしてしまう。大騒動になってしまった。劇場側はあきれて、クナッパーツブッシュと報道機関の問題だと中立の立場を表明し、最終的にはクナッパーツブッシュと記事を書いたシルトハウアーの裁判に発展した。
1921/04/20 モーツァルト/「魔笛」 デッサウ
1921/04/21 VII. シンフォニック・コンサート: メンデルスゾーン/「リュイ・ブラース」序曲, ウェーバー/「舞踏への勧誘」, R.シュトラウス/「ナクソス島のアリアドネ」ツェルビネッタのアリア(Sabine Meyen), ボルグストロム/「思考」 , デッサウ [シルトハウアー事件]
1921/04/29 プッチーニ/「ラ・ボエーム」 デッサウ
1921/05/01 ウェーバー/「魔弾の射手」 デッサウ
1921/05/08 ワーグナー/「ラインの黄金」 デッサウ [ニーベルングの指環チクルス]
1921/05/15 ワーグナー/「ワルキューレ」 デッサウ [ニーベルングの指環チクルス]
1921/05/18 ベートーヴェン/交響曲第9番(Elsa Koch, Emmy Neiendorff, Hanns Nietan, Emil Treskow) デッサウ
1921/05/22 ワーグナー/「ジークフリート」 デッサウ [ニーベルングの指環チクルス]
1921/05/26 VIII. シンフォニック・コンサート: ベートーヴェン/交響曲第1番, ヴァイオリン協奏曲 (Alexander Petschnikoff), 交響曲第8番 デッサウ
1921/05/29 ワーグナー/「神々の黄昏」 デッサウ [ニーベルングの指環チクルス]
1921/05/31 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
(René Trémine’s DATA)
結局、約二週間足らずでデッサウの各新聞は、フリードリヒ劇場での音楽の催し物の記事を再開した。肝心の判決の行方は不明だそうだ。
この「新聞批評家事件」が影響したのか、フリードリヒ劇場事務局のクナッパーツブッシュへの対応は冷ややかなものになっていたようだ。クナッパーツブッシュはフリードリヒ劇場の事務局に対して、10月26日、「自分の仕事ぶりを正当に評価してくれない」と抗議している(奥波本)。劇場側のクナッパーツブッシュへの風当たりは、相当強まっていたらしい。
記録によると、シルトハウアーが公演前に批判した「ニーベルングの指環」チクルスは、5月8日、15日、22日、29日に開催されたのが分かる。
Conducts 5 of the 8 シンフォニック・コンサート this season [he actually conducted 6 !]
1921/09/02 ヴェルディ/「アイーダ」 デッサウ
1921/09/04 ワーグナー/「 さまよえるオランダ人」 デッサウ
1921/09/22 I. シンフォニック・コンサート: R.シュトラウス/「イタリア」, ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 (Gustav Havemann), ベルリオーズ/「ローマの謝肉祭」 デッサウ
1921/11/13 コルンゴルト/「死の街」 デッサウ
1921/11/20 III. シンフォニック・コンサート: ツェルナー/アルトとオーケストラのための悲劇的交響曲(Emmy Neiendorff) , ベートーヴェン/交響曲第5番 デッサウ [II. シンフォニック・コンサートは他の指揮者が指揮をしたのか?]
1921/11/21 ビゼー/「カルメン」 デッサウ
1921/11/23 コルンゴルト/「死の街」デッサウ
1921/12/04 ウェーバー/オベロン序曲, ベートーヴェン/「ああ、信頼できない」(Johanna Hesse), エナ/「クレオパトラ」序曲, ワーグナー/3つのウェーゼンドンクの歌(Johanna Hesse) – チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 フランクフルト, ミュゼウム・ゲゼルシャフト(オーケストラの記載なし。おそらくデッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団)
1921/12/08 ビゼー/「カルメン」 デッサウ
1921/12/12 フンパーディンク/「王様の子供たち」第三幕への前奏曲 – ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 (Andreas Weissberger) , ラロとフバイによるオーケストラ・アコンパニメント, ブラームス/交響曲第3番 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1921/12/15 マスカーニ/「カヴァレリア・ルスティカーナ」, レオンカヴァレッロ/「道化師」 デッサウ [Trémine DATAには作曲者の名前がない]
1921/12/18 モーツァルト/「フィガロの結婚」 デッサウ
1921/12/25 R.シュトラウス/「炎の災い」 デッサウ初演+ドリーブ/「コッペリア」抜粋 Günther Lesnig’s DATA
1921/12/29 IV. シンフォニック・コンサート: リスト/ピアノ協奏曲第2番(Konrad Ansorge), サン=サーンス/交響曲第3番「オルガン付」(Paul Hoffmann, orgue) デッサウ
1921/12/30 コルンゴルト/「死の街」 デッサウ
(René Trémine’s DATA)
1921年4月25日から5月5日、ロンドンで連合国最高会議が開催され、ドイツの賠償金が1320億マルクと決定した。疲弊するドイツ経済にとって、重すぎる金額だった。ドイツマルクの対外通貨としての価値は下落し、ドイツ国内はとてつもないインフレへと突入してゆく。
ワルターはその不安定な為替相場について書いている。
「不可解な、見たところ不治の、進行性の経済的ペストに対する一般的な恐怖が、国中に広がった」、「それはとつぜん、(1マルクは)わずか20ペニヒとなり、数週間のちには、たったの1ペニヒの価値しかなくなった。やがてパンひとつ買うのに6000マルクも支払わなければならないときがやってきた」(「主題と変奏」)
インフレはこの時に早期解消することはなく、翌1922年6月24日、時の外務大臣ワルター・ラーテナウの暗殺をきっかけに、ますます拍車がかかることになる。
NSDAPとなったドイツ労働者党は、この年から大きく勢力を伸ばした。背景に、軍、有力右派の後押しがあった。初期ナチと言えば「突撃隊(SA)」の暴力的な活動が有名だが、SA自体、初期の頃は別の極右の戦闘団体「エアハルト海軍旅団」から軍事指導者を借りてきたり、レームによって国防軍の兵士を紛れ込ませたりした。当時、レームは盛んに政治活動を行っている。ナチ初期のSAの任務は、ナチ集会を妨害する左翼や他の右派に対する監視とその排除だった。元々を「整理隊」といい、その整理隊が1921年春に「体育およびスポーツ隊」となり「百人隊」と通称呼ばれた。「体育およびスポーツ隊」が「突撃隊(SA)」と正式に呼ばれるようになったのは、1921年11月4日である(村瀬本)。
レームは左翼に対抗するための民間軍事組織としてナチを利用しようと考えていたようで、この背後には軍や右派の大物がいたと考える方が自然である。レームはナチに武器や資金援助を行っているが、軍の許可がないとできないことである。ヒトラーは自然に、自分の力だけでナチを巨大化させていったわけではない。背景として、同じ右派でもバイエルン分離主義を唱える勢力を押さえ込み、大ドイツに組み込もうという意志が働いている。
軍や右派の支持を背景に、その演説にますます磨きをかけたヒトラーによって、ナチ政治演説会の動員力を増やしていったのは事実である。軍や右派とは別に、政治的混乱、経済的混乱を嫌悪する庶民の支持が増加するという背景もあった。この辺りのナチの勢力拡大は、確かにヒトラー個人の魅力によるところも大きい。ヒトラーは富裕層の代弁者としてではなく、最貧民層や兵士に語りかけ、共感を得ることができたからだ。ヒトラーの唱えていたのは、反ユダヤ主義的、反ボリシェビズム的であっても、庶民の目には不正を正す、幾分社会主義的な傾向があると映っていても不思議ではない。なにより、多くのユダヤ人は、一般的なドイツ庶民よりも金持ちだった。
2月3日には、チクロス・クローネ(ミュンヘン最大の集会場。本来はサーカス小屋である)を満員にして、6000人を超える群衆の前で演説を行っている。
ナチはヒトラーの台頭の一方で、軍の影響を危惧する反ヒトラー派もいた。ナチの活動はトゥーレ協会からどんどんと離れてゆくし、その集会は反対者を押さえ込む暴力的なものに変わっていったからだ。その反ヒトラー派の動きは、ヒトラーとエッカートが新たな資金調達や他の極右団体との連携のために、ベルリンに行っている間に起こった。
その動きに対して、ヒトラーは急遽ベルリンからミュンヘンに帰り、7月14日に、なんと離党宣言を出した。ヒトラーに抜けられては、ナチはたちまち人気を失い、立ちゆかなくなる。ナチの幹部は折れ、7月26日ヒトラー再入党、そして7月29日、臨時党大会で、ヒトラーを党の党首・指導者(フェーラー)として選出する。ナチにおけるヒトラーの独裁体制を確立した。
ヒトラーがドイツ労働者党に入党以来、実権を手にするのは実に早かった。まだ弱小政党とはいえ、さまざまな背後からの支援があり、ヒトラーはその権力への階段を上り始める。
さらに目を見張るべきは、ヒトラーの慧眼というか、若年層への働きかけだった。8月14日の「フェルキッシャー・ベオバハター」には、「わがドイツの青年に訴える」で檄が飛ばされ、「体育およびスポーツ隊」への入隊を薦める記事が掲載された。3月8日にはナチ党青年部が既に発足していたが、より広範囲に若年層を集めようという、ヒトラーの意志が見える。いわば、「裏切らない若者」を養成すべきだと、ヒトラーは第一次世界大戦の経験から学んでいたものと思われる。ナチ党青年団は、ゆくゆくは親衛隊、ヒトラー・ユーゲントへと変貌してゆく。